第14話

 下ろしていた瞼を開き、キイラは自分自身が想像と寸分違わぬ位置に立っていることを確かめた。指環に手のひらを添えると、キイラの鼓動に応じるように、微かに熱と拍動とを感じる。

 試験の日以来、指環との繋がりが強まったように思われた。

 まずキイラは、集中していれば目を瞑っていてもカドの目を通して朧げながらものを見ることができた。これまでは聴くことのできなかったような小さな物音を聴くことも。「二人ぶんなのかもしれない」とカドは言った。ときには、雨水が雨樋を伝い落ちるように、カドの感情が流れ込んでくることもあった。もっとも、そのほとんどは「つまらない」「愉快だ」「腹立たしい」などの、ごく他愛ないものであったが。

「あのとき、なにがあったのか覚えてる?」

「あのとき?」

「扉を砕いたときのことよ」

 キイラは中指で指環を小突いた。

「わたしたち、もう絶体絶命だと思った。そうだよね」

「ああ」

「でも、そうはならなかった。あんたがなにかしたんじゃないの?」

 カドは一瞬間沈黙し、すぐに答えた。

「おれはなにもしていない。寧ろ、きみがなにかをしたんだ」

「なにかって?」

「それは分からない。ただあのとき……おれはきみから発せられる強い『害意』を感じた。非常に烈しく、有無を言わせぬ力だ。それがおれを満たした。おれはおれを従わせようとする力に抗うことができなかった。そして……」

「壁が砕けた?」

「そういうことだ」

 キイラは黙ったまま少し考え、そして言った。

「これは推論なんだけど……あなたが心臓石の役割を果たしたんじゃないかしら」

「おれが?」

「あのときのわたしに、あれだけの魔術を成し遂げる力は残っていなかった。なんらかの増幅器の存在があったと考えるのが普通だわ」

「だが、貴石と人とを正しく結びつけるには儀式が要るのだろう?」

「術式はまだ不確定なのよ。方法は一つじゃないんだわ。そうよ」

 自分で自分の言葉に納得しながら、キイラはやや興奮気味に続けた。

「わたしによってあなたは目覚めた。あなたには意思があるし感情がある。特殊だわ、とても。この上に更に特例がもう一つ加わったとしてもおかしくない。あなたはもうわたしの心臓石なのよ」

「そうかもしれない」と一旦指環は認めた。

「だが、このことを歓迎するかどうかはまた別の話だ」

「どうして?」

 高揚に水を差され、キイラは顔をしかめた。カドは言葉を選ぶように、ゆっくりと喋った。

「おれは……あれは危険なものだと感じた。きみはどうだ」

「確かに、ちょっとばかりやりすぎだったかもしれないわ。でも、結果的には万事うまくいったじゃない。あのとき壁が壊れなければ、わたしは〈鍵〉を奪われて……」

「きみは壁を壊そうとして壊したのか?」

 カドが冷静な声で尋ねた。

「どういうこと?」

「今回はよかった。だが、次もそうとは限らない。何が起きるのか予測がつかないのであれば、それは『暴走』だ。きみ、自分の魔術がレイガンを殺していたかもしれない可能性について考えてみたか?」

 キイラは息を止めた。

 あのときレイガンの襟に染み込んだ、血の赤さを思い出した。厚い岩壁と結界によって保護された扉とをやすやすと砕き、キイラたちを脱出せしめたあの力。あれだけの衝撃がまともに人体に加わっていたなら、どうなっていただろう。キイラは言葉を失ったが、すぐにぎこちなく笑ってみせた。

「レイガンはわたしより強いもの。考えるだけ無駄よ」

 指環を服の下に仕舞おうとして、キイラはふとそれをやめにした。

「そんなことより、これからのことを考えるのが先だわ」

「これからのこと?」

「神殿つきの下級魔術師になったのよ。つまり、わたしにはもう戦に出る権利がある」

「『権利』か。『義務』ではなく」

「どちらだって同じことだわ。わたし、ジストから聞いたの。抵抗者の一派が潜伏している大規模な廃墟を一つ特定したって。近々、第一次掃討作戦が始まる……」

 貴石の奥の光が、考え深げに瞬いた。

「なんだって?」

 キイラはもう一度緊張気味に微笑んでみせ、乾いた唇を湿らせた。





 それから暫くキイラとカドとは落ち着かない日々を過ごしたが、その期待には思わぬ形で終止符が打たれることになった。あとから振り返ってみれば、この一件が決定的にキイラの師に対する不信を煽ることになったと言えるだろう。

