第16話

 纏めるべき荷物はほとんどなかった。そう長い旅にはならないだろう。

 ポウスリーからトラヴィアまで、馬の足で五日と記憶している。最短でも往復で十日だが、帰りのことは考えなかった。

 このままここにいてはいけない。

 あの日——レイガンと師弟の契りを交わしたあの日、キイラの背を灼き焦がした瞳の中の彗星が、警告するかのように燃え上がった。レイガンは危険だ。キイラは考えた。彼が何を知っているにしろ、そしてどんな思惑があるにしろ、彼のもとに留まっていればいずれカドは取り上げられてしまうだろうという予感があった。レイガンは最早なりふり構ってはいない。手段を選ばずに、キイラの邪魔をしてくることは間違いなかった。

 それに、あの「記録」。

「あんたには、物事を記録する力があるんだわ」

 外出用の鞄にナイフを詰め込みながら、キイラは囁いた。食堂に保存のきく食べものを取りに行きたいが、目立つ。夜まで、キイラがしようとしていることをユタに気づかせたくはなかった。

「そして、それをわたしたちに視せる力が。あんたは戦の間じゅう、レイガンに持ち歩かれてた。ユタは、あれは『精巧な再現』だと言ったわ。あんたはレイガンの懐の中から、戦の一部始終を記録していたのよ」

「おれにはそんな自覚はない」

「なくってもよ」

 喋りながら、キイラは重くなった鞄を持ち上げた。今にもユタが戻ってきてしまうかもしれない。自分の寝台の下に押し込んで隠す。

「あの再現の両方に、レイガンの姿があった。それしか考えられないわ。それにしても、レイガンは何を知っていたのだろう……」

 キイラはかぶりを振った。レイガンから聞き出すことができないのであれば、自分で調べるしかない。

 レイガンは、あの男の言葉通りローデンロットへ向かうだろうか?

 おそらく、向かうだろう。キイラを伴わずに。そんなことは許せない。キイラはどす黒い炎を飲み込んだような心持ちになった。〈獅子の爪〉と無関係であるはずがない。

 フタル人。王。ポウスリー。

 王というのは、ジストフィルドが想定していた、抵抗者たちを纏め上げる各組織の首魁よりも更に上位の存在であろうと思われた。それがどうして今もなおローデンロットに、ポウスリーの焼け跡に拘っているのかは分からなかった。重要なことは、キイラの村を焼いたかもしれない抵抗者たちの情報さえ、そのひとかけらさえ、レイガンはキイラに教えるつもりはないということだ。

 彼は馬鹿ではない。フタル人の男とのやり取りをキイラが知った可能性に、あの魔術師はすぐに思い至るに違いない。彼個人ではそう簡単には動けないはずだが、なるべく早くここを出る必要がある。今夜だ。

「キイラ」

 カドに呼びかけられ、キイラは自分が突っ立ったままぼんやりしていることに気づいた。キイラは指環を掴み、軽く引っ張って、鎖が首の後ろでしっかり留まっていることを確かめた。

「キイラ、出て行ったらどうなる」

「破門されるでしょうね」

「きみはそれでいいのか?」

 嗄れ声でカドが尋ねた。

「きみは破門を恐れ、一度はあの男の言うことを聞いた」

「もう必要ないのよ、カド」

 冷静なつもりで返した言葉に、多少なりとも吐き捨てるような調子が入り混じったことは否定できなかった。

「わたしの目的は神殿付き魔術師として成功することじゃない。ローデンロットに行けばなにかが分かる。信用もできない男に閉じ込められたまま、なんの情報も与えられずに、神殿で安穏と暮らしていくくらいだったらわたしは一人で戦う。いや、一人じゃないわ……」

 キイラは声の調子をやわらげ、指環にそっと触れた。

「あんた……あなたがいる。カド。あなたは、扉を破ったあの魔術が人を殺していたかもしれないと言った。その通りだわ。わたしは人を殺せる。あの戦の記録を見たとき、わたしは……わたしは、恐ろしくなかった。レイガンがしたのと同じことが、彼の助けなしに、わたしにもできると思った。あなたの力があれば。カド。父があなたをわたしに与え、母があなたとわたしを繋ぎ、ユトーがあなたに名前を授けた。力を貸して。どうか、わたしに……」

