最終話 空白の少女と、アリスのサンサーラ

「私は……カオス・アリス……では、ない?」

「僕が興味を持っていたのはね、この想区のカオス・アリスというよりは、君のことなんだ」

 カオス・アリスは言われた意味が分からずに、ルイス・キャロルに視線を向けたまま、しばらく固まっていた。この男に特有の、頭を捻らないといけない言い回しで何かを言われたように思えたからだ。

「君がカオス・アリスになっている今、君の『運命の書』はどういう状態になっているのだろうか? それは今も手元にあるのかい?」

「手元にあるも何も…」

 先ほど見せたものが私の……カオス・アリスの運命の書ではないのか?

 ずきりと、頭が痛む。

 私はカオス・アリス……ではない。

 別の誰かとして『怠惰の国のカオス』にいた記憶が、頭の中に浮かんでくる。


『今起きていることは……めどい、ね』


“カオス・アリス”が“自分”に向かって話しているという情景。

 これは誰かの記憶じゃなくて……自分の記憶だ。

 ルイス・キャロルは静かに微笑んだまま、戸惑いを見せるカオス・アリスの様子を見守り続けている。

「思い出してきたかい?」

「そう、ね……私は……カオス・アリス、ではなかった」

 長らく忘れていた。

 ルイス・キャロルの言うことが本当ならば、自分の持つ『運命の書』は他にある。

 カオス・アリス……の姿をした少女は、本来の『運命の書』を顕現させた。

 ぼやけた光がテーブルの上に集まり、ティーカップの脇に物体を形成していく。

 カオス・アリスの運命の書とは異なる、いたって地味な革表紙の本が出現した。

――本当に、私はカオス・アリスではないのね。

 意を決して、運命の書を手に取って開く。

 そこには、何も書かれていなかった。

 空白の頁が続き、ただ1枚の栞が挟まれているだけ。

 筋書きや運命など何も与えられていない、物語においてモブの意味すら持たぬ者。

 それが、今まで自分のことをカオス・アリスだと思いこんでいた少女の、運命の正体だった。

「いったい、どうして……私が」

『空白の少女』は、カオス・アリスの姿をまとったままで、ルイス・キャロルに問いかける。

「それが知りたかったのは、僕の方なんだけどね……」

 まあ仕方がないかと、ルイス・キャロルは紅茶を口に含み、続ける。

「君はコネクト接続についてすら、あまりよく知らないようだ」

「そう……ね。自分が何をしていたのかも分からない」

『空白の書』の持ち主が変身するということは知っていたが、その細かな特性までは理解していない。カオス・アリスにとっては、他人の特殊技能に過ぎないからだ。

 足りない知識を補うようにして、ルイス・キャロルが口を開く。

「コネクトとは、ただの変身ではない」

 導きの栞を通して、ヒーローの魂と一体化するのだ。

 だから、姿や能力だけではなく、人格までもがコネクトした『空白の書』の持ち主に入り込んでくる。

 戦闘を行うためにわずかな時間だけコネクトしたとしても、なかなか口調が戻らないこともある。

 ルイスキャロルはそう説明する。

「そして当然、コネクトの時間が長いと、空白の書に及ぼす影響は大きくなる。主に悪い方へとね」

 ヒーローの魂が同化することで、元々の人格が浸食されるのだから――。

