第2話

 それから十日が経って、春の祝祭はやってきた。

 あれからマーサもシグも〈獅子の爪〉について語らなかったので、春の祝祭への期待感も手伝って、この頃にはキイラはすっかりその不穏な出来事を忘れていた。ケーキやリツは三日も前にマーサと一緒に作り終えていたのだが、キイラは昨晩から何度も台所へ行って、その存在を確認せずにはいられなかった。

「落ち着きがない子だね」

 起きるや否や浮き浮きと台所に顔を出したキイラに、マーサは顔を顰めた。

「心配しなくともお菓子は逃げやしないよ」

「朝ご飯を作るのを手伝いに来ただけだよ」

 かめの水で手を洗いながら、キイラは弁解した。

「いつも朝は呼ばれないと来ないだろうに」

 マーサはぴしゃりと言ってから、表情を緩めた。彼女は厳しい母親ではあったが、子どもの心を理解しない大人ではなかった。これはキイラのあずかり知らぬことだが――この娯楽の少ないローデンロットでの春の祝祭に、キイラがはしゃぐ気持ちが彼女にはよく分かった。そこで、彼女はこう言った。

「今日はモルフを連れ出さなくてもいいから、晩までユトーとでも遊んでおいで。そんな浮ついてたんじゃ、心配だからね」

「いいの?」

「取り敢えず、小屋から卵を持ってきとくれよ。三つだよ」

 キイラは頷いて、外に駆け出して行った。



 穀物をモルフの乳で煮た簡単な朝食のあとで、シグはキイラを呼び寄せた。キイラはマーサに言われた通りユトーの家に行こうとしていたところだったが、大人しくシグに従った。シグがこうして話をしたがるのは珍しいことだったからだ。

「本当は十四の誕生日に渡すつもりだったんだが」

 シグは重々しく始めた。

「少しばかり早めてもいいかと思ってな。つまり、おまえにこれを渡すのを――」

「何?」

 父親と反対にあまり気の長いほうではないキイラはせっついた。シグが手に持っている小箱が気になっていた。手のひらにおさまる程のそれは非常に年季の入った木箱で、蓋に複雑な彫り込みが施してあった。十三年と少しの間この家で暮らしてきて、キイラがその小箱を目にしたのは初めてだった。

「それ、何? 何をわたしに渡すの?」

 シグは無言で木箱の蓋を開けた。キイラは息を飲んだ。木箱の中には上等な濃紺の天鵞絨で出来た台座があり、その上にうつくしい指環が一つおさまっていた。頬を紅潮させ、一瞬躊躇ってから、キイラはそっと口を開いた。

「もしかして……ひょっとすると、わたし、本当は高貴な血筋だったりとか――」

「馬鹿なことを言うんでないよ」

 台所にいたマーサから呆れたような声が飛んできた。

「そんなわけがないだろう」

 キイラはシグを見て、「触ってもいい?」と尋ねた。シグが頷いたので、キイラはおそるおそるその指環を摘まみ上げた。

 銀の指環だ。表面には細かい傷がついて黒ずみ、かなりの年代物に見えるが、それでもそのもともとのうつくしさは損なわれていない。やや幅広で、ぐるりとレース編みのような──キイラは都へと運ばれていく途中の異国のレース編みを一度だけ目にしたことがある——繊細な透かし彫りが施されている。中心の台座に大きなうつくしい石がひとつ嵌っており、この石がまた不思議だった。一見、トパズのような澄んだ蜂蜜色に見えるのだが、ほんの僅か角度を変えると、黒瑪瑙のように真っ黒にも見えるのだ。

「ねえ、なんなの? これ」

 キイラは囁いた。

「不思議な色してる」

「分からない」

 シグは首を振った。

「分からない?」

「ずっと守られてきたものだ。代々……」

 キイラは指環を指に通してみた。指環は痩せぎすのキイラのどの指にも大きすぎ、辛うじて親指に嵌った。

「大きすぎるな。箱に仕舞っておいたほうがよさそうだ」

 シグの言葉に、キイラは勢いよくかぶりを振った。この謎めいた魅力を放つ素晴らしい指環を身につけていたかった。

「じゃあ鎖を通して、首にでも掛けておくんだね。失くすといけない」

 マーサが寄ってきて、キイラの肩越しに、木箱の中から細い鎖を摘まみ出した。鎖の方も銀だったが、こちらはすっかり錆びて、千切れてしまっていた。

「おや」

「革紐を通すわ」

 キイラは急いで言った。

「別に鎖じゃなきゃいけないってわけじゃないでしょ」

「まあそうだがね」

 マーサが難しげに頷いた。

「あんまり見せびらかすもんじゃあないよ」

「わたし、見せびらかしたりなんかしない」

 キイラは指環を親指から引き抜き、朝の陽光に透かした。石は、今は黄色から橙へと透き通り、キイラの顔に繊細な煌めきを散らした。キイラは溜息を吐き、指環を傾けた。魔法のように漆黒へと変化した石は、今度は陽光を弾きとろりとした光沢を放った。

