第5話 ヴォーパル・ソード
焔に燃ゆる瞳を揺らめかせしジャバウォック
タルジイいばらの森をよそり抜け出て
辺りに咆哮を響かせつつも迫り来たらん!
カオス・アリスは巨体と対峙する。
その目を見るには大きく顔を傾けねばならない・ジャバウォックは町の建物ほどにも大きかった。見た目は大型の爬虫類――竜のそれとシルエットが似ている。
「夕火の刻に、ぬめ粘るトーヴたち。
芝野にぐる舞ひふるまい穿つ。
総じて虚ろふ、ヴォロウゴーヴス!」
咆哮の中で、濁ったおぞましい声の詩が聞こえてくる。
カオス・アリスの頭蓋の内側に、ビシッとガラスにヒビが入るような衝撃が走り、思わず片目を瞑る。
ジャバウォックの恐るべき力を乗せた、言わば
「
食らいつく顎に、掴む爪…! ジャブジャブ鳥にもご用心…」
「ジャバウォック! あなたは今『運命の書』の通りの行動をしているの? あなたがカオステラー?」
いきなり戦うのではなく、まず呼びかけた。
だが鋭い爪が頭上から振り落とされる。カオス・アリスが飛び退き、元いた場所の地面が大きく抉れた。
「そいつが落ち着いて話をしてくれる相手だと思ったか! 無駄だ!」
赤の女王が跳躍し、ジャバウォックの腕を斬りつける。
かあん、と分厚い金属のブレードがしなる音が響いた。ジャバウォックの固い表皮の一部が剥がれるも、斬撃の効果は無きに等しいようだった。
「我の邪魔をするか? 小さき虫けらども。これは好機、
やはりと言うべきか、ジャバウォックはカオステラーがいようがいまいが、ひとたび暴れ出せば全てを破壊する怪物だった。
『運命の書』を無視するような狂気の怪物は、ストーリーテラーでさえ持て余していた。だからこそ、この想区は問答無用で白の騎士がジャバウォックを一撃で機能停止させるように作られていたのだ。
せめて自分以外のカオステラーについてジャバウォックがヒントでも話してくれればと思っていたのだけれど、とカオス・アリスは落胆する。言葉は通じても会話の成り立たない相手だったのだ。
「燻り狂うバンダースナッチ!
ところかまわず噛みつく顎に、掴む爪!」
ジャバウォックの詩が耳に入る。
バシッ!
と頭の中に火花が弾けたような感覚に見舞われる。
意識が一瞬ブラックアウトするが、咄嗟に魔力の障壁を体の前面に作り上げた。
ジャバウォックの鋭い爪の軌道が魔法の壁に阻まれて逸れ、土を跳ね上げる。
「詩の意味を理解しようとするな! その隙に狙われるぞ」
赤の女王が燃えるような色をした大剣を振り上げながらカオス・アリスに助言する。懐に潜り込んで腹を斬ったようだが、表皮を断つことは出来ずに浅くめり込んだだけだった。
「弱点はどこだにゃー!」
ダイナが高く飛び、宙返りをしながらハンティングナイフを閃かせる。ナイフに分類されてはいるものの大型で、剣と呼んでも差し支えない。
ココナッツの繊維質を容易に切断するほどの切れ味と重さを持つが、あまりに巨大な相手にはかすり傷しか与えられない。
「ダイナ、無茶な攻撃をしない方がいいわ!」
カオス・アリスはダイナを下がらせると、宝石の埋め込まれた金属質の羽を顕現させて、宙に浮かび上がった。
鋼鉄製のトランプを3枚、手の中に作り上げる。
「想区最強は間違いなくジャバウォックね。けれど私のベースはカオステラーでもあるのよ」
カオス・アリスの指揮でヴィランの一群を突っ込ませる。あっさりと蹴散らされて霧散するが、その隙を突く。
高速で飛行して、ジャバウォックの首元へとトランプを突き立てて、首元から尾まで駆け抜けた。
カオス・アリスの魔力で作られたトランプは厚さ2分の1インチ(約1.3センチ)、長さ10インチ(約25センチメートル)にも達する。自分自身を傷つけることの決してない刃を全周に備えた武器だ。
ジャバウォックの表皮はすぱっと切れた。長い傷から体液が吹き出す。
それでも巨大なジャバウォックには浅すぎる傷だ。小さな武器では致命傷を与えることが出来ない。
「煩いぞ羽虫!」
ジャバウォックが尾でカオス・アリス薙ぎ払う。
衝撃波を伴う程の一撃を避けて飛び、再びトランプで表皮を裂く。しかし先ほどよりも小さな傷をつけることしかできない。
さてどうしたものかと背後に回り込もうとしたときに、雑音が鼓膜を震わせた。
総じて虚ろふ、ヴォロウゴーヴス…
かくて郷遥かなラースの雄叫び…
ジャバウォックの詩の声が耳に入る。
いけない!