 終わりのほうは懇願だった。カドは長いこと沈黙していたが、仄かな光を放ちながら、こう言った。

「おれの意志は変わらない。キイラ、おれはきみを肯定する」

 その光はやわらかく、夕闇を照らしながら舞い遊ぶ燈虫の灯りのようにただひたすらにやわらかく、キイラの瞳の彗星と溶け合い、心の暗がりを慰めた。ほんの一瞬、確かに満たされたような感覚があり、キイラは陶然とした。その感覚を閉じ込めるように指環を両手で覆ったが、真昼の砂漠に一滴の水を落としたが如く、彼女の心にはすぐに渇きが訪れるのだった。

 この渇きはフタル人の血によって潤されるだろう。

 キイラはそう信じた。偉大なる光の司ルースよ、わたしを導きたまえ。わたしはカドとともに血の河を渡ろう。




 普段よりも早い時間に寝台へと潜り込んだキイラを、ユタは怪しまなかった。ユタが二人の部屋へと帰室したのは夜の帳が下りてからで、彼女はひどく疲弊していた。誰にも聞かれるはずのなかったユタの独り言を、掛け布の下でキイラは聞いた。

「どこへ向かうの」

 キイラは胸いっぱいに氷の塊を詰め込まれたような気分に襲われた。ユタは知っている? わたしのしようとしていることを。問い詰めるのか。キイラは緊張に体を強張らせた。しかし、ユタの言葉はそこで終わりだった。そして、その言葉はただ当て所なく、空中に放り出されたまま、いつまでも孤独に浮かんでいた。


 ユタが寝入ってしまうと、キイラはあらかじめ決めておいた手順を正確にこなした。削っておいた琥珀と乾燥させた粉末ラワンデルとを小皿にひとつまみ、彼女の枕元へと慎重に配置する。自信がなかったので、まじない香は焚かなかった。部屋の四隅には深い眠りへと誘う煙水晶の細石を。定型の呪文に加え、せめて幸福な夢を見られるようにと、キイラは祝福の祈りを二回繰り返して唱えた。

 ユタが多少の物音では目を覚まさないのを確認したあとで、キイラは膨らんだ鞄を寝台の下から引っ張り出し、ひっそりと部屋を後にした。


「どのように?」とひそひそ声でカドが尋ねた。

「地下通路を使うわ」

 キイラはやはり潜めた声で答えた。

「試験のときに使ったあの地下洞窟を」

「裏門はだめなのか?」

「裏門には人の出入りを記録する結界の印がある。レイガンがその気になれば、いつ出て行ったのか、どんなものを持ち出したのかまで簡単に突き止められてしまうわ。なるべくなら危険は侵したくない」

「夜の地下通路よりも、あの男が危険だと思うか」

「そうよ」

 キイラは肯定した。

「それに、あの迷宮に昼も夜も関係ないじゃない」

「それは違いない」

 緊張気味だったカドの声色に、僅かに笑いの気配が混じった。深夜の廻廊は殊更に足音が響いて感じられる。キイラは腕を擦った。晩夏と言えど、夜の大気は既に秋の冷ややかさに染まりつつある。神殿の紋章入りガウンも、外出用の揃いの襟付き外套も、持ち出すことはできなかった。逃亡する身であの装いはあまりに目立ちすぎる。食べ物に加え、上着もどこかで見繕わなくてはならない。まずは、トラヴィアを出よう。カルタの町で旅に適した食べ物と、あたたかい衣服と、質の良い地図を買い、リーヴズを目指そう。馬を手に入れれば、一人でも山は越えられる。

 キイラは自身を奮い立たせ、トラヴランド王の像の背後、通路へと続く扉を開いた。この扉に鍵がかかっていないことは覚えていた。瘴気の流出騒ぎのあとからここは立ち入り禁止だが、張られた結界は精々見習いを弾き出す程度で、杜撰である。試験以外でここを訪れるものはないのだ。ただ、キイラの手には、鉄の扉はひどく重く、冷たく感ぜられた。通路は曲がりくねって入洞口へ。

