2. ホワイトデーまでの一カ月間
家に帰り、早速紙袋から箱を出す。
ゴールドのリボンをほどき、紙袋と同じデザインのロゴがプリントされた包みを開ける。
箱を開ける。中にはシンプルなチョコが十二個、行儀よく収まっていた。
見た目からして、中に得体の知れない液体が詰まっている系のチョコではなさそうだ。俺は「チョコを食べる」時は、中までしっかりチョコな方が好きなので、これは嬉しい。
コーヒーを淹れ、一粒口に入れる。
途端にカカオの香りがふわりと口の中に広がる。コクのあるミルクをふんだんに使っているらしく、とろけるような食感と甘さが印象的だ。
これだよ、これ。最近、苦味の強い甘くないチョコをよく見かけるが、なんだかんだ言っても俺はこっちの方がいい。
俺がチョコに求めるものは優しさだ。酒に合わせる大人の苦味ではなく、心を滑らかに包み込んでくれる甘い優しさだ。
例えるならばそれは、
「水谷さん、はーい」と言ってチョコをくれた時の、
氷室さんの笑顔のような。
「…………」
俺は箱の蓋を閉めた。
これから、一日一粒ずつ大事に食べよう。
そうすれば残りあと十一日、氷室さんの笑顔に会える。
寝る前に、想う。
氷室さんは、どうしてこれをくれたのだろう。
そしてホワイトデー、何を贈ろうか。
ホワイトデーのお返しに悩む。
そこには例年の面倒くささはない。
けれども暗闇の中一人悩み続けるうちに、俺の心の中を甘い苦しさが滑らかに侵してゆく。
甘い筈なのに苦い。
チョコレートみたいだ。
✨✨
とか、中途半端に気取った比喩を使って悩んでいる場合じゃない。月日はあっという間に過ぎていく。
グループ男子一同の名義でのお返しは購入済みだ。一人五百円ずつ出し合い、前田が某巨大通販サイトで洒落たスイーツ詰め合わせを買った。
だが、俺がもらったチョコは五百円ではない。
嫌らしいかなあとも思ったのだが、家で氷室さんがくれたチョコの値段を調べてみた。
あのチョコは、デパートやスーパーで売っているメーカーのものではなかった。彼女の住んでいる場所の駅前にある、個人経営のケーキ屋のものだった。
その店にHPはない。ブログだけだ。しかも内容の殆どが店主の日記みたいなもので、詳しい商品一覧などはなかった。
だから正確な値段は分からない。だが他の商品から推測する限り、そこそこの値段はしそうだ。
つまり、五百円の「義理返し」以外に、俺個人でホワイトデーに何かを贈っても、不自然ではないのだ。
で、どうしよう。
食べ物系にしようというのは最初から決めていた。
下手に残るものを贈って、「ありがとう、でもどうしようコレ」という状態になったら却って申し訳ない。
俺はセンスのなさにかけては誰にも負けない自信がある。
例えば普段着。赤い正方形の中にカタカナ四文字のロゴの、あの店のものが中心なのだが、あの店に頼っていると、大きく外した服装になるリスクを避けられる代わりに、「お洒落を考える」という思考回路が鈍って来る。
自分の服だってそうなのに、女性の好きそうな雑貨系なんか分かるはずがない。
でも食べ物系も難しいのだ。
「おいしい」は、絶対条件だ。俺にとって食べ物は「おいしいかおいしくないか」であって、ブランドや見た目は二の次、三の次だ。
でもプレゼントの場合は、ブランドや見た目も大事だろう。ぱっと見の雰囲気で、俺のセンスが問われる。
……ああぁ、食べ物も、結局はセンスか……。
そしてどの位のものを贈ればいいんだ。
義理返しの五百円はノーカウントとして、もらったものより少しいいものを贈った方がいいだろう。だがあまり高価すぎても却って引かれるだろう。
どうしたらいいんだ。好きな人からもらった、義理だけれども、人より大きなチョコのお返し。
下手に考え過ぎて滑るのも嫌だし、かといってありきたりなものを贈ってスルーされるのも嫌だ。
✨✨
そんな事を考えているうちに、遂に三月も何日か過ぎてしまった。
職場での氷室さんは、相変わらず可愛い。
仕事の出来は普通だが、誰にでも優しく明るい態度で接し、電話や来客の応対もいい。
席が隣という事もあり、たまに仕事の事以外のちょっとした雑談をふってくることがある。そんな時、俺は極力淡々と言葉を返す。
極力淡々と。決して、愛おしいという感情が溢れ出ないように。
✨✨
今日は早く仕事が終わったので、いい加減やらねばならぬ事――ホワイトデーのプレゼント選び――をするために、会社から少し離れた所にあるデパートの地下に行った。
そのデパートの特設会場ではホワイトデーフェアをやっているのは知っているが、なんとなくそこへ行くのが恥ずかしいので、地下の食品売り場で何か選ぼうと思ったのだ。
そういえばホワイトデー当日、プレゼントをどう渡そう。