と思考からリリックを締め出そうとしたが、遅かった。
目の奥でぱちぱちと静電気が発生したような感覚に襲われ、トランプを取り落としてこめかみを押さえる。
そこにジャバウォックの腕が振るわれ、カオス・アリスは撃墜された。
想区の
遅れてやってきた痛みは、カオス・アリスの人生の中で最も大きかった。
「ううー…」
無意識に声が漏れる。左腕が折れていた。
利き腕じゃなかっただけ、まだマシね。と心に冷静さをかき集める。
息を吸おうとして、せき込んでしまう。肋骨までもが折れていたようだ。
「アリスちゃん! ひどい怪我だにゃ!」
と叫びながら駆け寄ろうとするダイナを制止する。一か所に集まっては危険だ。 ジャバウォックの吐く炎に巻かれればまとめて被害を受けてしまう。
衝撃音が聞こえてそちらを見ると、赤の女王がジャバウォックの攻撃を剣で受けているところだった。
幾度も振り下ろされる爪を大剣で防いでいる。
防御の度に、火花が散っては消える。大剣を形作る鋼の硬度が負けていて、攻撃に耐えきれていない証拠だ。
ジャバウォックの爪が振り上げられた瞬間に赤の女王が懐に飛び込み、一太刀食らわせる。表皮を切断できないため打撃のようになってしまう攻撃が効いているかは怪しいところだ。
左腕がどくどくと脈打ち、痛みが広がる。けれどもまだ戦える。
「この化け物め、よくもアリスちゃんを!」
ダイナがジャバウォックの横っ腹に突っ込んでいく。先ほどカオス・アリスが付けた傷口にハンティングナイフを突き立てる。なるほど固い表皮をぶち破った箇所には深々と刺さるようだ。
「ここがアリスちゃんが作った弱点にゃ!」
ダイナが何度もナイフで攻撃すると、ジャバウォックのは一際大きく咆哮した。
「だめよダイナ、離れて」
と呼びかけたときには、既にダイナは爪を受け、空中にぶっ飛ばされていた。地面に跳ね返り、血を吐きながら転がっていく。
ぎり、と奥歯を噛み締めるとカオス・アリスはトランプを顕現させ、ジャバウォックの頭目掛けて投げつけた。
トランプが赤く燃える目に突き刺さる。
ジャバウォックの瞳は透明な分厚い膜に覆われているが、表皮よりは柔らかかった。苦しみの咆哮が上がる。
ダイナに駆け寄りたいところだったが、踏み留まってさらにトランプを投げつけ、目を潰す。
ジャバウォックがカオス・アリスに炎を吐こうと気を取られたところで、赤の女王が飛び上がり、無事な方の目玉に大剣を叩きつけていた。
「焔に燃ゆる瞳を揺らめかせしジャバウォ…」
「させないわ!」
詩を紡ぐジャバウォックに、カオス・アリスは魔力を伴って体当たりした。見えるまでに濃い紫色の空間が広がる。
自分の力をぶつけることで、周囲の空間に広がるジャバウォックの詩の力を打ち消したのだ。
「あっ、ぐ…」
強烈な痛みに意識が飛びそうになる。左手と肋骨を砕かれた状態で体当たりしたのだから、当然だ。
けれども、赤の女王の行動を助けることが出来た。意識を奪う呪詛の力に阻まれなければ、大剣の攻撃もやりやすいことだろう。
赤の女王はジャバウォックの傷目掛けて走り、深々と大剣を突き刺した。
「これが私の必殺技だ!」
じゅう!
ジャバウォックの体液が蒸発する音がし、大剣が炎と化す。膨大な熱量が体内で炸裂し、肉体を破壊していく。
「貴様!」
ジャバウォックが頭を赤の女王に向け、炎を吐こうとする。
そこに、カオス・アリスが重量物を落とした。魔力で作られた巨大な積み木をぶつけると、首が押し下げられ、狙いがぶれる。
「これで終わりだ!」
赤の女王のさらなる攻撃はジャバウォックの心の臓を破壊した。
威嚇の咆哮ではなく断末魔が空気を震わせる。
巨体が崩れ落ち、地鳴りのような音が響いた。
1、2、1、2! 貫きまた貫く
ヴォーパルの刃が食い込み刻む!
