第10話

  基礎を理解してようやく、レイガンが自身を「すぐれた教育者」と称した理由が分かりはじめた。彼は一から十までを教えるようなことはけっしてしなかった。注意深く調整された過不足ない「一」を教え、キイラが自分自身の力で残りの九を導き出すのを根気強く待った。そういった彼の教え方はお世辞にも懇切丁寧とは言えなかったものの、このレイガンの態度は寧ろキイラの自主的な成長を促した。壁にぶつかるとキイラは度々子どもじみた癇癪を起こしたが、彼はまるで取り合わなかった。何度でもやり直しをさせ、同じ言葉を繰り返した。その奥にひっそりと隠された不可視の韻律、古の叡智のささやきにキイラが気づくまで。

  そうしたレイガンの教えはキイラの中に着実に根を張り、借りものでない彼女自身の一部として、豊かに枝を伸ばした。燦々と降り注ぐ陽光を浴び、やがて瑞々しい実を結ぶ葡萄の木のように。キイラの土壌は恵まれていた。技術的な才覚に関してもそうだったが、彼女にはどこまでも食らいつこうという貪欲さと粘り強さがあり、それが魔術師としてなによりも重要な資質だった。埋み火のような焦りは常に胸の奥でちりちりと爆ぜていたが、それと同じくらいに学ぶ喜びが彼女を駆り立てた。キイラはとにかく知識に飢えていたし、レイガンには彼女を十分に満たす用意があった。躓き、転び、皮肉をぶつけ合うことはあっても、いつも最終的には双方が満足した。年の離れた友人としての相性はともかく、この二人の師弟としての相性はこれ以上望むべくもなかったと言える。


  レイガンが通算十二回目の禁煙に失敗して、キイラが三回レイガンの部屋のランプを駄目にし、そのとばっちりを受けたカドが床へと投げ出されるのにすっかり嫌気がさしたころになって、レイガンの予測から少し遅れてトウズ遠征の命が下されることとなった。勿論、キイラは同行を許されない。この頃には自分にまだそれだけの実力がないことが身に染みて分かっていたので、駄々を捏ねて困らせるようなことはしなかった。


「フタル人はどうやって魔術に歯向かっているの」

  トウズまでは最低でも三日の旅程を見なくてはならない。荷造りをするユタを寝台に腰かけたまま眺め、キイラは尋ねた。

「魔術師なら、一捻りじゃない……」

「魔術は使えなくても、彼らにはそれに対抗する方法がある。魔術に頼りきりの私たちイベル人とは違うのよ」

  ユタは物憂げにほほえんだ。

「葉長石を見たことがある?」

  キイラはかぶりを振った。

「ペタル石とも言うわ。水晶のように透き通る石。この石は魔術をすっかり吸収してしまう」

「吸収?」

「貴石と呼ばれるもののほとんどが、魔術による方向付けを受けつけないという話はしたかしら。物質的に安定しているからこそ、心臓石となりうるということは? ペタル石もそう。ただ、この石は魔術を積極的に吸い寄せる」

  理解しかねて首を傾げると、ユタが言い直した。

「魔術をほぼ無効化する力を持っているということ」

「そんなことってあるの」

  キイラはぎょっとして大声を上げた。そんな石の存在は見たことも聞いたこともない。ここのところ、魔術の上達とともに順調に自意識が肥大していたキイラにとっては衝撃的な話であった。そんなものをフタル人全員が身につけはじめたなら、この国の治安が根本から脅かされてしまうではないか。そう訴えると、ユタはまた少し笑った。

「だから、教会では悪魔の石とも呼ばれるわ。とても綺麗な石なのだけどね。ただ、無色透明のものしか使えず、また魔術を吸収する度に濁って効果が落ちるの。もろく壊れやすく希少で、イベルタではほとんど産出されない。フタル人全員が身につけるなんてことは不可能だわ」

