第6話 想書アリス・クオリア

 赤の女王を倒したのがダイナではないことは明らかだ。

「名乗るつもりはないよ。僕は陰ながら泉の『手入れ』をしつつ出来栄えを眺めるのが好みなんでね」

 その姿や声は、話をしながらも形を変えていく。マジシャンのようなステッキを持った、長身のシルエットと穏やかな声の青年。視界の隅に捉えたその顔を、カオス・アリスは見たことがなかった。

 けれども予想はつく。

「当ててみたのなら、答えをあげてもいいけれどねえ」

「ドジソンおじさまでしょう? それともあなたのことはルイス・キャロル、と呼んだ方がいいのかしら?」

「……」

 カオス・アリスは即答した。もう少し何か別の答えを期待していたらしいドジソンおじさま或いはルイス・キャロルは、ナンセンスだと言いたげに黙り込んだ。

「やり方が似ているのだもの。この想区には白の騎士がジャバウォックを倒すって運命があるけれど、原典では白の騎士に扮したルイス・キャロルがやったことなのでしょう?」

 同様に、今回この想区では、ダイナのふりをしてカオス・アリスを監視し続けていたのだろう。そしてカオステラーとなった赤の女王を現すと、すぐさま変身を解除して追い払ったのだ。

「やれやれ、このような追加シナリオの想区だと、主人公に与えるべき情報が増えるから、アリスが賢くなりがちなようだね。もっとこう、突然現れた謎の男にびっくりして欲しかったのだけど」

「ちゃんと驚いているわ。けれどずっと見ていたなら、もう少し早く姿を現してくれても良かったと思っているのよ」

「それはすまない。話が膨らまないことには、ナンセンスだと思ってね。それにここはアリスの想区ではあるけれども、僕の作った物語じゃないからね。無理に弄ろうとすれば世界が崩壊してしまう可能性がある。慎重だったのさ」

 そう言うと、男の持つステッキはいつの間にか三脚に変わっていて、右手にはカメラがあった。レンズがカオス・アリスに向けられる。

「表情を作る必要はないよ、そのままで」

 言うなり、シャッターを切られた。

 怪物を倒し終え、静けさの戻った森に、パチリという駆動音が響く。

「って、何をしているのよ」

「ん? こんなアリスの様子も、写真に収めておこうと思ってねえ」

「ドジソンおじさま、悪趣味なのね」

 カオス・アリスはドン引いた。まさにダルマと表現できる血達磨の少女の写真を、涼しい顔で撮影しようとするとは。

 だが支離滅裂とも言える不思議の国を作り出し、アリスをカオス・アリスへと変えるに至った混沌たる会話と不条理の物語を紡いだのは、常人には理解し難き数学者なのだ。何をしでかしても『ルイス・キャロルだから』で説明が付きそうだった。

 極めて異質な怪物を見るようなカオス・アリスの視線に気づいたのか、写真撮影の手が止まる。

「おや? どうしたんだい?」

「どうして写真を撮るのよ」

「これは僕の趣味だよ。不思議の国をベースとした想区は実に多彩でね、様々なアリスが生み出された。水着姿で槍を振り回したり、サンタの姿で拳を唸らせるアリスを知っているだろう? この想区で君は今何をしているのか、おそらくは最近できた『抱き枕』というアリスだと思ってね。珍しくて撮影したくなったのさ」

「手足を斬られた女の子が抱き枕に見えるのなら、度の強いメガネがいると思うわ」

「冗談だよ。ユーモアなのさ」

「理解できないわ」

 と思ったが、チャールズ・ドジソンの得意とする『かばん語』というオリジナリティ溢れる単語や造語を散りばめた詩が、難解で難しいことを思い出した。ならばその作者は、やはり奇妙な思考を持っているのだろう。

「助けに来たというのなら、これを何とかしてよ。ドジソンおじさま」

 カオス・アリスは切断された四肢から流れ出る血を示そうとしたが、腕が無いので軽く顎を引いただけに終わった。

 一見すると重傷だが、カオステラーとしての力があるために即座に失血死することはなく、痛みもまた絞ることが出来ていた。それでも時間が経つにつれて危険な状況になっていくことには変わりがない。

