心を入れ替えるということ

「暇だぁー……」


 その一言に偽りは無かった。ユキは読み終えた本をガラステーブルへ置き、薄くなったアイスティーを一息で飲みきった。読んでいない本は腐るほど持ち合わせているのだから、それらを消化すればいいと口にするのは恐らく悪手、機嫌が悪くなるのは見えていた。

 特別、この男が不機嫌になったところで自分に害はない。害はないが、進んで気分を害するほど殊勝な性格でもなかった。


「散歩はいかがですか。私はこれから買い物があるので、少しならお付き合いしますよ」

「えっ、カイトさん付き合ってくれるのー!? じゃあ僕も外行くー!」


 四月の初め、気温は上がり洗濯物が乾きやすくなった。ベランダに衣類を干し終え掛け時計を確認すれば、時刻は十一時を周っていた。買い物を済ませたら昼食を作る。それから掃除をして、と一日のスケジュールを再確認。

 仕事が入らなければこのルーチンは変わらない。もっとも、新設したばかりの探偵事務所に、何度も何度も人が来るとも思ってはいなかった。


「でも別に今日はどっかでなんかあるってわけじゃないんだよねー。……まあ、歩きながら探せばいっかぁ」


 ユキはいわゆる社員、調査員に属する。所長ではないが依頼された内容の大半はユキがこなしていた。これは所長である彼女が忙しいことと、ユキがほぼ常にここ、住居を兼ねた探偵事務所にいることが原因だ。

 内容は愛玩動物の捜索、浮気調査、身辺調査といったよくあるものから運び、身辺の保護、立会人としての抜擢などよくわからないものまで様々、探偵というより万事屋、何でも屋といった表現が正しかった。

 それらをこなせるほどの体力と知力、精神力を持っているのだから人は見かけによらないとはこのことだ。


「……? どったの?」

「ああ……ユキはよく食べるので、お昼ご飯はドリアにデザートを付けようかと考えていました」

「あっ、ほんとー!? 今日のお昼すっごい楽しみー! カイトさんのご飯なんでもおいしーけど、洋食がほんと上手だよねー!」


 これでも、頭は回る人間だ。ふざけた口調に幼い振る舞い、それらに惑わされて辛酸を舐めさせられたあの時のことを忘れるはずがなかった。


「そう言ってもらえると嬉しいです」


 思ってもいない言葉を口にした。微笑みを作ることは得意だった。

 靴を履き替え、玄関を開けた。ユキさえ喋らなければ雑居ビル内は静かだ。取るに足らない会話をしながら階段を降り、ようやく外に出た。


「うっわぁ……やっぱりまぶしー……」

「……そういえば、陽射しは苦手でしたね。大人しく事務所に居てもよかったのでは?」

「えー! せっかくカイトさんが誘ってくれたのに断れって言うのー!?」


 無邪気な子供のような顔で喚く姿に胸焼けをしそうになった。親でなければ友人でもないが、ユキにそんな常識は通用しないのだ。


「ユキのしたいことをしていただきたいだけですよ」


 返す言葉はそれでよかった。


「えー? ……?」

「どうかなさいました……?」


 疑問符を浮かべたユキに倣い、耳をそば立てた。かすかに聞こえるのは子供の泣き声。幼い子供のような声に辺りを見渡してみるも、姿は見えなかった。

 それでも何を思ったか、ユキは一人で歩いていった。後をついていくと泣き声は大きくなった。大きくなったというより、声の正体に近づいていた。


 路地裏の少し外れた場所、薄暗い行き止まりで泣いていたのは、ほつれの目立つ長袖のワンピースを着た小さな子供だった。


「みぃつけた! ねぇねぇ、きみ大丈夫?」


 幼い笑顔で近づき、視線を合わせるようしゃがんで子供を撫でるユキ。勝手に触って怒られたり、怪しまれたりしたらどうするつもりだろう。

 ユキがしたいことは暇潰しだ。恐らくは困っている子供を親元まで送り届けようとでも思っているのだ。退屈であるのなら人助けも人殺しもしてみせるような男なのだから、内心は退屈を紛らわせる為の玩具が見つかったとでも思っているはずだ。


「う、ううぅ……」


 子供にしてみれば知らない大人が急に近づいてきたのだから、警戒されても仕方ない。泣き声は少しばかり小さくなり、濡れた目はじっとユキを見ていた。


「だいじょーぶ、だいじょーぶ。僕は皆からユキって呼ばれてるんだ、怖い人じゃないよ。きみを助けに来たんだ」

「ひっく……リンのこと、たすけに……?」

「そそ。だから、だいじょーぶ。怖くないよ。どうして泣いてるのか教えて?」


 怖くないと自称する言葉ほど信用ならないものはない。けれど子供には今の言葉が信じられるものだったらしい。無知なせいか、誰でもいいから助けられたかったのか。


「ん……あ、あのね、おばぁ、ちゃんが……う、うわああぁぁん!」


 語りだそうとした子供は急に泣きじゃくった。伝えたいことがあるのなら、要件を伝えることを優先したらいいはずなのに、情緒が安定していない子供にはまだわからない。

 自分のポケットをまさぐって困った顔をしているユキにポケットティッシュを渡せば、それを子供の鼻に当て「お鼻ぐじゅぐじゅだー」などと口にしていた。ゴミは適当なところに捨ててほしいが、してくれるだろうか。


