第22話

 足を踏まれたユタが十五回目の呻き声を上げ、キイラが十五回目の謝罪をした。ユタは慰めの言葉を掛けたが、キイラはすっかり自棄になってしゃがみこんでしまった。カドが不思議そうに尋ねた。

「わざとやっているのか?」

「あのね」

 キイラは憤慨した。カドの発言には一切の悪気がないと分かるので、余計に腹が立つ。

「そりゃあ指環はいいわよ。わたしの首にぶらさがってりゃ済むんだから」

「ただぶらさがっているのも案外大変なのだぞ」

 いかにも心外だ、という調子でカドが反駁した。

「きみも一度やってみれば分かる」

「考えとくわ」

「揉めないの」

 ユタが窘めた。

「そんなに悪くはないわよ。一歩目は左から。いち、に、さん、爪先を返して……」

「分かってるわ」とキイラ。「頭ではね……」

「相手の動きをよく見て。同じ動きを交互に繰り返しているだけよ。二回相手の腕の下をくぐったら、今度は向こうが同じようにする」

 ユタが優雅な足取りでくるりと回ってみせた。脚の長い彼女がそうしてみせると、溜息が出るほどさまになる。キイラはうんざりして言った。

「ねえ、本当に踊らなくちゃだめ?」

「そういうわけじゃあないけど、踊れたほうが楽しいわ」

「そうかな」

 キイラがいつまで経っても立ち上がらないので、ユタもしゃがみこんで視線を合わせた。ユタは少し考えると、ほほえんでみせた。

「一緒に踊りたいと思う相手はいない?」

 キイラは思いを巡らせ、話は数時間前へと遡る。






「ダンス?」

「うん、基本くらいは分かるだろ?」

 キイラは目を剥いた。何を言いだすのだこの男は。ドルムはジストフィルドの机に腰掛けて、自分の髪なんか弄っている。

 キイラ一行が無事トラヴィアに戻ってから、七日が経ったあとの午後の話である。

「収穫祭の夜の話か。神殿付き魔術師はほぼ全員参加だからな」

 彼女の気持ちを忖度することなく、ジストフィルドが呑気に口を挟んだ。手に持っていた本でドルムの背を叩き、不調法を咎める。ドルムが笑い、勢いをつけて机から降りた。

「まさか、収穫祭を知らないわけじゃないだろ。春の祝祭と並ぶ、イベルタの伝統的な祭りじゃないか」

「わたしはポウスリーの生まれよ。田舎のちっちゃな村なの。お上品なカントウルの調べに合わせて踊り明かしたりなんかしないわよ」

 収穫祭は、年に一度行われるこの国の代表的な祭りのひとつだ。秋の終わりにその年の豊穣をルースに感謝して供物を捧げ、三日三晩の宴を開く。この感謝の祭儀は時代を追うごとにその形を変えながら執り行われ、イベルタじゅうの町や村々で人々に親しまれているのだった。ジストフィルドが不思議そうに言った。

「何を今更言ってるんだ? 去年はどうしたんだよ」

「ジスト、神殿内の舞踏会のほうは、見習いには声がかからないのさ。去年は街の広場のほうに確か行ったよな」

「わたしが知ってるのなんか、精々曲に合わせて飛んだり跳ねたりしていればいいトランくらいのものだわ。都育ちの人たちと一緒にしないで」

「そりゃあ困ったな」

 完全に面白がっている調子でドルムがそう言った。

「ま、トランも重要だけどさ。トラヴィアの収穫祭は夜の部が主だ。いいかい、収穫祭の晩はみんなこのつまんないガウンなんか脱ぎ捨てて、綺麗に着飾ってうつくしい羽根飾りを胸に差すんだ。それを差し出すことで、相手に踊りを申し込むことになる。そうして羽根飾りを受け取ったり手渡したりして、相手を変えながら踊り続けるのさ。三日目の夜、踊り終えるとひとり残らず自分の部屋に帰って戸をぴったりと締め、泥のように眠るんだ。そういうしきたりだ。ルースの加護が逃げていかないようにさ。この辺はローデンロットでも同じだっただろう?」

「ぜったいに無理。くだらないし、そもそもわたし、そういうの向いてないわ」

「まあそう言うな。実際、神殿の魔術師どもにとってはただのお遊びじゃあない。神殿外の魔術師も多く参加するからな。他の門下の魔術師との数少ない交流の機会なんだ」

 ジストフィルドが宥めるように言った。

「魔術師ってのはただでさえ排他的な生き物だからさ」とドルム。

「だけど、内側へ内側へと潜っていくばかりじゃやっていかれない。ときに他者との接触が新しい知見を生み出す。きみもちょっとは社交を覚えないとな」

「ジストも踊るわけ?」

「なにか文句があるなら言ってみろ」

 いつも猫背でぼさぼさの髪をした彼が精一杯上品ぶって踊るところを想像し、キイラは笑うどころかげんなりした。見たくない。ドルムが笑いながら言った。

「ま、新しい衣装を仕立てるところからだね。どうせ持ってないだろ?」

 キイラが深い溜息を吐いた。

「大丈夫さ。カントウルの曲調はゆっくりだし、そもそもあれは踊りというより儀式的なものだよ。動き自体は単純だから、すぐに覚えられる」

「カントウル自体が元々ルースに捧げる舞踊から派生したものだからな。それが上流階級の間でちょっぴり上品な踊りとして親しまれ、二人組になって踊れるように形を変えたというわけだ」