「地下から瘴気が流れ出したなんて嘘よ」

 空のランタンに小さな明かりを灯し、キイラは頭の中に地図を蘇らせた。大丈夫だ、思い出せる。キイラは深呼吸しながら言った。

「ほら、まったく感じられないもの。微量なにおいですら。当然だわ」

「出口はきみが崩したはずだが、どこへ?」

「わたしが向かうのは出口じゃないわ。入り口よ」

 分岐を慎重に確認し、キイラは冷静に答えた。

「〈狩人〉が足を踏み入れるための三つの入り口。そのうちの一つは、神殿の外に通じているのよ。そこを、抜け道として使う」

「悪い案じゃない」

 相槌を打ったのはカドの嗄れ声ではなかった。若い男の声。キイラは瞬時に灯りを強めた。同時に相手の喉元に指を突きつけ、体を弾き飛ばす呪文を唱えようとした。

「待った!」

 声の主が叫んだ。キイラは灯りの中に彼の姿を捉えた。ドルムだった。

 キイラは彼の喉元から指を離さないまま、鋭い声で尋ねた。

「どうしてここに?」

「ここにいるはずがないのはきみも同じだ。そうだろ」

「お喋りを楽しむ余裕がないの」

「僕は今夜きみがここを通るだろうと思った。だから来た」

 キイラは困惑し、ドルムの顔を見つめた。ドルムの表情からは笑いが削ぎ落とされ、ランタンに照らし出された鳶色の瞳は真摯な色を帯びていた。

「説明になっていないわ」

「喉をナイフでかっ切られようというときに、十分な説明ができるかい?」

 そう言いながら、ドルムは恐れる様子も見せずにキイラの双眸を覗き込んだ。キイラは二、三分ばかり逡巡したが、やがて観念し、そろそろと指を下ろした。

「〈狩人〉の入り口は駄目だ」

 キイラが指を話すや否や、ドルムは喋り出した。

「地図の上では一見神殿の外に通じているように見えるが、それは誤りだ。入り口は一方通行なんだ。外には出られない」

 まるで目の前に地図を広げているかのように、ドルムが空中を指差し、道順を辿った。

「試したことがある。彼処を出入りするには、〈狩人〉の銀のブレスレットが要るんだ。そして僕もきみもそれを持っていない。外に出るには……」

「ドルム、待って」

 キイラは混乱しながら遮った。

「何を言っているの」

「外に出るための方策を」

「そうじゃない。あなたはどういうつもりなの」

「きみの味方をする」

「どうして」

 当惑を通り越し、キイラの声が険を帯びた。

「おかしいわ。レイガンの弟子のあなたがどうしてわたしの手助けをするの。なにも知らないくせに。なにより、どうしてわたしが今夜神殿を出ようとしていることが分かったの」

「一つ目の質問から答えよう」

 ドルムが落ち着いた声音で答えた。

「僕はレイガンの弟子だが、今彼から離反しようとしているきみもまた彼の弟子だ。きみを手助けすることに、レイガンの弟子であることは関係ない。次だ。確かに僕はきみの事情を深くは知らない。きみを形作ったもの、きみを変えてしまったもの、生い立ち、考え、怒り、痛み、そういったものを知らない。だが、僕はもともとのレイガンという男を知っている」

 あくまで冷静に、キイラの警戒心を宥めるように淡々と続ける。

「師としての立場を逸脱し、きみを支配し管理しようとする今のレイガンは異常だ。ユタの目から見ても、ジストの目から見ても。きみときみの小さな友人は確かに普通じゃない。だがレイガンの反応は過剰で、非常に性急に思われる。彼が何を考えているにしろ、これ以上彼のもとにきみを留めておくのは双方にとって危険だと僕は判断した。冷却期間が必要だと。これが二つ目の答えだ。そして三つ目」

 ここでドルムはほんの僅かほほえんだ。

「どうして今夜きみがここを出ると知ったのか。なんだかそんな気がした、と言ってもきみは納得しないだろうな。僕も答えを持ち合わせない。だから、これに関しては僕にきみを害する意思がないと信じてくれと言うほかない」

 そこまで喋り、ドルムはキイラの返答を待った。キイラは固まったまま言葉を失っていたが、やがて唐突に灯りを小さくした。

「キイラ?」とカドが呼びかけた。

「そうならば、行動で示して。わたしの味方をすると。ここから出るうまいやり方を教えて」

「もとよりそのつもりさ」

 弱い光の中でドルムがもう一度笑みを作った。そして、すぐにそれを打ち消す。

「だが、僕もきみに聞かなくては。僕はきみをしばらくレイガンから離そうとは思っているが、目的も分からない、当てのない逃避行に手を貸したくはないんだ。きみはどこに向かおうとしている」

「ローデンロットよ」

 キイラは手短に答えた。

「王に謁見しにいくの」

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