第20話
町の入り口のほうが不穏に騒めいていた。なにやら、大勢の人々が向かい合って、そこで押し問答しているようだった。ざわめきをひときわ鋭い怒号が突き抜け、ドルムが眉を顰める。
「待っていてくれ」
ドルムは布に包んである揚げたてのモンドン——肉や野菜、芋などをよく捏ねて油でさっくり揚げたもの——をキイラに押しつけ、人集りのほうへと近づいていった。気になったキイラもついていき、集団の後ろのほうからその向こうを垣間見る。
はっとして、キイラは身を固くする。
フタル人の集団だった。腕に巻いている布から、すぐにそれと分かった。彼らフタル人はイベル人よりも平均的にはいくらか小柄で、南方のトリアエ人同様黒髪に暗い色の瞳の組み合わせが多いという特徴はあるが、外見においてはイベル人のそれとほとんど変わりない。そのために、身分を偽って——まじないが一切使えないということを隠すことはそう難しくはない——イベル人に混じってひっそりと暮らすフタル人も存在するという。だが、多くのフタル人はそうしない。それは彼らの神に対する背信行為だからだ。彼らのほとんどは彼らの信仰する異端の宗教の掟にしたがい、生まれたときに腕に交差する楔型の印をつけられる。成人すると、彼らは服の上から腕に特徴的な布を巻く。おおむねこの特徴によってフタル人はイベル人から区別され、差別され、皮鞣しや砂売りのような職業へと追いやられる。イベル人の多くは、フタル人が生まれながらにして罰を受けている存在なのだと信じていた。そしてキイラも。彼らは自ら好き好んでそうしているのだと。
このフタル人らには、そうした不健全の影はなかった。少なくとも、一見してそういったいかにも「迫害されたフタル人らしい」特徴は見られず、背筋を伸ばして堂々としていた。揃いのトゥニカと外套に身を包み、腕に布を巻いている。彼らはこの町へ立ち入りたいと主張しているようだった。
硬直しているキイラへ動かないよう合図し、ドルムが人垣を掻き分けて進み出た。ドルムは鋭い視線でフタル人らを一瞥すると、神殿式の祈りの文句を唱えながら心臓石を示し、「私はロシの魔術師である」と告げた。なんだこの若者は、と胡乱な目を向けていた町人たちが慌てて一歩下がる。ドルムは落ち着き払って言った。
「この町へのフタル人の立ち入りは条令によって禁じられている。疾く立ち去れ」
「おまえたちの法にわれわれが従う道理はない。探すべきものがある。われわれは王の命で来たのだ」
王、と聞くやいなやドルムがぴくりと反応した。キイラはドルムが一瞬此方に注意を向けたことを感じ取った。ドルムが慎重に尋ね返した。
「王? フタルの王か」
「魔術師に用はない。おまえこそ立ち去るがよい。われわれは平和的対応を期待する。王はリーヴズが拒むなら暴力的な手段をもやむを得ないと仰せられた」
イベル人と対等であるかのような物言いにどよめきと怒号が上がった。町人たちが殺気立つのが肌で感じられる。ドルムは顔を顰めながら、対話を試みた。
「分からないな。何が目的だ。フタル人は新しい国を作ろうとしているのか。探し物とはなんだ」
フタル人の男たちは沈黙した。答えるつもりはないという意思表示だった。
「けっこう。だがあなたがたに何ができるんだ? 僕の見間違いなら済まないが、見たところほんの数人しかいないようだが」
ドルムの言葉に、群衆から失笑が漏れた。だが、フタル人らが返したのは不気味な笑みだった。イベル人たちは微かに怯んだ。男は呟いた。
「われわれには神と王の加護がついている」
誰かが「殺せ」と呟いた。
「どうせフタル人だ。邪教を崇める異端者だ」
一人がそう言うと、そこを中心として殺気がぱっと拡散した。流行病が伝染するように、皿の中の水に垂らしたインクが広がるように。
「そうだ」
「殺してしまえ。そうすべきだ」
「殺せ」
空気が張り詰め、不吉な紫の風が後ろから吹き抜けた。キイラには確かにそう感じられた。その風に後押しされるようにして、石工らしい身なりをした町人の一人がドルムを押しのけ、とうとう怒声を上げてフタル人へと殴りかかった。何人かがそれに加勢し、その場は乱闘騒ぎになるかと思われた。
そうならなかったのは、鋭く重い破裂音が鳴り響いたからだった。はじめに殴りかかった若い石工が、一拍置いてどうと前のめりに斃れた。沈黙。石工の身体の下に、じわじわと血溜まりが広がった。
