第8話

 無意識なのか、レイガンの手が自身のガウンの隠しへと伸び、ふと気付いたように下ろされた。キイラが気づいただけで、彼はもうこの動作を三回繰り返している。時折手が震えているのは、離脱症状のためだろう。今回の禁煙はけっこう長続きしているらしい。

 調子がよくないのはむしろキイラのほうで、始まったばかりの魔術修行は大きく躓いていた。操水魔術の基本がどうしてもうまくいかないのだった。

「どうして」

 キイラは皿の中の水を恨めしげに見つめながら呟いた。呪文も手順も間違ってはいない。しかし、いくら見えざる手でそれを掻き集めようとしても、水面にはかすかなさざ波が立つばかりで、いっこうに埒があかない。これが習得できないことには次には進ませない、とレイガンがきっぱり宣言したので、キイラはもう五日もこうして皿と向かい合っている。カドも、うまくいかないキイラにはじめのうちはやいのやいのと口出しをしてきたが、昨日から修行の間じゅうは一言も喋らない。

 こんなところで躓いている場合じゃないのに。

 キイラは情けなさに顔を歪めた。その様子を横目で眺めていたレイガンが、何も言わずに二本の指を皿へと向けた。彼が指をついと上げると、水は皿からやすやすと浮き上がり、水晶玉のような美しい球体となった。水球はキイラの目と鼻の先で一周半ばかり回転すると、再びちゃぷんと音を立てて皿の中へと戻った。レイガンは再び机のほうを向いた。

「努力が足りないんじゃないのか」

「努力してるわ! 毎晩、部屋でもずっと練習しているのに……」

 レイガンの指が再び水晶煙草を探して懐へと伸ばされかけた。彼は気を紛らわすように首を振ると、その指で机をコツコツと叩いた。

「もう一度やってみたまえ」

 キイラは苛立ちをぐっとこらえて、再び目の前の皿に意識を集中しようとした。

 息を深く吸い、ぼそぼそと呪文を唱えはじめる。ロズルの奥義書の第一章第一節、ごく基礎的な呪文だ。レイガンはこの長ったらしい呪文を口に出すことなく、指先だけで水を操る。手が使えないときは呪文を発するが、それはこの『第一節』よりもずっと単純で短い。それは、彼が水というものを——その理を——よく理解しているからだ。

 いつまでもこれができなかったらどうしよう。キイラは心臓が握りつぶされるような焦燥感を覚えた。早く一人前にならなくてはならないのに。早く、早く魔術師団の一員になって、わたしからすべてを奪い去ったフタル人どもに思い知らせてやりたい——。

 キイラは呪文を唱えおえ、皿をじっと見た。水面に細かな震えが走ったが、結局水は浮き上がることはなかった。その気配すらなかった。キイラは再びがっくりと項垂れた。

「余計なことを考えているな。ええ?」

 レイガンがうんざりしたような溜め息を吐いた。

「きみ、自分が世界で一番不幸な子どもだと思っているんだろう。さしずめ悲劇の主人公か?」

「そんなこと」

「そういうのは、影響するんだ。きみは今皿の中の水のことだけ考えていればいい。自己憐憫の片手間に魔術を習得できるほど、きみは優秀ではない」

 屈辱のために自分の顔が赤くなるのが分かった。キイラはぱっと目を上げ、レイガンをきつく睨みつけた。魔術師は平然とその視線を受け止めた。キイラは声を震わせた。

「な、なんでそんな、そんなことを言うの! そんな言い方ってないわ!」

「興奮するな」

 レイガンは冷ややかに言った。そうして向けられた眼差しがあまりに鋭かったので、キイラは思わず押し黙った。

「言ったはずだ、最も重要なのは情緒を常に一定に保つことだ。それが分からないのであれば、どれだけ魔術の才があろうと、きみは魔術師には向かない。しばらく、一人でよく考えてみたまえ」

 それで、その日の修行は終わりだった。レイガンはキイラを労うこともせず無言で自分の研究の続きへと戻り、キイラは肩を落として部屋を出た。扉が閉まる前に、レイガンがまたぼんやりと懐に手を入れているのを、キイラは見た。

 部屋に戻ってから、キイラは自分の机の上の練習用の皿を見つめ、そしてその中の水をすっかり捨ててしまった。普段お喋りなカドは、今日はキイラを気遣ってか、やはりなにも言わなかった。

 次の日、キイラは修行を休んだ。その次の日も。




 三日目、重い足を引きずりながら上級魔術師の居住階まではやってきたものの、キイラはどうしてもレイガンの部屋に入る気が起きなかった。廊下にいても聞こえる雨音がさらにキイラの気分を憂鬱にさせた。結局あれからなにひとつ変わらなかったし、レイガンのうんざりしたような顔を見るのもいやだった。彼はできないことに関してキイラを責め立てるようなことはしなかったが、彼女の焦りや苛立ちにはけっして寄り添わなかった。こういうふうに、どうやっても上手くいかなくてべそをかいていたとき、必ずマーサは抱きしめて「あんたならできる」と言ってくれた。「あんたならできる、見ていてあげるから、もう一度やってごらん」と。レイガンにそうしてほしいわけではない。だけど……。

