最終話

 ミツルは、部屋の窓からぼんやりと外を眺めた。公園のブランコが見える。あのブランコに乗って、ずっと迷っていたあの日…。自分がこんな風になるなんて、思いもしなかった。ミツルは、深いため息をついた。ムーが伸び上がり、ミツルの膝のあたりに前足をかける。

「なんだよ。」

ミツルは、微笑み、ムーを優しく抱き上げた。


 ――競技大会は、真ん中くらいの成績で終わった。それでも、ユウタは結果に満足したらしく、

「僕って、才能あるのかな。」

と、笑っていた。そして…夏の終わり、ユウタは永遠の眠りについた。ミツルとムーに見守られ、静かに微笑んで旅立っていった――。


 「はぁ…。」

ミツルは、また、ため息をついた。ユウタのパソコンの画面に、ユウタの書いた小説が表示されている。あの雪の日、ドッグランのカフェでユウタがミツルに言っていた。

「僕がいなくなってから読んでね。恥ずかしいから。」

ユウタは、小説を書き上げていた。小説は、青年二人の友情物語だった。最後に主人公の青年は死んでしまうのだが、物語の中でこう言っていた。

「僕の人生は、草一本生えていないアスファルトの平坦な道をずっと同じペースで歩いているようなものだった。けれど、彼に出会ってからの僕の人生の道は変わった。緑の木々が連なり花が咲き誇り、曲がったり坂があったりする道になった。時に全速力で走ったり、立ち止まっていなければならなかったりすることもある。きっと、自分一人だったら、通ることのない道だったろう。でも、この道を彼と一緒に進むことができた。それが、何よりも嬉しくて誇らしいんだ。」

と。

 小説を読み終えたミツルの目と鼻は、真っ赤だ。ムーが、その頬をそっと舐める。

「ありがとよ。」

ムーの頭を撫でながら、部屋を振り返る。真っ白な部屋。初めてこの部屋に入った時、そう思った。見た目は、今も変わらない。けれど、今は目に見えないたくさんの色がついている。二人と一匹で塗った色だ。こんなに長くここにいられるなんて思わなかった。それは、ユウタが俺を許してくれたから…。俺を守ろうとしてくれたから…。


 ――ベッドから起きあがれなくなっても、ユウタは微笑んでいた。ミツルに水を飲ませてもらった後、ユウタは言った。

「幸せだなぁ…。」

ミツルは、

「そうか。」

としか言えなかった。それがユウタの本心だとしても、ミツルには笑って返す気持ちの余裕は無かった。ユウタは、そんなミツルの様子を見て言った。

「死にたくないなぁ…。」

ミツルの顔を見つめて、

「死にたくないよ、僕…。」

と、一筋の涙を流した。

「ユウタ…。」

ミツルは、ユウタを抱きしめた。ユウタは、ゆっくりと片手をミツルの背中にまわす。

「ミツルが来る前は、死ぬのに何の未練も無かったんだよ…。だけど、ミツルとムーが来てから…。僕は、死ぬのが嫌になっちゃったんだ。まだ、ミツル達と一緒にいたいよ…。もっと、いろんなこと一緒にしたいよ…。」

いつも笑っていたユウタが、体を震わせて泣いている。

「ごめん…ごめんな、ユウタ。俺がお前ん家に行ったりしたから…。」

ミツルは、ただユウタを抱きしめているしかなかった。泣き続けるユウタを、ただ抱きしめていた。ひとしきり泣いたユウタは、ミツルから腕を放した。ミツルも、そっとユウタから離れる。そして、涙に濡れたユウタの頬を優しく拭いた。ユウタは、笑顔になる。

「でも…僕は、死にたくないって思えることが嬉しいんだ。」

大会の時も、そう言っていた。ただ強がって言っているんじゃない。心からそう思って言っているのだろう。

「ユウタ…。」

「だって、死にたくないくらいの人生なんだよ?嬉しいよね?」

「…そうだな。ユウタの人生、最高だよな。」

ミツルは、何度も頷いた。ユウタが、少し真顔になる。

「ミツルは?」

「え?」

「ミツルの人生は?」

「俺の、人生?」

ユウタが、ミツルを見つめる。ミツルは、背筋を伸ばして、

「最高だよ。」

と、答えた。

「これからも?」

「ん?」

「僕が、死んだ後でも?」

ミツルは、無意識に顎を撫でた。それから、すぐに二ッと笑って、

「最高に決まってんだろが。」

と、親指を立てた。

「よかった…。」

ホッとしたようにユウタは笑った。ミツルは、ユウタの手を両手で包み込んだ。

「安心しろ。俺はもう何があっても、ちゃんとした人生送るから。約束する。」

「うん…。」

ユウタは、安堵の笑みを浮かべた。ミツルは、その笑顔に応え、微笑んだ――。


 ユウタが泣いたのは、それが最後だった。ユウタは、いつも笑っていた。それが、今のミツルにとって、気休めになる。一人で暮らしていれば、そう笑うことも無かっただろう。ミツルとムーが押しかけた事で、ユウタの人生は変わったのだ。ユウタは、後悔していなかった。そう思える。