 ここぞとばかりにジストフィルドが薀蓄を披露する。キイラは肩を竦めた。

「ユタに色々聞かなくちゃ。彼女、ローデン織のコットなんか着たらきっとすごく似合うんだろうな」

 あの脱走事件のあとになって、キイラはようやく一人部屋を貰った。キイラのほうはユタと同室でも構わなかったのだが、深夜に帰ってくることも多いユタのほうが気を遣ったらしい。作業が立て込んでいるらしく、ここ二日はユタの顔を見ていなかった。

「ユタ? そうだな……」

 ジストフィルドが困った顔をした。

「彼女、毎年収穫祭の夜は出てこないんだよな」

「どうして。踊りが嫌いなの?」

「そういうわけじゃない。多分な。俺はもう気にすることはないと思うんだが」

 ドルムが言いにくそうに説明した。

「ユタはキリカ系だろう? ああいう場所に出てくると、変な目を向けるやつもいるのさ。特に魔術師の間ではさ……」

「『金の指環は今日は外してきたのか?』だとか、『そろそろ本当の名前を教えてくれよ』だとか揶揄するやつもいる。勿論、ユタはキリカ魔術なんかこれっぽっちも知らない」

 ジストフィルドが不愉快さを隠そうともせずに唸った。

「馬鹿馬鹿しい」

「ユタは綺麗だからさ」

 ドルムは溜息を吐いた。

「多分、余計にちょっかい出したくなるんだな。あのしつこかったあの男、イスリットはもういなくなったんだっけ?」

「ありゃあどう見ても左遷さ。上級に上がるやいなやアジルの田舎に飛ばされた」

「ジスト、なにもしてないよな?」

「疑うのか?」

「冗談だよ」

「いいや、疑え。誰のことも信用するな。俺はそうしてる」

 話が明後日の方向に逸れていきそうになるのを押し留め、キイラは言った。

「じゃあ、ユタは来ないの? それならわたし、やっぱり行かないわ」

「ところがどっこい、彼女今回は行くって」

 ドルムがにっこりした。

「本当か?」

 ジストフィルドが目を丸くする。

「そりゃあ珍しい。目の保養になるな」

「多分、キイラがいるからだよ。感謝しないと」

「わたしはどうせおまけよ」

 キイラはわざと気分を害したように片眉を上げ、腕を組んでみせた。

「ユタみたいな美人でもないし、背もあんな風にすらっとしていないし、わたしが丈長の装飾的なコットなんか着たって滑稽なだけだわ」

「確かに、背伸びした子どもみたいに見えるかもな……」

「ジスト!」

「冗談だ。そんなこたないさ」

 ジストフィルドが笑いながら宥めた。

「なあ、ドルム」

「ああ……」

 予想に反してドルムの返事の歯切れが悪かったので、キイラはドルムを見た。視線が交錯した瞬間、ドルムは微かに目を逸らした。そのとき、まったく唐突に、キイラとこの青年との間に一種の奇妙な雰囲気が生じた。そのわずかな空気のを、違和感を、確かにキイラは感じ取った。それはあまりに短いほんの一瞬のことだったので、おそらくジストフィルドは気がつかなかっただろうと思われた。キイラが疑問を抱く前に、ドルムは何事もなかったかのように笑い、答えた。

「勿論だ。当日を楽しみにしてるよ」





 回想を終え、キイラは仕方なしに返事をした。

「そんなこと、考えたこともないわ。誰と踊ったっておんなじよ」

「それなら、なおのこといい経験になると思うわ。私はもうこの歳だけど、十六の頃のことって今でも思い出すもの」

 ユタの口ぶりにキイラは興味を惹かれ、身を乗り出した。

「どういうこと?」

「十六っていうのはそれだけ素敵な時期であっていいってことよ。キイラ、あなたって一つのことに一生懸命になると他のことが目に入らなくなるんじゃない? 色々な人と接したほうがいいわ」

 うまいことはぐらかされたような心持ちで、キイラはしばらく拗ねたようにしゃがんだまま頬杖をついていたが、やがて立ち上がった。

「そんな場合じゃないわ」

「そんな場合よ」

 ユタはまだしゃがんでいた。ユタの口調は優しく落ち着いていたが、上目遣いがはっとするほど艶やかだった。瞼の際に生え揃った繊細な金の睫毛が、瑞々しい銅色の肌の上に淡く長い影を落としていた。

「収穫祭の夜くらい、楽しんでもルースは罰なんかお与えにならないわ」

 キイラは静かに狼狽した。どうして自分が狼狽したのか、その理由も分からないまま、キイラはやり返した。

「そういうユタは一緒に踊りたいと思う人はいないの」

 ユタは肩を竦め、「どうかしら」と言った。ユタは立ち上がり、裾の埃を払った。そして、雪花石膏アラバスターの小窓を僅かに開けて外を見下ろすと、カントウルのリズムを指先で取りながら、鼻歌を歌い始めた。彼女の頭の中で、十六の彼女が伸びやかに踊っているのがキイラにも分かった。会話は終わったのだとキイラは思った。ユタの部屋を出て行く直前に、ユタは言った。

「ときどき、十六の頃に戻りたくなるわ」

 一人部屋に帰りついたあとも、キイラはユタの言葉の意味を考えていた。キイラは寝台に仰向けに寝転びながら、カドを持ち上げ、彼の放つ光の反映を様々な角度から眺めた。

「さっきのは、どういう意味だ?」とカドが尋ねた。キイラは「さあ」と答えた。

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