第11話
「おい、キイラ」
指環がくぐもった声を上げた。
「もし将来的に心臓石を手に入れたら、指環にして嵌めるのか?」
出し抜けにそんなことを言うので、キイラは首を傾げた。
「それがどうしたのよ」
「もしかして、妬いてんのかい」
頬杖をついたドルムが揶揄した。
「そんなわけがあるものか」
カドがむっとしたように言った。
「心配なだけだ」
「心配?」
キイラが訊ね返したところでジストフィルドが戻ってきたので、会話はそこでおしまいになった。
大書庫、即ち図書室である。昼下がりのこの時間帯なので写本を吟味する魔術師たちの姿も疎らで、閑散としている。ジストフィルドは大きな地図を二枚携えていた。
「いいか、頭に叩き込むんだ」
そう言って大机に広げるので、キイラは身を乗り出して覗き込んだ。ドルムも傍から頭を出す。
「冗談でしょ?」
「この地底洞窟がどうして『迷宮』と呼ばれていると思っていたんだ?」
ジストフィルドが肩を竦めた。
「まずはこれを隅から隅まで覚えなくては話にならない」
「不可能だわ」
「不可能じゃない。俺もやったし、ドルムもやってのけた」
ドルムも頷いてみせた。
「まあ、見かけほどは困難じゃない。見かけほどはね……」
キイラはよく顔を近づけて地図を眺めてみた。悪意すら感じるほどの、おそろしく複雑な地図だった。レイガンの言った通り、まさに「蟻の巣」だ。
「どうして二枚あるの?」
「こちらは一階層下の地図だ。高低差があるから、一枚の地図では洞窟内の地理を正しく把握することが難しい。よって二枚持ってきた。頭の中で合成しろ」
「親切だな」とカドが無難なコメントをした。
「入口は四つだが、出口は一つ。お前が入るのはこの入口」
ジストフィルドの節くれだった指が、印のひとつを指し示した。
「お前が入ったちょうど二十分後に、他の三つの入口から三人の〈狩人〉が足を踏み入れる。彼らはみな上級魔術師だ。あの手この手を使ってお前の邪魔をする」
「あの手この手?」
「そうさな。あるはずの道をないかのように見せかけたり、障害物を置いたり、重要な分岐で左右を間違えたりするように幻惑するのが基本だ」
キイラは頭を抱えた。
「地図を持っていっちゃだめなの?」
「駄目に決まってるだろうが。お前が持っていっていいのは鍵だけだ」
「鍵っていうのもよく分からないんだけど……」
「出口は魔術で閉ざされてる。鍵がなくては開かないのさ。だから、〈狩人〉に鍵を奪われたら出口に辿り着けても不合格だ」
ドルムが口を挟んだ。
「出口から外に出て、はじめて合格だからね」
「とんでもないなあ」
キイラは思わず天を仰いだ。
「 続行不可能と判断した場合は、自分で入口まで戻れば途中棄権できる」
「自分で戻れるなら棄権なんかしないと思うんだけど……。なんだか、人死にが出そうな試験だわ」
そこでジストフィルドとドルムが顔を見合わせ、いちように意味ありげな表情を浮かべた。
「なに?」
「勿論出る」とジストフィルド。
「なにが」
ドルムが後を引き継いだ。
「人死にだよ。洞窟内は真っ暗だし……」
「待って」キイラは遮った。「ランタンは持っていっていいんだよね?」
「持って入っていいのは鍵だけだと言ったろ」
ジストフィルドが呆れたように言った。
「まあ、空のランタンくらいなら許可されるかもしれないな。だが、蝋燭はだめだ。自分の力で照らしながら進むんだ。自分の魔術で」
「ということは……」
キイラは青ざめた。
「魔術の灯りを保ちながら、三人の上級魔術師の仕掛けた罠や追跡を躱しつつ、迷宮の出口へと到達する……」
「そういうこと」とドルム。
