第12話

  大広間を出て、西の廻廊は六分穹窿ヴォールトを特徴とした堅牢なネルスト様式。ずっと進み、大広間のちょうど裏側まで回り込んでゆくとがらりと建築様式が変わる。往年のトラヴランド王が愛したと言われる優美なフォルタン様式の飾り窓、緻密な彫刻の施された柱、そして奥の扉を守るように、年月に曝されやや変色した「トラヴランド王の肩に触れるルース像」が沈黙している。雪花石膏アラバスターの窓を透かして落ちる光の波模様を踏みながら、キイラたちは像の背後へと回り、扉の前に立った。閂を外し扉を開くと、じめじめした暗い通路がある。その先は地下の入洞口へと通じている。先に進むよう神官に促され、キイラは振り向いた。

「僕らが行けるのはここまでだ」とドルムが言った。

「大丈夫だ。落ち着いて」

  ドルムの隣でユタも頷く。彼女の顔色はやはり芳しくないが、後押しするようにキイラの肩に触れた手のひらは力強く、労わりに満ちていた。レイガンの姿はなかった。

「こんなときくらい応援しに来てくれたっていいのに」

  思わず恨めしげな口調になる。ドルムが困ったような笑顔を浮かべた。

「なんでもないわ。ありがとう」



  二人の神官に伴われて通路をもう少し進むと、道が三つに分かれた。中央の道を行く。おそらく、他の二つの道が〈狩人〉の使う三つの入り口に通じているものと思われた。神官から〈鍵〉を手渡され、再び説明を受ける。やがて、合図とともにキイラは灯りひとつない洞窟の中に足を踏み入れた。

  試験開始だ。

  キイラは自分自身を落ち着かせるための深呼吸をした。たちまち一寸先も見えない暗闇に包まれたが、キイラは焦らず、目が闇に慣れるのを待った。それから、ぼそぼそと呪文を唱え、ランタンの中に人差し指の先ほどの大きさの炎を灯す。贅沢はできない。

  この迷宮は大きく三つの区画に分かれている。第一の階層に存在する二つの区画と、第二の階層に位置する一つの区画である。

 出口は第一階層の奥の区画に存在するが、ここに到達するためには必ず第二階層を経由しなくてはならない。まずは正しい階段を見つけ、下の階層へと下ることだ。左手首で、〈鍵〉がちゃりりと鳴る。〈鍵〉は輪に繋げられた薄い銅板である。ペンタクルのほかに呪詞の一節が刻まれており、これが試験を終了させるための呪文であると思われた。ペンタクルも呪詞も、掠れ、削られ、既に消えかけている。過去にこの試験に臨んだ多くの人間が、キイラと同じようにそこを指でなぞったのだ。

  洞窟の中は湿っぽく地面は滑りやすいため、キイラは転ばないように殊更に神経を使わなくてはならなかった。普段は意識もしない自分の足音がいやに反響し、気分を緊張させる。キイラはひとつ目の分岐を左へ折れ、更に次の分岐を右へと曲がった。曲がるときに、よく壁を触って確かめた。肌で壁の特徴を覚えていれば、迷ったときに助けになる可能性がある。カドは口を噤んでいた。キイラの頭の中の地図がこんがらがってしまったら、取り返しのつかないことになると分かっているのだ。

  ふと、キイラは見送りにも来なかったレイガンのことを思い出した。どうしてレイガンはわたしにこんなにも冷淡な態度を取るのだろう。わたしに選択肢を与えたのは、他ならぬ彼自身だというのに。兄弟子であるドルムに対する態度とは、どうにも違うように思われた。わたしが彼ほど優れていないからだろうか。彼を失望させた? 彼の期待をわたしは裏切っている? 上出来じゃないか、と微笑した師匠の顔を続けて思い出し、キイラは混乱した。いけない。今はこんなことを考えている場合ではない。

 もう〈狩人〉たちはこの迷宮の中に潜んでいるのだろうか?

  手のひらが汗ばむのを感じ、キイラは手をガウンへと擦りつけた。洞窟内では時間の経過が分かりにくい。もう一時間も経ったような気もするし、まだ十分程度しか経っていないような気もした。キイラは首を振り、目の前の通路に集中した。そんなことを考えたところで意味はない。〈狩人〉の妨害に遭うことなしに出口に辿り着くことは有り得ないし、彼らはキイラよりずっとこの迷宮のことを知っているのだから。