「はは、ごめんごめん。腕や足を斬り落とされた割には随分と落ち着いているから、やはり抱き枕なのかと思ってね」

「逆よ。ドジソンおじさま、いえルイス・キャロルは全てのアリスの味方…だから、私がすぐにでも死んでしまうのなら、あなたはもっと急ぐはずだと思うわ」


 たとえ想区が物語を繰り返すだけの世界で、自分の前後に100人のアリスが存在し、さらに同じ場所が数多あまたに存在するとしても。

 数の多いものほど価値が無いと直感するのは人間の性質だけれども、ルイス・キャロルはいかなる『アリス』も大切に考えているはずだ。

 それがアリス・リデルという少女のために世界を作り、詩を乗せて、拙いながらも挿絵までを自筆し、手作りの本としてプレゼントした数学者なのだ。

 ましてや自分とは既に顔を突き合わせ、言葉までをも交わしてしまった。このまま祈り捨て置くわけがない。

 たとえカオス・アリスが真にカオステラーとなっていて、ストーリーテラーと想区の敵であったとしても。


「…やれやれ、君は随分と聡明に育ってしまった個体のようだね」

「おじさまの書いた物語のおかげよ」

 ルイス・キャロルは苦笑する。そしてステッキを掲げた。

「ハッタ、ヘイヤ!」

 帽子屋と3月ウサギの名前が喝の言霊となって森に響く。すると黒い人影が二人、カオス・アリスの両脇に立っていた。モノクロに次第に色がついてゆき、片眼鏡モノクルの青年と、褐色の肌を持つ少女の姿に変わった。

