第9話 先に言ってほしい
「お、アシタじゃねえか。遅かったな」
「こっちこっちー」
大浴場に行くと、ラッセルとエルシィが先にお湯に浸かっていた。
見回すと、天井は吹き抜けになっていて、空には星がちらちらと瞬いている。ちょろちょろと、お湯が岩でできた湯船に流れ込んでゆく音が湿気を帯びた空気に響いて、なんとも心地が良い。
「いい風呂だな……」
つぶやいて、備え付けられていた木製の桶でお湯を汲み、自分の身体にかけた。身体の汚れが清められるようで、気持ちが良い。桶から漂う木の香りも、心の安らぐような優しいものだった。
全身を流し終えて、僕も浴槽に足をつける。
「ふうぅ……」
膝のあたりまでお湯につけただけでも、なんともしまりのない声が漏れた。あたたかくて、気持ちが良い。
腹の上あたりまで湯船につかってから、ゆっくりとお湯の中を中腰で歩いて、ラッセルとエルシィの隣まで進んだ。
エルシィの隣に来たところで、僕はゆっくりと身体を湯船に沈めて、肩までお湯に……。
「ウワァァァァァァァァ!?!?」
「え、なに!!」
僕は思い切り立ち上がって、飛びのいた。
「なんでエルシィがいるんだよ!!」
僕が大声を上げると、ラッセルはげらげらと大笑いして、エルシィはきょとんとしていた。
あまりにも自然にエルシィが景色に溶け込んでいたものだから、接近するまで違和感に気が付かなかった。胸の上まで白い布を巻いたエルシィは、不思議そうにこちらを見ている。
「いやいや、なんでって」
「ここ、男湯だろ!?」
「いやいや、この時間は混浴だってオーナーさんも言ってたでしょ」
は? 混浴?
エルシィの言葉で、記憶を遡ってみるが、正直まったく記憶にない。ウーナを宿に入れるためのハッタリをかましたことで僕の緊張度はマックスまで高まっていたのだ。オーナーの話はまったく耳に入ってきていなかった。
「聞いてなかった……」
「あー、なるほど。それでかぁ」
エルシィが、合点がいった、という風に頷いた。
「なんのことだよ」
「いや、さっき『あたしも入る』って話をしたのにリアクションが一切なかったからさ。もうちょっと慌てたりするの期待してたんだけど」
「そういうことか……」
僕の方も、廊下ですれ違った時のエルシィが一瞬気に入らない表情を見せた理由が分かった。
「まあそういうわけで、仲良くお風呂入ろうよ」
「いやいや、勘弁してくれ」
「裸の付き合いって言うでしょ」
「そういうのは異性同士で使う言葉じゃないから!!」
エルシィと僕が言い合っていると、ラッセルが再び可笑しそうに笑い声を上げた。
「ほんと、お前ら仲良いよな」
「ラッセルもなんとか言ってくれよ」
「いやいや、冒険者は普通に男女で風呂に入るぞ。風呂で作戦会議なんてのもよくあることだ」
「そうなの!?」
とんでもない文化だ。僕が目を白黒とさせていると、ラッセルが僕の肩をぐいとつかんで、湯船に肩まで強引に沈めた。
「いいから、入っとけって」
「ぐえっ」
思い切り尾骶骨を岩の湯船の底にぶつけて、僕は顔をしかめた。おそらくこれでもラッセルは力を加減したのだろうが、まだ甘い。僕の身体はデリケートなのだ。
尻をさすりながら視線を上げると、正面には気持ちよさそうに湯船につかるエルシィがいた。肌は少しだけ麦色に焼けており、健康的な肌が浴場の淡い灯火の色を反射させていた。ぼんやりとエルシィを眺めていると、ふとエルシィがこちらに視線を向けてきて、ばっちりと目が合ってしまった。
「ん?」
小首を傾げるエルシィから、僕はスッと目を逸らした。正直に言って、目に毒だ。今まで言及を避けてきたが、エルシィはかなり、出るところが出ている。具体的に言うと、掌サイズの鉱石を挟んでも綺麗に隠れてしまうくらいには大きいのだ。どこがとは言わないが。
白い布で隠れているとはいえ、身体のラインはばっちりと見えてしまっている。女性に対してそこまで耐性のない僕にはとても処理のおいつかない光景だった。
「しかし、アシタも来るのが遅かったよなぁ。俺、のぼせちまいそうだよ」
「ウーナといろいろ話してたからな」
「へえ、いろいろねぇ」
ラッセルがにやつくのを肘で小突いた。
「普通の話だよ! 普通の話!」
「分かってる分かってる、ちょっとからかっただけだって」
ラッセルはにやつきながら、ばしゃりと湯船から立ち上がった。
「のぼせそうだから、先に上がるぜ。お前らも長風呂しすぎて体調悪くしないようにな」
「はいよー」
「え、ちょ」
僕は慌ててラッセルの腕を掴んだ。
「なんだよ」
「も、もうちょっと入ってろよ」
「いや、だからのぼせそうだって言ってんだろ?」
ラッセルはピッと僕の手を払いのけて、にやりと笑った。
「二人でゆっくり、入って来いよ」
「いやいやいや」
僕の制止も聞かずに、ラッセルはからからと笑って、浴槽を出て行った。
「相変わらず風呂の短いやつだなぁ。ラッセルはさ」
エルシィはラッセルの後ろ姿を横目にそう言った。
「まだ20分も入ってないよ」
「20分って短いのか?」