  キイラは胸を撫で下ろした。

「でも、石だけじゃない。フタル人たちはすぐれた武器を持ちはじめている。私たちの知らないもの。焰硝を用いて鉛の弾を驚くべき速さで飛ばしたり、爆風で金属の破片を撒き散らすようなもの……。とても危険で、新しい武器よ」

「どうしてそんなことができるの。フタル人にそんな技術力や、資金があるとは思えないわ」

「そうね。だからどう考えても、彼らには石やそういった新しい兵器を他国からひっそりと輸入する繋がりがあるのよ。例えば、表立っては対立しないけれど魔術国家を警戒する隣国アルスルム……」

「アルスルムだって魔術国家じゃない!」

  そもそもイベルタ魔術はアルスル魔術を基盤に発達したものだ。アルスルムが古典的な儀式魔術に固執した一方で、イベルタではルーベリウム主義に則り、ルースの理を用いた解釈によって独自の体系を組み上げた。

「アルスルムは魔術を手放しつつある。首都ノーベルタールでは、火薬と鉄を用いたまったく新しい技術が使われつつあると聞くわ。表面上、アルスルムとイベルタは友好関係を結んでいるけれど、いつ戦争になってもおかしくないのよ」

  ユタはそう言い終えると、また荷造りに戻った。キイラは言うべき言葉を探したが、なかなか思いつかなかった。黙々と作業するユタを眺めるうち、キイラは息苦しいような、妙な気分に襲われた。

「大丈夫なの」

  キイラは囁くような小声で言った。

「大丈夫?」

  ユタが訊き返した。

「危ないんでしょう」

「戦いにいくのよ、キイラ」

  ユタが困ったように言った。

「私はフタル人を殺しに行く。殺される覚悟なしに、人を殺すことはできないわ。安全な戦いなんてない。あなたは、そういうことを考えずに神殿付きになろうと言っているの?」

  キイラは激しく首を振った。

「そんなはずないわ。わたしは、わたしの目的が果たせるならわたしなんかどうなったっていい。だけど……」

  ユタの穏やかな紅の瞳を見つめながら、これが明後日失われるかもしれないのだということを考えた。父や、母や、ユトーのようにあっけなく。どうしてこのことを考えずにいられたのだろう。

  ユタは、黙りこくったキイラを暫くの間見つめていた。そして、ごめんなさいと一言謝罪した。

「責めるつもりはなかったの。私も、緊張していたのかもしれないわね」

  ユタは溜息を吐いた。キイラはぼそりと呟いた。

「ユタはフタル人を憎んでいないと言ったわ」

「ええ。私はジストやあなたや、他の多くの魔術師たちのように、フタル人を殺すための理由を持っていない。戦うことが正しいとも思っていない」

「じゃあ、どうして戦うの」

「それが仕事だからよ」

  ユタはきっぱりと言った。

「私は魔術師でありたいだけ。魔術師としてこの国を支えたいだけ。神殿付きになることこそが、それを実現するために必要だと信じていた」

  そのときユタがほんの一瞬浮かべた笑顔は、迷子の子どものように頼りなく、ひどく淋しげに見えた。

「信じていたのよ」



  魔術師たちがトウズから帰ってくるまでの間、キイラは彼女が言っていたことについて繰り返し色々と考えた。カドはよい話し相手になったし、ドルムも今回の作戦には参加していなかったため、ひとりで退屈することはなかった。そのうえ、レイガンは自分がいなくても平気なようキイラのために十分なだけの課題を残していった。新しい術式に取り組みながら、しかしキイラは自身が集中力を欠いていることに気づいていた。

  八日が経った頃、彼らは傷一つなく無事に帰ってきた。しかし、みな一様に塵芥にまみれ、疲れ切っていた。ジストフィルドの険しい表情から、その結果が芳しくないことが知れた。魔術師と神兵らの一団が見たのは既に焼き払われ蹂躙された村の跡であり、彼らが手に掛けたのは付近に小さな集落を作っていた貧しいフタル人たちであった。彼らは抵抗者どもをなんらかの形で支援したに違いなく、まったくの空振りというわけではなかったが、魔術師たちの表情は冴えなかった。