ジャバウォックの息の根を止め、首をいただく
剣の持ち手は軽やかな足で凱旋へと駆ける…
ジャバウォックの最後の詩は攻撃ではなかった。まるで自身への鎮魂歌のようだった。倒された怪物が灰と化し、崩れていく。
「ふん、化け物めが…」
そう呟いた赤の女王の呼吸は荒く、全力の攻撃によってジャバウォックを仕留めていたことが分かる。激しい攻撃に耐え抜いた大剣は、僅かに歪んでいた。
「ダイナ…っ!」
カオス・アリスはダイナの方を見る。転がった身体が
早く傷を回復する魔法で治療してあげなければ。
走ろうとしたところで膝から力が抜け、転んでしまう。カオス・アリスの消耗も大きかった。
まったく“この程度”でカオステラーになろうとしていたなんて。私は覚悟が甘いなと自覚する。
運命を変えてしまえば、想区が崩壊する危険性が必ず出てくる。それに決められていないことが起きるなら人の死や激しい戦いも起きることだろう。
予想も想像もしていた。
というのに、いざ怪我をしてみれば苦しさに呻いてしまうし、大怪我をしたダイナが気がかりになってしまう。
強く自分を突き動かした衝動あっての決意だったけれど、やはりイマジネーションではなく実際というものを見せられると、辛い。
ジャバウォックは死闘の末に倒したが、さらに正体不明のカオステラーも見つけ出さなくてはならない。
あーあ…。
これじゃまるで、私がストーリーテラー側の、運命の守り人のようだわ。
立っていられないので、ダイナの元へは這っていくしかない。自分を回復した方が早いと思い直すが、ジャバウォックとの戦いで力を使いすぎてしまい、ダイナの分の魔力を残しておけるかが分からない。
カオス・アリスは背後に足音を感じた。赤の女王のものだ。肩を貸してもらおうと振り返ろうとし、
「あっ…?」
衝撃を感じる。
左腕の感覚が既に無くなりかけていたので、腕を切り落とされたと気付くまでに少し遅れた。
次いで、右腕に大剣が振り下ろされる。いくら耐久力のあるヒーローだとはいえ、相手もまた強力なヒーローなのだ。カオス・アリスの上腕骨があっさりと砕け、肉が裂けて腕が転がる。
「がっ、赤の女王! あなたは…!」
何故?
どうして、と思うが、可能性は一つしかない。
「あなたが…カオステラーなのね」
「そう。いばらの森でジャバウォックを封印していたハートの女王をヴィランに襲わせ、封印を解いたのは私だ。カオス・アリスと共に戦わねば、あの怪物は倒せなかったことだろうな」
カオス・アリスにとってジャバウォックが障害となるならば、もう一人のカオステラーにとっても同じだった。カオス・レッドキングはカオス・アリスを利用していたのだった。
ハートの女王の封印はそう長くは持たない。故に、共闘して片付けられるうちに倒してしまおうと考えたのだろう。
でも、どうして?
白の騎士はカオステラーの攻撃で死んだ。
けれども白の騎士は赤の女王と共に行動していた存在だ。カオスサイドの仲間にするなり脅すなりして、彼のスキルを使えばジャバウォックを一撃で葬ることが出来たはずだ。
わざわざ赤の女王にとっても危険な戦いをする必要が無かったのではないか?