 それにしても、この白い部屋は、色がつき過ぎた。あちらこちらに、ユウタの色が染み込んでいる。ミツルの目に、また涙が溢れ出す。

「俺…もう、ここに住めねぇよ…。」

ムーを抱きしめ、しゃがみ込むミツル。泣きじゃくるミツルの腕をすり抜け、ムーはテーブルの横にお座りをした。そこは、いつもユウタが座っていた場所だ。

「ムー…。」

ムーは、舌を出して息をしている。その顔は、笑っている様に見える。ミツルは、微笑んだ。

「…だよな。」

四つん這いでムーに近づき、ムーのおでこに自分のおでこをくっつける。

「ユウタは、ここにいるんだよな。」

公園で遊ぶ子供達の声がする。書き物をするユウタと、雑誌を読むミツル。そして昼寝をするムーが、よく聞いていた声だ。休日の午後、ゆっくりと優しい時間が流れていたのを思い出す。

「ホント、だらしねぇな、俺…。」

ゴロンと床に寝転んで目を閉じる。少し秋の混ざった風が、窓から入ってくる。教室で本を読むユウタの横顔が、浮かぶ。閉じた目から、また涙が溢れてきた。

「あー…。」

ミツルは、腕で顔を覆う。

「ホンット駄目だ、俺…。」

ムーが、ミツルの顔をペロッと舐め、その場でくるんと丸くなった。頬にあたるムーの体が温かい。小さな息づかいが伝わってくる。また、風が流れてきた。ミツルは、そのまま子供達の声を聞いていた。


 「あ、オヤジ?例のセラピードッグの件なんだけど。…ああ…うん。わかった、じゃあ…え?…ああ、ムーも連れていくよ。……いいよ、鯛なんて。贅沢させたら、こっちが困るって……ああ、わかった、わかったよ。…あ、それから、あの人に、もうムーの服は買うなって言っといてくれよ。…え?まぁ、わかるけど…ったく、しょうがねぇなぁ。いいよ。…ああ、うん。じゃあ、今夜な。」

ミツルは、大きなため息をついて、電話を切った。

「ったく…。」

スマホを見つめて、フッと微笑む。そして、足元のムーに言った。

「また、鯛が食えるぞ。」

ムーが目を輝かせ、尻尾を振る。

「そんでまた、ファッションショーだ。」

勢いよく動いていたムーの尻尾が、だらんと下がる。

「ハハッ。」

ミツルは、ムーの頭をクシャッと撫でた。

「ミッちゃーん!」

隣の部屋から、社長が呼んだ。

「お客様ですってー!」

ミツルは、社長のいる部屋へ移動した。

「誰?」

「記者みたいよ。はい。」

社長が、受付からの名刺をミツルに渡す。名刺を見たミツルは、眉を上げた。

「ユウタ君の小説の出版社の人?」

興味あり気に、社長が訪ねる。

「いや、ちょっとした知りあい。」

そう言って、ミツルはムーを抱き上げると、ロビーへ向かった。


 「お久しぶりです。」

ロビーで、羽鳥が待っていた。今日は、カメラは持っていない。競技大会時のTシャツにサブリナパンツから、薄手のセーターにスキニーパンツ、トレンチコートという服装の変化が、季節の移り変わりを感じさせる。

「久しぶり。」

ミツルは、軽く手を上げた。羽鳥の顔が、輝く。

「あー、あの時のワンちゃん!」

懐かしそうに、ムーを見た。

「いつも一緒なんですか?」

「まあね。」

ムーを足元に座らせ、ミツルはロビーのソファに腰をおろす。

「なんか、いいですね。相棒、って感じで。」

羨望のまなざしで、ムーを見つめる。ミツルは、プッと吹き出して、

「座れば?」

と、向かいのソファを指差した。

「あ、失礼します。」

羽鳥は、いそいそと腰かける。

「実は、今日伺ったのはですね…。」

大きなバッグから、封筒を取り出す。

「写真をお持ちしました。」

「写真?」

「競技大会の時、撮らせていただいた写真です。」

「わざわざ持って来たのかよ。」

「もっと早くお渡ししたかったんですけど、仕事がたて込んでしまいまして。ミツルさんも、お忙しいようだったので。」

「別によかったのに…。」

「パリでのお仕事、大成功だったみたいで。」

「え?まあな。」

ミツルは、封筒に手を伸ばし、写真を引っ張り出した。例のプリンの時の写真だ。自分で言うのもなんだが、春の海辺の街にムーと佇む姿が恐ろしいほど様になっている。すぐにでも何かの宣伝に使えそうな程だ。