「不気味だ」

 両手で顔を擦り、ジストフィルドが唸った。

「手当たり次第に村を焼いて回っているとしか思えないが、それにしてはあまりに手際がよすぎる。おそらく、個々の集団を上でまとめているやつがいるんだ。やつらは明らかに、なんらかの指示にしたがって動いてる。だが、狙いが分からん」

「批判が集まるわ」

 憔悴したようすのユタが首を振った。

「わたしたちは老人や子どもを殺しに行っているわけじゃないのよ。わたし、これ以上は……」

「もしもやつらに目的があるなら、一刻も早く突き止めなければ。後手に回り続けているわけにはいかない。しかし……」

 そこで二人はキイラに目を留めると声を潜め、遠征帰りの魔術師たちに混じり、その場を離れた。

 キイラは拳を握りしめた。そして、魔術師たちの一団に自分が肩を並べ、忌々しいフタル人を——記憶の中のフタル人はいつもおぞましく野蛮な顔立ちをしていた——を次々に駆除するさまを思い浮かべた。キイラは浅い呼吸をした。この感情が焦燥感なのか、期待感なのか、それともなにか別の感情であるのか、今の彼女にはよく分からなかった。




「『兎狩り』だ」

  何日かして、レイガンが遠征の疲れの残る声音でそう言った。背後に立つユタの表情はやはり優れなかった。

「ルールは簡単だ。持っているものを奪われないように出口に辿り着けばいい」

「『兎狩り』?」

「神殿の裏に、地下鍾乳洞に続く通路がある。蟻の巣のように張り巡らされた、謂わば天然の迷宮だ。この八十年間、ずっとそこが試験のために使われてきた」

  レイガンが人差し指をぐるぐると回した。

「きみは鍵を与えられ、洞窟へと足を踏み入れる。少し遅れて、三人の〈狩人〉が放たれる。出口は一つだ。きみは鍵を奪われないよう〈狩人〉の追跡を躱しながら、出口を目指す。無事辿り着けたら合格だ」

「合格って、なにが?」

  レイガンが目を丸くした。その目許には、常にはない薄っすらとした隈があった。レイガンは机に肘をついて両の指を組み合わせると、わざとらしく小首を傾げた。

「なんのためにきみは魔術を学んでいる? 当然、神殿付きの資格試験に合格、ということだ」

「えっ、だって……」

  キイラは目を剥いた。

「リュト派の“赤”も終わっていないのに? わたし、まだ…… 」

「勿論きみは断っていい」

  レイガンが苦い顔をした。そのとき、キイラは彼が明らかに苛立っていることにようやく気がついた。

「あまりに早すぎる。きみはまだひどく未熟だ。見習いとしては少しばかり出来がいいかもしれないが、魔術師としてはまったくもってお話にならない」

「じゃあ、どうして」

「受験資格の基準が大幅に引き下げられたんだ……」

  魔術師は忌々しげに吐き捨てた。

「抵抗者たちの騒擾を受けて、上は明らかに焦っている。二軍の失態は民衆の信仰を揺るがす。質の低い魔術兵が多く生まれ、そして死ぬだろう。そうだ、魔術“兵”だ。教会が生み出そうとしているのは。魔術師ではなく……。レベレスは何故沈黙している?」

