祈りの国

識島果

第1章 金の瞳の男

第1話

 例年通りの傲岸さでローデンロットの地に君臨していた冬の王は、今年は幾らか急いでその座を退くことに決めたようだ。入れ替わるようにして姿を現した春の王女が、あたたかく柔らかな息吹を村々へと吹きかけ、うっすらと雪化粧をしていた丘陵地帯は既に本来の色を取り戻している。

 なだらかな丘の一つ、その頂上に少女が一人佇んでいた。多くの物語の主人公がそうであるように、少女の外見は凡庸であるとはいえない。引き結ばれた薄い唇、小作りな鼻はつんと尖り、意志の強さを感じさせる瞳は黄金色に輝いている。体躯は同年代の一般的な少女よりも痩せて小さく、未だ女性らしい魅力を帯びてはいないが、この大きな瞳が彼女の卵型の顔をミステリアスに見せていた。中でも目を引くのは肩まで伸ばされた彼女の髪だった。このあたりではまず見かけない燃え立つような赤毛で、見事ではあるがあまり手入れされているようすはなく、ややもつれている。少女は零れ落ちる髪の一房を耳に掛け、生えたての牧草をのんびりと食むモルフの群れを見渡した。

 南側に霞んで見えるキリタチ山――これは鋭い灰の山脈へと連なる――を除いて、ローデンロットに視界を遮る高い山はない。突き抜けるように青く雄大な空、どこまでも広がるような丘のつらなり、そしてその中にぽつりぽつりと寂しげにうずくまる集落。少女――キイラの眼に映るのは、いつもこのような景色だった。

 キイラは、満足したように傍らへ寄ってきた一頭のモルフの背をそっと撫ぜ、春の空気を胸一杯に吸い込んだ。空は明るく晴れ渡っている。しかし、キイラにはそのうち雨が降り出すだろうという確信があった。モルフが脚を折ることなく、すっくと立ったまま草を食んでいる。こんなときはじきに天気が崩れるのだということを、この少女は経験から学んでいた。モルフは、天候の移り変わりを読むことにかけては人よりもずっと鋭敏だ。

「そろそろ帰ろうか」

 キイラはモルフの群れにそっと呼び掛けると、それと同時に〈瞼〉を開き、かれらを取り巻く大気に命じた。彼女が見えざる手によって作り出した風は従順なモルフたちをやさしく押しやり、一方向へと向かわせる。キイラはモルフが一頭残らず黄金色の風にしたがっていることを確認してから、ゆっくりと歩き出した。キイラはまだ十四にもならないが、この手のまじない――最早魔術と呼ぶべきかもしれないが――が抜群にうまい。誰かから特別な教えを受けたわけではないが、いつの間にか習得していたわざの一つだった。このイベルタにおいて、こういった力はそれほど特別なものではない。

「家に着くまでに降り出さないといいなあ。ねえ、あんたもそう思わない」

 群れと一緒に歩きながら、こちらに横っ腹をすり寄せてきた小さなモルフに、キイラは親しげに話しかけた。まだ生まれてまもないモルフの毛はふわふわとして、膝に当たる感触が好ましい。十日ほど前に毛刈りを終えた群れの中で、剃刀を免れたのはこの幼いモルフだけである。

 モルフ――この気性の穏やかな草食動物は、柔らかな毛皮ばかりでなく大きく頑丈な角を持ってもいるが、それが人や他の動物に向けられることは少ない。正しく付き合う限り、かれらは良き友であり、家族であり、貴重な資源となりうる。モルフは、キイラの暮らすポウスリー村のみならず、ローデンロットの全ての村々にとって最も重要な生き物だ。乳は良質なチーズになるし、毛は上等の織物になり、革は傷つきやすいが軽くしなやかで、肉も食用に十分耐えうる。ローデンロットの牧草を食むこの群れはまごうことなきキイラたちのモルフだが、夏から秋の収穫祭までの間は他の群れと一緒くたにされ、村が雇用している牧人がキリタチ山の方まで連れていく。そうしてたっぷり遠くの草を食べさせ、冬になると群れと牧人とはまたポウスリーへと戻ってくる。牧草の生えない冬の間、モルフたちには小屋の中で干し草を食べさせ、牧人にはパンと熱い葡萄酒を振舞って手厚くもてなし、キイラたちはまた新しい春を待つことになる。

 キイラたちローデンロットの民は、何百年もの間こうしてモルフを愛し、モルフと共に暮らしてきた。広々として緩やかな丘々とそれを覆う豊富な牧草、特有の穏やかな気候はモルフの飼育に適した。かつてこの地は深い森であったというが、移り住んできたある一族がモルフを飼うために血の滲むような努力を以って開墾したものであるらしい。言ってみれば、ポウスリー村が寄り添っている小さな森は、伐り倒された木々の残りとでもいうべきものだった。森の向こうはケイデンと呼ばれる別の区域で、つまりポウスリー村はローデンロットのぎりぎり東端に位置している。

