第13話

「レイガン」

  キイラは呆然と呟いた。

「どうして」

「どうして?」

  レイガンは顔を顰め、左手首を掲げて見せた。そこにはこれまでに出会った二人が身につけていたのと同じ、銀のブレスレットが鈍い光を放っていた。

「〈狩人〉は『上級魔術師三名』と説明したはずだ。私がここにいて何がおかしい」

「ありえない。師匠が〈狩人〉の任に就くなんて」

「一級神官らは認めた」

「他の二人は、あなたが眠らせたの」

「なんのことだ」

  レイガンは平坦に応じた。

「いったいあなたは……」とキイラは言いかけ、すぐに「どいて」と厳しい語調で告げた。レイガンの目的がなんであれ、キイラは出口に辿り着かなくてはならない。

「〈狩人〉として、それはできない。これは私の評価にもかかわるんでね。上級魔術師の名誉にかけてここは通さん。きみの師だからと言って手加減する気もない」

  子どもに言い聞かせるように淡々と説明するその姿に、キイラは髪の毛が逆立つような怒りを覚えた。キイラの全身を取り巻いて押しとどめていた理性の糸が、高い音を立てて千切れていった。どうして邪魔をするの。あなたが!

「丁度いいわ」

  激情を押し殺し、キイラは呟いた。

「一度堂々とぶん殴ってやりたいと思ってたの」

「やれるものなら」

  レイガンはそこで初めて微笑した。彼が片目を瞑ると、彼の姿は光の屈折の中に掻き消えた。次の瞬間、キイラに爆発的な光と音とが襲いかかった。かつて彼女が思い上がっていたころ彼の部屋で味わった、荒れ狂う海にも似た猛々しい青の奔流だった。今のキイラには対抗するすべがある。キイラは素早く呪文を唱え、光り輝く風の衣で身を守った。

  レイガンの姿は見えない。だが、キイラにはどうすべきかが分かった。キイラは貫くような一声で青を打ち消し、代わりに金色の光を呼び出した。煌びやかな鱗を持つ北の魚の大群、灰の山脈から射す強烈な光線、目を覆うような黄金の太陽、迸る穢れなき閃光がキイラを通して流れ込み、終の間全体を眩く照らし出した。手にしていたランタンが砕け散った。真昼の屋外のような明るさの中で、キイラの目は空間の切れ目を捉え、金の小鳥の群れがそこに潜もうとする魔術師を引き摺り出した。よろめき出てくるレイガンの口元にはまだ不敵な笑みが零れている。

  なにか隠している。

  閉じゆく空間の裂け目から銀の帯が飛び出し、キイラを拘束せんと翻った。キイラは帯を力任せに真っ二つにしたが、裂かれてなお呪文の帯はキイラの体を取り巻く。もがく彼女に巻きつこうとする。

  厄介な帯を剥ぎ取ろうと暴れ、レイガンを罵りながら、キイラは反撃の矢を放った。呪文の矢は風を切って唸りを上げ、魔術師へと一直線に向かったが、彼の肩を射抜く直前で大きく逸れた。岩壁に当たった矢は耳をつんざくような音を立てて砕け散り、跳ね返り、新しい光の欠片が撒き散らされる。鋭い欠片はレイガンの全身へと降りかかったが、彼は意に介さなかった。落ち着き払って何事か短く呟き、手をかざす。キイラは履物の底が地面に貼りつくのを感じた。急いで足を持ち上げようとしたが、時すでに遅し、キイラの両足はぴったりと固定されてしまっていた。ずたずたに寸断された帯の切れ端は、名残惜しげにキイラの腕に纏わりついている。

「何故そんなにも急ぐ。きみはまだ若い。幼い。時間は幾らでもあるだろうに」

  音がしそうなほど激しく睨みつけるキイラに、レイガンがゆっくりと歩み寄ってくる。

「きみを動かしているのは憎しみだな。それはいい。だが、きみの奥底に眠る力に火を灯すには、その炎はあまりに大きすぎる。そしてきみという容れ物はあまりに小さすぎる……」

