2 文字の霊
全てを蔵する書物の館。
アッシュール・バニ・アプリ大王の夢見る「図書館」建造のため、およそ全ての粘土板が大王の下に馳せ参じた。
膨大な粘土板はいずれも複写をとられた後、ニネヴェの図書館に蔵される。
その表面に葦筆を押し当て文字の複写する司書の指は、少しずつ磨かれていく。
アッシュール・バニ・アプリ大王の事業は何年にも及び、司書たちの手から指紋が消える程の粘土板が複写された。
そんな折り、とある司書が妙な噂を聞く。
「この図書館には文字の霊が潜んでいるらしい」
文字の霊。
目には見えぬが文字や人の中に巣食い、ある時は学者を盲しいさせ、ある時は若人の足を萎えさせ、ある時は戦士に恐怖を抱かせる。
書を読む人々を食い荒らす悪霊である。
だが、それだけではない。
文字の霊の本分は別にあるらしい。
乾いた目をしばたかせながら、司書はひそひそ噂をする。
文字の霊が一度何かを捉え、己の姿でそれを表わすと――すなわちそれが文字となると――それは不滅の生命を得る。
例え先王アッシュール・アハ・イディナがエジプトへ向かう陣の中で息絶えようと、「アッシュール・アハ・イディナ」という文字は残り、粘土板の中で生き続けるのである。
彼の功績もまた同様であり、「エジプトとエチオピアを統べし王」という称号は、文字のある限り先王アッシュール・アハ・イディナのものである。
文字の霊がある限り、それらは決して消えないのだ。
ゆえにアッシュール・バニ・アプリ大王は書記たちに命じた。
全ての文字を集積せよと。
文字にて全てを残せしめよと。
しかし。
なにゆえ、文字の霊の息がかかると不滅となるのか。
粘土板など叩けば割れる。
そこに記された文字は読めなくなる。
本当にこんなものが永遠を約束するのだろうか。
若き司書は、文字の霊の本質を理解していなかった。
*
司書はニネヴェの街を歩く。
通りは砂埃にかすみ、吹き抜ける風が喉を傷めつけた。
砂の味を噛み締めながら歩く最中、司書は妙なものを見る。
小躍りする老人。
頭を振り落ろしたかと思うと、びくりと仰け反りひぃと声を上げる。
手足も同時にびくりと動く。
そんな気味の悪い動きを幾度か繰り返す。
気でも違えたのだろうか。
しばし立ち止まり、老人の様子を盗み見る司書。
野次馬根性が彼の足を捉えて離さない。
眺めるうちに司書は気付いた。
ああ、あれはくしゃみか。
よくよく見ると、老人の小躍りはくしゃみのようであった。
砂埃を盛大に吸い込んでしまったらしく、何度も何度も口からしぶきを飛ばす。
もともと病気持ちだったのだろう、くしゃみのたび激痛が走り、びくんと身をのけぞらせていたのだ。
端から見れば踊り狂っているようでもある。
ようやく納得しその場を離れる司書であったが、彼は妙なことに気付いた。
私は、あれを「くしゃみ」だと理解した瞬間から「くしゃみ」として扱うようになった。
「あれはくしゃみか」と頭の中で唱えた瞬間、老人の狂った踊りは「くしゃみ」という振る舞いにまとまった。
老人の見え方が少し変わったのだ。
「くしゃみ」というのは大きく息を吸い、鋭い呼気と共に唾を撒き散らすもの。
彼の中ではそんな認識があった。
そして「くしゃみ」であると理解した瞬間から、老人の体の動きの中で、それらだけが目立つようになった。
踊り狂う手足は気にも止まらず、ただ大きな呼吸と飛び散る唾だけが見えた。
まるで石工が像を彫り込むように、くしゃみの細部を鮮明に捉えることが出来るようになったのである。
これはまことに不思議なことだ。
もし私が「くしゃみ」という文字を知らなければ、あの老人の振る舞いは「狂った小躍り」のままだっただろう。
目にとまるのも、地団太を踏む足や振り下ろされる腕、びくりと仰け反る背骨だっただろう。
「くしゃみ」という文字のおかげで、くしゃみが象られたのである。
ここで唐突な理解が訪れた。
ああ、これこそ文字の霊の力なのだ。
文字の霊は、おぼろな存在に確かな輪郭を与えることができる。
小躍りのような振る舞いの中、くしゃみの動きだけがはっきり見えたように。
文字の霊は、ばらばらの存在をより合わせ一つの現象として繋ぐことができる。
大きく開かれた口と、飛び散る唾に一連の流れを見出したように。
おそらく文字の霊は、石工の様に物事を彫り込み、大工の様にそれを組み上げる力を持っているのだ。
そして、一度組み上げられたものはそうそう消えない。
ドゥル・シャルキンのジッグラトのように、都が衰えた後も残り続ける。
現に彼は「くしゃみ」という文字を死ぬまで憶えているだろう。
そして、大きく息を吸い鋭い呼気と共に唾を撒き散らす者を見るたび、「くしゃみ」という文字がその振る舞いをくっきり象る。
文字は事象に形を与え、観念として記録できるようにするもの。
若き司書はようやく、かの霊の力を理解したのだった。
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