文字の霊とは文化そのものという理解でよろしいでしょうか?
村上春樹はデビュー作の『風の歌を聴け』の中でこんな感じのことを言っていました。
文化とは伝達である。伝達がされなくなったとき、それは消え去ってしまう。
パチン……OFFさ。
いま、手元にないので、うろ覚えで申し訳ないですが。
不滅の人はいない。
だが、伝達のされうる限りにおいては、文化は、文字の霊は不滅であり、人々の中で生き続ける、と。
素晴らしいテーマだと思いました。
作者からの返信
読了ありがとうございます!
「文字の霊」に当てはまるものはいろいろあるかと思います。
意味、記憶、物語、ミーム、文化……。
何かが伝わったのであればさいわいです。
私はどうやら未熟なようで、下手にレビューを書いても間違った評価をしかねないので、コメントに書かせていただきます。
まず、文字が美しいのは大変に同感です。私は美しい文字や言葉を綴りたくて小説を書いていると言っても過言ではありません。付け加えると伊藤計劃も大好きです。「屍者の帝国」では祖語や言葉がキーワードになっており(これは円城塔の発案かもしれませんが)、こうした文字に関する物語はとても惹かれます。
ところで、私は文字が物体や現象を象るとはあまり考えておりません。物体や現象を前提にして文字が存在しているのだという、ある意味の唯物論から離れることができないのです。それでもなお小説を書く上では、文字や言葉を作らなければなりません。ゆえに意識して物体や現象を形而上に近づけるようにしています。物体や現象を象るのは文字という道具を使う私自身だと思っています。
ですが、この小説でいう生得的な文字への認識というものにもなんとなく納得ができます。ブーバ/キキ効果や、オノマトペなんかも関連していそうですね。
作者からの返信
激アツコメントありがとうございます!
大変励みになっております!!
間違っているなどとんでもございません。
鋭いご指摘ありがとうございます。
島野自身『屍者の帝国』はドンピシャであり、モノを書くようになったきっかけでもあります。
本作は「言葉ありき」の主張ですが、島野としても「言語は思考を規定しない」が現実的かと考えております。
「言葉ありき」を貫けば語れるものは僅かしか残らず、人は沈黙せねばなりません。
沈黙を破るのであれば、待ち受けるのは齟齬と誤解です。
言葉は伝わるものの、その意味は決して正しく伝達されません。
時と共に風化し変質してしまいます。
けれど、もし言葉が先立つならば。
言葉が完全であれば、きっと齟齬なき意思の疎通を実現し、永遠を象ることさえできる。
そんなロマンを描こうと筆を執った次第でございます。
「物体や現象を象るのは文字という道具を使う私自身」というお言葉に、改めてモノを書く者としての責任を感じました。
精進いたします!