斜面を覆う木立から、その死角から、わらわらとフタルの武装兵が現れた。その数五十ばかり、みな金属で拵えた筒のような奇妙な武器を構えている。イベル人のもう一人が撃たれ、首や胸から血を吹き出しながら倒れるのを見て、場は大混乱の様相を呈した。恐怖の叫び声を上げながら、我先にと逃げ出そうとする。
狂乱の中、先程まで話していたフタル人の男がドルムに言った。唇の動きで、キイラにも男がなんと言ったのかが読み取れた。
「知っているだろう。われわれが探しているのは、赤毛に金の瞳の少女だ。魔術師」
次の瞬間男は後方へ吹き飛んだ。ドルムが二本の指を突きつけていた。素早く呪文を唱えて心臓石へと命じ、風の盾で町民を狙い撃とうとする鉛玉を防ぐ。キイラはモンドンを投げ捨てると、「再現」の中でレイガンがやったようにドルムの背後から歪めた音の波を射ち出し、フタル兵の何人かを突き転ばせた。ドルムが怒鳴った。
「来るな!」
兵の一人がキイラを発見した。若い男。鋭く叫び、此方に向かって駆けてくる。キイラは若者の真っ黒な瞳の中に、立ち竦む自分自身の姿が見えたような気がした。
時が止まる。
瞳の中のキイラは融けるように歪み、ねじれ、別の姿へと変化した。別の姿——夢の男。男はその黄金の双眸で真正面からキイラの視線を捉えた。
《見つけたぞ》
男の口が動き、そう呟いた。男の瞳が興奮に輝く。
みつけたぞ、ミツケタゾ、と歓喜の響きが繰り返し鳴りわたり、キイラの全身を満たした。身体すべてが鐘になったような感覚。
「キイラ!」
カドが叫び声を上げ、キイラは我に返った。炎の壁が石畳から勢いよく伸び上がり、フタル兵を阻む。ドルムがキイラの手首を引き、勢いよく駆け出した。
「走れ、できる限り速く!」
「町を守らないと!」
「やつらの狙いはきみだ。ここを出るんだ」
「だけど……」
すぐ側で爆発が起こり、家屋の窓が砕け散った。ユタの言っていた新しい火器に違いなかった。ドルムが破片からキイラを守った。ドルムは路地を折れると、キイラの肩をきつく掴み、努めて冷静な口調で言った。
「上級魔術師ならまだしも僕ら二人ではあの数は無理だ。やつらは武装している。神殿に戻り、教会とレイガンに報告する」
「レイガンはだめ」
キイラは反射的に叫んだ。追いついてきた兵に、ドルムが素早く指を突きつける。男はぱっと炎に包まれ、地面を転げ回った。ドルムは再びキイラの腕を掴み、引きずるように走り出しながら言った。
「レイガンはこれを予期していたのか。フタル人たちが追っていたのはきみだ」
「あの指環がキイラを守っていた」
カドが言った。
「ただの監視器ではなかった」
「そうだ。気づけたはずなのに!」
ドルムが苛立ちを露わにした。
「帰ったら僕からも一発ぶん殴ってやらないと気が済まない。何故説明しなかった?」
キイラは突然ドルムに抗って踏み止まった。腕を振りほどかれ、ドルムが瞠目する。
「一人で戻って。わたし、行けないわ」
「馬鹿言うな! 僕らの手には余るんだ」
「キイラ、今は逃げるしかない」
カドも説得にかかった。
「捕まるぞ!」
「町の人が殺されたのよ!」
キイラは両の拳を固く握り、全身を震わせて叫んだ。荒れ狂う嵐のような激情に支配され、まるで声の大きさが制御できなかった。
「フタル人に殺された。また! あれはわたしの父だわ。母だわ。フタル人! 殺してやる! 今のわたしには力がある、あのときとは違う」
「冷静になれ。まだきみも僕らも何も知らないんだ。何も、何を知らないのかすらも! 今衝動的になって何になる! 僕は力ずくでもきみを連れ帰る」
「邪魔しないで! さっさと行って!」
「キイラ!」
キイラはドルムを攻撃しようとした。そのとき、路地を回り込んできた若い兵が二人を見つけ、大声で合図を送った。
通りの向こうで銃声。男の悲鳴が響いた。ドルムは急いで兵を地面へと叩きつけたが、すぐに複数の男たちが現れた。
「いたぞ!」
次の瞬間、男たちの背後で耳を劈くような爆発が起こり、彼らはまとめて吹き飛ばされた。ごうと吹き込む爆風の激しさに、キイラは思わず目を瞑り、顔を庇った。ドルムが彼女の腕を掴み、引き寄せた。
倒れた男たちの体を蹴り飛ばし、駆け込んできたのはひどく見慣れた魔術師たちだった。ドルムが驚愕の声を上げる。キイラがなにか言う前に、レイガンは彼女にも指を向け、一言命じた。目の前で眩い閃光が炸裂する。
キイラの意識は一瞬にして暗黒の海へと放り出された。意識を失う直前、カドの声が頭の奥に響いたような気がした。
空白。
そうして、キイラはなにも考えることができなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます