嘘つき茉莉ちゃん

大沢 澪

茉莉ちゃん、憶えてる?

「ねえ、有機溶剤の『シンナー』の語源って知ってる?『Sinner』、つまり『罪人』なんだよ。吸引して酩酊状態になった人間が、地獄に堕ちた亡者の姿に似ているから、だって」

「なにそれ? 知らなかった」

「まあ、嘘なんだけど」

 ちなみに、シンナーの正しい綴りはThinnerだから。


 茉莉はいつもそうだ。

 ふっと、突拍子もないことを言う。

 どこかで聞きかじったこと、というよりも、茉莉自身の頭の中で思いついたことみたいで、だからそんなに腹は立たない。すぐに「嘘だ」と自分から言うので「馬鹿にされた」感もすくない。でも、人によっては大袈裟にうなずいたり、よせばいいのに「私も知ってるー」と乗っかったりして、ネタばらしがダメージになってしまうこともある。どう考えても知ったかぶりをするのが悪い、と思うけれど、その子たちは茉莉を嫌うようになる。嫌われても茉莉は動じない。屈託なく笑って見せるけれど、それが嘲笑に映ってしまうこともあるだろう。

 そんな茉莉だから、周りからは「嘘つき茉莉」と呼ばれている。

 それはなんだか言い過ぎじゃないのか、と思う。でも、うっかり弁護すると「お前も嘘つきの仲間か」と言われてしまう。

 私は茉莉の友だちで、嘘つきの仲間じゃない。

 だったら茉莉を守って戦うべきかもしれない。でも、実際にそれをやっちゃうと、周りから人がいなくなる。私だっていちおう、クラスの中で生きていくためには、人間関係をうまくやる必要がある。クラスの大勢を左右している瑞希や男女問わず人気のある瑠菜、陰口ばかりで嫌われているけれど正面切って敵対したらまずいことになる菜月・莉央。すくなくとも事を構えたらろくなことにならない。この子たちにとって茉莉は安心して攻撃できる相手で、そのお仲間と目されたらどうなるか。


 人目のあるところで茉莉と一緒に居るのは避けよう、と思った。


 同じクラスになったとき、茉莉はとても目立つ存在だった。

 ものすごく可愛い。

 たとえば瑠菜はナチュラルメイクを欠かさず、男の子たちはそれをノーメイクだと信じ込んでいたけれど、茉莉はほんとうになにもしていなかった。一度、お泊りのときに一緒にお風呂に入って、寝るまで顔を見ていたけれど、そのままだった。

 ところが、クラスでは茉莉はメイクをしていることになっていた。たぶん、瑠菜の友だち関係から出た言葉が菜月・莉央を介して広まったんだと思う。

「ああいう勘違いしたブスがいちばんウザいよねー」

 聞こえよがしに言うのは、たいていは瑠菜のシンパだった。茉莉がブスなら、その子は便所掃除庫の放置雑巾以下だけれど、平然と口にできてしまう。力関係っていうのはそういうものだ。

 月イチの服装チェックで、茉莉はいつも先生に呼び止められた。担任の大世戸先生は四十代の男性で、恫喝して化粧したと認めさせようとする。でも茉莉はにこにこしながら「してませんよ、先生」と言う。そこで生活指導の多々良先生が登場する。白髪の女性で、左手でやったみたいな厚化粧の多々良先生は、顔を近づけて点検したあと、なぜ化粧をしてはならないか、長々と語った。勉学の妨げになるのはもちろん、化粧をしていると隙が生まれ、性被害にも遭いやすいそうだ。茉莉はやはりにこにこしながら聞いて、喋り疲れた多々良先生に頭を下げる。

「すみませんでした、って認めてしまえばすぐ終わるじゃん。再検査なんて形だけなんだし」

 私がそう言うと、不思議そうな顔でこっちを見る。

「だって、私、嘘はつきたくないもの」

 

 なんだか笑いそうになるのを堪える。茉莉は本気だ。

 嘘はつきたくない? そうなの?

