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ゴンドラを降りると、そこは山頂だった。正確にはスキー場の頂上というだけなのだが、ここより上には行けないということには変わりない。雲に限りなく近い標高だからか、さすがに身震いがするほど空気が冷たかった。
さっさと滑降を始めてしまいそうな勢いの真紀を引き留めて、山頂の目印である看板を前に記念撮影をする。そこら辺の中年男性に頼んだところ、スマホのカメラを上手く扱えなかったようで、少し撮ってもらうのに苦労した。
「何かさー、天候悪くなってない? ちょっと靄がかかってきたんだけど」
「確かに。参ったなあ、山頂コースは厳しくなってきた」
視界が突然曇ってきたのを感じ取り、二人はゴーグルをかけ直した。山のお天道様はコロコロ機嫌が変わるもので、標高が高くなるほどそれは顕著になってくる。つい五分前までくっきり晴れていたとしてもアテにならないものだ。
「じゃあ、ひとつ下のユートピアゲレンデはどうかな」
康太は比較的易しいコースを提案したが、案の定真紀は首を横に振った。「退屈だから、メイフラワーゲレンデにしよ」
「あー……だよね、じゃあそっちで」
「よっしゃー!」
行き先を決めた二人は、突然吹雪きだした山頂の細い街道を滑降した。さすがに麓のほうと違い、雪面がアイスバーンでガリガリに固まっており、あまり滑り心地が良いとは言えない。他のスキー客を掻い潜りながら、まったく手加減せずに飛ばす真紀にどうにか追い縋った。
コース分岐の度に彼女に停まってもらいつつ、そのゲレンデに辿りついた。山の外れでひっそりと稼働している、このスキー場の穴場スポットだ。滑る人が少ない故の新雪に近い難儀な雪質、細長くて急勾配なコースの造り、そして全エリア屈指のコース全長。真紀や裕揮にとっての天国、すなわち康太にとって地獄にも等しいコースだ。無論リフトは二人乗り。裕揮がいた頃はいい思い出のなかったゲレンデである。
二人並んでリフトの無慈悲な体当たりを受け、コースを遡っていく。突然頂上の方で荒れだした天候が山の中腹まで降りてきたらしく、細かい雪を運んだ強風がゲレンデ中を包んでいた。
「寒……」
真紀が腕を抱えて寒がる。珍しいが、それをからかう元気は康太にもなかった。
「なあ……一回ここ滑ったら下に降りない?」
「一回だけで我慢しろって?」
「これ以上天候が悪くなったらさすがに危ないだろ」
「んー……分かった」
ふてたようにそっぽを向きながらだが、一応真紀は了承した。康太はほっとして、雪風を避けるように真下に目を移した。積もった新雪の上に、つい最近作られたらしい二条の曲線。コースアウトしてリフトの真下を滑った人がいるらしい。本当はマナー違反だが、しばしばみかける光景だ。
「よくやるよな、ただでさえおっかないコースなのに」康太はスキーの跡を指さして話しかけた。「覚えてる? 裕揮がそれやったとき、真紀、えらい怒ってたじゃん。勝負から逃げやがってー! みたいな」
「わたし、コースアウトするようなスキーヤー嫌いだから」
冷たい声で返事される。倫理的に軽蔑しているというよりは、私怨の籠ったような響きだった。
「でもあいつ、真紀と違う道滑ってるときはちょくちょくコースアウトしてたぞ。『あいつには内緒な?』とか言ってきて」
「はぁー!?」真紀は森の向こうのゲレンデにまで響き渡りそうな怒声をあげた。「なんなのあいつ、そんなんでもしれっと最初に結婚決めるし! あーもうまた腹立ってきた!」
そうして彼女が当り散らすように足をバタバタと振り回したが、リフトは停まらなかった。ここのリフトは乱暴なほど客の運搬が速く、そしてとにかく停止しない。
康太は失笑しながら、訊いた。「ぶっちゃけ、真紀ってあいつのこと好きだった?」
「まぁまぁ、って感じ。残念なトコあるけど顔は結構かっこよかったからねー。でも脈なしって態度出してたから、分かってたよ、そういうのじゃないって」
「そんなもんか……」
そんなもんっぽいねー、と気のない返事をされ、康太は彼女がまだ隠し事を抱えているのを察した。そしてとある夏の日、裕揮によって縛られた時のことを思い出した。