  レイガンはいつになく饒舌だった。その頰は先の欠片によって傷つき、僅かに血を滲ませていた。

「何故急ぐかですって? 分からないの」

「時間がきみの傷を癒す」

「ふざけないで!」

  キイラはぶるぶる震えながら唸った。なんたる無理解! なんたる侮辱! 紫がかった稲妻がキイラの周りで鋭く弾けた。胸元で、指環が警告音に似た高い音を上げる。

「私がきみを過小評価していたのは確かだ。謝ろう。きみにこの試験を受けさせるべきではなかった」

「わたしをどうしても合格させたくないのね」

「『今は』という意味なら、そうだ」

  キイラは靴から素早く右足を引き抜き、油断していたレイガンの腹を思い切り蹴りつけた。魔術師は苦痛の呻きを上げ、身体を二つに折った。

「だったらあなたも敵だわ。わたしを阻むのなら!」

「暴れ馬だな」

  顔を上げたレイガンの瞳には、痛みの気配と微かな苛立ちがあった。キイラは僅かに溜飲を下げたが、次の瞬間には靴を残して背後に飛び退らなくてはならなかった。レイガンの手がキイラの服を掴み損ねて空を切る。裸足に小石が食い込むが、キイラは歯を食いしばって踏み切り、鍾乳石の連なる出口の方角へ向けて駆け出した。もうすぐそこのはずなのだ。キイラを阻もうと、レイガンが鋭く叫ぶ。レイガンの呼び出した海が、激しく打ち寄せる波の飛沫がキイラの足を掬い、彼女を転ばせようとした。キイラは思わず立ち止まり、反響呪文を叫びかえした。波が倍の勢いを得て、白いあぶくを立てながらレイガンへと返っていく。

「無駄だ」

  レイガンが腕を一振りすると、波は端から凍りついた。氷は水浸しになった地面一帯に広がっていく。キイラは慌てて自らの周りに炎の輪を作り、氷のそれ以上の侵食を防いだ。

「キイラ!」

  カドが叫んだ。レイガンから目を逸らした、一瞬の隙が命取りだった。

  炎の壁を、革手袋を嵌めた手が全くの無傷ですり抜けた。レイガンの手がキイラの手首を——手首に嵌った〈鍵〉の腕環を捕らえた。

  しまった!

  キイラは後先考えず、〈鍵〉へと命じた。右へ!

  腕環はキイラの手首からもレイガンの手からももぎ取られ、魔術の力によって勢いよく壁へと打ち出された。取り巻いていた炎が立ち消え、二人の視線が同時に〈鍵〉を追う。一足早くキイラが飛び出した。素足が擦りむけた感触があったが、どうでもよかった。飛びつくように腕環を拾い、また駆け出そうとして——次の瞬間、キイラは地面へと叩きつけられていた。腕環が前方へと放り出され、手の届かないところに転がるのをキイラは見た。何が起きたのか理解できない。

  見えない力が、上からキイラの身体を押さえつけていた。レイガンがキイラをじっと見つめ、掌を下に向けている。キイラは諦めずに藻掻き、〈鍵〉まで這いずっていこうとした。身体にかかる重みがまたぐっと増した。冷酷なほどに容赦のない圧力だった。思わず悲鳴じみた声が漏れる。

「キイラ」

  レイガンがつめたく呟いた。

「きみの負うくびきはそれよりなお重いのか」

「そうよ」

「聞き分けるというわけにはいかないか」

「冗談じゃないわ」

  レイガンが一歩近づくたびに、鉛の錘をひとつずつ積み重ねられるかのように重みが加わる。やがて、キイラは指一本動かせなくなってしまった。レイガンはキイラの目の前に佇み、「終わりだ」と宣言した。這いつくばった姿勢では、彼の表情は見えなかった。

「きみはよく健闘した。だがまだ早かったということだ。気を落とすな」

  〈鍵〉を拾おうと、レイガンが身を屈めた。

「人生こういうこともある」

  レイガンの指が、手袋越しに腕環へと触れた。次の瞬間、レイガンの身体が跳ね飛ばされた。おそるべき勢いで五ラートぶんの距離を弾き飛ばされ、岩壁に叩きつけられる。重みから解放されたキイラはなんとか立ち上がり、呻くレイガンを魔術の鎖で引き摺りあげ、壁に縫いとめた。