「私、自分の顔が好きだよ。洗って剃ってるけれど、石鹸とか使わないし。ねえ、愛はどう思う?」

 そう言って顔を向ける。肌はまるで赤ん坊みたいにもちもちで、触れるとうっとりする。だから触れないけれど。目はぱっちりしていて、なによりもマスカラも使ってないのに睫毛がきれいにカールしている。唇だって、ふっくらした薄紅色の天然ものだ。

「きれいだよ」

 私がそう言うと、ちょっと顔を赤らめる。あんまり見ないでよ、と思う。分かってるんだよ、レベルの違いは、うん。


 茉莉の「好き」は、私にとって聞き流せない。

 だって、以前、言われたことがあるからだ。

「私、愛のこと、好きだよ」

 四月の終わりだった。外掃除で、アスファルトにこびりついた桜の花びらを熊手で掻き剥がしていた。あんなにきれいだった桜が地面に落ちるとただのゴミにしかならない。熊手を使っていた私と、ちりとり係の茉莉が、組になってごみ集積場まで持って行く途中、不意にそう言われたのだ。

 正直に言うと、とても嬉しかった。クラスではいちばんきれいで可愛い子が、私のことを好きだって。ちょっと誇らしい気がしながら、私は言った。

「ありがとう」

 茉莉の顔が紅潮した。散る前の桜みたいだ、と思った。

「いっしょにいてくれる?」

「いいよ、よろしくね」

 その言葉通り、翌日からふたりで行動するようになった。そのころには茉莉は瑞希たちのグループから声を掛けられていたけれど、振り切って私といっしょに居た。力関係から考えて、あんまり機嫌を損ねない方がいいと思ったけれど、茉莉は聞く耳持たなかった。

「べつにいいよ」

 そう言って笑う。それは嬉しかったけれど、このままだととんでもないことになりそうな気がしていた。

 

 でも、その不安は一掃された。

 茉莉が「嘘つき」になったからだ。

 いろんな子たちの前で、本当だか嘘だかわからない話をしては「嘘だよ」で締めくくった。何度も繰り返すうちに、きれいで可愛い茉莉のイメージは「イタい子」へと変わって行った。

 私は、茉莉のそんな話を普通に聞いていた。嘘だと分かっても、かえって感心したりした。私をだますつもりはないのが分かっていたから。ちょっと笑って欲しがっているだけだ、というのが伝わって来たから。私は茉莉のことが好きだったし、いっしょに居るのは嫌じゃない。

 でも、茉莉が「嘘つき」として認知されてからは、いっしょに過ごすのは学校が終わって、校門を出てからになった。

 みんなの前でそういう話をするのはやめなよ、と言うつもりはなかった。言えばどうなるか、分かっている。聞き流していれば、私は茉莉にとって、ちょっとだけ親しい友だちのポジションのままでいられる。

 

 茉莉は私には嘘はつかなかった。

「嘘だよ」と付け加える話は、嘘じゃない。「嘘だよ」こみでのほんとうの話だ。

「愛のこと、好きだよ」

 何度も言われた。そのたびに「私も好きだよ」と返した。

 最初のころに見せた笑顔はしだいにうすらいで、どこかあきらめに似た表情へと変わった。

 最後に「好きだよ」と言われたときのことを憶えている。私が返そうとすると、茉莉は「もういい」とだけ言った。

「ありがとうね」

 そう言って、その日は別れた。夜、ひとことだけのLINEが入った。

「明日、学校やめるから」

 私のありったけの返信はすべて既読スルーされた。

 なにも言いたくないのだ。たぶん、私が茉莉の言葉をスルーしてきたから。

 だって、どうしようもなかった。

 応えられないよ。

 茉莉は、嘘はつかない。とりあえず明日だ。

 それから夜明けまで、私はまんじりともしなかった。


 翌日、茉莉の机は空だった。担任の大世戸先生に訊いても言葉を濁した。

 7限のあとの終礼に、茉莉は現れた。大世戸先生の口から、転校することが告げられた。ざわつく教室の中、うつむいた茉莉はやっぱりきれいだった。

 最後に、茉莉が教卓の前に立った。教室を見渡し、私と目が合う。

「臨時ニュースをお伝えします」

 またか、という空気が漂う。私は目を逸らせなかった。

「私こと三上茉莉は、本日付で転校することになりました。大好きな大沢さんとお別れすることだけが辛いです。昨日、いっしょに行ってね、とお願いしましたが、見事にふられました。とても残念です」

教室がどっとわいた。

 つまんない冗談いってんじゃないよ、と心の中で叫ぶ。そうじゃないだろ。

 涙が出そうになる。

「嘘です」


 一礼して、教室を出ていく。


 嘘つき。ほんと嘘つき。


 あんた、最後に嘘ついたね。



 その日、私にとってはじめて、茉莉は「嘘つき」になった。

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