『不思議の国の想区』の住民である帽子屋ハッタと3月ウサギだ。元々この想区にいた登場人物を呼んだのではない。

 創造主が旅のともとして連れるとされる、イマジン意思持つ人形。想区の『物語』に情報を書き加え、即席で作り出したのだ。

 二人のイマジンは屈んでカオス・アリスの傷口を撫でるように触れる。

 魔導書を持つカオス・アリスでさえも推定できないほどの生命力が身体に流れ込んでくる。おそらくは最高の治癒魔法が使われている。

 辺りが強い光に包まれていく。目を閉じると、瞼の奥にまで白い霧が広がってくるかのようだった。思考が塗りつぶされていく。

 そこでカオス・アリスの意識は途切れた。


◇ ◇ ◇


 カオス・アリスは目を覚ます。

 ハートの女王の城にある一室。今日まで「めどい」という決められた台詞を何度も口にしながら寝転がった、自分のベッドだった。

 そして紅茶の香りがカオス・アリスを包んでいた。

 空間の広いヴィクトリア様式の部屋はテーブルや椅子を詰め込んでもなお窮屈さを感じない。

「お昼寝からお目覚めかにゃ?」

 部屋の椅子に座っているのはダイナだった。ティーポットがテーブルに置かれており、おそらく淹れたばかりのようだ。

 私の腕は? 足は? カオス・アリスは指を閉じたり開いたりしてみた。ベッドの布地が動きに合わせて音を立てる。

 怪我の痕跡は全く無かった。


 もう1人のカオステラーの追跡や、ジャバウォックとの戦い…カオス・赤の女王に傷を負わされたこと、そして創造主の出現は、夢だったのかもしれない。

 部屋の中は静かで、夢の明けた優しい昼に思える。

 しかしカオス・アリスは、絶対にそうではないということを確信している。

「濃い目の紅茶を淹れたにゃ。それとも起きるのは…めんどくさいかにゃ?」

「ドジソンおじさま…ダイナの真似をするのをやめて欲しいのだけれど」

「にゃ…。ふふ、やはり分かるかい」

 小柄な少女の声が太くなり、身長が急激に伸びていく。ダイナはルイス・キャロルへと姿を変えた。

 カオス・アリスはベッドから降りる。切断された手足は、くっつけたのか再生したのか区別できない。けれどしっかりと立てるし、服の袖も綺麗なものだった。


「さあ、どうぞお嬢さん」

 と言って、ルイス・キャロルは椅子を引いた。

 漂ってくる香りは、カオス・アリスの知らないフレーバーだった。想区の外から持ち込まれた紅茶なのだろう。

 睡眠によってぼやけていた思考が抜けるまで約一秒待ち、ようやっとカオス・アリスはテーブルに向かって歩き、腰を降ろした。

 ルイス・キャロルも向かいに座る。

 紅茶に投入したシロップをスプーンで2、3度かき混ぜてから、問いかける。

「ドジソンおじさま、何のために?」

 自分がカオスヒーローの役割を越えて、真にカオステラーになったことは、ダイナに化けて一緒に行動していた時から分かっていたはずだ。

 このストーリーテラーは、即座にカオステラーを排除しなかった。調律の巫女などは、想区の崩壊を防ぐために異物を取り除くことを最優先にし、急ぐように物語を修繕していたというのに。

 目の前の男は乱れた想区を正すこともせずに、カオステラーと紅茶を一服しようとしている。

「ふふ、生身のアリスとこうしてお茶を飲むのは久しぶりなんだ。いつもはイマジンを相手に、チェスの定石のような会話をしているだけだからね」

「期待に添えるかは分からないわ。私は、ドジソンおじさまの作った想区の住民に過ぎないのだから」

「この想区は僕の創造物を基にしているだけで、作った奴のことなんて知らないよ。それに君はカオステラーだ。運命に従うだけの登場人物と違って、刺激的だ」

 君自身がよく分かっているんじゃないかな? とルイス・キャロルは続けた。

「それに僕の期待に応えられるか分からないとは言うけどね…期待しているのはカオス・アリス、君の方だろう?」

 余裕のある微笑みをカオス・アリスに向け、ルイス・キャロルは紅茶のカップに口をつけた。


 その通りだった。

 創造主であり数学者でもある男は、この私のどこまでを知っているのだろう。


「カオステラーには物語を変えたいという目的がある。気に食わない運命を壊したいとか、『正しい』悲劇の物語が繰り返されることを止めさせたい、とかね」

「私は想区を支配しようとしていたわ」

「そうだ。けれども君は『怠惰の国のアリス』の物語をどうこうしようとしているようには見えなかった。まるで気紛れ、適当。だから細かい計画もない」

「それは…運命の書で何度も読んだ、繰り返されるだけの物語を全て知りつくしていて、変化が欲しかったからよ」

「運命を変えようとカオステラー化したアリスの物語に、役者として演じるうちに影響を受けた、そんなところかい?」

 カオス・アリスは頷いた。

 無言の答えを得て、ルイス・キャロルは言葉を続ける。

「僕には、それだけじゃないように見える。君は期待していたんじゃないか? 白騎士に扮した創造主の役を持つ演者のルイス・ではなく、僕が現れることを」

『怠惰の国のアリス』では、自らの運命に絶望してカオステラーとなったアリスを、ルイス・キャロルが助けに来ていた。別な想区で過去にそんな実例があったことも『運命の書』に書かれている。

 ルイス・キャロルが全てのアリスの味方を自称するというのならば、アリスのいる想区に危機が迫ったときに、降臨する可能性はゼロではない。

「僕に会って、何かを聞きたかった。例えば、このお茶会のようにして…」

 想区を危険に晒すことで創造主を釣り出すために、カオステラーになっていた。

「ええ、そうよ」

 とカオス・アリスは答えた。紅茶を口に含むと、甘く渋い味が頭に広がる。

「これは言っておきたいのだけれどね、僕が全ての『不思議の国のアリス』ベースの想区で起きていることを察知できるとは思わないで欲しいよ。ナンセンスかセンスフルかはともかくとして、多くのストーリーテラーが僕の知らないうちに想区をいくつも作るのだから」