 そのとき、近くの扉がギシギシと音を立てながら開いた。そこから顔を出したのはジストフィルドだった。彼は両の口角を下げた一見不機嫌そうな表情でキイラを見つめると、片手で手招きした。

 ジストフィルドの部屋は、意外なことにすっきりと片付いていた。足の踏み場もないレイガンの部屋と比べると同じつくりに見えないほどだ。小さいテーブルに、カエデの木で出来た遊戯盤が置かれていた。対局中であるらしく、そこだけ駒が散らばっているので、目を惹いた。聞けば、レイガンとの長い勝負の最中であるらしい。

「どっちが勝ってるの?」

「それは勿論、俺さ」

 ジストフィルドが気怠げな口元を歪めてにんまりと笑った。

「三十七勝二十二敗四引き分けだ。今年はもう俺の勝ち越しだな」

 それから、ジストフィルドはキイラのために香水茅と花薄荷を煮だした茶を煎れてくれた。節くれだった手は存外器用に動くらしい(勿論、魔術師のほとんどは器用だ)。飲みつけない煎茶にはややつんとくる刺激があったが、爽やかなその香りはキイラの気分を少し明るくした。茶を飲みながら、二人は少しお喋りをした。トラヴィアの街に最近できた趣味の悪い彫像のこと。西塔の裏で誰かがこっそり餌をやっている犬のこと。この時期には暑苦しく見える神殿の紋章入りガウンは、実は冬用と夏用で素材が違って、そこそこ涼しいのだということ。

 なるほど、ジストフィルドという男はレイガンとは対照的だった。食堂の一件から気づいてはいたが、話してみれば見た目に反してなかなか気さくで、レイガンよりもずっと取っつきやすい。この二人、中身を交換したらもっとしっくり来るのではないだろうか——とキイラは考えた。勿論口に出しはしないが。

 話が途切れたところで、ジストフィルドはキイラをじろじろと眺め回し、尋ねた。

「修行の首尾はどうだよ」

「全然だめ」

 キイラは暗い顔をして答えた。

「操水の基礎のところで、もう七日も引っかかってるの。ねえジスト、なにかこつとかないの」

「ロズルの第一節か」

 ジストフィルドが顎をさすりながら、難しい顔をした。

「こつと言われても、なにせ俺が見習いだったのは随分昔のことだからな。キイラ、お前、どうやって呼吸してるのかって聞かれて答えられるか?」

 つまり、それだけ初歩的な段階で躓いているということだ。キイラは顔を顰め、自分の爪先に目を落とした。身体の中で熾火のように燻っていた不愉快な焦燥感が再び燃え上がってきて、腹の底のあたりを焼いた。ジストフィルドが慰めた。

「そう思い詰めるなよ。ちょっとした切っ掛けで上手くいくもんさ。こんなことがなんでできなかったんだろ、って具合にな」

 キイラは溜め息をつき、呟いた。

「私、ジストの弟子になりたかったかも。ジストは弟子を取らないの?」

「やめとけ、俺なんか」

「どうして?」

 キイラは首を傾げた。

「あなたのほうが優秀なんでしょう、本当は。レイガン自身がそう言っていたもの」

「あいつが?」

 ジストフィルドは目を丸くすると、へえ、ほお、そうか、などとにやつきながら口元を隠した。

「理論把握についてはレイガンよりずっと優れてるって。目立つのが嫌だから隠してるんだって。そうなんでしょう」

「確かに、俺は頭がいい」

 ジストフィルドは冗談のようにあっさりと認めた。

「でも、だからといってあいつが能無しだということにはならない。キイラ、あいつがいやなのか?」

「能無しだなんて思ってない。だけど……」

 キイラは口ごもった。

「合わないの。多分根本的に」

「根本的に?」

「なにもかもが……。人の気持ちなんか、分からないんだって感じがする。きっとそう。本当は、私が出来ようが出来まいがどうだっていいんだわ」

 喋り出したら止まらなくなった。茶器を握る両手に力が篭る。

「それに、あの喋り方! わたしを馬鹿にしてる。小さな子どもだと思ってるの。笑顔も貼りつけたみたいで偽物じみているし、内心何を考えているんだか分かったもんじゃない。それに、人と会っている間じゅう手袋を外さないのも気に食わないわ。失礼だもの」

 一頻り不満を言い終えると、ジストフィルドが困ったようなふうに微笑した。キイラは、その微笑に父を——シグを重ねた。シグは表情の乏しい男だったが、キイラが小さなわがままを言ったり意地を張り出したりすると、ときどきこういう笑みを浮かべたのだった。

「キイラ、お前の気持ちは分かるぞ。レイガンは確かにいやなやつだ。その意見に関しては俺も全面的に賛成だ。だがな、キイラ、『弟子が出来ようが出来まいがどうだっていい』なんていう師匠なんかいないぜ。あいつはあいつなりにお前に期待をかけているはずだ。じゃなけりゃ、弟子になんかしない。あいつはそういうやつだからな」

