第19話

 お聞き召されよ そこゆくお方

 お聞き召されよ 皆々さまよ

 今から語るは 皆さまご存知

 何度聞いても 色褪せぬ

 紅き予言の物語……


 竪琴をかき鳴らしながら朗々と謡う大道演歌師、耳を傾ける人垣をかき分けかき分け、キイラは目抜き通りへと出た。場所を取られて不満顔の遍歴説教師、魔術師崩れのまじない師、町に下りてきたばかりといった風体の黒い顔した炭焼き、機嫌良さげな琥珀細工職人、かめを抱えた洗濯女、等々。外に用事を済ませに出たところらしい宿の主人、キイラは挨拶をする。

 おはよう、おはよう。よい一日を。

 すれ違う人々に共通しているのは、みないちように平和そうであるということだった。リーヴズはいいところだ。ここに、破壊と悲劇の影はない。キイラは溜息を吐く。

 ずっと、暗い穴ぐらを這い回っているような気分だったのだ。なにもあのしめった鍾乳洞を指して言っているわけではない。ポウスリーからトラヴィアへ連れてこられてからずっと、自分の中のなにかに駆り立てられるようにして、時間の流れに食らいつくようにして過ごしてきた。キイラは戸惑っている。

 キイラは今朝のことを思い出した。レイガンの説得は難航しているようで、ドルムの表情は暗かった。

「気の毒なのはユタさ」

 野菜を挟んだバムに食らいつきながらドルムは言った。

「彼女、ずっと自分を責めてる」

「どうして」

「どうしてって、そりゃあ……理由はいろいろあるさ」

 ドルムがぐるりと目を動かす。

「ジストはなんて?」

「それなりに頭にきてるよ。あいつがそういうつもりなら地下の独房にぶち込んで拷問にかけるぞ、俺にはそれができる、とかなんとか。勿論ジストにそんなことはできやしない。彼が非情になれるのはフタル人に対してだけさ」

「やっちゃえばいいのに」

「きみの言うことって冗談か本気かときどきわかんないな」

 キイラは肩を竦め、自分のバムをもぐもぐやりながら尋ねた。

「レイガンはわたしたちの居場所を知ってるの?」

「知らないはずなんだ」

 口の中のものを飲み込み、ドルムが顔をしかめる。

「知らないはずだった」

「どうしてばれてるのよ」とキイラ。

「それが謎なんだ」

 ドルムがキイラを指差し、キイラはその指を叩いた。人を指差すのが失礼にあたるということを、どうもこの青年は誰からも教えてもらえなかったらしい。

「勿論、何もなくたって方向のおおよその検討はつくだろう。ローデンロットに向かうのであればね。だが、今回の彼の察知能力は異常だよ。やっこさん、僕らが第二階層に移動するころにはもうランタンに火を入れてたらしいからな。精度が高すぎる。ジストが味方でよかったよ」

 キイラはぞっとした。ドルムが手についたパン屑を払い落とし、長い腕を組んだ。

「もうこれは僕らと彼の根比べだな」

「永久にここで待ってなきゃならないってわけじゃないでしょ?」

「もちろん。そもそも、僕らはここにいないことになってるんだ。許可なき大脱走だぜ。教会に知れたら厳罰なんてもんじゃない。きみはもとより戻るつもりなんかなかったかもしれないけどさ、僕はそこまで覚悟してないんだ。ま、誤魔化せてあと三日かな」

「三日で決着がつかなかったら?」

「神殿に戻る」

 ドルムが短く言った。

「少なくとも僕は。本当はきみを連れて帰るべきなんだろうけどさ。僕やユタの力では無理でも、ジストフィルドがきみを守れるかもしれない。でも、確かなことは何一つ言えないよ」

 キイラは頷いた。率直なドルムの言葉は冷たくも聞こえたが、その淡白さはかえって誠実でもあった。キイラはドルムのことを信頼できると思った。

「でも、結局はレイガンは折れるはずなんだ。近いうちに。このまま行けばどういうことになるかなんて、彼もよく分かっているはずだから」



 回想はそこで終わる。

「そこの、お若いかた」

 突然、老婆の声で呼びかけられたからだ。キイラは足を止めた。物乞いの女だった。骨と皮ばかりの、まるでみすぼらしい死体のような体躯だ。襤褸ぼろを痩せこけた身体に巻きつけ、秋の冷たい風に震えている。キイラは女をあわれに思い、小さな合切袋から青銅貨を取り出して、汚れた籠に入れてやった。