  黙々と進んでいくと、ひとつ目の罠に出くわした。あるはずの分岐にいつまで経っても行き当たらないのだ。キイラは立ち止まり、冷静に引き返した。キイラは、自分の歩数を数えながら歩いていた。ドルムが必ずそうするよう忠告したからだ。分岐に到達するたびに、一から数え直す。そうしておけば、こうして「あるはずの分岐がなかった」ときにもすぐに気づけるし、正しい位置に戻るのも容易だ。ランタンを壁に近づけ、手のひらでも確かめながら、あるはずの通路を探す。

  通路はすぐに見つかった。一見他の壁と同じように見えるが、明かりのちらつき方が明らかにおかしい。キイラは幻の壁をすり抜け、新しい道へと入った。

  罠の存在は既にこの先に〈狩人〉が潜んでいるということの証左だが、キイラは寧ろ安堵した。罠が仕掛けられているということは、少なくとも正しい道から外れていないということだ。忙しなく打っていた心臓が、穏やかなリズムを取り戻しはじめる。

「大丈夫」とキイラは呟いた。想像通りだ。

  ドルムの言っていた「くらやみの罠」に出くわしたときも、キイラはいたって平静だった。道を折れた瞬間、灯りを吹き消したかのように視界が闇に塗りつぶされた。カドが小さく悲鳴を上げたが、キイラは意に関せずランタンを持ち上げ、耳に近づけた。自分の炎に問題があったのか、それとも何者かの魔術によるものなのかをはっきり確かめたかったからだ。雪花石膏の薄板越しに、魔術の炎の燃えるちりちりという音が小さく伝わった。キイラはすぐに炎を消した。無駄だからだ。キイラは中指で自身の額に触れ、ついで手のひらを宙に翳すと、闇を払う呪文を唱えた。「くらやみの罠」の作る偽物の暗闇は本物の闇と質感が違う、とキイラは思う。本物の暗闇は、こうして生暖かく、ざらついている。キイラは再びランタンの中に火を灯した。キイラの記憶が正しければ、この先に階段がある。ただし……。キイラは立ち止まり、屈みこんで足元を広範に照らした。そこは明らかに岩石で出来た周囲の地面とは違った反射を返した。波紋ひとつなく、滑らかに光の欠片を反映するそれは水面である。地下水が満ちている。地図では、青金石ラピスラズリの粉末で塗りつぶされていた部分だ。

「本当に行くのか」

  カドが怖気づいたように言った。キイラは勇気を奮い立て、笑った。

「行かなきゃ先に進めないじゃない」

  キイラは水を防ぐ呪文のベールをランタンと〈鍵〉と全身とに纏い(勿論カドにもぴったりと掛けてやった)、爪先から水の中へと足を踏み入れた。肌と服とが水を弾く奇妙な感覚と圧迫感、地下水の痺れるような冷たさがキイラの勇気を挫きそうになった。キイラは大きく息を吸い込み、頭まで水の中に浸かった。途端に、魔術を髪に掛けるのを忘れていたことに気づいた。舌打ちしようにも水中である。キイラは手足をゆっくりと動かし、水中の通路を進んだ。水で満たされていることもさることながら、大人一人が腹這いになってやっと通れる程度の道幅なので、かなりの恐怖感がある。ランタンの灯りが、透明度の高い水の層の向こうでぼうと輝く。この通路はそう長くはない。キイラは右の分岐を選ぶと、一気に水面へと上昇した。慌てて息を吸い込み、大きく何度も咳き込む。重い体を陸に引っ張り上げるのはひどい苦労を要した。キイラは地面に座り込み、暫く休憩した。濡れそぼった髪をぎゅっと搾る。服や肌についた水滴は払えばぽろぽろと落ちたが、髪はそういうわけにいかない。

「最悪だわ」

  キイラは呻いた。

「乾燥術を試してみるべきだと思う?」

「この狭い空間で?」

  カドの声が恐怖におののいた。

「本物の最悪を知ることになるのではないのか」

「だよね」

  溜息を吐くと、キイラは髪からなるべく水気を取り、立ち上がった。

  しばらくは順調だった。罠は定期的に現れてはキイラを阻んだが、キイラはそのすべてにうまく対処した。何度か、キイラは自分以外の何者かの気配を——つまり〈狩人〉の気配を——嗅ぎ取った。そういうとき、キイラは魔術の炎をそっと消し、物音を立てぬように静かに脇道へと逸れた。

「ルートは一つじゃない」とドルムは言った。

「鉢合わせしないよう、ときには遠回りするのもひとつの方法だ。〈狩人〉と対面するのが、結果的には一番の遠回りだからね」

  〈狩人〉の目的はあくまで多種多様な罠と精神的負荷によってキイラを阻むことであって、キイラを傷つけることではない。できることなら直接の接触を避けたいのは〈狩人〉も同じなのだ。