「でも、ドジソンおじさまは来たわ」

「偶然通りかかって、だね。まったく無茶をする。僕が来なかったらどうするつもりだったんだい?」

「その時は、カオステラーとして想区を支配したわ」

「突如現れたもう1人のカオステラーに、倒されそうになっていたのにかい?」

「そこまでは私も考えていなかったわ」

 カオステラーと化した赤の女王とルイス・キャロルには何の関係もなく、本当に偶然だったようだ。

「まあともかく、君は運命を勝ち取ったと言っていいだろうね。さあ、僕に何を言いたい? 創造主に文句を言う悲劇のヒーローも多い。ああ神様、何故ですか…と」

 ルイス・キャロルはカオス・アリスの質問を促した。

 少しの間、会話が止まる。

 このような形で創造主と対話するとは思っていなかったからだ。ともすれば一戦交えるかもしれないとさえ予想していた。

 思いの丈を上手くまとめるには、少々虚を突かれたとも言える。

「そうね、私は昔から読んできたわ。自分の運命の書、あなたの書いた不思議の国のアリス…を使って他のストーリーテラーが紡ぎ上げた想区の物語を」

 カオス・アリスは『運命の書』を顕現させて、テーブルの上に広げた。森や家を模したレリーフが装飾を大きくはみ出している。飾りが多すぎるために、本にしてはひどく読み辛く、機能性を欠くものだ。

 しかし『運命の書』は本の形をしていても、燃やしたり物理的に破壊したりすることの出来ない、書物の形をした概念。内容を読み取る上では全く問題が無い。

「私は『カオステラー』の役割を持つ者だから、運命の書を読んで知っていたわ。想区のこと、調律のこと、ヴィランについてもね」

「そうだね。君は他の登場人物と違い、カオステラーのことを知っている。ずっと昔から、ストーリーテラーに反逆する『道』もあると、知っていた」

「…私は、ずっと疑問だったのよ。この想区世界は、何のためにあるのかが。どうして、全ての動物の運命が決まっているの? 物語が『Fin』に辿り着いたら、またページが戻されるのは、何故なの?」


◇ ◇ ◇


 回り廻る、糸車のように繰り返す運命。

 同じ物語を繰り返し続ける。

 結末のその先へ行くことはなく。始まりからだ。


「どうしてなのかしらね? 創造主の作った物語を回すだけならば、それこそ『本でいい』はずよ?」

 そして演じる者も、独立した思考を持っている必要は無いわ。

 自動的に動く人形にでも劇をさせればいいはずなの。

 でも『運命の書』を与えられ、それに沿うように行動しているのは…私達よ。そして私達は人形なんかじゃなくて…生きているの。

 ダイナや帽子屋ハッタ、3月ウサギは、想区の住民は、なんで、物語の部品として筋書き通りに行動しなくてはならないの?

 創造主はこの想区を使って、何をしようとしているのかしらね?


 カオス・アリスは想区が作られたものだということを知っていた。しかし住民たちが作り物ではないことも知っていた。

 自分もまた、役割を与えられた者のひとつ。

 けれども。

 決まった道を行くことしか出来ないのならば、自分の存在は作り物と変わりがないではないか。

 自分はいったい何者なのか?

 カオステラーのように、枠組みから外れてしまえば、それが分かるのかもしれない。そして運命を思うがままに変えようとする行動は、まるで空白のページに物語を書き込んでいく創造主のようではないか…。

 カオステラーになれば、創造主のことが少しは理解できるのかもしれない…。

 もしかすると『怠惰の国のアリス』のように、ルイス・キャロルが降臨する可能性もある。


『その』アリスは、カオス・アリスの運命を持っていたが故に、好奇心旺盛で、冒険をしたがり、何より真実を知りたがっていた。

 だからこそカオス・カオス・アリスとなった。


◇ ◇ ◇


「想区が無数に在るように、創造主は無数にいる。すまないが『僕の場合は』ということしか教えられない」

 ルイス・キャロルは答えた。言葉には謝罪が含まれるものの、イマジン以外の少女と話すのが久々らしく、楽し気な笑みを浮かべている。

「それでもいいわ」

「そうかい。ならば…誠に申し訳ないのだけれど、最初は『話の泉』をアイデアで満たすための実験だった、それだけに過ぎない」

「話の泉?」

「そうさ。物語を作る上で、想像力を越える発想や閃きを、どこかから得られないかと思っていたんだ。初めは、想区なんて贅沢なもんじゃない。小さな箱庭にイマジンを並べて、劇をさせて鑑賞していた」