「わたしの力ではとても最後までもたないわ! そんなに長い間、火を灯しておくだけで精一杯。せめて心臓石があれば……」
キイラは歯噛みしたが、悔しさ以上に強く押し寄せてきた恐怖を自覚した。ジストフィルドもドルムも、これは人が死ぬ試験だと言ったではないか。キイラは思わずジストフィルドに縋るような視線を向けた。
「力尽きて、洞窟の中でひとりぼっちで、永遠に誰も見つけてくれなかったらどうしよう?」
こんなところで死にたくはない。
「そんなに心配するな」
ジストフィルドが噴き出した。
「人死にがよく出たのは昔の話だよ。さっきは脅かしたのさ。洞窟内は確かに複雑だし危ないところもあるが、この八十年で整備されているから昔ほどは危険じゃない。それになにか不測の事態があったなら、鍵に刻まれた呪文を読み上げれば音と光でお前の位置がわかる。試験終了だ。〈狩人〉が助けにくる」
キイラはひとまず胸を撫で下ろした。もう一度二枚の地図を見比べ、それからジストフィルドの顔とドルムの顔とを順に見た。
「率直に言って、わたし、合格できると思う?」
「かなり厳しいな」
ジストフィルドが冷静に言った。
「その『お友だち』の力を多少借りたとしても」とジストフィルドはカドを指差し、「問題になるのは記憶力よりもむしろ持久力だ。〈狩人〉の罠はかなり巧妙だし、そのひとつひとつを真面目に解術していたら出口に辿り着く前にへばっちまうだろう。無視できるものと、そうでないものを選べるようにならなくては」
「〈狩人〉と直接対面して戦わなくちゃならないこともあるの?」
「そうなってしまったら、まずそこで合格の望みはない」
ジストフィルドが厳しい顔つきになった。
「相手は上級魔術師だ。そんなことは考えるな。最小限の力で、素早く出口に辿り着くんだ。それしかない。少なくともお前には」
キイラは頷いた。ドルムがキイラの顔を覗き込んだ。
「そんな絶望的な顔しないでさ。今回がだめでも、それでおしまいってわけじゃない」
「そうね」
キイラは弱々しく笑い返した。
「また来年挑戦すればいいんだから」
その瞬間、二人の魔術師が同時に困った顔になった。
「いや、そいつはちょっと無理だな」
「レイガンのやつから聞いてないのか?」
「なにを?」
ドルムがかぶりを振った。ジストフィルドが言いにくそうにした。
「一度不合格になったものに再び受験資格が与えられるのは、最短でも四年後だ。そう決まってる」
「まあ、まだひと月ある。僕もちょうど幻影魔術をやってるところだからさ、喜んで手伝うよ。死ぬ気でやればなんとかなるかもしれないよ」
「レイガンのことを一発殴りに行ってもいいと思う?」
「やめておけ」
カドが冷静に制止した。
「受験資格を失う可能性がある」
キイラは鼻息荒く、借りてきた地図を床に放り出した。
「傷むぞ」
「あの男、どうしてこんな大切なことを言わないのよ!」
「だからきみに早々試験を受けさせようとしたのか」
呑気に納得しているカドをよそに、烈火のごとく怒りながら地図を広げる。
「彼、わたしのことを憎んでるんだわ。絶対にそう。そうだとしか思えない!」
「では聞くが」
指環はのんびりと言った。
「もしそのことを聞かされていたら、今回は受けなかったのか?」
キイラははたと動きを止めた。地図が丸まって、かさりと転がった。暫くの間難しい顔をして考え込んだが、やがてキイラは不承不承頷いた。
「多分、受けることにしたと思うわ。最終的にはね。そうせずにはいられなかったと思う」
「ならば、却ってよかったではないか。余計な迷いに気をとられずに済んだということだ」
そう明るく言った指環を、キイラはまじまじと見下ろした。
「あんた、けっこう大した考え方するわね」
「どういう意味だ?」
