第15話
レイガンは約束を守った。
キイラはそれから暫く修行を放棄したので、次に顔を合わせたのは彼が遠征から帰還した直後のことだった。呼び出されたキイラがレイガンの部屋を訪れると、同じく作戦に参加していたドルムとユタとがなにやら話し込んでいた。キイラに気づいたレイガンが、指環を差し出しながら、「私のいない間なにか変わったことは」と尋ねた。
キイラはレイガンの言葉を無視して駆け寄り、彼の手から指環をもぎ取るようにすると、どこにも変わりがないかをよく確認した。
「なにかされなかった?」
「それが……」
カドが答えるのを聞き、レイガンが冷ややかに言った。
「なにかしたのかと聞きたいのはこちらだ」
「どういうこと」
「遠征の間中、それは一言も喋らなかった。どこから見てもまったくもって普通の、ただの指環だった」
キイラは驚いてカドを見つめた。カドは空腹の犬のような唸り声を上げた。
「そうなの?」
「実を言うと」とカドは告白した。
「きみと離れたのがつい数時間前のことのように感じる」
キイラは顔を顰め、首を傾げた。
「そういえば、ときどき意識が途切れることがあると言っていたけど」
話を聞いていたドルムが口を挟んだ。
「きみがいなかったからじゃないか?」
「どういう意味だ?」とカドが尋ねた。
「心臓石が持ち主なしではその真価を発揮しないように、カドもきみの働きかけなしではうまく働けないんじゃないかな。なんだか、そんな感じがするよ。その指環、きみが受け取って初めて喋りはじめたのだろ?」
ドルムが一言断り、キイラの手からカドを受け取った。光に透かし、目を眇める。
「きみとこの指環は明らかに繋がりあっている。双方向的に。そうであれば……指環が普通でないなら、キイラ、きみも多分普通じゃないのさ」
「普通じゃないって、じゃあなんなの」
「それは分からない。レイガンに聞いてみたらどうだい」
指環をキイラへと返しながら、ドルムがレイガンに水を向けた。彼は笑ってはいたが、その瞳が探るような色を帯びていることには誰もが気づいた。全員がこの場で唯一の上級魔術師の顔に注目した。レイガンは腕組みをし、指で口元を触った。ユタがそっと問いかけた。
「指環のこと、調べてみてなにか分かったの」
レイガンが肩を竦めた。ドルムが言葉を選びながら言った。
「僕が気になったのはね。あんたはさ、指環を調べたかったの?」
全員の視線が、今度はドルムへと集中した。レイガンは落ち着き払って訊ね返した。
「それはどういう意味だ。一般論として、ああいった形で危険な反応を見せたその指環を調べたいと思うのは、魔術師としてごく自然なことだと思うがね。質問の意図が汲み取れないな」
「一般論としてはそうだろうさ。でもあんたは、その喋る変てこな指環を一度は見逃したじゃないか」
「高く評価していただいて恐れ入るが、上級魔術師と言えども危険の印を見落とすことはある」
「だがあんたはそうじゃない。僕は遠征の間ずっと考えてた。試験での出来事だとか、あんたのキイラに対する態度のこととかさ。あんたはなにかに気づいたんじゃないのか。カド自体を調べたかったんじゃなくて、あんたは暫くの間キイラとカドを引き離してみたかったんだ」
レイガンが低い声で遮った。
「ドルム」
「どうしてなんだ。なにかあるなら、教えてくれ」
「ドルム……」
「あんたは嘘が吐けない」
僅かな沈黙が流れた。キイラは、そしておそらくドルムもユタも、彼がなにかを語り出すことを期待した。レイガンはやがて溜息を吐き、呆れたように首を振った。笑いさえした。
「くだらない憶測に過ぎないな、ドルム」
「くだらない?」