「どうして、という顔をしているな」
赤の女王が無慈悲にもカオス・アリスの左ももを刎ね、切り落とした。血が溢れて地面に広がってゆく。
「事故だったのだ、あれは…。“レイナ”に攻撃が集中しすぎた。私がカオステラーだということを知らぬ白の騎士は、『空白の書』の持ち主を庇って死んだ」
そしてそれは、ヴィランを用意しすぎたために起こったことだった。
「さざなみの草原にカオス・アリスが来たときに、私のヴィランを乱入させて、カオス・アリスを暗殺する予定だったのだ」
「ぐっ、がはっ…けれど私は、遅れてきた…というわけね」
赤の女王達を襲撃したヴィランは、自らの手勢だったというわけだ。
さざなみの草原に出現したヴィランは、カオス・レッドキングの障害となる可能性が大のカオス・アリスを排除するためのものだったのだ。
カオス・アリスを倒そうというのだから、相当な数を用意していたはずだ。けれどそれが裏目に出て、殺すべきではない者を死なせてしまったことになる。
「すぐに、ひっこめればよかったのに」
何故そうしなかったのかとカオス・アリスは痛みに耐えながら尋ねる。
「なあアリス、私が変えようとした運命が分かるか?」
赤の女王が演説でもするかのように、掌を広げて突き出した。
◇ ◇ ◇
『怠惰の国のカオス』では、赤の女王がカオス・アリスを説得するために行動していた。ヴィランの襲撃を退け、ジャバウォックと戦い、この先の困難に立ち向かうことをアリスに教える。
その過程で、初めての感情を抱く。
それは恋。
赤の女王は『運命の書』を持つ旅人、エクスと共に行動するうちに、特別な感情を持つようになる。
けれど、その恋が叶うことはない。どころか、すぐに儚く消える。
カオステラーが乱した物語を調律することで、全てが元に戻されるのだ。
赤の女王の記憶もまた消える。
最後に赤の女王は恋文をエクスに渡し、感情のひとかけらを伝えるのだが、その後『知りあい』として会うことは決してない。
◇ ◇ ◇
「あなたの狙いは私だけじゃなかった。調律の巫女もまた邪魔だったのね」
この想区においては『調律』もまた予定調和の儀式に過ぎないのだけれど、それでも運命を崩すには、レイナには退場してもらわなければいけなかったのだ。赤の女王の恋を邪魔する存在だから。
「この想区で起きることは決められた運命なだけだわ。ストーリーテラーが『お手本』を元に作った物語よ。本当に恋するわけじゃ、ないのに?」
それでも変えたかったの? カオス・アリスは問いかけた。
出血がひどい、だがヒーロー特有の生命力でカオス・アリスの意識は途切れない。会話をする余裕はまだあった。
「その通り。叶わぬ恋をする赤の女王の物語は、ここでは繰り返されるものに過ぎない。しかしだ、『赤の女王』という存在の願いが、叶う想区があってもいいのではないかと、思ってしまったのだ」
恋をしてはその感情が消えてゆく繰り返し。もしかすると、運命の書に従い、本当にエクスに想いを寄せては、別れゆく赤の女王もいたのかもしれない。
この繰り返しの『何のために?』や『何が故に?』はさておき、赤の女王はせめてストーリーテラーが『怠惰の国のアリス』をベースに作った物語の中だけでも、自分の
カオス・アリスを主人公とする想区の、もう1人の主人公。その切ない運命のアナザーを作ってみたくなった。
「理由としては、こんなところだ」
なんとまあそんな理由で、などとはカオス・アリスも思わない。
この想区でどれだけカオス・アリスの物語が繰り返されたかは分からないが、無数の赤の女王の想いが悪霊のように集まった結果なのかもしれないからだ。
「白の騎士が死んだときはどうなることかと思ったが、ジャバウォックを倒せた。カオス・アリスも虫の息。ストーリーテラーへの挑戦は、これでチェックメイトだ」
「うっ」
赤の女王が更に剣を振り下ろす。
大腿骨が砕けるのは、とても嫌な感覚!
右足が離れ、もはや身動きが取れなくなった。カオス・アリスは負けたと思った。
もうじき死ぬ。
運命から外れたはいいものの、このような結末が待っているとは。
物語にはバッドエンドもあるってことね。
「四肢を斬らせて貰ったが、遊んだわけではない。それだけカオス・アリスが脅威だったということだ。カオス・アリスが遅れてきたときは、私がカオステラーだとばれていたかと思ったのだよ」
赤の女王が大剣を振り上げた。カオス・アリスの頭を割るべく狙いを定める。
カオス・アリスは目を瞑った。死にたくはないが、こうまでされればもはや逃れることは出来ない。
と、その時だった。
突然、落ち着いた声が聞こえた。
「やれやれ、その結末はちょっとナンセンスすぎる」
重傷を負っていたはずのダイナが、すぐ近くに立っている。
赤の女王も驚いているようで、反応するまでに僅かな時間を要した。慌てて斬りかかろうとしたが、
「少し、落ち着いてくれないか。貴女の反逆は成功。ストーリーテラーを出し抜いた。それでよいじゃあないか」
薄ら笑いを浮かべたダイナが手を伸ばすと、赤の女王は煙に包まれ、一匹の猫に変わった。
「少し、席を外していてくれないかい?」
とダイナが言うと「にゃーん」という鳴き声を出して、猫が走り去っていった。
姿が見えなくなるまで眺め、やがてアリスを見おろしてくる。
「初めまして、アリス。心配しなくていい、僕は全ての
ダイナはそう告げてきた。いや、いつも「にゃーにゃー」言っていたダイナではない。別の何かだということは明白だった。
あなたは、誰?
地面から空を見上げるしかないカオス・アリスは、頭上の人物にそう聞いた。
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