「おばあちゃんがどうしたの? おばあちゃん、迷子になっちゃった?」


 子供は首を振った。泣き声を上げていようと、ユキの言葉が聞こえはしているようだった。それと、首を振った拍子に、ワンピースの襟、首筋の下辺りに丸い火傷跡が見えた。大きさは一センチに満たない程度だろうか。

 何はともあれ、自分が喋るにはまだ感情が追い付いていないみたいだ。


「んー、カイトさん。この子知ってる?」

「そう、ですね……。すみません、私は力になれそうにありません」


 なにかしらの著名人や、何度も会話を交わしたことがあるならともかく、ただの子供まで把握していると思っているのなら、それは間違いにほかならない。

 幸い、こちらの声は聞こえて、答える気はあるらしいのだ。質問を重ねていくしかないだろう。


「きみ、リンちゃんって言うんだよね。この辺の子?」


 首を縦に振った。


「お母さんとか、お家に居ないの?」


 首を横に振った。


「裸足だけど、どっかに落としちゃった?」


 首を横に。


「おばあちゃんに何かあった?」


 首を縦に。


「お洋服はおばあちゃんに着せてもらってる?」


 縦に。


「お母さん、あんまり優しくしてくれない?」


 縦に。


「お母さんとおばあちゃん、喧嘩しちゃった?」


 縦に。


 祖母と母になにかしらの一悶着があったのだろう。それを見て家から出てきたか。けれど、それだけなら祖母に何かあったと訴えるはずがない。

 何かがあったとしても、それは母が祖母に対してなにかしらの暴行を加えている可能性が高いうえ、母からは育児放棄されているに近い。靴を履いていないのは慌てていたか、そもそも与えられていない可能性すらある。

 それはそうと、昼食はどうしよう?