「君はすっかり、自分のことをこの想区のカオス・アリスだと思っていたんだろう」

「正直なところ、今でも信じられないわ」

「おそらくは年単位のコネクトだろうからね」

「私は……解除の方法を忘れてしまっていたのかしら」

「いや、僕の見たところ、君は初めから何も知らなかったんじゃないかな」

 分からないことが増えていく。

 コネクトについて満足な知識を持たない自分が、カオス・アリスとなっていた。

 そして、想区に突如発生したカオステラーと戦っていた……。

 カオス・アリスの姿をした『空白の少女』は、次第しだいに酷くなっていく頭痛に顔をしかめた。

 せっかくの紅茶の香りが、過剰な刺激となって責め立ててくる。

「君のコネクト接続の解除は、かなり目が回るものになるかもしれないね。なにしろ、カオス・アリスとして馴染んでしまっている身体を、元に戻すのだから……」

「そのよう、ね……」

「頭痛くらいはとめてあげるよ、カオス・アリスの想区のめんどうごとに、関わってくれたせめてものお礼でね」

 少なくとも、ルイス・キャロルは敵ではない。

 カオス・アリスにコネクトしていた少女は――そう判断した。ということは、自分は主役になり替わろうとしたとか、悪さをしたわけではなかったのだろう、と。

 肩から力が抜け、肘からテーブルに崩れ落ちる。

 カオス・アリスの姿をした少女が光に包まれ、ヒーローの魂が離れていった。


◇ ◇ ◇


 コネクトを解除し『空白の書』の持ち主へと戻った少女は、部屋の壁に据え付けられた姿見すがたみに顔を向ける。

 そして写っているのは、やはりカオス・アリスではない。

 姿を見た瞬間に、自己認識がはっきりとする。

 物語に登場することの決してない、三月ウサギでなければチェシャ猫でもなく、トランプの兵隊ですらない、何者でもない……役割のない人間。

 この想区に生まれていながら、ストーリーテラーの作った物語には関わらずに生きて、死んでゆく。


 ひとつ大事なことは……想区によってストーリーテラーによる『判定』の厳しさは異なるが、大抵の場合は――物語に関ってはいけないが、登場人物達と関わることについては許されたのであった。


「教えてくれるかい? この想区に何が起きたのかを」

 ルイス・キャロルがそう尋ねる。解を出す時間。

「ええ、まだ少し頭がはっきりしないから……少しずつになると思うわ」

「そうだね、紅茶を替えよう。君の気分が良くなるように」

「あら? 私がアリスじゃないと分かっても、気をつかってくれるのね」

「アリスの想区の危機を、食い止めていてくれたようだからね。これは礼だと思ってくれればいい」

 そうかしら? と空白の少女は思う。

 自分がカオス・アリスにコネクトしていたというならば、『本物の』カオス・アリスはどこへ行ったというのだろうか?

――つまりは。

 この想区には、もう存在していない。

 カオス・アリスが死んだ状態で、物語は進行していた。

「アリスは死んでいるわ」

「そのことは既に察しているよ」

 ルイス・キャロルはさらりと言った。推定するのが容易いことで、衝撃を受けるようなことではないのだろう。

「けれどヒーローとして君にコネクトし続け、チャールズ・ドジソン……想区の状況を何とかできそうな僕のことを待っていたのだろうね。アリスの願いは、達成されたことになる」

 君をしろにしてね、と暖かな目でルイスは続けた。

「だから、礼というわけね」

「そういうことになる」

 頷きながら、ルイス・キャロルは茶葉を替えるために立ち上がる。

「それじゃあ、ゆっくりでいいから記憶のおさらいといこう」

 城の一室で、小さなお茶会は続く。

「話してくれないか? 君とアリスと、この想区のことを」

 ルイスはただの楽しみとしてここに来たわけではない。空白の少女はそれを感じ取り、記憶をたどりながらゆっくりと話し始める。


◇ ◇ ◇


 この想区の出来事――

 それは繰り返し続ける物語の、1周前にさかのぼる。


◇ ◇ ◇


『空白の書』を持つ少女は、アリスの友達だった。


 不条理にあふれ、何でもありな不思議の国の想区だからこそ、『空白の書』の持ち主でも、さほど嫌悪感を抱かれずに受け入れられたのだろう。

 ましてや、ここは『カオス』アリスの物語を元とした想区だ。

 そのおかげでカオステラーや『空白の書』、調律やヴィランについて事前に知っている登場人物が多い。

 調律の巫女の役目を持つ住民すらいる。

 そこに『空白の書』を持って生まれた者がいたところで、異物とみなす者は少なかったのである。


「鏡の国の冒険にいってきたわ。つぎはカオス化ね、一気にぐうたらになるってことみたいだけど」

 アリスは空白の少女にそう伝えてきた。

 運命の書に示された通りに行動しているだけとはいえ、冒険の度に――

 大きくなる薬、女王裁判、空を飛ぶ汽車、鏡の国で女王になったことを……

 アリスは友達に語っていた。

 そして空白の少女は、いつも胸をときめかせて聞いていた。


「たとえ決められた運命であっても、実際に冒険するのは、楽しいことよ」

『運命の書』に記された通りカオス化したアリスは、怠惰を演じてベッドに寝転がりながら、空白の少女へと話しかける。

「けれど、冒険の日々もそろそろ終わりね」

 カオス・アリスは自身の運命の特性から、想区この世界の成り立ちや、想区が物語を繰り返していることを知っている。

『怠惰の国のアリス』の物語が終わってしまえば、カオス・アリスは主人公であることを完了する。

 冒険のない日々を過ごし、やがてレディになる。

 子供の頃の夢に溢れる冒険は、次に現れる少女アリスに引き継がれていく……。

「この後の私は、運命の縛りをあまり受けなくなるわ」

 カオス・アリスは提案する。

「調律の巫女が私をアリスに戻したら、このお城を出ていくのだけれど……その後は、親友として一緒に暮らさないかしら?」

――友達。

 空白の少女は幼い頃から、アリスが暇な時にはチェスをし、お茶会にも出席し、創作した物語を聞かせることもあった。

 それはストーリーテラーの用意した台本の上にはない繋がりだった。

 だからこそ、カオス・アリスは空白の少女を友として見ていたのかもしれない。

 空白の少女は頷く。

「私の方こそ。物語が終わって、あなたアリスが主人公じゃなくなっても、友達」

「ふふ、私の冒険が終わっても、楽しい日々が続きそうね」

 物語を終えた後の『主人公アリス』の運命は、それまでと比べて密度が低い。消化試合のような一生が書いてあるだけだ。

 それでもカオス・アリスは、物足りなさや寂しさを感じることはないだろうと、考えている。親友とも言うべき存在がいるから。


 そして想区に危機が訪れる。


◇ ◇ ◇


 ジャバウォックにカオステラーが取り憑いて、想区にあるありとあらゆるものを破壊した。

 迎撃に向かったものもいるが、侵攻をとめられない。

 ハンプティ・ダンプティや代用ウミガメ達では、恐るべき怪物とまともに戦うことなどできない。

 また、この想区には『調律の巫女役』の登場人物がいて、『カオステラー役』と戦うことが定められているが、あくまで想定された範囲での役割に過ぎない。

舞台装置では本物のカオステラーには到底かなうものではない。

『怠惰の国のアリス』の想区のほとんどがヴィランに占拠される中、カオス・アリスもまた、戦い続けていた。


 早朝の薄闇の中、ハートの女王の城の、門の前で。

 赤の女王が大剣に炎をともして突撃し、カオスアリスはトイボマー魔法の爆弾を投げて支援する。並大抵の相手なら、ずみになることだろう。

 だが形勢はジャバウォックに有利過ぎた。

 赤の女王や、戦いに参加していたエクス役、レイナ役の登場人物が倒れる。

「なんでこんな、物語もあと少しで終わるってところで……」

 カオス・アリスは毒づく。これから始まるはずだった、空白の少女との落ち着いた日々を脳裏に浮かべながら。

 そして――いや、カオステラーはいつ現れても想区の脅威で、たまたま私が主人公をやっているときに発生したというだけね――と思い直した。

 魔導書を片手に、カオス・アリスがジャバウォックに攻撃を仕掛ける。鋭い切れ味を持つ魔法のトランプが吹雪のように舞い、固い表皮を切り裂く。

 だがジャバウォックの巨体は、多少の傷を与えただけでは怯みもしない。

「我をおそれよ!」

 ジャバウォックが咆哮する。音波だけで、体が吹き飛ばされる。

 受け身を取って転がりながら、カオス・アリスは最終手段を使うことにする。

 カオステラーが出現した想区を基に作られた『怠惰の国のアリス』の想区に生きる者には、カオステラーやヴィランに対する予備知識がある。

 主人公ともなれば、なおさらだ。

 通常の想区では有り得ないことを、カオス・アリスは実行した。

 自己カオス化。

 この想区に現れたカオステラー異常をきたしたストーリーテラーがジャバウォックに憑依しているように、運命を変えたいという願望を持つ者は、その心の隙のせいで取り憑かれてしまう。

