第12話

 アジリティ競技大会、当日。春の陽気が心地よく、競技に参加する人にも犬にも最高の環境だ。

「はー、いい天気だな。」

ミツルが、アウトドア用の椅子を車のトランクから出して広げながら、天を仰ぐ。

「最高のコンディションだね。」

ユウタは、ミツルから椅子を受け取り、腰をおろす。その足元に、ムーがストンとお座りをした。

「ムーも落ち着いてて、いい感じだね。」

頭を撫でられ、ムーは目を細める。

「こりゃ、見かけによらず、肝っ玉のでかい奴らだな。」

昨日、出かける時は、緊張すると言っていたくせに、本番近くなったら、この余裕。ミツルは、ユウタとムーの落ち着き様に、ただならぬものを感じ、期待を高めた。テーブルと自分用の椅子を出し、ミツルも腰をおろした。

「こんにちは。」

聞き覚えのある声に、ミツルは振り向いた。羽鳥だ。羽鳥が、カメラを持って立っていた。

「昨日は、失礼な事をお願いしてしまって…。本当にありがとうございました。」

羽鳥が、弾ける笑顔でミツルに礼を言う。

「ああ。」

素っ気なく返事をするミツル。羽鳥は、隣に座るユウタに挨拶をした。

「こんにちは。羽鳥といいます。今日は、大会の取材に来ました。」

短い髪を耳にかけながら、ユウタに笑いかける。

「こんにちは。鈴木ユウタといいます。記者の方ですか?だから、ミツルと知り合いなんだ。」

「いや、別にコイツと知り合いな訳じゃねぇし。」

「コイツなんて言って、仲いいんだね。」

ユウタが、意味ありげに頷く。

「ちげぇよ!昨日、会ったばっかだよ!」

ミツルが、むきになって否定する。

「え?そうなの?」

「はい。昨日、ワンちゃんを連れたミツルさんに一目惚れして。写真を撮らせていただきました。」

「へえぇー。」

顔を輝かせて、ユウタがミツルを見た。ミツルが、鼻の穴をふくらませる。

「はあ?何言ってんの?」

ユウタは、ニヤニヤしながら、

「じゃあ、今日もミツルの事、撮ってあげてください。出場しないけど。」

と、羽鳥に言った。

「はい。イケメンしっかりと撮らせていただきます。」

ユウタの言葉に、のる羽鳥。

「お、お前ら…ふざけんなよ。」

二人にからかわれ、うろたえるミツル。ユウタと羽鳥が、クスクスと笑う。

「笑ってんじゃねぇよ!お前、とっとと仕事しろ!」

羽鳥を指差し、シッシッと追い払う。

「はいはい。それじゃ、鈴木さん。がんばってくださいね。鈴木さんもイケメンだから、しっかり撮っちゃいますよ。」

「いえいえ。僕なんかより、ミツルを…。」

「いーから、行け!」

ミツルが、立ち上がる。羽鳥は、ペロッと舌を出し、軽く会釈をすると、本部の方へ駆けて行った。

「ったく、とんでもねぇ女だな。」

椅子に腰をおろし、ミツルは舌打ちをする。そんなミツルを、ユウタはうれしそうに見つめ、フフッと笑った。

「お前までからかうとはな。」

膨れっ面のミツル。

「ごめん、ごめん。でも、素敵な人だね。羽鳥さん。」

「そうかぁ?なんか図々しい女だよな。」

「正直な人なんだよ。」

「ユウタ…お前は、心が広いなぁ。」

「ふふ…。」

ミツルは、飲み物を取りに車へ向かった。ユウタは、羽鳥が駆けて行った方向を見た。それから、ミツルの後ろ姿を見つめる。そして、足元で寝ているムーに、

「意外とお似合いかもね。」

と、囁いた。


 大会は、順調に進み、いよいよユウタとムーの番がやってきた。

「落ち着いていけよ。」

ミツルの言葉に、笑顔で頷くユウタ。ミツルは、

「頼んだぞ。」

と、ムーの頭を撫でる。ムーは、ミツルを見上げ、「ワン!」と威勢よく鳴いた。

 ユウタとムーが、スタート位置に立つ。ミツルは、椅子から立ちあがり、祈るように両手を握りしめた。スタートの合図でムーが走り出した。柔らかい体をばねのように弾ませて、風のように走る。白くて長い毛が、太陽の光を浴びてキラキラと眩しく波打つ。ムーは、走る。ユウタの指示を聞き逃さないように。今のユウタがムーについて走るのは、至難の技だ。それをカバーするために、最小限の動きですむように特訓してきた。指示を出すユウタの動きが限られるから、他の参加者より条件はかなり悪い。ミツルは、心配でたまらない気持ちでユウタを見た。ユウタは…笑っていた。春の光の中、ぎこちない動きで、それでも喜びに満ちた笑顔を見せていた。再会した時よりも、ずいぶん痩せてしまっている。なのに、今のユウタは、生命力に溢れている。再会した時から見ているユウタの笑顔。今、ユウタは生きている。生きていることを楽しんでいる。あの笑顔を見ればわかる。幸せというのは、こんな気持ちなのかとミツルは思った。大切な人が笑っているだけで、こんなに幸せな気持ちになれるのだ。体の底から沸き上がってくる高揚感と、胸を締めつけられるような感情。嬉しいのに、泣きたくなるような気持ちになる。それでも、これが幸せなんだと痛感する。ムーが、ゴールインした。ユウタに駆け寄り、ユウタがムーを抱き締める。ユウタが、こちらを見た。嬉しそうに楽しそうに、これ以上ない笑顔でミツルに手を振る。ミツルは、思いきり振り返す。ユウタの満足そうな笑顔。ミツルは、目をこすった。この幸せを、しっかりこの目に焼き付けておこうと。

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