 キイラがモルフの小規模な群れを集落へと連れ帰り、小屋のある柵の中に入れてやって、自分自身も家の中に滑り込むのとほとんど同時に雨は降りだした。キイラはほっと溜息を吐く。高い山のないローデンロットでは雨雲が長く留まることはないが、濡れないに越したことはない。雪解けを迎えたとはいえ、春の雨はまだまだ冷たいのだから。

「おや、お帰り。随分と早く帰ってきたんだね」

「雨が降り出すのが分かったから」

 扉をきっちり閉め直しながら、キイラは母親のマーサに説明した。

「ただいま」

 マーサは夕飯になるはずのパン生地をちょうどこね終えたところのようだった。いつも通りなら、生地はこのあと一リットほど寝かされてから四つに分けられ、竃に入れられる。マーサの焼くパンはキイラの好物の一つだ。外側は香ばしくぱりぱりとして、中はもっちりと歯ごたえがある。キイラが作ると、どうしてもこうはならない。きっとマーサは何かしらのまじないを工程に仕込んでいるに違いない。

 マーサはいい塩梅になった生地をどんと置くと、粉だらけの手を拭ってから、キイラの方へ顔を向けた。親子ではあるが、キイラとマーサはあまり似ているとはいえない。色白の顔にうっすらとそばかすの浮かぶキイラとは対照的に、マーサの肌は浅黒く日焼けをしていた。それに加えてマーサの顎はがっしりと丈夫そうで、鼻もキイラと比べると大きくしっかりしている。しかし、やさしく澄んだはしばみ色の瞳と目尻に薄く寄った皺は、彼女が善良で温和な村女であることを示していた。実際のところ、キイラはマーサのこのような顔立ちに一種の憧れを抱いてもいた。自分の真っ赤な髪と金色の瞳はローデンロットでは目立ちすぎるし、何と言えばいいか――いささか強すぎる。

「手を洗って、スープを作るのを手伝っとくれ。お父さんが帰ってくるまでに作り終えたいからね」

 キイラは頷いて、急いで手をきれいにした。包丁を取り出して、玉ねぎを刻み始める。

「お父さん、雨、大丈夫かな」

「大丈夫さ。今頃モルフの毛をすっかり野菜に替えて、たっぷり積んで帰ってくる途中だよ。毛は水に濡れたら駄目になるけど、野菜は平気だからね」

「お砂糖は? 春の祝祭で沢山要り用なのに、溶けちゃわない?」

 春の祝祭はこの時期になるとローデンロットで毎年行われる風習の一つだ。人々はこの日のために干しイチジクや干し葡萄をどっさり入れたケーキや、リツと呼ばれる砂糖の沢山入った薄く硬い菓子を山ほど焼き、モルフを一頭屠る。晩には家族みんなで一つの部屋に集まり、蝋燭を灯しながら焼き菓子とご馳走と葡萄酒とを楽しみ、今年の豊作を祈るのだ。こんな風に贅沢が出来るのは、一年のうち春の祝祭と秋の収穫祭だけなので、キイラはこの祝祭を楽しみにしていた。

「大丈夫」

 マーサは繰り返した。

「ケイデン織のしっかりした覆い布を持っていったからね」

 キイラはほっとしてから、慌てて付け加えた。

「でも、お父さんは濡れちゃうね」

「風邪を引くといけないから、あとでお湯を沸かしておいてあげようね」

 マーサが微笑んだ。キイラは玉ねぎを刻み終え、痛みによる涙を拭った。マーサはとっくに人参をやっつけ、キャベツに取り掛かっていた。

「明日も雨降るかな」

 玉ねぎを鍋にあけ、キイラはぽつりと呟いた。

「学舎に行く日なのに」

「どうかね」

 マーサが顰めっ面になった。マーサはキイラが学舎に行くのをあまり快く思っていないふしがある。イベルタでは、未だ教育は一般的なものではないのだ。事実、ローデンロットには学舎が一つしかない。それも、学舎とは名ばかりの粗末なものなのだが。キイラが週に一度アドナード村の学舎に通えているのは、ひとえに彼女が一月の間粘り倒したおかげだ。厳しい戦いの末ついに両親――シグとマーサは娘の熱意の前に折れ、毎週キイラをアドナードまで連れていくことを承諾した。

 そんなわけでマーサは今も学舎については否定的であるので、そのとき彼女が学舎について話を続けようとしたのは、後から考えれば珍しいことであった。

「前回はどんなことを習ってきたんだい」

「今は歴史をやってるの」

「ローデンロットの?」

 キイラは興味を持ったようなマーサの態度に満足した。

「ううん、イベルタ全体の。わたしたちイベル人の先祖がどれだけ苦労してこの国を作りあげたか。そして、この国を奪おうとする異教徒――フタル人たちがいかに残酷にイベル人の命を奪ったか……」

「そんなことを習ってるのかい」

「おかあさん、フタル人ってすごく残酷で野蛮で、わたしたちとは全然違う生き物みたい。かれらはこれっぽっちも信じていないんだよ。わたしたちの父、光の神、尊いルースのことを――」

ここでキイラの口調には熱が篭り、やや芝居がかった。

「だから、フタル人は罰として魔術の恩恵を受けられないの。竃の火力の調節も一苦労だし、放牧したモルフたちを簡単に連れて帰ることもできないんだって。どうしてフタル人ってわたしたちの国にいるんだろう。おかあさんはガットーの内乱を知ってる?」