「見くびったわね」

「こんなもので勝ったつもりか?」

  油断を衝いた渾身の一撃のつもりだったが、驚くべきことにレイガンはまだ元気だった。宙に浮いた足をぶらつかせ、左腕の鎖を引きちぎる。念入りに二重に巻かれた利き腕の鎖はなかなか外せないらしい。キイラは〈鍵〉を拾い上げながらにっと笑った。

「別に勝つつもりはないわ。そんなの無理だもの」

  キイラはくるりと背中を向けて駆け出そうとした。なにやら背後で叫ぶのが聞こえ、次いでぱらりと小石がキイラの肩を打った。見上げると、鍾乳石が震えている。連鎖するように、天井いっぱいの鍾乳石が不気味な揺れ方をしはじめた。レイガンの目論見を知り、キイラは悲鳴を上げた。

「殺す気!」

「殺す気はないが、もしきみが死んだならその程度の運と才能しかなかったということだ」

「この男は気が狂っているのか?」

  カドががなった。

「私は私の役目を果たすだけだ」

  先の尖った鍾乳石の群れが、一斉に頭上から降り注いだ。キイラは石に貫かれないことを願いながら死にものぐるいで駆け、通路へと逃げ込んだ。

  その瞬間、足元の地面が瓦解していくような幻覚を味わい、キイラは混乱しかけた。下は底も見えない奈落である。内臓が浮き上がるような恐怖を覚えながらも、キイラは無視して走り抜ける。ひとつ目の分岐を右へ。レイガンの魔術は壁を伝って追い縋ってくる。ランタンを失ってしまった今、キイラの行く手を照らしだしてくれるのは服に纏わりついた光の微細な欠片だけだ。それも消えかけている。次の分岐を過ぎようとした瞬間、キイラの目前に突如として壁が現れた。

「行き止まり!」

  絶望の声を上げたキイラに、カドが怒鳴った。

「キイラ! 幻像だ」

  キイラはカドの声を信じた。走る速度を緩めず、思い切り壁へと突っ込んだ。被膜のような感触の靄を突っ切ると、最後の空間へと辿り着いた。奥には、出口の扉がキイラを待っている。

「早く外へ!」

  カドの声に急き立てられ、キイラは扉へと駆け寄ったが、一瞬にして途方に暮れてしまった。この扉、把手がない。

「なにをやっているのだ! 追いつかれるぞ」

「待って、普通には開かないみたいなの」

  〈鍵〉を使わなくてはならないことは明らかだ。しかし、この〈鍵〉をどう使えばいいのかは、誰も教えてくれなかった!

  キイラは指先で扉の上に刻まれたペンタクルらしきものをなぞった。暗がりの中でも、どうやら腕環の銅板に刻まれているものと同一らしいことは分かる。円の内周になにか文字列が記されていることに、キイラは気づいた。だが、読めない。暗すぎるのだ。

  キイラは唇を噛み締めて手元を照らした。イベルタ文字だ。

「鍵に涙を、扉に水を……」

  背後から足音が近づいてくる。キイラは銅板の上に涙を滴らせ、手のひらから流れる血を扉へと擦りつけた。ふたつのペンタクルはほんの一瞬呼応するように淡い燐光を放ったが、すぐに元通りになってしまった。キイラは扉に拳を叩きつけた。この最後の仕掛けをなんとかしなくては合格にはならないということだ。カドが唸った。

「解錠の呪文が要る。読み上げるんだ……」

  そのときレイガンが姿を現した。彼が手を翳すと、キイラは再び床へと崩れ落ちた。キイラは壁に縋るようにして呪文を呻いたが、扉はびくともしなかった。

「もう力が尽きかけているだろう。さっき無駄に浪費しすぎたな」

  レイガンがため息混じりに言った。

「いやはや、危ないところだった……」

  顔にはいつも通りの皮肉っぽい笑みを浮かべていたが、レイガンの息は微かに上がっていた。いつもは整えられている髪が乱れ、額の上に落ちかかっている。その首筋を、新しい血液の雫が伝っていくのが見えた。レイガンが首を振った。