「素敵ですよねぇ。」

向い側から覗き込む羽鳥は、うっとりとしている。

「あんたの腕も、なかなかじゃん。」

顎を撫でながら、ボソッと言うミツル。

「ありがとうございます!」

小首を傾げて、ニコッと笑う羽鳥。ミツルは、鼻を鳴らして、二枚目の写真を見た。ミツルは、息を吸った。ユウタが、いる。大会の時のユウタだ。ムーに指示を出す競技中のユウタだ。写真は、もう一枚あった。ミツルは、慌ててめくる。三枚目の写真には、ゴールしたムーを抱きかかえるユウタがいた。どちらのユウタも笑っている。ミツルがあの日、心に焼き付けた笑顔だ。

「すみません、勝手に撮っちゃって…。あんまりいい顔してたから…。素敵なものって、放っておけない質でして。でも、それも、いい写真じゃないですか?」

羽鳥が、覗き込む。

「うん…いい写真だな…。」

ミツルは、そっと写真のユウタに触れた。

「こいつ…死んだんだ…。」

ミツルの言葉に、目を見開く羽鳥。

「え?」

「ガンだったんだ。この時は、もう…。」

「そんな…。」

羽鳥は、写真を見つめた。

「頑張ったんだ…こいつ。」

ミツルは、写真に微笑みかける。

「こいつ、小説書いててさ。最後に書いた小説…出版するんだ。いい話なんだ。うん…いい小説家になれたよな。」

「そうなんですか…。」

羽鳥は、遠慮がちにミツルを見た。ミツルは、愛しそうに写真を見ている。羽鳥は、また写真に視線をおとす。まさか、この時病気だったなんて…。この時の二人の様子が脳裏に浮かぶ。二人は、楽しそうに笑っていた。羽鳥は、唇を噛んだ。

「フフッ。」

写真を見ていたミツルが、吹き出した。ハッとして、ミツルに視線を移す羽鳥。

「ホント楽しそうだな、ユウタ。」

ミツルは、写真を見つめて笑っていた。が、しばらくすると、

「はは…。」

笑い声は弱くなり、ついには両手で顔を覆ってしまった。そのまま、大きな体を前に折り曲げる。顔を覆った両手から、泣き声が漏れる。

「俺…いまだに泣いてばっかだよ…。」

人々の行き交うロビーの片隅で、ミツルと羽鳥は身動きもせずにいた。泣き伏すミツルを見つめていた羽鳥だったが、やがて立ちあがり、ミツルの丸まった背中に手を置いた。ミツルの顔に頬を近づける。そして、優しく、強く、囁いた。

「いいじゃない。それでも前に進んでるんだから。」

ミツルは、動かない。羽鳥は微笑み、身を起こした。それと入れ換えに、ムーがミツルの膝に前足をかけ、伏せたままのミツルの顔に鼻を近づける。羽鳥は、ニッコリ笑ってムーの頭を撫でた。

「いい子ね。泣き虫パートナーを、励ましてあげてね。」

それから、ミツルの背中を見下ろし、二ッと笑うと、その背中をパン!と叩いて、明るく言った。

「本が出版される時は、取材させてくださいね!」

そして、バッグから手帳を取り出すと、挟んであった写真を、テーブルの上のユウタの写真の横に置いた。

「あと、こんな写真も撮っちゃいました。では、また。」

羽鳥のパンプスの音が、遠ざかる。そして、ロビーの喧騒の中に消えていった。ミツルは、ゆっくりと顔を上げた。ムーが、嬉しそうに尻尾を振る。ミツルは、涙を拭いて笑ってみせた。

「おいで。」

ムーは、ミツルの膝の上にピョンと乗った。テーブルの上の写真に鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぐ。

「お前とユウタだぞ。あ…。」

ムーを抱くユウタの写真の隣に、ゴールしたユウタに手を振り返すミツルの写真があった。ミツルは、写真を手に取った。写真の中のミツルは、自分でも初めて見る顔で笑っていた。幸せそうで…ユウタみたいに優しい顔だ。

「俺…こんな風に笑ってたんだ…。」

ミツルは、フッと笑ってムーに写真を見せた。

「イケメンだろ。」

ムーは、写真を見せられ、首を傾げる。

「ヘヘッ。」

ムーをギュッと抱きしめ、ミツルは写真を大切にしまった。

「これから、忙しいぜ。」

ムーに語りかけると、

「ワン!」

と、元気な答えが帰ってきた。ミツルは、満足そうに微笑むと、

「行くぞ、ムー。」

と言った。ムーが、軽快に膝から飛び降りる。ミツルは、立ち上がり、颯爽と歩き出した。ムーが、後に続く。彼がこれから歩く道は、色とりどりの花が咲き誇る美しい道だ。けれど、もしかしたら、途中で急カーブしたり、塞がれたりする事があるかもしれない。でも、彼は、最後まで歩きとおせる自信があった。なぜなら、彼の行く道には、いつでもどんな時でも、優しく暖かい光が降り注いでいて、その光が力をくれると知っているからだ。ミツルは、ユウタが書いた最後の小説のラストのページを思い出し、微笑んだ。力強く、決意に満ちた優しい笑顔だった。


 僕の大切な親友

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僕と彼と犬と歩いた天国への道 草野隼 @ppg53

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