「これ、どれくらい古いものなの」

「さあ」

 シグは呟いた。

「実際、それについては全然知らない。代々娘が生まれると受け継がれてきたものだが、父さんには女きょうだいがいなかった。まあ、相当古いもんだってことは確かだ」

 キイラは、自分に姉がいなかったことにひっそりと感謝した。

「しかし、あんた、どうして早めに渡そうなんて気になったんだい」

 マーサが怪訝そうに問いかけた。

「十四の誕生日でよかったじゃないか」

 シグが答えようとするのに被せるようにして、キイラは笑顔で言った。

「わたし、今日でよかった。春の祝祭が想像していたよりずっと素敵な一日になったんだから」

 キイラは指環をしっかりと握り締めた。部屋に、ちょうどいい長さの革紐があったような気がする。駆け出そうとしたキイラを、マーサが溜息交じりに呼び止めた。マーサは寝室へ引っ込むと、何かを握り締めて戻ってきた。手を開くと、そこにはまだ傷んでいない細い銀の鎖があった。キイラは目を瞠ってそれを見た。

「高価なものだけどね」とマーサが言った。

「お母さんはもう使うこともないから、あんたが使えばいいよ。革紐よりも、その指環に合うだろう」

 マーサは指環に鎖を通し、キイラの首にかけてくれた。長さはぴったりだった。キイラはいたく感激し、マーサに抱きついた。

「お母さん、ありがとう」

「誕生日の贈り物はなしだよ」

 マーサは呆れたように言った。

「まあ、でも、年頃の女の子はこういうものに憧れるもんだからね」

 キイラはもう一度お礼を言い、今度こそユトーの家に向かうことにした。扉を閉める直前、シグがマーサになにか話しかけていたようだったが、キイラはまったく気にならなかった。




 キイラの許婚――ユトーは村の中を流れる小川の向こう、伝統的な蜂蜜色の石造りに藁葺き屋根の家に住んでいた。ユトーがアドナードの学舎でも抜きん出て賢い少年であることは誰もが認めるところだが、その才が彼の未来に活かされることはきっとない。ユトーの家は代々モルフの毛を染め、織物に加工して生計を立てている。実用主義のケイデン織よりも華やかなローデン織は、都の方では人気がある代物らしい。もう四年もすれば家業を継ぐであろうユトーの爪は、いつも染め汁で黒っぽく汚れている。美しいローデン織の外套や敷物を買い求める都の人たちは、彼の汚れた指先がそれを生み出しているのだと知っているのだろうか。キイラはときどきそんなことを思う。


「それで、僕にそれを見せびらかしにきたってわけかい」

「『見せびらかしにきた』なんて」

 キイラは憤慨してみせた。

「『見せてあげてる』んでしょ」

 ユトーは何も言わず、栗色の頭を揺らして、肩を竦めた。同い年のこの少年は、時折こういったこまっしゃくれた仕草をする。

「それ、随分きみには大きいように見えるけど」

「じきにぴったりになるわ。ねえ、そんなことよりこの石、いったい何の宝石なんだろう。不思議だと思わない」

 そこで漸く、ユトーは寄りかかっていた柵から背を浮かせた。少し真面目な顔をしてキイラの手元を覗き込む。背ばかりがひょろひょろと伸びたような体型のユトーは、石をよく見るために少し背中を曲げなくてはならなかった。ユトーの鼻先がすぐそばまで近づき、キイラはほんの僅か仰け反った。

「分からない……」

 暫く黙って指環を眺めたあとで、ユトーは呟いた。

「僕もそんな石は見たことがない。角度によって色が変わる石は珍しくはないけれど……」

 先程までと同じ興味なさげな表情で、しかし声色には微かに面白そうな調子が混じっているのがキイラにはわかった。

「綺麗なのに」とキイラは言った。

「名前が分からないんじゃ、困ったな」

「何が困るっていうのさ」

「例えば、この指環を見た誰かに『なかなか素敵な石だけど、それはどういう石なの?』なんて聞かれたときに答えられないんじゃ、恥ずかしいとは思わない?」

 ユトーがはっきりと呆れ顔になった。

「下らないことを気にするよな、きみ」

「下らなくない。それに、心の中で呼ぶ名前がないと」

「心の……なんだって?」

「大切なものには名前が無くてはならないし、持ち主はその名前をときどき心の中で呼んでみるものなのよ」

 キイラがきっぱりと言うと、ユトーは目を細め、口を尖らせた。これは「理解不能」という顔だ。そういう表情をすると、彼は年相応に見える。最近頓に顔立ちが大人びてきたユトーの子供っぽい表情を久々に見て、キイラはなんだかほっとした。キイラが口を開きかけると同時に、ユトーが突然声を発した。

