第3話
夜明け前だった。
異様な予感によって突然に目を覚ましたあと、そのことに気付くまでに時間がかかった。窓の外が昼間のように明るかったからだ。マーサがキイラの寝室に駆け込んできたのと、外から男たちの怒号が聞こえてきたのは殆ど同時だった。
状況はまったく把握できなかったが、何かとんでもないことが起こったのだということは分かった。マーサの顔が怖れに強張っていた。
「早く来るんだよ」
マーサがひどく切迫した声で言った。大声を出したいのに、無理やり押し殺したような声音だった。
「なに、何が起こったの……」
「いいから来るんだ」
「マーサ!」
居間の方からシグの緊張感に満ちた声がした。
「分かってる!」
マーサが怒鳴り返した。
「着替えなくていい。何も持たずに、早く」
キイラはこれ程までに取り乱した両親の姿を見たことがなかった。じきに、向こうから何かを扉に叩きつけるような激しい音が聞こえはじめた。
「あんた……!」
キイラの腕を乱暴に掴み部屋を出たマーサが、思わずというように叫んだ。マーサの背中越しにシグの姿がちらりと見えた。扉が開かないように、重い家具で押さえつけているようだった。
「床下からだ、キイラと一緒に、早く!」
「あんたは!」
シグが返事をせず、重い鉈を掴んだ。扉はそれほどもちそうには見えなかった。
「おとうさん」
キイラは叫んだ。何か取り返しのつかないことが起きようとしているような予感があった。顔を真っ青にしたマーサが再びキイラの腕をもげそうなほどの力で引っ張り、台所へと向かった。痛みと恐怖で口をきけずにいるうちに、マーサは小麦を挽くための石臼を一気に退かしてしまった。この石臼は信じられないほどに重くて、シグにしか動かせないはずだったのに。マーサが床板を何枚か外すと、ぽっかりと真っ暗な床下が覗いた。マーサは小柄なキイラの襟首を掴み、そこに押し込もうとした。
「待って!」
キイラはここで漸く恐怖に縮こまった舌を動かすことを思い出した。居間からは怒声と恐ろしい破壊音が鳴り響いている。内臓が冷たくなって、ねじ切れそうな感覚があった。鼓動がばくばくと烈しく鳴り響いているのに、それが霞の向こうから聞こえてくるような、奇妙な感覚。
「ここに入ってどうするの。ここを出てどうするの。おとうさんは」
「いいから早く入るんだよ」
「おかあさんは!」
マーサは身体を強張らせ、ふっと息を吐いた。
「臼を元に戻さないと」
キイラは肺が押し潰されるような急激な息苦しさを味わった。足を突っ込んだ床下は、恐ろしくひんやりして湿っていた。向こうから一際大きな音がした。
「時間がない」
「いやだ、おかあさん、一緒に来てよ」
その一瞬、マーサは相反する感情によって二つに引き裂かれてしまいそうに見えた。マーサの瞳が刹那揺らめき、シグのいる居間のほうを見た。そのとき、窓が割れる音がした。怒号。シグのものではない、男の悲鳴が聞こえた。
マーサは我に返ったようだった。
「いいかい、ここから外に出て、裏の森に入るんだ」
「いやだ、おかあさん!」
「ケイデンの伯母さんのところに行くんだよ」
「行けない、一人でなんて行けない……」
「大丈夫だよ、一人でも行ける」
「いやだ!」
「キイラ!」
マーサが必死の形相で怒鳴りつけた。
「最後くらい聞き分けとくれ!」
呼吸が止まったような気がした。怒りに満ちた男たちのがなりが聞こえた。何かが砕ける音。どかどかと床を踏む音。マーサが恐ろしい膂力でキイラを床下へ押し込んだ。床板を乗せる一瞬、此方を見つめたマーサの顔がひどく歪んでいたのをキイラは見た。その瞬間は永遠だった。窓から漏れる炎の明かりが反射して、はしばみ色の瞳が綺麗だった。マーサの唇が震え、何か言葉を象ろうとしたのが分かった。
次の瞬間、視野の全てが真っ暗になった。真上から何かを引きずる重たい音がした。石臼を動かす音だとすぐに気付いた。キイラは下から床をどんどんと叩いたが、びくともしなかった。石臼は重いのだ。すごく。上からなにか恐ろしく大きな物音がした。キイラは自分のこめかみに抉れんばかりに爪を立てた。全身ががくがくと震えていた。震えながら、キイラは這いずりだした。真っ暗な床下を。どちらに行けば裏へ出られるかは分かっていた。表のほうからは、炎の明かりが見えたので。外から男の長い絶叫と、女の悲鳴が響いた。どこかで子どもが泣き喚く声。探せ、探せ、誰かが喚く。
何かすばしこく小さな生物が、キイラとともに暗闇の中で蠢いていた。彼らもここから逃げ出そうとしている。自分の呼吸の音さえ聞こえなかった。最後の音がキイラの両耳を抉り、鼓膜を突き破り、完全に塞いでしまったように。キイラはただ赤子のように這った。膝と手のひらを擦りむいた。そして、マーサが言った通り、裏の森へと見つからないように逃げ込んだ。
木立に分け入って、一際大きなブナの陰に隠れてから、キイラは自分の愛した家と村とを振り向いた。
全ては炎に包まれていた。川の対岸まで。ユトーの家まで。
見開いた目の中で、キイラの瞳が忙しなく左右に動いた。膝が酷く震え、立っていられなくなった。男たちが松明を振り回している。みな、腕に布を巻いていた。まだ火のついていない一つの家から、親子が飛び出してくるのが見えた。男の一人がそれに気づき、意味のない叫び声を上げながら斧を振り下ろした。あれはシトラとレーファだ。二人が血飛沫を上げながら倒れたとき、キイラはそれに気付いた。ブナの幹にしがみつきながら、キイラは一歩も動くことができなかった。ケイデンに行けというマーサの言葉は覚えていた。それでも立ち上がれなかった。身体の筋肉の全てが運動を拒否した。ずっと見開いたままの目は乾きと痛みを訴えたが、目を閉じることもできなかった。
真昼のように明るく照らし出された村の通りに、影のような男がひとり佇んでいた。彼は血飛沫と炎、悲鳴と怒号の狭間に危なげなく立ち、黄金の瞳で超然とすべてを見渡していた。
暗闇にひどく馴染みながら、それでいてなにもかもを弾き散らすような黄金の瞳。猛禽類にも似たその瞳は、刹那、キイラの潜む木立を滑った。視線が交錯した一瞬があった。近寄ってきた若者に何事か囁かれ、男はすぐに目を逸らしたが、キイラの目は確かにそれを捉えていた。黄金の残像として男の姿はキイラの脳裏に焼きついた。幸か不幸か、このとき茫然自失状態にあった彼女がそのことを認識することはなかった。
土に汚れた寝衣の下で、シグの指環が声を発した。
「おい、おまえ、大丈夫か」
キイラは返事をしなかった。彫像のように固まっていた。心臓は打っていたが、それだけだった。ただ、一つの考えだけが延々とキイラの頭の中で繰り返され続けた。みんなの暮らすポウスリー村の、シグとマーサのいる家の中の、暖かい布団の中で、ぐっすり眠りたいという考えだけが。
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