「リンちゃん、足痛くない? だっこしよっか?」

「でも……リン、重いよ?」

「僕、これでも力持ちなんだよ。このお兄ちゃんだって抱っこできるんだからー!」

「だからといって横抱きにするのはやめていただけますか」


 しれっと何をするんだ。近づいてきたと思えば、急に足を掬い上げるように抱き上げてきたユキを言葉を投げた。悪びれた様子なく笑うユキは私を下ろし、子供に両手を伸ばす。


「だから、大丈夫。おばあちゃん心配だし、リンちゃんの家教えてほしーな」


 傍から見れば児童誘拐の手口だ。

 それでも子供には安心できると、気を許してもいいと思ったのか、ユキの手の中へ子供は収まる。そのまま抱き上げたと思えば、ユキは私の方を見た。


「カイトさん、家教えてもらえたらリンちゃん、事務所の方でご飯食べさせてもいーい?」

「構いませんが、どうなさいましたか?」

「お昼ご飯遅くなりそうだからね。お腹空かせちゃうのは嫌だなぁって」


 子供のことを考えての発言なら、いくらか軽率な気もした。何かしらの問題が起きたのなら、ユキにちゃんと始末させようと思った。


「そうですね。確かに、親御さんの説得もあるでしょうし、時間は掛かりますか。なら……貴方の好きなものってありますか?」


 抱き上げられているおかげで、子供と目を合わせるのは容易かった。

 声を掛けて、薄く笑ってみた。少し怯えたような目で見つめてくる姿が少し滑稽だった。


「すきなもの……?」

「ええ。大切なお客様ですし、何か希望があればお作りしますよ」

「え、っと……わがまま言ってもいいの?」


 たどたどしく問いかけてくる子供の代わりに、ユキが答えた。


「いーのいーの。このお兄さんは優しーからね、ちょっとくらいわがまま言ったって怒られないよ」

「優しいかはわかりませんが、それくらいはわがままの範囲ではありませんし、昼食の材料を丁度買いに行くところでしたので、逆に助かります」

「すきなの、言っていいなら、えっと、そーめん食べたい。あったかいの」


 温かいそーめん。

 キッチンの様子を思い浮かべる必要はなかった。和食はあまり手を出しはしないけれど、たまにはいいかもしれない。


「今日のお昼ご飯、おかげで決まりました。ありがとう。……後は貴方の家を教えてください」


 柔らかく聞こえるようゆっくりと。子供に向かってそう伝えれば、小さく頷いた。


 言われるがままに案内されたのは塀に囲まれた平屋だった。

 手入れ自体はされているようで、がたが来ているとは言わないが、それでも充分古い建物だ。物音はなく、静か。誰も居ないのかもしれない。


「ここがリンちゃんのお家かー」

「う、うん」

「ふんふん。じゃあカイトさん、リンちゃんのことお願いね」


 荷物か何かのように子供を押し付けられたので受け取った。なにをどうするつもりなのだろう、この男は。


「あまり、警察沙汰になるようなことはしないでくださいね」

「えー。僕を何だと思ってるのさ」


 危険人物。

 犯罪者。

 目的のためなら手段を択ばない輩。

 一瞬で脳裏によぎったのはこの辺り。口に出しはしないけれど。


「心配なだけですよ」

「そうかなぁー? ま、いーけどね。リンちゃんのことよろしくねー」


 ゆるく手を振るユキの後ろ姿を眺めた。鍵も何も掛けられていないらしく、インターフォンを鳴らすことなく玄関の扉を開ける様子に溜息を吐く。

 不法侵入だとか、何か言われたりはしないだろうか。


「さて、買い物に行きましょう。そーめんの具はなにがいいでしょうか?」

「リン、ちくわすき。おばあちゃんもすきって」

「ちくわですか。それも入れて……そうですね、玉ねぎやにんじんは食べられますか?」

「たべれるよ!」

「いい子ですね。でしたら玉ねぎ、にんじんも入れて……」


 思ったよりも軽い子供を抱き続けるのは簡単だけれど、流石にいつまでも続けるのは面倒だ。どこかで子供用の靴と靴下を調達しなければ。

 すぐそこに子供の家があるのだから、持ってくればいいだけ。それはすぐに思いつく。


 けれど、子供に血の匂いを嗅がせるのは良くないこと。一般的にはそう言うのでしょう?


   △▼△


「僕のお仕事おーわり! カイトさーん、リンちゃーん、たっだいまー!」


 結果として、全ては丸く収まってしまったらしい。理由も方法もわからない。

 陽は落ち切り、子供はそろそろ寝る時間でさえあった。現に夕食と入浴を済ませた子供は重たそうに瞼を閉じそうでさえあったのだから。

 全て終えたと応接室へ現れたユキは、湿った唾液と酸っぱい胃液、それらを包み込む鉄錆の匂いを漂わせていた。表情は気の抜けたいつも通りの笑みを形作り、その背後にやつれた顔の女を引き連れていた。この様子を人に見られていなければ良いのだけど。


「おかぁ、さん?」


 時間が過ぎるのを待つだけだった子供は、たじろぎながらもその女を母と呼び、母というそれは、途端に涙を流し子供を抱きしめた。

 その時、子供の身体が一瞬強ばったのは見間違えでは無いはず。


「リン、ごめんね。守ってあげられなくてごめんね……お母さんね、リンもヤヨイも守れなくて、弱くてごめんねぇ……」

「お、かあさん……なかないで。どこか、いたいの?」


 力無く首を振る母親と、労る子供の光景。きっと感動的なシーンなのだろう。娘や母へ辛く当たり続けた女が心を入れ替えた、その光景は。


「……先にお風呂はどうですか?」


 突然すぎる展開に、口をついて出たのはユキに対する一言。慣れない匂いが不快だった。


「そーする!」


 応えたユキは胸を張って浴室へ。

 残された二人には新しいお茶を。

 解決したと言うのなら、それでいい。


「あ、イクエさん。お風呂から上がったら、リンちゃん貸してねー」

「っ、ええ、ええ……」


 朗らかなユキとは対称的に、涙ぐみながら答える母。二人の間で交わされる意味深なやり取り、その詳細はわからないが……ユキが、何かをしたのだけは確か。

 それが魔法であれ、催眠であれ、私には理解の出来ないことであるのも確かだった。方法を知ったところで真似することが出来ないのなら、知らないままで良い。時間の無駄だ。

 けれど、一つだけ。


「……祖母は何処へ?」


 好奇心から、ではなく、確認からだった。家から漂ってきた血の香り、恐らくだがあれが祖母のものだ。母の身体に傷跡が無いのがその証拠、微かとはいえある程度の距離があったとしても感じ取れるほどの出血をしていたのなら、きっと老体には過酷な傷であっただろう。

 ユキが何をしようとどうでもいい。が、その過程で死体が出来ていたのなら。多少は面倒なことになるのは明白だ。


「ん、あー。おばあちゃん。……カイトさんは気にしなくていーよ、大丈夫」

「ですが……」

「お母さんが心を入れ替えたんだよ? 何も心配することないって」


 聞きたいことはその事に関してではなかった。けれど、答える気が無いのもわかった。なら聞くだけ無駄だろう、溜め息を吐いて未だに抱き合う二人への対応を済ませることにした。

 後日、老女の行方不明が新聞の隅を飾ったが、目撃情報は無く、噂も立つことは無く、忘れられるばかりだった。

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雪猫断片集 @whispering

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