「イマジンはプログラムの通りにしか動かない、ならそれは、自分の書いたお話を読み返すことと、あまり変わらないわね」

「そう。だからもっと良く出来た仕掛けにしなくてはならなかった。ホムンクルスを作成し、自我を与え、独自に台本を解釈し、物語の役者を演じるようにした。すると、物語には誤差が出来上がった。ホムンクルスの個体差が現れたからだねえ」

「あなたはつまり、それが起きることを目的としていたのね」

「そうだよ。台詞を読み違えたりしたときなどのアクシデントは、今までにない物語を生んだ。未知なる新しい台詞や展開から僕は、発想を得て、話を作り上げることが出来るようになったんだ」

「つまり、物語を作るための、物語…?」

「そう。かつて僕が作ったのは、ホムンクルスを使った、もっと小さな箱庭だった。ところがストーリーテラーというやつは、物語を作ることに全てを捧げている。ホムンクルスなどでは済まさず、物語の世界を想区として作り上げ、人間に運命の書を与えた者がいる」

「つまり、想区の中で運命の書に従って生きている人間は、ストーリーテラーの道具ということ?」

「半分だけ、当たりと言っておく。想区にも種類があって、それによって崩壊のしやすさも変わってくるからね。想区世界と沈黙の霧のシステムは、僕が作ったわけじゃあない。だから僕に答えられるのは、ここまで」

「この想区は、どのように出来ているの?」

「ふふ、すまないがここは僕の『不思議の国のアリス』をベースにしている。だから思想的には僕の『舞台』とおなじだ。物語を作るために回っているに過ぎない」

「この想区を作った者の想像力を助けるためだけに、何世代もの登場人物が、物語を繰り返してきたということ…?」

「そういうことになるね。ただしストーリーテラーは想区を作るだけ作って、ほったらかしにすることが多い。神を殴ろうなどと思っても無駄だよ、おそらくもうここにはいまいよ」

「なら、いまここでドジソンおじさまを引っぱたくというのはどうかしら」

「とばっちりだね。僕は大元の話を作っただけで、勝手に誰かがパクったに過ぎないのだから。その意味では、僕は元凶であり、被害者でもある」

「私達は、物語を作るために作られ、運命をただ回し続けてきたのね」

 悲劇の主人公は悲劇を、死の運命を持つ者には死を。甘んじて受けなければならない。嫌だというのならばヴィランをけしかけられるという制裁が待っている。運命に反発する者が抹消された後は、『役』別な人間に与えられるだけだ。

「ひどい、と言いたげな顔をしているね。もっと違う何か壮大な目的があったのかと思っていたかい」

「いえ、目的のために生かされていたのなら、それが大きいか小さいかの違いしかないわ。むしろ、何の目的もない遊びだった方が、虚しさがあると思う」

「ふふ。暇つぶしに想区を作るストーリーテラーもいるから、その想像は半分正しい。けれど生きているのだから、美味しい物を食べれば幸せだし、友といることは愉快だっただろう?」

「ええそうね…。でももし質の悪いストーリーテラーに会うことがあれば、おしおきでもしてあげたいわ」


 それが出来るのは、沈黙の霧の向こう側へと渡ることの出来る、『空白の書』の持ち主くらいね、とカオス・アリスは心の中でつぶやいた。

「あれ?」

 空白の書の持ち主については、すっかり忘れていた。

 どうしてそのような人間が生まれてくるのだろう?