「そうだ。大切なときにそんな妄想に気を取られているから、要らない怪我をする」
レイガンに指差され、ドルムは恥じるように左肩を押さえた。キイラはそのとき初めて、ドルムが肩に傷を負っていることに気がついた。キイラは進み出て、レイガンに立ち向かった。指環がちかりと光った。
「あなたは……」
あなた、は、は、は、は。
色が凝集し、光が錯綜した。
すべてが唐突だった。
その場の誰も予期しない出来事だった。レイガンの埃っぽい部屋に集合していたはずの四人は、突如としてまったく違った場所に佇んでいた。
陽射しの照りつける石橋の前である。
行き交う怒号。けたたましい喚声。眼下で飛沫をあげる急流、叩きつける瀬音。橋は右手に離れてもう一本あった。向こう側には急拵えの防壁が築かれており、その隙間から此方を狙う鈍い金属の光沢がちらついた。
そこは明らかに戦場であった。
四人は呆気にとられ、馬鹿のように立ち尽くしたが、一拍遅れてユタが庇うようにキイラへと寄り添った。
その場の誰もが四人を無視していた。カロメ虫の紋章の入った胸当てをした弓兵が、なにも見えていないかのように、キイラに向けて「ルースの祝福の矢」をつがえた。悲鳴を上げる間も無くキイラは矢に貫かれたが、鏃は腹を抉ることなく、彼女の身体をすり抜けた。
キイラは驚愕しながら右を振り向き、そこに外套を纏ったもう一人のユタを発見した。ユタが二人。同時に、ユタも自分自身の姿に気づいたようだった。
「幻像なの?」とユタが呟いた。外套のユタは険しい顔で矢の行く先を見つめている。突然、彼女がキイラたちのほうを見て頷いた。
「退がれ」
喧騒の中にレイガンの声が響いた。
振り返ると、やはり襟付きの外套を纏ったレイガンが揃えた指を向けていた。心得たように、神兵部隊が橋から離れ、隊列を組み直した。
阻塞の向こうから、焰硝の煙が上がるのが見えた。ユタが両手を翳して大気をひずめ、風の防護壁を築く。金の髪が風に煽られて激しく靡く。レイガンがフィビュラの
ユタの防護壁を矢と鉛玉のいくつかがすり抜け、レイガンの頰を掠めたが、彼は微動だにしなかった。喚声の中で、キイラはレイガンの口元が微かに動いたのを読み取った。次の瞬間、迸るような瀬音が橋桁の下から膨れ上がった。川の流れが腹の底に響くような轟きを上げる。次の瞬間、うねり逆巻いた水流は、怒れる竜のごとき凄まじい激流となって相手側の橋の上を洗い流した。石を削り出した丈夫な欄干が砕け散り、土嚢や武装兵らとともに川に飲まれてゆくのをキイラは見た。水流はユタの作る風の防壁にも叩きつけた。彼女は歯を食いしばり、
白と金のトゥニカにカロメ虫の紋章も輝かしい鎧、騎乗した神兵の一隊列が石橋を駆け抜ける。地響きのような軍踏。その全てを、四人は微風の一陣にも煽られることなく、佇立して見守っていた。
キイラを庇っていたほうのユタが、キイラの手をしっかりと握った。握り返したその手は汗ばんでいる。
右の橋桁のほうで爆発が起こった。次いでそちらから飛んできた矢がキイラの鼻先を掠め、心肝を寒からしめた。武装した弓手のフタル人が、遠く離れた欄干から身を乗り出して射かけている。キイラが食い入るように見つめると、その兵士は突如もんどりうって谷川へと転落した。
刹那、キイラはそのフタル人と目が合ったような気がした。激流に飲まれる寸前の恐怖の表情。魔術の軌跡を追うと、ドルムが指を向けていた。肩から夥しく出血している。戦のために編んだ砂色の髪が、まだらの紅に染まっているのが遠目にも分かった。その額を玉となって流れ落ちる汗さえも。誰か、魔術師が彼へと駆け寄った。すぐ傍に現実のドルムがいると知りながら、キイラは思わず叫んだ。
ドルム!