 誤って借りてきた写本を返そうと、キイラがレイガンの部屋を訪れたときのことだった。

 扉を開けようとした瞬間、その向こうからジストフィルドの声が聞こえた。

「どうだ、体の調子は」

 その内容に反して著しく険を帯びた声色に、キイラは思わず動きを止めた。中で、ジストフィルドとレイガンが話し合っている。「キイラ?」とカドが小さく囁いた。キイラはシッとかすかな音を発し、指環のそれ以上の発言を制すると、扉を細く開けたまま仮締めを静かに戻した。かすかな隙間から、ジストフィルドと向かい合うレイガンの顔が見えた。しかし、その表情は冷たく沈んでいた。

「ご心配いただき光栄だな。至って好調だ、ジストフィルド」

 レイガンが馬鹿丁寧な口調で答えた。ジストフィルドがふんと鼻を鳴らした。

「今度の作戦に何故お前が出る?」

「私では彼女の代わりが務まらないとでも?」

「俺がそう言ったように聞こえたか? はあ、随分自信を無くしたもんだな」

 ま、今のお前ならそうかもな。ジストフィルドの揶揄を受け、ほんの一瞬、苛立ちの赤い光がレイガンのこめかみの辺りを駆け抜けた。レイガンは鋭く息を吸い込み、自分を落ち着かせるように吐き出した。そして口角にいつもの微笑を佩き、抑えた声で言った。

「時期尚早だからだ」

「俺にはそうは思えん。あの試験を見たあとではな。素晴らしい力だ」

 ジストフィルドが低い声で唸った。

「もう一度聞く。何故キイラを戦わせない」

 キイラはすぐさま状況を理解した。レイガンは、キイラが今回の作戦に参加する機会を奪ったのだ! キイラは今すぐ部屋に怒鳴り込みたい衝動に駆られた。意を決して把手を握り込んだ瞬間、あとに続いたジストフィルドの冷静な声を聞き、すんでのところで思い止まった。

「あいつの人生だ。お前はそこに介入し、道を指し示した。お前が拾ったんなら、もっと彼女の気持ちを汲んでやれ」

「私に命令できるのか?」

「おいおいレイギィ、俺を呆れさせてくれるなよ。お前、あいつの師匠だろ?」

「ああ、そうだ。この私が彼女の師だ。お前じゃない。だからお前の指図は……」

「なあ」

 ジストフィルドが落ち着いた声で遮った。

「俺にはあいつの気持ちが分かる。愛する家族を奪われた者の気持ちが。俺は、ニルダを……妹を犯し、死なせたフタル人を出来る限り残酷に殺してやりたいと思いつづけている。あのときからずっとだ。片時も忘れたことはない。キイラと同じだ。俺はそのためにここにいる。そしてその気持ちはけっして時間とともに褪せたりしない」

 キイラからはジストフィルドの表情は見えなかった。しかし、その次に響いた声は彼のものとは思えないほどに恐ろしく冷たかった。

「お前に分かるか?」

 よく研いだナイフのような沈黙が部屋を支配した。短くなった蝋燭の芯の燃える音だけが、部屋の隅から大気を伝わって鼓膜をかすかに振動させた。二人の魔術師は微動だにしなかった。永遠とも思える時間が経過したあと、ジストフィルドは一つ溜息を吐き、緊張を和らげた。

「お前になにか考えがあるならいい。あの子の思いを蔑ろにしてまでやらなくてはならないことがあるというなら。だが、それは俺にも言えないことか」

 レイガンはまた暫くの間沈黙したが、一度ゆっくりとした瞬きをしたあと、掠れた声で答えた。

「ああ。言えない」

「そうか」

「すまない、ジース」

「いいや」

 ジストフィルドがレイガンの肩を叩いた。レイガンがルースの祝福を願う祈りを簡単に唱えたあとで、二人は互いの心臓石に触れる親密な挨拶をした。そして、ジストフィルドは上着を翻してキイラの覗いている扉のほうへと歩みよってきた。キイラは慌てて扉から一歩離れた。ジストフィルドは扉の此方側にキイラの姿を認め、意表を突かれたように目を瞠った。厚ぼったい二重瞼が瞬かれる。しかし、彼はすぐに視線を逸らすと、キイラの横を通り過ぎて歩き去った。