「レイガン」

  ユタが鋭く諌めた。

「誰が聞いているか……」

「不敬罪か?」

  レイガンが芝居掛かった仕草で両手を広げた。

「神祇官は王ではない。神でもない。私が信奉するのはルースただひとりだ」

  ユタが首を振った。レイガンはキイラへと向き直った。

「どうする」

「どうするって……」

「受けるのか?」

  真っ直ぐな睫毛を透かし、鋭い灰色の双眸がキイラを射抜いた。キイラは一瞬たじろいだが、すぐにその瞳を見つめ返した。やがて、レイガンのほうが目を逸らした。

「受けるわ」

  キイラは答えた。

「それ以外の選択肢がない」

「そうだろうな」

  レイガンは聞く前から返事が分かっていたようにあっさりと頷くと、片手で口元を隠した。魔術師はそのまま瞼を下ろし、なにやら考えはじめたように見えた。

「一つお願いがあるんだけど……」

「言ってみたまえ」

「試験の前に……」

  机を一定のリズムで叩きはじめたレイガンの指先を眺めながら、キイラは控えめに言った。

「心臓石を」

  肉付きの薄い瞼の下から再び瞳が姿を現した。指が止まった。

「なんだと?」

「免許皆伝を以て、初めて試験を受けることが許される。わたしに試験を受ける権利があるなら、心臓石を手にする権利も同様にあるはずだわ。試験に臨むうえで心臓石があったほうが絶対に……」

「誰かがそう言ったのか?」

  レイガンがユタに視線を飛ばした。

「ユタ、きみか?」

「わたしがそう思ったの」

  キイラが遮った。

「心臓石のことはドルムから聞いたわ。あなたが快く思っていないことも……だけど」

  レイガンが冷ややかに言った。

「免許皆伝だと?」

「自惚れてるわけじゃない。制度上可能なはずだってこと」

  レイガンの反応は予想の範囲内だったので、キイラもあくまで冷静に応戦した。

「わたしは急いでるの。利用できるものはなんでも利用したい」

「駄目だ」

  返答はきっぱりしていた。

「心臓石の所持は許可できない」

「どうして? わたしが子どもだから?」

「そうだ」

  キイラはユタのほうを見た。ユタは黙って首を振った。その耳元で尖晶石スピネルの耳飾りが揺れている。

「ずるい」

  キイラは呟いた。

「わたしはわたしの意志でここにいるのに。こんなところで子ども扱いするなんて」

「それとこれとは別だ」

  レイガンは頑なだった。

「心臓石はまだ試用段階の域を出ない。術式も未だ不完全だ。適合しない貴石を使って破綻することもある」

「それもドルムから聞いたわ。でも、あなたは心臓石を持っている」

  キイラはレイガンのフィビュラを睨んだ。よく澄んだ美しい蒼玉サファイアが、硬質な光を放った。

「自分が使っているものをわたしには使わせないのはどういう了見なの」

「それは……」

「納得できる説明を貰うまで引き下がらないわ」

  レイガンが視線を落とし、机の木目をじっと見つめた。キイラは口を噤んだまま、微動だにせずに彼の返答を待った。彼は暫く悩んでいるようだったが、最終的には億劫げに溜息を吐くと、やおら両の手袋を外した。手袋の下から現れた彼の二つの手を見て、キイラはぎょっと目を瞠った。彼の肌は無惨に焼け爛れていた。健常な肌が見つけられないほどに、それは広範だった。こんなにも醜い傷を、キイラは初めて目にした。レイガンが黙ってガウンを脱ぎ、袖を捲りあげると、火傷は腕のほうまで続いているようだった。

「肩のほうまでこの調子だが、確認するかね?」

  レイガンがシャツの紐を解こうとしながら尋ねた。キイラは多少どぎまぎし、首を横に振った。

「それは……戦で?」

「ああ」

  投げやりな声色だった。

「同じ門下の魔術師の一人が大怪我を負った。彼女にとっては初陣だった。彼女はフタル人の子どもをひとり、こっそりと逃がそうとした。それが正しいことだったのか、そうでなかったのかという話はここでは論じない。ともかく、子どもはひどく怯えていたし、われわれを憎んでいた。彼が隠し持っていたナイフは彼女の脇腹を深く抉り、私は彼女が死んだと思った。私の魔術はすぐさま子どもを惨殺したが、それだけでは収まらなかった。心臓石がそれを許さなかった。この石はあまりに私と密に結びつきすぎていた」

  無意識なのか、レイガンが左手の中指を撫ぜた。不規則に隆起する醜い傷跡に混じって、キイラはそこに金属の光沢を見た。

「そのうえ私は若く、感情を適切に操る術を知らなかった。子どもを見るに堪えないのようにした私の殺意は、私の半径三ラートのものをひとしく焼き焦がし、私の手と腕と、肩とにひどい火傷を負わせたところで漸く止まった。フタル人のほか死人は出なかったが、私を含め、すぐそばにいた何人かはただでは済まなかった。当時その部隊で心臓石を携帯していたのは私だけだった。今よりもずっと術式が杜撰だったのは確かだ」