  キイラを戸惑わせたのは、罠の存在ではなく、寧ろそれらが中途でぷっつりと途絶えたことだった。ある地点を限りに、一切の罠、魔術の気配が見られなくなったのだ。不自然だった。

  まず、キイラは自分自身が誤った順路を進んでいることを疑った。この辺りは、似たようなパターンの通路が多く、特に迷いやすい。キイラは一旦立ち止まり、頭の中でもう一度地図を広げた。

  精神の糸がほつれはじめる。一旦不安になりだすと、なにもかもに自信が持てなくなってくる。大丈夫、とキイラは自分を落ち着かせるためにもう一度呟いた。この迷宮は立体的な構造になっているので、位置によっては左手法が通用しないが、キイラの記憶が正しいならば、今のキイラは第一階層の奥の区画に位置している。たとえ今現在地が分からなくなっても、理論上はもう左手法が使えるはずだ。時間はかかるが、絶対に出口には到達できる。

  なんとか落ち着きを取り戻すと、キイラは目を瞑り、二回深呼吸をした。刹那、彼女の鼻は微かな異臭をとらえた。視界が一瞬霞み、反射的にキイラは一部の瘴気を阻む呪文の一節を唱えた。

「どうした?」

  カドが訝しげに声を上げる。

「変なにおいがする」

  キイラは鼻を押さえ、眉を顰めながら答えた。

「なにか……」

「おい、向こうにあるのはなんだ?」

  出し抜けに指環が叫んだ。キイラも暗闇の向こうに目を凝らした。なにかがうずくまっていた。岩石や、その他の無機的な塊には見えなかった。キイラは用心しながらじりじりとそれに近づき、息を飲んだ。神殿付きのガウンを纏った男が、膝を抱えるようにして壁に凭れかかり、力なく座り込んでいた。彼にはまったく意識がないように見えた。

「生きているのか?」

「分からない」

  キイラは小声で囁き、おそるおそる男を観察した。男は〈狩人〉の証である銀のブレスレットを嵌めていた。呼吸はしているようだったが、キイラが呼びかけ頰を軽く叩いても、まったく反応を示さない。

  罠だろうか?

  一瞬そう疑いかけ、すぐに打ち消した。罠にしては奇妙すぎる。男はぐっすりと眠っているだけのように見えた。キイラは先ほどの異臭のことを考え、ぎゅっとランタンを握りしめた。キイラは、後から男を見つけられるように、男の銀の腕環を壁へと擦りつけ、重なり合う三つの円を描いた。こうしておけば、人探しのまじないで追跡することができる。

  キイラは男を残し、その場を離れた。

「この洞窟は安全なのか?」

  カドが尋ねた。

「変なにおいがすると、きみは言ったな。つまり、そういったなんらかの有害な気体が発生していて……」

「だけど、妙だわ。異臭がするとは言ったけど、いっぺんに気を失うほどの濃さじゃあなかったもの。それに、〈狩人〉は上級魔術師よ。わたしが気づいてすぐ対処できたものを見過ごしたはずないわ」

「つまり?」

「なにか、彼の想像していなかったことが起きたのよ。突然大量の瘴気を吸わされたとか、そうでなければ匂いに関して極端に鈍感にさせられていたとか……」

「キイラ」

  カドが再び緊迫した声を上げた。今度は、キイラも同時にそれに気づいていた。再び〈狩人〉が倒れていた。今度の〈狩人〉はうつ伏せになっていたので、キイラは彼女がなにかの間違いで窒息してしまわないように、横向きにしてやった。ここが居心地のいい自室の寝台ででもあるかのように、こんこんと眠っている。同様に、甘いような、苦いような異臭がした。恐怖が足元からじわじわとせり上がってきた。

  罠はない。〈狩人〉は倒れている。道は合っているのだ。

「この試験はおかしいわ」

  キイラは記憶の中の地図を反芻しながら、足早に幾つもの分岐を過ぎていく。足元が滑って転びそうになる、慎重に進むべきだと脳裏でドルムが警鐘を鳴らしたが、急ぎ足にならずにはいられなかった。なにかが起きている。そして、キイラを追い、阻み、守ってくれる〈狩人〉の存在なしにここに留まりつづけるのは危険なことなのだ。

「キイラ、待て」とカドが叫んだ。

「周りに注意を払え」

「それどころじゃあ……」

「〈狩人〉は何人だ。いったい誰が二人もの上級魔術師に危害を加えられる」

  突然、道が開けた。天井にびっしりと鍾乳石の並んだその場所は「終の間」と呼ばれているのだと、地図を指差しながらドルムが言ったのを思い出した。

  ひどく見覚えのある長身の男が、そこで泰然とキイラを待ち構えていた。

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