「カド」

 キイラは顔を顰めた。

「カド?」

「そう呼んだらいい。特に綺麗な宝石を指す古いアルスルムの言葉で、『光り輝くもの』という意味だ。今はもう使われないけれど」

「そんなこと、学校で習った?」

「ひいじいさんが生きてた頃、少し古い言葉を教えてもらってた」

 そう言うと、ユトーはほんの少し顔を綻ばせた。それから一人でその場を離れ、歩き始めた。

「ユトー」

「綺麗な石だ。きみの瞳の色に似ている。失くさないように気をつけろよ」

 キイラは一瞬言葉に詰まって、それから急いで返事をした。

「失くしたりしないわ。どこへ行くの」

「祝祭の準備だよ。僕も少しは家の中のことを手伝わないと」

「わたしも手伝おうか?」

 ユトーが振り向いた。それから少しの間、彼の思慮深げな鳶色の瞳がキイラを見つめた。何かを言いあぐねるように僅か沈黙したあとで、ユトーは口を開いた。

「いや、いいよ。だけど僕たち、もう少しちゃんと喋ったほうがいいんだろうな。僕は明日十四になる」

「わたしだってじきになるわ」

「そうだな。キイラ、また明日ゆっくり話そう」

 ユトーの痩せた、しかしキイラよりも大きな背中を見送り、キイラは小さく息を吐いた。自分がユトーと結婚する未来のことを考えたが、あまりうまくは想像できなかった。キイラは自分の手を見つめた。きっと、この手にも染料が染み込んで、洗ってもとれなくなるのだ。ユトーと同じように。それは、昔考えてみたときほどには悪くないことのように思えた。ただ、そういう手にはこの指環は似合わないだろうな、ともキイラは考えた。


 干しイチジクや干し葡萄、香草に木の実を練り込んだケーキにこんがり炙ったモルフ肉、野菜の入ったいつものスープ、葉の形をした薄焼きの甘いリツ、潰したサロ芋と小麦を練って焼いたもちもちのユットコ、たっぷりの蜂蜜酒など。それらが並べられたあとで、シグの手によって大きな蝋燭に火が灯された。これは、一昨年マーサが蜜蝋に香草の類を練りこんで作ったもので、普段使っている獣脂蝋燭よりもゆっくりと燃える。見た目もよく、ほんのり甘いようないい香りがするので、この蝋燭に火を点けるのも春の祝祭の楽しみの一つだった。

 シグがぼそぼそと祈りの文句を口にするのに合わせて、マーサとキイラも同じ言葉を唱和する。誰だって知っている長くもないルースへの祈りの句は、物心ついたときには既に覚えてしまっていた。

「よく出来てる」

 キイラが焼いたリツを口に運びながら、マーサがほほえんだ。

「リツのほうは、今年はキイラに任せたんだよ」

 そうか、とシグは頷き、半分に割ったリツを蜂蜜酒に浸した。キイラは肉に齧りつきながら、それほど喜んでいない風を装った。

「生地を混ぜて、伸ばして、切って、焼くだけだもの。誰にだって出来るわ」

「キイラのお蔭で手間がかからなくなったから、来年からは、味を変えたのをもう一種類作ろうか」

「いいね」

 キイラは拳を握りしめて、やる気を示してみせた。いずれは、ケーキのほうも一人で作れるようになるだろう。少なくとも、この家を出て、ユトーの家に住むようになるまでには。川を挟んでいるだけの、あんなに近くにユトーの家はあるのに、自分がいつかそこに住むのだ、と思うとなんだか変な感じがした。今日は妙にユトーのことばかり考えてしまう。キイラはぼんやりと胸元の指環を探った。上衣の下のそれを引っ張りだして、ちらつく蝋燭の光にかざしてみる。今は微かに暖かみを帯び、赤琥珀に似た色をした石は、穏やかに光を放っている。ユトーはこの石がキイラの瞳に似ていると言った。キイラの瞳の色に似ていて、綺麗だと。キイラは溜息を吐くと、指環を少し傾け、真っ黒な天鵞絨を広げたようにしっとりした黒瑪瑙の色合いを楽しんだ。

「キイラ」

 マーサが窘めるように言った。

「食事中だろう」

「ごめん」

 キイラは軽く肩を竦め、指環を仕舞った。

「嬉しくって」

 マーサは「仕方のない子だね」という顔をして、ちょっとだけ笑った。キイラは空になっていたシグのグラスに新しい蜂蜜酒を注ぎ、自分はケーキをつっつきはじめた。ケーキは甘くどっしりとして、キイラの舌と胃袋を満足させた。蝋燭の炎が妙にちらついて、キイラは目を瞑った。そして、ユトーは明日何を話すつもりなのだろう、と考えた。

 勿論このときには、ユトーと話す明日が永遠に来ないとは夢にも思っていなかったのだ。

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