 逆に言えば、世界を破壊しようと考えていない者には入り込めない。

 だが、

「ジャバウォック……消してあげるわ」

 カオス・アリスは意図的に……自らの破壊衝動を増幅させ、ジャバウォックに取りついていたカオステラーを部分的に吸収した。

 より取りつきやすいところへと、力が流れたのである。

「まったく、これで私も化け物ね……」

 羽は黒く脈打ち、巨大化していた。下半身は伝説上の怪物ラミアのように大蛇となり、オッドアイはジャバウォックの焔の目にすら負けず煌々と輝いていた。

 カオステラーに取りつかれるとはすなわち、怪物へと変貌することなのである。

他の想区では、赤ずきんはリトル・レッドウルフに、フェアリー・ゴッドマザーは恐ろしい魔女へと姿を変えている。

 浸食の度合いが低いカオス・アリスは人の姿を保っていたし、そもそもこの想区におけるカオス化は物語上の設定でしかなかった。

それでも本格的なカオス化をすれば“混沌”に相応しく変貌する。

「これで……互角以上ね!」

 カオス・アリスは紫色のガスを噴出する。

 ジャバウォックの固い表皮が毒に晒され、ぐずぐずに崩れ始める。

 咆哮。

 闇のフィールドを振り払うかのように、ジャバウォックは火炎を吐き出した

 ボッ!