「そのフィビュラは……」

「私が身につけていたのは指環だ。ちょうどきみが今首からさげているような。指環はすっかり融けてしまって、もう指から外れなかった。石だけを取り外してフィビュラに仕立て直した」

  キイラはおずおずとレイガンの手に触った。レイガンは何も言わずに、ただキイラが触れるに任せた。キイラはぽつりと呟いた。

「痛そうだわ」

「いや……」

  レイガンが驚いたように眉を上げ、手を引っ込めた。それから、脱いだ手袋を引き寄せながら、言い忘れたようにこう付け加えた。

「寒い日には少し」

  彼は微かに口角を緩めたように見えた。

「それで、手袋を?」

「例え危険であろうと、そして私がどう考えようと、今やイベルタにとって心臓石は不可欠だ。私のこの傷は魔術師たちを必要以上に動揺させる」

  魔術師は再び手袋をきっちりとはめ直した。

「今のところ、これは人を傷つけるための道具だ。ただそれだけのためのものだ。魔術は人を殺めることができる、だがそのためにあるべきものじゃない。特に、きみのような子どもにとっては」

  キイラは言葉を探した。レイガンの言いたいことは分かった。それでも、と思った。それでも、。このまま引き下がるわけにはいかなかった。

  物言いたげなキイラの表情を見て、彼女がなにか言うよりも早く、レイガンは畳み掛けるようにこう付け加えた。

「どうあれ、きみもいずれは心臓石を持たなくてはならなくなるだろう。きみが二軍への入隊を目指す限りは。だが、それは今でなくていい」

  キイラは長いこと、レイガンの手元を見つめながら黙りこくっていた。そして、出し抜けに、指環へと問いかけた。

「カドはどう思う?」

「心臓石を持つことに関しては、おれもあまり賛成はできない」

  カドは控えめに答えた。そう、とキイラは頷いた。

「試験はひと月後」とレイガンが告げた。

「精々準備に励むといい」

  淡々と言うと、手をひらつかせ、退室を促す。そのレイガンの横顔を眺め、キイラはふと浮かび上がった疑問を口に出した。

「どうして試験を受けることを提案したの」

「どうして?」

  此方に視線を遣らないまま、レイガンが繰り返した。

「反対なんでしょう。もう受ける権利があるってこと自体、初めからわたしに教える必要はないじゃない」

  キイラは爪を弄った。

「聞いておきたいの。つまり、レイガンは、その、わたしなら受かるかもしれないと思ったから……」

「なにか勘違いをしているな」

  レイガンが此方を向いた。冷淡な表情だった。

「私は今回きみが落ちると確信している。だからこそ受けさせてもいいと思ったのさ」




  ユタのあとについてレイガンの部屋を出ると、もう窓の外には夕闇の気配が忍び寄りつつあった。不安と興奮と、それに冷や水を浴びせかけられたような気分が入り混じり、複雑な心境だった。キイラの気持ちを忖度してか、ユタは自室——今はユタとキイラの部屋だが——に帰り着くまで何も言わなかった。

  部屋に入るやいなや、キイラはガウンも脱がずに寝台に体を投げ出した。横になって色々と考えたかったのだ。ああ言われた以上、レイガンに格別の支援は期待していなかった。キイラは横たわりながら、ユタが部屋の隅でガウンを肩から滑り落とし、刺繍入りのシャツを脱ぐのを見た。それは就寝用の薄手のガウンに着替えるためだったが、キイラは普段とは違う視点でその様子を眺めていた。キイラは彼女の脇腹の、つややかな銅色をした美しい肌を見た。そこにははっきりと、ちょうどナイフで抉られたかのような傷痕と、それを覆うような古い火傷の痕があった。

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