「尊敬するわ、ってこと」
「尊敬されるのは悪くないな」
キイラは笑った。
「そんなことより、少しでも早く地図を覚えたほうがいいのではないだろうか」
「その通り」と返し、ふとキイラは呟いた。
「あんたは多分、悪魔じゃないわね」
「何故分かる?」
「わたしを助けてくれるし、なにより悪いやつじゃなさそうだもの」
「もし、気安い振りできみを破滅の道へと唆しているのだとしたら?」
平坦な声に、キイラはひたりと動きを止めた。指環の石は、今はひどく滑らかな猫の毛皮のような、或いは深い森の奥を覗き込んだような、暗闇の色だった。
「どうしてそうでないと言える?」
声色には艶がなかった。暗闇は月のない冬の夜のような冷ややかさをも秘めていたが、キイラはその暗がりの奥底に揺蕩うような不安を見た。
「悪魔が自分でそんなこと言うと思えないわ」
キイラは指環を摘みあげた。窓からの陽射しを受け、石は忽ち太陽の色に染まった。陽光、麦穂、冬の夜に戸の隙間から漏れ出す蝋燭明かり、そういった善なるものの色。
「わたしが二軍に入りたいのも、魔術師になってみんなの仇を取りたいのも、わたしが決めたことだわ。誰かに唆されたりなんかしない。わたしはわたしの意志で、わたしの願いのために、わたしの身体を使う」
「きみを手伝おう」
カドはしずかに言った。
「このおれが何者であれ」
そのとき、キイラはこれまでずっと胸を締めつけていた心細さがふと和らぐのを感じた。キイラは溜息を吐いた。
「なんとしても乗り越えないと」
キイラは拳を握りしめ、再び地図を床へと広げた。丸まらないように端を押さえつけながら、呟く。
「目にもの見せてやるわ」
林檎を見比べながら、キイラは自信なさげに小声で言った。
「右かな?」
途端にドルムが「やれやれ、これは前途多難だぞ」という顔をしたので、キイラは慌てて訂正した。
「やっぱり左かも」
「駄目だよキイラ、勘で当てようとしちゃ」
ドルムが左手をぐるりと回すと、右の林檎——どうやら此方が偽物であったらしい——は光の屈折の中にかき消えた。残照の射し込む大広間、早くも腹を空かせた魔術師たちがちらほらと席を埋めている。
「ただでさえ地下通路は暗いし、本番は緊張もしてる。いいかい、一度間違ったら元の順路に戻るのは至難のわざだ」
「そう言われても……」
両手を後ろに回したドルムが、再び二つの林檎を取り出した。
「よく観察するんだよ。なにか気づくことがあるはずだ」
キイラは二つの林檎に顔を近づけ、じっとそれらを見比べた。やはりまったく同じだ。そのように思われた。首を振り、「分からない」と伝えようとした瞬間、キイラの目はほんの僅かな違和感を捉えた。キイラがはっとした瞬間、それまで黙っていたカドが呟いた。
「左右対称だ……」
頷き、キイラも林檎を指差す。
「ここの小さな傷。少し凹んでいるところ、微かな青み……左右反対なだけで、まったく同じ。鏡に写したみたいに」
「そう、一つ目だ」
ドルムが嬉しそうににやりとした。
「基本的なめくらましの幻像は常に鏡像となる。そしてその場にあるものしか投影できない。無論これは『結界の中でないこと』が条件で、例外もあるのだけどね。〈狩人〉は事前に結界を用意することはできない決まりだし、リュト派“赤”レベルの基礎の術式のみの使用を義務付けられているから、基本的にはそれ以外を心配する必要はない。なにはともあれ、左右対称を見たら疑うこと」
「でも、それだけじゃどちらが偽物かは分からないじゃない」
「他に気づくことはないか?」
再び二つの林檎と睨めっこし、キイラはあっと叫んだ。今度はすぐに分かった。何故このことに気づかなかったのだろう!
「左の林檎、影のできかたが変だわ!」
「ご名答」
ドルムが両手を広げ、キイラを讃えた。
「やるじゃないか。それが二つ目だ。虚像には正しい影ができない。実像を忠実に真似るだけだ。それ自体が光を反射することもない」
「灯りを揺らしてみれば分かるわね」
「そういうこと」とドルムは微笑んだ。
微笑みかえし、キイラはぎこちなく言った。
「でも、ドルム。そんなに勉強しなくたっていいんじゃないかな」
「なぜ?」
「触ればそれで済むじゃない。幻には触れることができない。通路を投影されたとしても、実際に進めるほうが正解なんだから……」
「分かってないな」
ドルムは呆れたように首を振った。
「壁を投影することもできるんだ。じゃあこう考えてみてくれ。二つの分かれ道があったとする。正解である左の道の上に壁の像を投影したとしよう。反対に右の道の、更に右隣に道を投影したとする。この場合、目に見える二つの道のうち進めるのは間違いの通路のほうだ」
「あなたの言う通りだわ」とキイラは認めた。
「さっきも言った通り、試験中は普段の判断力や注意力を保つのが非常に難しいということを忘れないでくれ。暗がりの中を追ってくる〈狩人〉はきみが想像している以上に精神を衰弱させるぞ」
ドルムはキイラに人差し指を向けた。
「これは精神力を測る試験だ。それが魔術師としてもっとも大切なものだということさ」
二人のドルムが、一人ぶんの声でそう言った。突きつけられている指も二本。キイラは一瞬混乱したが、すぐに冷静さを取り戻して呟いた。
「右が本物ね」
二人のドルムが首を傾げ、一斉に後ろを振り向いた。忽ち左のドルムが搔き消える。
「ジスト!」
「よさそうじゃないか、ええ?」
左手を広げたかっこうのまま、ジストフィルドがにやにやしながら歩いてきた。
「地図はもうやっつけたのか?」
「七割ってとこかな」
「七割じゃあ、迷う確率は十割だな」
「あと十日でなんとかするわ」
キイラは渋い顔をし、傍らのランタンを指し示す。その中には、赤みの強い魔術の炎が蝋燭もなしに、小さく揺らめいている。
「こっちはかなり上達したと思わない?」
「青い炎なら言うことなしなんだけどな」
「二時間も燃やしてたら死んじゃうわ」
キイラは目を見開き、下唇を突き出した。その表情がどうにもおかしかったらしく、ドルムが噴き出す。どうやらこの兄弟子には笑い上戸の気があるらしいことが、最近分かったことだった。
「お前の師匠はどうしたよ?」
「私が試験を受けることを歓迎してない人に教えてなんて頼めると思う?」
「そりゃあ残念だな。あいつはこの試験の合格者の中では最速記録保持者だぞ」
キイラは顔を顰めた。
「いや、キイラの気持ちも分からないでもないよ」
ドルムが笑いの余韻の残る声で言った。
「僕のときのレイガンの教え方と言ったらひどかったよ。とにかくやり方がえげつないんだ。体で覚えさせる方針なんだろうけどさ。僕、彼の部屋を出た瞬間に『くらやみの罠』に引っかかって、自分の部屋に帰れずに廊下で夜を明かしたりしたぜ。性根ねじ曲がってるんだ」
「お前がまったく言うことを聞かなかったからだ」
予告なしに低い声が応じ、ドルムが口を手で覆った。
「噂をすれば影だ」
同じ長卓の、少し離れた椅子に腰掛けながらレイガンが片眉を上げた。食事をとりに来たらしい。
「本番だってそうだ。とにかく素早く出口に辿り着くことだけを考えろと私はあれだけ言ったのに、当てつけのように……」
「あれは事故だよ」
悪びれたようすもなく、ドルムが軽やかに言った。
「試験中に〈狩人〉を全員伸したなんてやつはお前だけだよ」
ジストフィルドが呆れたように首を振った。
「忘れられないな。ありゃあ、上級魔術師の面目丸つぶれだ」
「鼻が高いだろ?」
「私があのあとどれだけ嫌味を言われたか知らないからそんなことが言える」
そう苦々しく吐き捨てながら、レイガンの口元には笑いの気配がある。キイラはげんなりして両のこめかみを押さえた。
「どうしたのさ?」
「優秀な人たちには分からないわよ」
「キイラ、僕が試験を受けたのは十七のときだぜ」
机の上に置かれたままだった林檎を取り上げながら、ドルムが笑った。暫く手の中で弄んだあと、そのまま林檎へと齧りつく。
「弟子入りしてから三年も経たずに受けるなんて、多分前例がないと思うよ。きみは十分優秀だ」
キイラはちらりとレイガンのようすを窺った。聞こえていたはずだが、我関せずでパンを口に運んでいる。キイラは憂鬱な溜息を吐いた。
「ところで、ユタは?」とジストフィルドが唐突に尋ねた。いつもキイラと夕食をとっているユタの姿が見えないことに違和感を覚えたらしい。
「それが……」
キイラは頬杖をついた。
「遠征から帰ってきてから、気分が優れないみたいで」
「心配だな」と再びジストフィルド。キイラは頷いたが、レイガンはやはりやり取りに口を出さなかった。
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