大学三年の夏休み、いつもの三人で裕揮の部屋に行って飲み会を開いていた夜のことだ。こういう時は決まって酒の弱い真紀が最初にダウンして、男二人で下衆な深夜トークが始まるのが恒例だったが、その日も真紀がすごい寝相で寝っ転がる横で缶ビールを傾けながら、クラスの誰それの身体つきがエロいだの、ゼミの同期の誰それが盛大な修羅場を迎えているだのとくだらない話をしたり、漠然と恋愛観について語り合っていたりしたのだが、話題が途切れたタイミングで突然裕揮が真紀を指さし、
「コイツ、今ならちょっかい出しても絶対起きないよな」
などと言い出した。
「いや、やめとけよ」
「何もしねーけどさ。でも起きないよな」
「まあ、かもね……」
当の彼女は、やらしい話の対象にされていることなど気づいてもいない様子で両腕を投げ出して熟睡している。慣れた光景だったが、改めて言われると確かに無防備すぎである。
「俺が言いたいのはさ、真紀が残念なのはこういうところだよな、って話。幻滅ってわけじゃなくて、カップルらしい適度な距離感が喪われる感じで」
「っていうと?」
「天然にせよ計算にせよ、誰を前にしても寝るまで酔っ払いそうじゃん」
相槌を打ちつつ、康太は真紀のあられもない寝相を見て生唾を呑み込んでいた。裕揮の言うことも分からないではないが、むしろわざとらしいほど隙を見せてくる異性に何だかんだ康太は弱かったのだ。
そういうのを童貞臭いというのだろうか、などと考えていると、続いて裕揮がカミングアウトした。
「俺が今のカノジョと付き合ったのって、割と真紀を牽制するため、みたいなところがあってさ――別に自惚れで言ってるんじゃないからな、なんか一時期やたらサシの誘いかけられたりしてたから」
申し訳なさそうに余裕を湛えて言う裕揮に、康太は顔を顰めてみせた。「別に信じるけどな。お前らゲレンデじゃ随分べったりだし」
「いや悪かったって。そりゃ俺は知ってたわ、お前が真紀のこと気になってんの。向こうはスノボに夢中でさっぱりだけどな。そんなんで俺が付き合うわけにいくかよ、あいつと」
「俺がいなかったら付き合ってたってか?」
「そうじゃねえよ、三人の関係崩したくないのは俺の都合だって。現にスキーはともかく、一緒に飲んでて楽しいのはお前の方なんだから」
酔いの回った頭で康太が考えるに、それは『真紀とは友達のままでいたい』の言い換えのようだった。
「裕揮ってそういうところ、妙に硬派だよな」
「無駄にごちゃごちゃさせたくねーもん。あ、俺はお前と真紀がくっついても文句言わないから好きにやっていいよ、その方が平和だし」
「大きなお世話だって」康太は苦笑した。「余計にやりづらくなったじゃんか」
「まあおすすめはしない、実際。真紀は純情だけど、嫉妬させることに関しては天才的だ。お前に手綱引けるとは思えないね」
何かあったら相談に乗るよ、などと締められて、康太は情けない気持ちになったのである。結局、康太には四年間、春が来ることは無かった。
「――また来ようよ、次のシーズンにでも。今度はちゃんと、三人で」
真紀の物足りなそうな発言で、康太は回想からすっかり醒めた。
「一回しかメイフラワー滑れなくて不満だった? それとも、やっぱ裕揮と滑る方が楽しい?」
だが、心のどこかで歪みが生じていたらしい。
「……康太?」
恐ろしいものを見る眼で真紀に見つめられて、康太は失敗したことを悟った。
「悪い。でも裕揮が来てくれるかどうか実際分かんないだろ。もうあいつも所帯持ちだし、前みたいに自由な時間はないだろうから」
「そうだけど……」真紀は唇を尖らせてから、小声で続ける。「やっぱ三人のあの感じが良いんだよね」
「確かに……」
二人して変なノスタルジーに罹ってしまい、リフトの上を沈黙の時間が過ぎていった。たかだか三、四年のブランクと一人の欠員が、こんなにも痛い。
「なあ、競争しない?」
リフトを降りてから、康太は提案した。
真紀はスノーボードに足を嵌めながら言う。「別にいいけど、メイフラワーじゃどうせ勝負になんないよ」
「いいんだ別に。コースは真紀が選んで」
真紀は気味悪そうに康太の顔を覗き込んでから、渋々頷いた。「じゃ、真ん中」