「おお、親切なお人だ」

 老婆は曲がった背を殊更に丸め、キイラに礼を言った。

「わしは占いをやるんだよ。おじょうさん。親切なお人。どうかね」

 キイラは無視して行こうとしたが、キイラの心の奥のどこか本能的な部分が理性と拮抗し、彼女の足を鈍らせた。カドがキイラだけに聞こえる声で、「おい、おい!」と警告した。

「おれが見たところ、この老婆の占いはいんちきもいいところだぞ。きみの気を惹いて、もう少し金をせしめてやろうと思っているのだ」

 それもそうだと思い、キイラが再び歩き出そうとしたところで老婆が言った。

「悩んでいるね。かわいそうに……」

 キイラははっとして立ち止まった。この老婆はわたしをあわれんでいる。襤褸をかき合わせ、冷たい地べたに座り込み、身を縮こまらせながら。

 キイラは青銅貨をもう一枚籠の中に入れてやった。そして、老婆の前へとしゃがみこんだ。

「なにが分かるの?」

 老婆が顔をくしゃくしゃにした。濁った目がぎょろりと動いてキイラを怯ませた。

「過去、現在、未来」

 老婆は笑った。そうして笑うと老婆の顔には無数の皺が浮かび上がり、それは確かに笑顔ではあるのだが、見るもの誰もが恐怖心を抱かずにはいられないような表情へと変貌するのだった。

「その指環」

 キイラは弾かれたように胸元を押さえた。服の下に隠してあるはずのカドを。声が聞こえたのか? だが、老婆が枯れ木のような指で示したのは、キイラの左の人差し指に嵌められた、あの赤銅の指環のほうだった。

「それを捨てなされ。お若いかた」

「どうして」

 キイラはしゃがんだまま思わず後退りし、警戒しながら尋ねた。

「それは枷。邪悪な枷よ。魔術師め、忌々しい。心底厭いつつ、なぜそれを手放さぬ。お若いかた。情深い娘。キイラ。それはおまえに不幸を呼び込もうぞ」

 老婆が黄ばんだ乱杭歯を剥き出しにした。そして後ずさる間もなくキイラの腕を掴み、老人とは思えないほどの力で握りしめた。

「捨てなされ。それを」

 キイラは手を振りほどいて立ち上がり、そこから走って逃げ出した。捨てなされ、捨てなされと老婆の声が鼓膜に纏わりつく。足元から迫り上がるような恐怖に、振り向くことさえしなかった。だから、キイラが去ったすぐあとに、老婆の身体が石畳の上へと頽れたことには気づかなかった。老婆のは、とうの昔に朽ちた木切れのようにぼろぼろと崩れ、ばらばらになり、風に吹き攫われていった。微かな黄金の気配。人気ひとけのない路地に薄汚れた使い古しの籠だけが、二枚の青銅貨を載せて、路地の隅に取り残された。



 キイラのほうは、息急き切って宿へと辿り着いた。ちょうど階段を降りてきたドルムが、キイラを見て驚いたように形のよい眉を上げた。

「羊皮紙をふた巻き買ってきてくれるって話じゃなかったかい。道中羊の幽霊にでも襲われたのか?」

「いかれている」

 カドがこの場にいない老婆をののしった。

「いったいなんなんだ? 何者だ?」

 キイラも概ねカドと同じ意見だったが、返事をしている余裕はなかった。自分自身にひどく驚いていたからだ。キイラは目の前に自身の左手を翳した。正確には、左手に嵌った赤銅の指環を。

「あれ、そんなの嵌めてたっけ。きみの趣味?」

 挙動のおかしいキイラに探るような視線を向けながらも、ドルムがあくまで爽やかに尋ねた。

「審美眼に関してとやかく言うつもりはないけど、僕の意見では……」

 キイラは聞いていなかった。じっと指環を見つめる。どうして、わたしはこれを外そうと思わなかったのだろう。あの男が無理矢理嵌めさせたこの歪な指環。これほどに、無視できないほどに異質であるのに。キイラはこのときまで、この指環の存在を完全に忘れていた。忘れていたというのは正確な表現ではない。完全に意識の領域外に締め出されていた。鈍い光沢は目に映らず、皮膚は金属の感触を伝えなかった。魔術によって恣意的にそうさせられていたのだ。レイガンがのだ。