「きみを褒めてやらなくては。少なくとも、誰かがその扉まで辿り着くのを見たのははじめてだ」

  キイラは目の奥が焼けつくような悔しさに、拳を固く握り締めた。レイガンは、キイラを抑えるのに使っていないほうの手を差し出し、命じた。

「〈鍵〉を渡したまえ」

「いやだ」

「たった四年間だ」

「いやだ!」

「キイラ!」

  あくまで冷静であったレイガンの灰色の瞳が瞬間怒りに燃えた。その炎はキイラの瞳に映り込み、彼女という香油を得ていっそう烈しく燃え盛った。快い熱がキイラの血管という血管を駆け巡り、逆流し、心臓へと還流していった。熱の全てが収束したかと思われたそのとき、胸元の指環が眩い光を放った。キイラから無理矢理〈鍵〉を奪おうとしていたレイガンがぎょっとしたように飛び退いた。幾筋もの光は放射状に広がり、直線的に暗闇を貫き、地下通路を震わせた。地響きが鼓膜を揺らし、光の氾濫の中で魔術師が腕で頭を庇ったのが見えた。扉に、壁に、放射状の亀裂が入る。

  次の瞬間、すべてが崩落するような轟音とともに、キイラの意識は暗転した。







  密やかな声で、キイラは目を覚ました。ひやりとした手のひらが額に触れ、まだ眠っていていいのよと言った。その、モルフと暮らすことに慣れていない、冷たい水に荒れてもいない、若く嫋やかな手のひらの感触に、キイラはマーサの記憶を重ねた。

  キイラは再び微睡みに身を任せ、無意識の海の底を揺蕩った。陽光を受けるイベルタ文字の群れが、魚影に似て水底にまだら模様を落とした。キイラは腕を伸ばし、その一片を摑み取ろうとしたが、指が触れた瞬間にそれは水の中で燃え尽きてしまった。キイラはふと何者かの視線に気づき、振り向いた。そこにはただ暗闇が広がっているだけだったが、キイラの膚は微かなまなざしの名残を感じ取っていた。それは炎にも似た、ぎらつく金色をしていた。


  キイラが次に目覚めたとき、最初に目に入ったのは翡翠の色だった。

「あ、起きた」

  此方を覗き込むドルムの顔。何故か、左の頬に痣を拵えている。

「ユタ、起きたよ」

「あなたが起こしたんじゃないの」

「自然に、目を、覚ましたんだ」

  文節を区切りながら、ドルムが強調して言った。

  そこでようやく兄弟子が寝台から離れたので、キイラは困惑しながら身を起こした。重たい頭痛がする。自室だった。窓から射し込む陽は傾いていた。随分長いこと眠っていたのかもしれない。

「そうでもないよ」

  キイラの心を読んだかのように、ドルムが言った。

「丸一日の休息を長いと見るか短いと見るかは意見が分かれるかもしれないが、あれだけのことをしたあとなら十分短い」

「試験はどうなったの」

  キイラははっとして尋ねた。

「わたし、結局扉を開けられなくて……」

「おめでとう」

  ドルムは朗らかに言った。

「きみは合格だ。きみは扉を開けられなかったかもしれないが、〈鍵〉を持ったまま出口から脱出した。誰もきみを不合格にはできない」

  キイラは溜息を吐き、俯いた。重ね合わせた手の甲を額に押しつける。

「わたし、外に出たのね」

  あの轟音を聞いたあとからの記憶がない。

「壁が内側から弾け飛ぶみたいに砕けて、中からきみがよろめき出てきたときはびっくりしたよ。大騒ぎだった」

  ドルムが興奮した口調で言った。

「正直なところ、誰もきみが合格するなんて思っちゃいなかった。勿論、僕やユタや、あのあと駆けつけたジストを除いてはってことだけどさ。それを、まったく予想を裏切る派手なやり方できみはやってのけた。あんな予測不能の事態があったにもかかわらず……」

「ドルム、キイラは今起きたばかりなのよ」

  ユタがやんわりと制止した。

「だいたい、ここは男は立ち入り禁止のはずなんだから」

「功績を成し遂げた友人を一番に祝福してやれないような規則は破るべきなのさ」

  ユタが口を開きかけたが、キイラは「大丈夫」と首を振った。

「予測不能の事態?」

「そうだろ。地下から発生した瘴気が充満していたというじゃないか。熟練の〈狩人〉が二人もやられた。洞窟は今立ち入り禁止だよ」

「無事なの?」

「昨日のうちに無事救出されたよ。きみが印をつけておいたお蔭だ」

  ドルムが笑いかけた。

「今頃レイガンが報告してる。きみってやつは本当にすごいな。あとから瓦礫を押しのけて彼が出てきたときのみんなの顔を見せてやりたかったよ。実は、今まであの人が〈狩人〉のときに合格したやつっていないんだ」

  その名前を聞いた瞬間、キイラの心臓がどきりと嫌な音を立てた。

「今回は弟子だからって手抜いたんじゃないかなんて噂してるやつもいる」

  キイラの様子には御構い無しに、ドルムは心底腹立たしげに言い、頰の痣を指差した。

「嘆かわしいだろ? 男前が台無しだ」

「レイガンは頭がおかしいわ」

  なんとかキイラは絞り出した。その言葉を聞き、ドルムがおかしそうに笑った。

「知ってるよ」

「違うの! わたしを憎んでいるのよ」

  その瞬間、困惑の気配が部屋全体を満たした。ドルムはユタと顔を見合わせ、気遣わしげにキイラへと視線を戻した。

「キイラ、確かに彼は厳しいけどさ……」

「他の〈狩人〉を昏倒させたのはレイガンよ。わたしを邪魔するのに不都合だったからだわ。『終の間』で彼、わたしを絶対に合格させないって言ったの。わたし、殺されるんじゃないかと思った」

「レイガンと直接やりあったのか?」

  ドルムが驚いたように声を上げた。

「なんとしてもキイラから〈鍵〉を奪うつもりだったようだ」

  突然カドが口をきいたので、キイラはびくりとした。

「わたしが寝てる間、あんたは起きてたの?」

「いいや。おれも眠っていたらしい」

「待て待て、レイガンがどうしてそんな、なりふり構わずきみの邪魔をしなくちゃならないんだ」

  ドルムは困惑の滲む微笑を浮かべたが、後ろで聞いていたユタは真剣な顔つきになった。

「そんなはずないわ」

  首を振り、否定の意を示す。

「彼はむしろあなたに期待してる。あなたを魔術師にしたがっているのよ。そのはずなの」

「だけど……」

  そのとき、扉が勢いよく開き、話の渦中の男が踏み込んできた。ユタが鋭い声で咎めた。

「せめてノックをして」

  凶悪な顔をしたジストフィルドが、すぐあとを追うように入室する。レイガンはキイラの前で立ち止まり、ジストフィルドが彼の腕を掴んだ。

「どうして説明をしない」

  ジストフィルドは語気荒く唸った。意外にも、彼が声を荒げているところをキイラは初めて見た。

「どういうつもりだ。お前はどうかしている……」

  今は温度のない灰の双眸が、キイラの視線と交錯した。ジストフィルドの言葉を無視し、キイラを見つめながら、レイガンはただ考え込んでいるようだった。レイガンの頭には包帯が巻かれ、今だ本調子でないように見えた。ジストフィルドは、苛立ちよりも寧ろ困惑した声音で言った。

「弟子の試験の試験官をする師匠がいるか? 例外に過ぎる」

「それを決めるのはジース、お前ではない。弟子の〈狩人〉をしてはならないという規則もない。神官どもは……」

「そう働きかけたんだろう」

  レイガンが黙り込んだ。

「なあ、レイガン。なんだあの魔術の痕跡は。演習場や闘技場じゃあないんだぞ」

「私は私のすべきことに従っただけだ」

「見習いを全力で潰そうとするのが〈狩人〉のすべきことなのか? そんなものは教育じゃない。上級魔術師として恥ずかしくないのか」

  吐き捨てるようなジストフィルドの台詞に、レイガンの眉間に深い皺が寄った。しかし、結局レイガンはなにも言い返さなかった。ジストフィルドは両手を広げ、首を振った。

「お前が分からん……」

  キイラは全身に緊張を漲らせながら、二人のやり取りを見守っていた。レイガンは物思いに沈んでいるかのように、それきり微動だにしなかった。キイラは彼の視線を辿り、キイラを熱心に見つめていたと思っていたレイガンの視線がどうやら別のところにあることに気づいた。キイラは思わず指環を手で掴み、視線から覆い隠した。

  レイガンは目を細めると、たった今思い出したかのように、一言呟いた。

「合格おめでとう」

  そうして踵を返すと、引き止める間もなく、さっさと部屋を出て行ってしまった。残されたキイラたちは、暫くの間途方に暮れて顔を見合わせていた。

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