「だけど、レイガンはなんにも……」

「レイガンはいやなやつだが、俺に決定的に欠けているものを持ってる。そして、それは多分お前の師匠となるのに必要不可欠なものなのさ」

「なに、それ」

「口では説明できない」

 そう言って、ジストフィルドがまた笑みを浮かべた。そうして柔らかく口角を緩めると、普段見ようによっては意地悪げにも見えるジストフィルドの顔立ちは、驚くほど柔和に感じられるのだった。

「そんなことより、あいつの弱点を知ってるか」

「弱点?」

「あいつ、歌が壊滅的に下手なんだ。だから絶対に歌いたがらない。今度子守唄でも歌ってくれるよう頼んでみろ、嫌な顔をするぞ。はは」

 ジストフィルドが楽しそうに声を上げて笑うので、キイラもなんだかおかしくなって一緒になって笑ってしまった。随分と久し振りに笑ったような気がした。

 そのとき、誰かが部屋の扉を叩いた。ジストフィルドは笑うのをやめて片眉を上げ、立ち上がりもせずに「入れよ」と大声で言った。

 扉が静かに開き、青年が滑り込んできた。あのときジストフィルドと一緒にいた美しい青年だった。今は長い髪を後ろで結ぶことはせず、その絹糸のような毛先が肩のあたりを撫ぜるに任せている。青年はジストフィルドとキイラとを見比べ、大仰に驚いた顔をしてみせた。

「なんだい、ジスト、こんないたいけな少女を連れ込んで……」

「馬鹿」

 ジストフィルドがつまらなそうに一刀両断した。青年は気にした風もなく笑うと、首を傾げた。

「言ってた本だけど……」

「そこの棚から持ってけよ。普通、そういうのは自分の師匠から借りるもんじゃないのか?」

「いいじゃないか、どうせ混じってんだから。レイガンのところにあんたの名前の入った写本があったぜ」

「俺はあいつから借りた本は全部返してる! あいつが返しやがらないんだ」

「言っとくよ」

 そう肩を竦めて、青年は棚の本を物色しはじめた。青年は「大人」というには若すぎるような気もするが、キイラよりは幾分歳上に見える。その整った横顔を見つめているうちに、ふとキイラは思い至った。

「もしかして、あなたがドルム? レイガンの弟子の……」

弟子だ。もう独立してる」

 ドルムは目的の写本を引っ張り出すと、顔をキイラのほうに向け、そう言った。耳飾りのオリーブ石が揺れ、室内にもかかわらず陽光に似た煌めきを放つ。

「この間挨拶をしようとしたのに、きみ、ひっぱたかれた猫みたいな勢いで走っていっちまったからさ」

 この間の自分の振る舞いを思い出し、キイラは顔を赤らめた。

「『元』をそう強調してやるなよ。独立したって師弟関係が消えてなくなるわけじゃない」

 ジストフィルドが笑って窘めたが、ドルムは瞼を半分下ろし、嫌そうな表情を作った。

「僕があの人と馬が合わないのは知ってるだろ。見習い時代は苦労した……」

「おいおい、あいつも人望がないな。お前が合わないんじゃあ、あいつと合うやつなんかいないんじゃないか? 似た者同士だろうに」

「僕とレイガンが? ジスト、あんたには負けるよ」

「はたからはなかなか楽しげに見えたけどな。確か焼灼魔術の段になって、お前、とうとう癇癪を起こしてあいつのガウンを……」

 そのまま昔話に花が咲きそうだったので、キイラは大きく咳払いをした。ジストフィルドがぴたりと口を閉じ、きまり悪げにキイラを見た。そして、キイラと同じように一度咳払いをすると、ドルムに予想外の一言を投げかけた。

「そうだ、ドルム、兄弟子のよしみでキイラの相談に乗ってやれ」

「相談?」

「レイガンにいじめられてるんだとさ」

「それはいけないな」

 ドルムが気取ったふうに微笑みかけた。キイラは気後れしてジストフィルドの袖を引いた。そんなことは頼んでいない。

「キイラ、ドルムのほうがお前に歳が近い。俺よりもずっとうまく相談に乗ってやれるだろう。ドルムも、年少の者に教えるのは自分自身のためになるはずだ」

 ドルムが頷いたので、キイラも渋々頷いた。なんだか体良く放り出されたような気がする。

「色々な魔術師とかかわったほうがいい。それが上達のための一番の近道だ。それともう一つ、いいことを教えてやる」

 ジストフィルドは下手くそに片目を瞑ってみせた。

「今日、お前の様子を見るよう俺に頼んできたのも、ドルムを紹介するよう言ってきたのもレイガンだ」

 あいつ素直じゃないだろ、と言いながらジストフィルドはふたりを部屋から押し出し、扉は唖然としているキイラの目の前で閉まった。ドルムは呆れ顔で扉を見て、それからキイラを見た。

「ああいう人たちなんだ。まあ、取り敢えず、外でも散歩するかい?」

 いつの間にか雨音は止み、廊下の窓からは柔らかな陽射しが射し込んでいた。

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