「キイラ、お母さんはそのなんとかって内乱のことはよく知らないけどね」

 マーサは手を止め、溜息を吐いた。

「同じ人間のことをそんな風に言うのは感心できないね」

「でも、フタル人は異教徒なんだよ!」

 キイラは反抗した。

「イベルタにいながら、ルースを蔑ろにしている。お母さんはルースのことを大切に思っていないの?」

 それはとてもおそろしい考えのように思えた。学舎ではルースを疑うことは異端の考えであって、故にフタル人は生まれながらにして罪深い存在なのだと教えられていたからだ。

「馬鹿をお言いでないよ。そんなわけないだろう」

 マーサはキイラを安心させるように首を振った。

「だけど確かにフタル人は人間だよ。あたしたちと同じにね。魔法が使えなくて、信じてるものが違うからってそれは変わらないよ。あんたは学舎でちょっと毒されてるみたいだ」

「わたし、毒されてなんかない」

「じゃあ、あんた、直にフタル人と話してみたことがあるのかね。それで、直接ひどいことをされたことが?」

 キイラは黙り込んだ。キイラはフタル人と話したことがなかった。それどころか、見たことさえなかった。

「お母さんは学舎に行ったことはないさ。だけど、知らないもののことをそうやって決めつけるのはよくないってことは知ってるよ」

 暫くの間その言葉の意味を噛み締めてみてから、キイラは素直に認めた。

「そうかも」

 マーサが厳しい顔を緩めて、にっこりした。それから暫く二人はスープを作ることに打ち込み、それが終わるとキイラはもう一度モルフたちの様子を見に行った。マーサは竃に火を入れ、パンを焼いた。キイラが退屈して敷物の上で寛ぎはじめ、竃からいい匂いが漂い始めたころ、扉ががたりと開いた。シグが帰ってきたのだ。

「お帰り」

「ただいま」

 振り向くキイラに応えたシグの声は疲れ気味だった。

「もうすぐ夕飯ができるけど、どうするね。今からお湯を沸かそうとも思ってたんだけどね。雨には濡れたかい」

「いいや、雨は大したことなかった。夕飯にしよう」

 その口振りに、キイラは思わず父親をまじまじと眺めた。マーサの髪は黒だが、シグの髪はあたたかみのある茶色だ。髪と同じ色の瞳やずんぐりとした体格はやはりキイラとはあまり似ていない。骨太の骨格には力強さが感じられ、性格も無口で頑固なローデンロットの男らしい気質であった。キイラの知る限り、シグは過剰な自尊心や傲慢さとは縁のない男だったが、彼の立ち居振る舞いにはいつでも経験に裏打ちされた静かな自信が感じられた。しかし、今のシグの口調には隠しきれない憔悴が滲んでいるのがはっきりと分かった。それに、「雨『は』大したことなかった」とは、それではまるで他に大したことがあったかのようではないか。

 マーサもキイラと同様違和感を覚えたらしい。

「あんた、何かあったのかね」

 マーサは不安げに尋ねた。

「取引が上手くいかなかったとか」

「いつも通り上手くいったよ」

 シグは簡潔に答えた。彼にそれ以上何か説明するようすはなかったので、マーサは竃からこんがり焼けたパンを取り出して具沢山のスープを三人の器によそい、キイラはパンと一緒に食べるモルフのチーズを用意した。

慎ましいがそれなりに満足感のある食事を終えたあと、シグは漸く口を開いた。

「キイラは、十四になるのか」

「うん」

 キイラは怪訝に思いながらも頷いた。

「もう一月もすれば。わたし、トラヴィアの神殿に行ってルースの祝福を授かるんだよね」

 ユトーと一緒に、とキイラはもごもごと付け足した。ユトーは川の向こうに住むキイラの許婚だ。このローデンロットでは、こういったことがキイラが生まれるずっと前から決まっている。

 それを聞いてシグも頷いた。しかし、その動作はどこか重たげな雰囲気を帯びていた。言葉の真意を図りかねて困惑したキイラから目を逸らし、シグはマーサの方を向いた。

「〈獅子の爪〉の噂を聞いた」

 マーサが眉を顰めた。キイラは混乱を深めて両親を交互に見比べた。

「本当に?」

 マーサが声を潜め、囁くように確認した。この家にはシグとキイラとマーサの他にはいるはずもないのに、それでも誰かに聞かれることを恐れているかのように。シグは首肯した。

「アイレンで印を身につけた男たちがうろついているのを見かけたらしい」

「〈獅子の爪〉って?」

「リック叔父さんは平気かね」

「ここのところどうにも治安が悪そうだ。自治団には期待できない。神兵部隊が都から来てくれたらいいんだが――」

「ねえ、〈獅子の爪〉ってなんなの?」

 キイラは我慢強く尋ねた。シグは漸くキイラの存在を思い出したようだった。

「武器を掲げて神殿に抵抗している人たちのことだ」

「それってつまり、フタル人?」

 シグは答えなかった。

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