「短いよ! 1時間くらいは入るでしょ、普通!」
くわっと口を開いてそう言うエルシィだが、対して僕は眉根を寄せた。
「1時間も湯船に入るのは普通じゃないだろ……」
「えぇ? そうかなぁ」
エルシィはうーんと唸りながら首を傾げている。
僕は考え込む彼女をよそに、困惑しながら夜空を見上げた。
なんだ、この状況は。
ウーナが身体を拭きたいというからそそくさと風呂にやってきたというのに、今度はエルシィと二人きりで入浴ときている。まあ、かなり大きな露店風呂だから、二人の間の距離はあまり近くないという点は大変救われているが。
「アシタさぁ」
僕がぼんやりと夜空を見上げながらひたすらに参っていると、エルシィがちゃぷちゃぷとお湯の表面に手を浮かせて遊びながら、声をかけてきた。
「今回も来ちゃったねぇ」
エルシィはくすりと笑って、僕に視線を寄越した。
何かを含むようなその視線に、僕は小さく息を吐く。
「どういう意味だよ」
「いや、そのまんま。正直、あの話の流れで、アシタが一緒に行くとは思わなくてさ」
エルシィは再び湯に浮かせた自分の手に視線を戻して、「ちょっとびっくりした」と付け加えた。
確かに、それについては自分でも驚いている。正直、僕が本当に行かねばならないかといえば、そうとも言えない状況だと思った。
そもそも、冒険者でもなく、何かの専門家でもない僕が『行かねばならない』状況など存在しないのだ。確かに僕は冒険者と比べて知識を蓄えてはいるが、その道一本にしぼっている研究家よりも知識があるかと訊かれれば、自信があるとは言い難い。
だというのに、ラッセルに頼られて僕が首を縦に振ってしまったのは、おそらく……。
「自分の目で見るのも」
僕は投げ捨てるように、ぽつりと言った。
「自分の目で見て、知識を深める。そういうのも、いいのかもなって思ったんだよ」
エルシィの方に視線をやると、彼女はぼーっとしたように僕を眺めていた。
じっと見つめられて、僕は少し照れくさくなる。
「な、なんだよ」
「あ、いや、別に」
エルシィも我に返ったように僕から目を逸らして、視線を水面あたりでうろうろとさせた。
「それってさ」
エルシィが、小さな声で、僕に訊ねた。
「少しは、冒険してもいいって思ったってこと?」
僕はその問いにどう答えたものか、悩む。自分が冒険をしたいのかと訊かれると、答えはノーだと思う。しかし、冒険をした先で、自分の知識を活用できるタイミングや、その知識をさらに深める何かと出会うことには、少なからず快感を感じていた。
「正直、自分でも分からない」
率直な感想を口にした。
「ただ」
僕は小さく息を吐いてから、ゆっくりと言った。
「絶対に本屋から出たくない、っていう気持ちは、少しだけ薄れたのかもしれない」
僕はそう言って、岩の浴槽にもたれかかって夜空をもう一度見上げた。
ちらちらとまたたく星空は、僕の家の付近から見るものよりも、少しだけ明るく見えた。身体が温まっていることもあってか、いつもよりうっとりと星を見つめてしまう。
ふと、エルシィが何も言わないことに気が付いて彼女に視線をやると、エルシィは今まで見たこともないような表情をしていた。
唇をくっと噛んで、上がりそうになる口角を無理やり押さえているような、そんな表情。
「なんだお前、その顔は」
「い、いや、別に?」
エルシィはわざとらしくぱちくりとまばたきをして、ばしゃりと湯船から立ち上がった。
僕は慌てて彼女から目を逸らして、声を荒げた。
「突然立ち上がるなよ!」
「なんで」
湯船から出ようとしていたエルシィがこちらを振り返る。白い布に包まれた尻が、こちらに突き出されていて、僕は視界の中からそれを追い出そうとさらに横を向いた。
「目のやり場に、困るんだよ……」
僕が言うと、エルシィははっとしたように慌てて湯船から上がって、身体をこちらに向けた。
そして、ぽつりと言う。
「アシタって、あたしのこと女だと思ってないのかと思ってた」
「は? どう見ても女だろ」
僕が言うと、エルシィは再び先ほどと同じようによく分からない表情をした後に、僕に背を向けた。
「も、もう上がる」
「1時間は入るとか言ってなかったか?」
「なんかのぼせた!」
そう言い放って、エルシィはそそくさと浴場を出て行った。
なんだあいつ。
僕は溜め息をついて、深く浴槽に体を浸からせる。ようやく、ゆっくりと風呂を楽しむことができそうだ。
視線を上げると、星空に、月が煌々ときらめいていた。
それをぼんやりと眺めて、実感した。
「冒険に来ているんだな」
言葉にすると、さらに実感が強くなった。
いつもとは違う場所に、勢いで来てしまった。
ずっと本屋に引きこもっていた昔からでは考えられないことだ。
この変化が自分にとって良いことなのか悪いことなのか、僕にはまだわからない。
湯船の表面にちゃぷちゃぷと波立つ波紋が、妙に僕の心を揺らした。
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