この日は午後から、氷室さんと二人で取引先に行くのだが、その後氷室さんは直帰、俺は社に戻る事になっている。
だからタイミングとしては、氷室さんが帰る時がいいかなあとは思うのだが、そうなるとあまり大きなものは買えない。鞄の中に隠し持てるくらいのものにしなければ。
そんな事を考えていると、目の前に紅茶専門店らしきものが現れた。
そう言えば氷室さん、紅茶が好きだと言っていた。俺は完全なコーヒー派なので、それを聞いた時、少し悲しくなったものだ。
そうだ、紅茶とかどうだろう。重くないし、大きさだって大したことないだろうし。
そう思って改めて店を眺め、
目に飛び込んだのは、
店の壁一面を埋め尽くす、巨大な紅茶缶、缶、缶。
……これ全部種類が違うのか。一体何十種類あるんだ。いや、「何十種類」じゃ済まない量だ。俺はお店の人を捕まえて散々色々尋ね、閉店間際まで迷ってやっと一缶買った。
まあ、一缶だし、と値段を見ずに買ったら、取引先に贈るお歳暮並の値段で度肝を抜かれたが仕方がない。おまけにと思って買ったチョコと一緒にラッピングをしてもらい、閉店の音楽に追い払われるようにしてデパートを後にした。
✨✨
地下鉄の改札を入った時、俺は心の中に奇妙なもやもやがある事に気がついて立ち止まった。
ホワイトデーのこと。
俺、何か考えが間違えている気がする。
✨✨
そして3月14日。ホワイトデーの朝。
俺は氷室さんへのプレゼントを持って出社した。これ、机に着いたら紙袋と中身を分けて鞄の中に押し込まなければ。
結構早く出社したつもりなのだが、偶然、部長とエレベーターが一緒になった。
部長は大きな紙袋を提げている。中にはブリブリデコデコキラキラファンシーなラッピングをされたものがごちゃごちゃと詰まっている。奥さんセレクトのホワイトデーのお返しだろう。絶対に部長の趣味ではない。
「部長も大変ですね。お返したくさんしないといけないですから」
何か喋らないと息が詰まるので、俺は部長の紙袋を見て言った。
「いやいや。こういったら何だけど、自分で選んだり買ったりする訳じゃないからね」
まあ、そりゃそうだろう。ソレが部長セレクトだったら驚きだ、とは勿論言わない。
「でも嬉しかったよ、あのバレンタインプレゼント。家に帰って息子にあげたらさ、凄い喜ばれて、『ぱぱ、かっこいー』って、なんで俺がかっこいいんだよって思ったけれど、それで」
以下略。
部長は息子の事になると話が止まらない。
✨✨
「で、それも、そうなんだろ?」
エレベーターを降り、会社のフロアに入る頃になって漸く、部長の「困った困ったと言いながら繰り広げる息子自慢」が一段落した。
「え?」
「ホワイトデーのだろ?」
ああ、この紙袋か。俺は曖昧に笑った。
「ええまあ、氷室さんへのお返しなんですけれど、なんかリーダーだからって私だけ大きいチョコもらっていましたんで、一応皆で買ったお返しの他にも、一応何かしないとなーと一応思いまして」
今、「一応」って三回続けて言った気がするがまあいいや。部長は俺の紙袋を見ながら言った。
「そこの紅茶、おいしいよな」
「え、ご存じなんですか? 私よく分からなくて、店の人に一応聞いて一応これがいいかなあと思って、一応一缶選んだんですけれど」
「へえ。うち家内が紅茶好きでね。でもここのは特別な時しか買わないよ、じゃない買えないよ。うちこれから息子にお金かかるし……」
お、また来るか息子自慢、と思って身構えたが、部長はそこで言葉を切り、少し間を置いて「一応、ね」と呟いた。
「そう言えば、今日は午後から氷室さんと外だったっけ」
「はい、遅くなると思いますんで氷室さんには直帰してもらって、私だけ戻りま」
「あ、いいよ」
部長は俺の言葉を遮り、言った。
「今日は直帰でいいよ」
「え、いやでも帰ってから明日の資り」
「いいから」
何だそれ。俺だけ戻れって言ったの、部長だったじゃないか、と思い、尚も反論しようとした時、部長がぽん、と肩を叩いた。
「一緒に、直帰でいいよ」
目尻に皺を寄せ、微笑む。
そのままくるりと後ろを向き、自分の机に向かう。
✨✨
プレゼントを鞄に押し込んでいる時、俺は突然気がついた。
ああ、そうだ。
俺は、大事な事を忘れていたんだ。
氷室さんは、俺に大きなチョコをくれた。
それは何故か。そればかり考えていた。
そうじゃないだろ。
それをもらって、俺はどう思ったか。
中身が自分好みのチョコだと知って、どう感じたか。
彼女にどう思って欲しくて、ホワイトデーのプレゼントを選んだのか。
そして。
俺は彼女を、どう思っているのか。と、
俺は彼女に今、何を伝えたいのか。
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