 ガスが霧散し、炎熱がカオス・アリスの翼を貫いて城の壁までを焼く。

「ふん……! ジャバウォック、己の願望によってカオスに呑まれるなんて……尊大な怪物としての運命を全うしなさい……!」

 カオス・アリスは攻撃を受けながらもジャバウォックに近づき、巨大なトランプ上のブレードを出現させて胴体を切断してゆく。

 爪が振るわれ、カオス・アリスの下半身を引き裂き、血飛沫ちしぶきが飛ぶが、それで倒されるほどカオステラーはヤワではない。

 何度も攻撃が交差し、お互いを傷つけあう。

 カオス・アリスが確実にジャバウォックの身体を切断するため、どちらに軍配が上がるかは次第に明らかになっていった。

 恐ろしい怪物の咆哮はやがて断末魔だんまつまへと変わりゆく。

 邪気がジャバウォックから失われていき、カオス・アリスもまた力を使い果たして人間の姿へと戻る。

 辺りが静かになると、すぐさま空白の少女が駆けつけてきた。

「カオス・アリス!」

「危ないっていったじゃない、まだ出て来ては……」

 カオス・アリスの言葉が苦痛に潰され、止まる。

 戦闘によるダメージに加えて、カオステラーを取り込んだ反動が、思いのほか大きかったのだ。

 膝をつき、倒れる。

 空白の少女が助け起こすが、カオス・アリスは血を吐いた。

 そして言葉を発しようとするも、ごぼごぼという音に邪魔され、咳き込む。

「私は……もう駄目ね。そして……カオステラーは消えていない」

「そんな。ジャバウォックを倒して、あとは物語を終えるだけでしょう?」

「物語は、もうストーリーテラーが考えた筋書きからは外れてしまっている。もう、どうしようもない」

 カオス・アリスはもう立っていられなくなり、地面に身体を横たえた。

「この……想区は、滅びる。貴女はその前に沈黙の霧をくぐり、想区の外へ逃げた方がいいわ」

 空白の書の持ち主であれば、異なる想区へも走り抜けることが出来るだろうと、カオス・アリスは考えていた。

 貴女だけでも生きて、そう言いたいのだ。

「それは……嫌だよ。アリスを置いて逃げたくない」

 空白の少女は、この想区で主人公役目を終えたアリスと暮らしていくつもりだった。

「だから最後まで、一緒にいる」

 困ったものね、貴女だけでも生き延びてほしいと言っているのに……カオス・アリスはそう思いつつも、内心では友の言葉が嬉しかった。

――ならば私が死ぬ前に、この想区をなんとかする方法を考えなくちゃ。

 生命力を失いつつある中で、カオス・アリスは策を作り上げていった。



「調律。あなたにはそれが出来るわ」

 カオス・アリスが言った。

「調律って……私は、調律の巫女でもなんでもない」

 そしてこの想区の『調律の巫女役』はジャバウォックとの戦いで命を落とし、亡骸として近くに倒れている。

 せっかくカオステラーに憑依された敵を倒したというのに、物語を正すことのできる者がいないのだ。

「貴女は調律の巫女ではない……けれど、話を創り、私に聞かせてくれた。創造と語りの素質がある」

 それはすなわち、この世界における……創造主の力。

 しかも今やることは、もっと簡単なことだと、カオス・アリスは続けた。

 新しい何かを創るというわけではなく、想区の物語を元通りに『調律』するだけ。

「もしかすると、いや……きっと、できる……」

「そんなことを言われても、私にはやり方が分からないよ」

「だから、貴女に私の知識を渡すわ。カオス・アリスの運命の書には、想区についての情報が書かれているの。私の記憶にもあるわ」

 カオス・アリスは何を言っているのだろう。空白の少女は混乱した。

「あれを……」

 カオス・アリスは、もう声を出すのもやっとのようだったが、震える手でゆっくりと、ある場所を指さした。

 その先には『調律の巫女役』の近くに散らばった、導きの栞が落ちている。

「私が死んだとしても、まだ一緒にいられる方法があるわ。貴女の中に、私の魂を……」

 この想区には導きの栞がある。

 想区の中に登場する道具は『原典』のコピー品ではあるが、機能は全く同じに再現されるという性質があった。

 例えば『夏の夜の夢』の想区にある黄金のリンゴは、原典で語られたものと同様に、強力な治癒や解呪の効果を持つ。

「そんな……2人とも生きて、この想区を元に戻したい」

「ごほっ。それは、無理。私はもうすぐ、死ぬ。早く栞を『空白の書』に挟んで。魂がどこかへと行ってしまう前に……」

 魂がなければコネクトが出来ない。機会を逃せば、永久に離ればなれになってしまう可能性すらあるのだった。

「心配いらない。私が死んでも、魂は滅びない」

 それきりカオス・アリスは目を閉じて、何かを言うことはなかった。

 空白の少女は立ち上がり、栞を拾う。

 カオス・アリス。あなたの魂とコネクトするよ……。


 そして想区の根幹部分を制御する方法を受け取り、空白の少女は調律を開始した。


◇ ◇ ◇


 紅茶の香りが辺りに漂う。

 ルイス・キャロルが紅茶を啜り、空白の少女もまた、カップに口をつけていた。

「それで、調律は不完全だったんだね?」

「ええ、この想区のカオステラーを、削除デリートし切ることができなかったの」

「調律の巫女でもないのに、ぶっつけ本番で物語だけでも修正したのは、よくやったといったところだよ」

 物語は修正された。途中まで進んでいた部分は破棄され、初めから開始された。

 調律では、死んだ人間は生き返らない。

 カオステラーのせいで死んだ者には『代役』が割り当てられ、生き残った者は記憶を失った状態で再び『運命の書』に従う日々を始める。

 では、カオス・アリス(=アリス)はどうなったのだろう?