次の瞬間、戦場のすべては掻き消えた。
四人は元通り、薄暗い部屋の中に立ち尽くしていた。キイラは荒い息をしていた。ユタはキイラの手を掴んだままで、目を見開いたまま忙しなく辺りを見回していたし、ドルムの態度も同様だった。水を打ったような静けさの中、長い間、誰一人として口をきかなかった。
やがて沈黙を破ったのは、ドルムだった。彼は囁くように言った。
「今のは?」
どこからも答えはなかったが、彼自身返答を期待してはいないようだった。両手で口を覆い、小声でぶつぶつと呟きはじめる。
「幻影魔術か。しかし、どうやって。なぜ。誰が、なんのために」
「再現だったわ」とユタが呟いた。「とても精巧な……」
キイラは左手に握りしめたままだった指環を見下ろした。カドは何も言わなかったが、ただその貴石の輝きの奥に、ちかちかと混乱の光を瞬かせた。誘われるように、全員の視線が、キイラの手の中へと吸い寄せられた。
「今のは?」
ドルムと同じ台詞を、深い困惑の表情を浮かべたユタがもう一度呟いた。今度はキイラに向けて。キイラは一歩後退り、首を横に振った。キイラは素早くレイガンへと視線を寄越した。真っ先に問い詰めるであろうと思われたレイガンは、ただ青褪めた顔で絨毯へと目を落とし、なにか考え込んでいた。レイガンはキイラの視線に気づくと、夢から覚めたような顔をし、薄く口を開いた。
「暫くの間神殿外への外出を禁ずる」
「レイガン」
ドルムが思わずと言ったように口を出したが、レイガンは無視した。キイラへと歩み寄りながら、厳しい語調で畳み掛ける。
「指環を渡せ。それができないなら隠せ。私たち以外の誰にも見せるな。神官たちにもだ」
「レイガン!」
ユタも堪らずに叫んだ。その瞳は深い当惑と失望に彩られ、ただ説明を求めていた。
「頼むから口出しをしないでくれ」
レイガンが平坦に言い捨てた。キイラは指環を握りしめ、部屋を飛び出した。後から追いすがるように、説明を求めようと食い下がるドルムの声と、キイラへ呼びかけるレイガンの声が聞こえた。
「キイラ、聞いているのか。キイラ!」
レイガンの声の届かない階段の踊り場まで、キイラは無我夢中で走った。今起こったこと、見たものについて考えた。ひどく混乱していた。息を切らしながら、キイラはカドへと訴えかけた。
「今のはなんなの。カド、あんたがやったの。どういうことなの」
カドはやはり返事をせず、苦しげな唸りを上げた。ちか、ちか、と貴石が二度閃いた。
次の瞬間、カドを中心に景色が回転するように切り替わり、キイラは再び幻の世界の中に立ち尽くした。
廃墟の中だった。砂利を踏む音にはっとして顔を上げると、隣にレイガンが立っている。
「レイガン……!」
キイラは思わず狼狽の声を上げたが、すぐにそのことには意味がないと気づいた。幻覚だ。レイガンの顔と外套とは煤と粉塵に汚れていた。これは、先ほどの戦の続きなのかもしれなかった。レイガンの視線を追うと、そこには瀕死のフタル人の男が壁に凭れかかっているのだった。レイガンは男にもう一歩近づくと、片膝を突いて話しかけた。
「言い残したことはあるか」
「死ね」
レイガンは返事をせず、尋ねた。
「お前たちの親玉は」
「リアゾ。たった今貴様が殺した」
「その上だ」
男は血塗れの顔を醜く歪め、笑みに似た表情を浮かべた。レイガンは目を細めた。そして更に体を屈め、囁いた。
「教えろ。王とは何者だ」
「邪なイベルの魔術師どもに教える義理はない」
「王の目的はなんだ。なにを知っている」
今度は、男ははっきりと声を上げて哄笑した。億劫げに腕を持ち上げ、レイガンを指差す。
「魔術師、愚かな質問だ。王の目的はわれらフタルの民に再び国と力と栄光とを齎すこと。王は全てをご存知だ。今やわれわれは
次の瞬間、レイガンは魔術の力を借りて大きく飛び退った。耳を劈く爆発音が響き渡る。キイラは感じるはずのない爆風に目を瞑り、思わず腕で顔を庇った。
次に目を開いたときには、キイラは踊り場にひとり佇んでいた。窓の形に切り取られた西陽が、キイラの身体の半分を照らし出していた。キイラは浅く弱い息を繰り返した。手の中の指環をきつく握りしめる。
「キイラ」
手の中で、カドが弱々しく呟いた。
「おれは一体なんなのだ」
「カド」
キイラは囁きかけた。
「あんたを守るわ。あんたはわたしを守るのよ」
そう言葉を発した瞬間、キイラは気づいた。これから自分がすべきことがなんなのかを。それを成すためには、今すぐ行動を始めなくてはならない。今すぐに。
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