 開け放された扉を挟んで、レイガンとキイラは暫し見つめあった。ややあって、部屋の真ん中に立ち尽くしていたレイガンが椅子へと腰掛けた。そして吐き捨てるように言った。

「キイラ、盗み聞きとは」

「そんなつもりじゃなかったわ。偶然、部屋に入ろうとしたら……」

 キイラは謝りかけ、すぐに思い出した。この男はわたしの初陣の邪魔をしようとしているのだ。よく乾いた羊皮紙を暖炉に放り込んだがごとく、ぱっと橙の怒りが燃え上がった。キイラは足音高くレイガンのもとへと歩み寄り、机に写本を叩きつけた。机の上の書きつけがいくつか舞い上がり、絨毯へと舞った。

「わたしに召集がかかっているのね。そしてあなたがそれを握り潰した」

「もうその話は終わった」

「終わってないわ! ふざけないで」

 仕草ばかりは宥めるように、レイガンが右の手のひらを向けた。

「ふざけているのはきみだ。それが師に対する口のきき方かね。身の程を弁えろ」

「わたしになんの恨みがあるのよ!」

 激昂に我を忘れ、キイラは机に乗り上がらんばかりになった。衝動のままにレイガンの胸倉を掴みあげようとした瞬間、レイガンが宣言した。

「これ以上逆らうのであれば、きみを即刻破門する」

 キイラは凍りついた。

 今この段階で破門の烙印を押されたら、魔術師としては終わりだ。キイラはまだ全過程を終えていない。専修分野も決めていないし、第七十二節も習得していない。一人で生きていくことはできない。新しい師事先を見つけない限り続きを学ぶことはできないが、神殿つきに破門された弟子などまず誰も引き受けない。少なくとも一人の権威ある上級魔術師を敵に回すことになるからだ。

 為すすべもなくキイラが押し黙ったのを見て、レイガンは目を瞑って拳を額に当てた。彼はそのまま眉間に皺を寄せ、なにか言い淀んでいるようだった。やがて、レイガンは呟いた。

「やはりきみの指環を少し預からせてくれ」

 キイラの拒絶と、カドの「えっ」という驚きの声が重なった。

「寄越せと言っているわけじゃない。確かめたいことがあるだけだ。すぐに必ず返す、遠征から帰る頃には……」

「それは命令?」

 レイガンは一拍おき、微かに躊躇ってから、「命令だ」と告げた。キイラは乱暴に鎖を外してレイガンに指環を投げつけた。カドは小さく悲鳴を上げて床へとぶつかり、一回跳ねた。レイガンは黙って椅子から立ち上がって跪き、それを拾った。彼はわめき声を上げている指環を懐へとしまい込むと、キイラへと再び向き直り、表情を変えずに言った。

「手を」

 キイラは無視した。レイガンが棘のある口調で畳み掛けた。

「手を出せと言ったのが聞こえなかったか?」

 キイラが放り出すように左手を突き出すと、レイガンは手袋越しにも分かる冷たい手で手首を掴んだ。そして、断りもなく、キイラの人差し指になにかぴったりした金属の輪のようなものを嵌めた。それは指環と呼ぶのも烏滸がましい、ひどく歪で不恰好な赤銅の指環だった。反射したランプの灯りが指環の表面を舐めるように通過し、そこに禍々しい紋様がびっしりと刻まれているのが見えた。キイラは反射的にそれを外そうとしたが、レイガンが有無を言わさぬ調子で厳しく制止した。

「駄目だ」

「これはなんなの!」

「口答えをするな。いいか、私がいいと言うまでそれを絶対に外すな。出かけるときも、寝るときも、風呂のときもだ」

 レイガンの声は真剣だった。

「何があっても、絶対に、外すな。これも命令だ。きみは私の言うことに従わなくてはならない。分かったな」

 部屋を出て扉を閉めると、カドの声はもう聞こえなかった。キイラは勢いに任せて指環を外そうとし、それでも思い止まって、代わりに扉を思い切り叩いた。扉の向こうから返事はなかった。キイラは蹲った。そして、空虚な胸元に手を遣ったまま、部屋に戻ることもできず、怒りと屈辱に長い間拳を握りしめていた。

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