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「どうしたんだ。騒々しいな。今日はカレーか、いい匂いだな」


「父ちゃん、大崎って母ちゃんの旧姓だよな。大崎時正って、知ってる?母ちゃんの遠い親戚かな?父ちゃんもこの間、家で逢っただろう」


「家で母ちゃんの親戚に逢うわけないだろう。大崎時正?母ちゃんの父親は大崎時宗おおさきときむねだし、母ちゃんの祖父ちゃんは確か時三ときぞうだったはず。大崎家の男子は、代々『時』の字を名前に付けるのが習わしだったからな」


「じゃあ母ちゃんの隠し子ってことねぇよな」


「馬鹿なこと言ってんじゃないよ。母ちゃんに隠し子がいるわけないだろう。母ちゃんは父ちゃんにぞっこんだったんだから。もちろん父ちゃんは母ちゃんよりもぞっこんだったけどな」


 ていうか、このノロケも以前聞いた気がする。


「そういえば……、大崎の祖父ちゃんに兄弟がいたような話を、昔母ちゃんから聞いたような……。名前は思い出せないけど、親戚かもしれないな。

 大崎家のご先祖様はもう永代供養にしてある。仏壇の引き出しに大崎家の過去帳があるはずだ。桃弥、調べてみろ」


「大崎家の過去帳?」


「大崎家のご先祖様の法名、俗名、死亡年月日が書いてある帳簿だよ」


 俺は仏壇に手を合わせ、引き出しを探る。引き出しの奥から、黄色く変色した過去帳が出て来た。


 大崎家のルーツを探る過去帳。

 大崎時宗は母の父親、母の祖父は時三。


 過去帳の中に、俺は『大崎時正』という名前を見つけた。


 時正は俺の祖父(時宗)の弟だった……。


 ――死亡年月日は……


 昭和20年8月6日……。

 享年17歳。


 8月6日……?

 音々が言っていた男子は、昭和20年にすでに亡くなっていた。


「一体、どういうことなんだ?大崎時正は第二次世界大戦で死んでる……」


「桃弥、時正がどうかしたのか?時正は誰だったんだ?」


「……祖父ちゃんの弟だよ。時正はもう死んでるんだ。第二次世界大戦で死んでるんだ」


 なんでだよ。

 涙が勝手に溢れて止まらない。


 どうして自分が泣いているのか、どうしてこんなに悲しいのか、自分でもよくわからない。


 でも……胸が締め付けられるように苦しくて、感情が破壊されたみたいに心が痛くて、嗚咽が漏れ、涙がとめどなく流れた。


「どうしたんだ。桃弥?大丈夫か……」


「俺にもわかんないよ……。勝手に……涙が溢れて……止まらない……」


「死亡年月日が昭和20年8月6日なら、原爆で亡くなったんだな。まだ若いのに、可哀想に。たった一発の原爆が大勢の人をあやめた。

 母ちゃんの祖父(時三)は、祖母と一緒に深夜遅く、中島新町に住んでいた曾祖母やご近所の方と運良く県外に逃れて被爆を免れたそうだよ。母ちゃんの父(時宗)も、8月6日は県外に逃れていたそうだ。時正も両親と一緒に県外に逃れていたら、今も生きていたかもしれないのにな……」


「父ちゃん……俺、ねねの家に行ってくる」


「こんな時間に、隣へ?」


 俺は携帯電話を脱衣場に置いたままだということを思い出し、脱衣場に戻る。


 携帯電話を掴んだ時……

 ゴミ箱に視線が向いた。


 ゴミ箱に捨てた1枚の紙。

 それは何かのビラのようにも見えた。

 紙に着色はない、黄ばんだ白い紙と黒い墨だけ。


 雷に打たれたようなすざまじい衝撃が、脳裏を切り裂く。


 紙に触れた途端、モノクロームの世界が脳裏に甦り……パズルのピースみたいに、なくしていた記憶を埋めていった。

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