康太が頷き返すもなく彼女はテイクオフする。柔らかい雪面の上で躊躇なく雪煙を上げる迷彩柄の背中を必死に追いかけるが、幾ばくもしないうちに背中が遠くなっていく。それでもどうにか追い縋ることで、どうにか康太の視界には、彼女がターンの度に上げる、特徴的な雪煙は映っていた。どうせ他に人がほとんどいないのだからそれを追い掛けていればいい。
ところが、コースも中盤に差し掛かった辺りで突然その雪煙が消える。完全に突き放されたにしては、失せるのが急すぎた。怪訝に思いながら滑ると、吹き溜まりで柵が傾いた場所から森の方へ、一本の太い線ができているのが見えた。
まさか、と康太は思いとどまったが、結局は森の中に入り込むことにした。コースアウトはご法度とか言っておきながら本当に彼女がやっているとしたら、その真意を訊いてやりたい。その一心で、せめて逃げ切られまいと線を辿っていく。
もちろん、康太は非圧雪コースを滑るようなマナー違反をしたことなどなかったから、その手のスキルもない。下手をすると全身どっぷり雪に浸かることになりかねない雪のプールの上を、重心移動をせず、ストックも使わずに滑っていくのは容易ではなく、何度か足を持って行かれそうになったが、スピードが落ちると一巻の終わり、踵で踏ん張ったり横滑りをしたりも命取りになる、とコースアウト常習犯の裕揮が言っていたのを思い出し、段々と要領を摑んでいった。木々の間をぬって進む閉塞感と、本当に正規のコースに戻れるのか、という緊張感が、身震いするほどスリリングだ。リフトの真下を横断したときなど、見つかりやしないかという背徳感もそこに加わってしまう。
そうやって禁断の興奮を味わううち、突然雪の線は途切れ、足跡に切り替わった。見ると足跡はリフトの柱から五メートルほど離れた銀色の大きなタンクの後ろに続いている。慎重にカーブし、そこを覗くと、真紀がスノーボードを投げ出して、ふかふかの雪の上に仰向けでダイブしていた。
「ま、真紀?」
「あ、来たんだ康太。ここなら撒けると思ったんだけど」
彼女の投げやりな言い草に康太は腹が立った。「撒いてどうするつもりだよ、俺の車で来たんじゃんか」
「麓までバス乗って、そっから駅とか」
「馬鹿言うなよ」
康太もスキーを外し、歩いて真紀のところへ歩み寄った。ちょうど非常用タンクの周りだけ雪を固めてあるらしく、埋もれることもなかった。どうも彼女は以前からこのスポットを知っていたらしい。
真紀は早口でしゃべり出した。
「大二のときアイツと競争してたらさ、わたしの目の前でコース外に出やがったわけ。またズルしやがって、って思って追っかけたらアイツがここで待ち伏せしてて……『俺のことどう思ってんの?』っていきなり訊いてきたことがあったの。覚えてる? 一回だけ康太が一番乗りで降りたことがあったじゃん」
「……ああ、そんなこともあったかもな」
康太はとぼけたが、はっきり覚えていた。後にも先にも、彼が一番早く麓まで降りたことはそれだけだったのだから。
「でさ、そんな風に訊かれるからさ、まぁ好きだよ、って答えたよ。そしたら『それは友達として、って受け取っとくよ』とか言いやがってさ」彼女は少し涙声になりながら捲し立てた。「なにあのナルシっぷり! そんでそのあと見計らったようにカノジョつくって、挙句その子と結婚してやがんの! 張っ倒したいんだけど!」
「……ご愁傷様」
そして真紀はバカヤロー、と木霊の鳴り渡りそうな勢いで叫ぶ。
康太は二人の関係の新事実を聞かされても、胸がむかついてはこなかった。彼女の方も康太と同じようにして縛られていたんだ、という事実を知れてむしろ安心した。
「未練たらたらじゃん、裕揮に」
「はぁー? 誰があんなクズ野郎なんか……」
一通り喚いてすっきりしたのか、真紀は起き上がって身体についた雪を払い落とし、スノーボードを拾った。
「もういい帰ろ、次は裕揮も呼んでアイツを絞める会開くから!」
「どうせ新婚さんのノロケ話喰らって終わりだって……」
そうしている間に空はすっかり曇り、天候も雪山らしいものになってきた。確かに、ここらが引き際だろう。
康太はスキー板を再び足に嵌め、意味もなくゴーグルを額に押し上げる。灰色だった視界が目の錯覚でスカイブルーに転じた。彼が最もスキー場らしい景色だと思う瞬間である。
灰色の丘 @Chotaro_Otogai
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