 アリス自体は死んだ……が、しかし魂が『空白の書』の持ち主にコネクトしていたため、想区のシステムが“生きている”ものと判定した。

 で、あるから……

「君は調律すると同時に、記憶も失い、そのままアリスとして主人公になっていたんだね」

「そう。調律さえ完全だったら、この想区は元に戻っていたはずだった」

 自分が本当は何者かも知らぬまま、アリスの運命を全うし、最終的にはカオス・アリスとなり、エンディングを迎えていたことだろう。

「けれど、カオステラーは想区に残ってしまっていた」

 アリスにコネクトした空白の少女は、記憶を失いはしたけれども、無意識化で使命を覚えていた。

 物語の最終局面では、自ら『運命の書』の筋書きを破り、あえてストーリーテラーに反する行動を開始していた。

「君は想区に居残ったカオステラーと戦う準備をしていた」

「ええ。そしてカオス・アリスの力を使って、想区の崩壊を防ごうとしたの」

「けれども、今回もまたジャバウォックとの戦いでは、致命傷を負っていたね」

 ルイス・キャロルが助けに来ていなければ、既に命を落としていたことだろう。

「私とコネクトしたアリスの、賭けだった」


『怠惰の国のアリス』は、ルイス・キャロルの著作を原典とする想区が脅かされた際の出来事だ。

 その時には、想区の危機を察知した創造主自らが異常を排除している。


「アリスに関する想区に危機が迫っている時間が長いほど……僕が気づく可能性も大きくなる」

 調律が不完全だったとしても、想区の延命処置が出来ているのであれば、ルイス・キャロルが助けに来る可能性があった。

 事実、カオステラーの気配が漂う中で物語が進んでいることを察知して、様子を見に来ていた。

「ともかく。君の命は助かったわけだし、カオス・アリスからしても、故郷の想区が崩壊することを、防げたというわけだ」

 全ての事情を呑み込んだルイス・キャロルは、満足げにほほ笑んだ。

「この想区のアリスには感心させられる。立派なレディというわけだ。君も、アリスを助けてくれてありがとう」

「助けられたのは、私の方。アリスにも、あなたにも」


――さて。

 お茶会ももう切り上げ時とばかりに、ルイス・キャロルは城の窓の前に立つ。

 ガラスを通して広がる空には、渦の模様のような空間の乱れが浮かんでいる。

物語が乱れたことで、崩壊の予兆が表れているのだ。

「そろそろ、最後の仕上げといこう。かつて不完全に終わった調律だけれど、もう一度できるかい?」

「今なら、落ち着いて終わらせられる」

 空白の少女は、導きの栞を手に取る。

 そしてカオス・アリスへとコネクトした。


 調律の巫女は、詠唱によって想区の乱れを修正する。

 これはフィーマンの一族にしか行えない、お手軽な魔法のようなものだ。

 一方で、想区の知識とカオス・アリスの力を使った調律は、世界のシステムに侵入して書き換えていくやり方になる。

 例えばカオステラーがヴィランを生み出すような力を、もっと広範囲、高深度で使用する。

 よって完璧な調律を行おうとすると、幾千もの『操作』や自分の記憶へのプロテクトが必要になる。


 ヴィラン化した住民の運命の書を元に戻し、乱れた物語を修正し、破壊された地形を修復し……。

 かくして『怠惰の国のアリス』の想区は調律されていった。


◇ ◇ ◇


 晴れ渡る青空の元、2人の影が草原に伸びていた。ルイス・キャロルと空白の少女が森に向かって歩いている。

「それで、君はこの想区から旅立つのかい?」

「ええ。ここには新たなアリスがいて、次の物語が始まってしまったから」

 これまでの友とは別のアリスが、今頃は冒険を始めていることだろう。

 この想区で名も無き住民として暮らしていくことも出来るが、空白の少女は留まることを選ばなかった。


「沈黙の霧の歩き方くらいは教えてあげよう。それで、想区の『渡り』になって、君は何をする?」

「冒険の続きを」

 たとえ命を失ってもコネクトすれば、身体のうちでまた会うことが出来る。

「カオス・アリスの運命が終わった後は、私がいろいろな物語を聞かせてあげるって約束だったから」



 空白の少女は旅に出る。

 友の――カオス・アリスの魂を宿した栞と共に。


◇ ◇ ◇


 その先には、運命の定められていない旅が続いている。

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怠惰の国のカオス 加藤雅利 @k_masatoshi

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