 火にかけた鍋が突沸するように、突如制御できない猛烈な怒りが湧き上がった。キイラはレイガンの指環を人差し指から引っこ抜き、床へと叩きつけた。突然のことにドルムが狼狽えた。

「いきなりどうしたのさ? 確かにまあ、きみには似合ってなさそうだったけど……」

「これが」

 キイラは感情を抑える努力をしながら言った。

「これが目印になってたんだわ。レイガンに嵌めさせられたの。絶対に外すなって。わたしを監視するための道具だったのよ。まんまと引っかかったわ」

 カドへと指を滑らせ、キイラは命じた。すぐさま赤銅の指環が粘土細工のようにぐにゃりと歪み、ねじれ、二度と嵌めることができなくなる。ドルムが目を眇め、指環だった塊とキイラとを見比べた。

「レイガンが?」

「そうよ。本当に、やり方が気に食わないわ。こんなもの……」

 キイラは金属塊を拾い上げ、窓の外へ投げ捨てた。それは宿の裏を流れていた用水路へと着水し、小さな波紋を作る。ドルムが窓の外を覗き込み、振り返った。

「それは確かか?」

「まだ、レイガンはそんなことをするような男じゃないって言うの?」

「そんなつもりはない」

 ドルムは再び用水路のほうを見やりながら言った。

「ただ、レイガンは無駄なことはしない。きみを監視するのにわざわざ指環なんか七面倒なもの、使うだろうか?」

「実際、使ったじゃない」

 ドルムは少しの間沈黙し、「そうだな」と言った。

「どうして今気づいたんだ?」

「どういう意味?」

「たった今まで気づかなかったものに、どうして気づけたんだ?」

「そんなこと言われても」

 キイラは途方に暮れた。

「突然、気づいたのよ」

「突然?」

 ドルムが首を傾げた。

「きみ、やけに慌てて帰ってきたよな。どうして? 買い物はどうしたのさ」

「そうだったかな。羊皮紙のこと、すっかり忘れてた。それは謝るけど、わたしが指環のことに気づいた経緯にどうしてそんなにこだわるの?」

 キイラが当惑し、はんたいに尋ね返すと、ドルムは変な顔をした。彼はしばらく納得いかなげにしていたが、やがて一つ頷き、キイラから離れていこうとした。寸前で立ち止まり、振り返る。

「そういえば、それ、ちょっと見ないうちに完全に心臓石として機能してるじゃないか」

 カドのことだ。先程の魔術を指して言っているらしい。反射のようにカドが噛みつく。

「それとはなんだ」

「正規の手順は踏んでないんだよね?」

「なにも特別なことしてないわ。まずいと思う?」

「いいや。すごく自然で、安定して見える。僕たちの持つ心臓石よりもずっと。だから、あれほど小さな対象へ正確に命令づけできるんだろう。もしかしたらきみたちは将来、魔術師と輝石をもっと安全に結びつけるための手がかりになるかもしれないな」

 キイラは黙ってカドと見つめあった。と言っても、外から見ればキイラが指環を見つめているだけなのだが。ドルムはちょっと笑って宿を出ていき、話はそこで終わった。キイラはそのあとも少しの間出口のほうを眺めていたが、カドの囁き声で我に返った。

「どうして隠したのだ」

「隠したってなにをよ」

「しらばっくれるものではない。あの、占いの老婆のことだ。なにか理由があるのだろう」

「老婆? カド、なにを言ってるのよ。寝ぼけてるの?」

 カドは沈黙した。キイラは先程指環を投げ捨てるために開け放した窓に近づき、再び用水路を見下ろした。あの赤銅の指環は——ねじれた塊は影も形もなかった。キイラはほっとしたような、せいせいしたような、どこか心許ないような、反発しあう複雑な感情に襲われた。キイラは窓を閉めた。階段を上りながら、袖の上から左腕を摩る。なぜか、先程からそこが痛むのだった。その晩服を着替えるとき、キイラは身に覚えのない痣に首を傾げることになる。まるで誰かにそこを力一杯掴まれたかのような不気味な痣。


 これが、キイラたちがリーヴズを離れることになる——離れざるをえなくなる——二日前の出来事である。

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