 …答えは簡単だった。

 ある程度の決まった流れに対して、台詞無きものを舞台に上がらせてアドリブをさせることで、新たな物語を生み出そうとしているのだ。

 カオステラーは役目に背くことで、そして『空白の書』の持ち主は『役割が無いという役割』を与えられることで、それぞれ話を少し、崩す。

 もし物語が面白く変わったのならば新たな物語が生まれ、ストーリーテラーの目的が達成される。

 逆に、あまりにも話が出鱈目なものへと変わってしまったら、そこで想区を崩壊させて破棄するだけだ。ストーリーテラーにとって、滅茶苦茶な話には価値が無いのだから。


「想区にはカオステラーも『空白の書』の持ち主も、元から想区に現れるように出来ていたのね」

「そこまでたどり着いたかい。君はやはり賢いようだね」

 なんと儚いことだろうと思う。

 必死に運命を変えようとしたカオステラーの暴走もまた、ストーリーテラーによって作られた仕組みのひとつ…。そこに至る過程と葛藤は、新たな物語を作るための材料だった。

『怠惰の国のアリス』のカオス・アリスだってそうだ。将来を悲観してカオステラーになった彼女の行動を基として、この想区が作られてしまった。

「そして僕と君がこうして話していることもまた、新たな想区となるだろう。僕ではない誰かが、勝手に作るに違いない」

「そうしてまた、それに合わせた運命を持つ想区の住民が生まれるのね…」

 カオス・アリスは再度、紅茶に口をつける。ぬるくなり始めた液体の渋みは、若干濃くなっていた。


「さて僕は新たなアリスと楽しくお茶会が出来て満足した。あとはこの想区を立ち去るだけだけれど」

「けれど?」

「君に聞いておかなくてはならないことがある」

「私に?」

「ずっと気になっていたことだ」

 今度はカオス・アリスへと、創造主が聞くようだ。

「私はこの想区という枠の中の存在でしかないわ」

「ふふ、目の前に問題が現れると解を求めたくなるのは、人間の本質だよ」

 カオス・アリスは聞かれる内容をいくつか想像した。

 まさか今の心境? それとも原作のパクリでしかない想区を生きてきた感想文?

 …そして、予想は当たらなかった。

 それもそのはずで、カオス・アリス自身も知らない、いや忘れていたことなのだから。


「さっき顕現させたその本は、君の『運命の書』ではないように思えるのだが」


 何を言っているのだろう? 言われたことが分からなかった。

 私が顕現させたものは、確かにカオス・アリスの『運命の書』ではないか。

「想区の住民が気付くことはないだろうけど、物語の主役としてのアリスを創造し、彼女に本を贈った僕には、分かる」

「ドジソンおじさま、何を言っているの?」

「君の『運命の書』は別にある。ここにあるのは、僕がアリスの運命を書き綴った『想書アリス・クオリア』の改訂版だよ」

「けれども、私は今までこれに書かれている運命を読んできたわ」

 運命の書は持ち主にしか読みとることが出来ない。所有する本人以外には、意味のない文字や記号の羅列にしかならないはずだ。

「そうだね。想区世界において他人の『運命の書』は言語中枢が意味を理解する前に暗号化されてしまい、文字化けした状態に見える。だたしそれには例外がある」

 ずきりと、カオス・アリスの側頭部に痛みが走る。忘れていた何かを思い出す衝撃であるかのように。


「『空白の書』の持ち主が、想区の住民の魂にコネクト接続したのならば、運命の書を読むための認証をパスすることが出来る」

 コネクト接続はヒーローの姿だけでなく、思考や人格をも借りることが出来る。魂を自身に宿すのだから、運命の書さえも読めてしまう。

「でも私は確かにカオス・アリスよ。『空白の書』の持ち主であるはずがないわ」

「知っているかい? 長時間のコネクト接続は身体に悪い。変身して、形や筋力が変わるわけだからね。それは話す言葉だとか、記憶にも影響が出てしまう。おそらく君はもう何日も、もしかすると何か月も、繋ぎっぱなしなんじゃないかな?」

 

 私が空白の書の持ち主…だとすると。この魂は…

 混乱する思考の中、ルイス・キャロルの声が鼓膜を震わせる。



「この想区のカオス・アリスにコネクト接続した君はいったい、誰なんだい?」

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