獣と書店員


 ……ここは、どこだろうか。


 ふと目を覚ますと、私は暗い洞窟の中にいた。

 どうやって私はここに来たのだろう。

 ここに来る前は、確か……。

 思い出そうとして、すぐに気付く。

 思い出せない。

 私はどこから来たのか、何者であるのか。



 ―――拍子抜けだな……この程度とは。


 脳内で、誰かの声が響いたような気がした。

 いや、正確には、私の記憶の中で、この声が。

 ここに来る前に、誰かにそう言われたのだったか。


 混濁する思考の中、私は身体を起こす。

 そして、すぐに自分の身体の違和感に気付いた。


 脚が、どうもいつもとは逆方向に曲がっている気がする。

 そして、視線を下げると何故か縦方向に視界に入る、腕。

 手からは、鋭い爪が生えている。


 おかしい。

 どう考えても、これは人間の身体ではない。

 しかし、足踏みをすれば地面に足のつく感覚があるし、手をぶらぶらと動かすと空気を切るような感触が手に残った。

 どうやら、本当にこれが私の身体であるようだ。


 私は、元々こんな姿ではなかった。

 ……いや、元々私は獣であったのだろうか。

 ますます、記憶が混濁する。

 目を覚ます前の自分の姿がまったく思い出せない。



 パキッ……。



 反射的に、私は振り返っていた。

 十メートル、いや、数十メートル先か。

 どこからか、自分を凝視している生物がいる。すぐに気付いた。

 目を凝らすと、その姿が目に映った。

 私の目はこんなに遠くの物を捉えられる性能を持っていただろうか。ふとそんな疑問が胸中に浮かんだが、すぐに消えた。

 こちらの様子を伺っているのは、ウルフだ。

 私に見つかったことを悟って、私に対する警戒の色を濃くした。

 グルルと喉を鳴らしながら、後ずさりをしている。


 …………そういえば、腹が減っているような気がする。


 そう思ってから、私がウルフに向かって駆け出すまでの時間は早かった。





 困った。

 勢いでウルフの前足を引き裂き、心臓に爪を立て、殺めてしまった。

 自分の中から沸き上がった衝動的な“食欲”に駆り立てられて、身体が勝手に動いた。

 しかし、ウルフを生で食べるなど、人間のすることではない。


 そこまで考えて、私の思考は再び混乱した。


 私は、人間ではない。

 私は獣なのだ。もう間違いようがない。

 この視力、聴力、そして身体能力。

 疑いようもなく、私は獣だった。


 ではなぜ、私は仕留めたウルフを喰らうことをためらっているのか。

 胸中でせめぎ合う“衝動”に私は戸惑う。

「絶対に食べたくない」という心と、「今すぐに食欲を満たしたい」という心がぶつかり合っていた。

 私は急に怖くなって、その場を逃げ出した。


 なぜか、口にウルフの死骸をくわえたまま。





 驚いた。

 急に天井が割れて、人間が降ってきた。


 何故か口にくわえたまま持ってきてしまったウルフの亡骸なきがらをどうしたものか迷っていたところに、それである。

 私は咄嗟に距離をとったが、人間は私に気付いた様子はない。


 突然降ってきた人間は、自分の尻で踏みつけたウルフの死骸にたいそう驚いて飛び跳ねるように立ち上がった。

 人間は少しの間ウルフの前で独り言をつぶやいたり、手を合わせたりとしていたが、すぐにハッとしたように顔を上げた。

 そして、遠目から様子を見ていた私に気が付く。

 彼の目に、恐怖の色と、緊張の色が濃く映る。

 しかし、すぐにそれを打ち払うように、目の色が変わったのを感じた。

 あれは……強い、決意?


 人間の男は、突然その上半身を前方に傾けた。

 そして、中腰になり、手を前にだらりと下げる。

 何をしているのだ、彼は。

 私は興味深くその様子を見守っていたが、同時に、その様子を見ながら胸中で不思議な感覚が広がってゆくのを感じていた。


 まるで、“仲間を見つけた”ような安堵の気持ち。

 すぐに近づいてゆきたいような、そういう気持ちになった。

 しかし、目の前にいるのはどう見ても人間である。

 私とは違う生き物だ。

 私は、考えるよりも先に、スンスンと鼻を鳴らしていた。

 なぜそうしたのかは分からない。

 少しでも、彼のことを知りたかったのかもしれない。

 本当は彼は人間ではなくて私の同類なのかもしれないと、本能が勘ぐっていた。


 彼は、なんなのだろう。

 言葉は通じるのだろうか。

 目の前の人間のことが気になって仕方がない。

 ようやく話のできそうな存在が現れたのだ。

 私は妙に心強い気持ちになって、口を開いた。


「ォアッ! アッ! オェアーーーーーーーーーーッ!」


 そして、自分の喉から飛び出した奇声に、たいそう驚いてしまった。

 おかしい。

 思ったように声が出せない。


「ァオーーーーーーーーッ! ェアッ! オッ!!」


 もう一度試してみても、言葉を発することができない。

「あなたは誰」、それを訊きたいだけなのに。


 私がひたすらに戸惑っていると、目の前の人間が、妙な行動をとり始めた。

 目を見開き、大口を開けたのだ。

 そして。


「ォ゛ア゛ーーーーーーーーーーーーーーッ!!」


 奇声を発し始めた。

 どうしたのだろうか。身体の具合が悪いのだろうか。

「大丈夫ですか」と声をかけようにも。


「オアッ! アッェアッ! オッ!」


 満足に言葉を話すことができない。


「ア゛ァーーーッ! ォアッ! アッ、ォ゛ア゛ーーーーーッ!」


 彼も私の声に追随するように、意味不明な奇声を上げ続けている。


 そこで、ふと気付く。

 もしかすると。

 彼は、私が言語を話せないことを見越して、それに合わせてくれているのではないか?

 試しに、適当に発声をして彼の様子を見てみる。


「アッ! ェアッ!」

「ォア~、ゥアッ!」


 やはり、だ。

 私が声を発するのに合わせて、彼も声を出しているようだった。

 つまりそれは、私と意思の疎通を図ろうとしているということではないだろうか。

 ますます、彼に興味が出てくる。

 言葉が通じなくとも、近くに寄ればコミュニケーションがとれるのではないか、という淡い期待が胸中にふわりと沸き起こってきた。

 相手も同じ気持ちのようで、ゆっくりと、一歩一歩こちらに近づいてくる。


 もう少し。

 もう少しで、手の届くところに。


 私が彼に手を伸ばしかけた瞬間に、彼は私の側面にジャンプするように飛び出した。

 何が起こったのかと理解できないうちに、何か風を切るような音が私の鼓膜を揺らした。


 ドスッ!


 そして、肉に何かが食い込むような音。

 視線を動かすと、私の側面に飛び出した彼の脇腹に、矢のようなものが刺さっていた。

 そして、直線状に視線を上げると、弓を構えたゴブリンが立っている。

 彼はあれに撃たれてしまったのか。それを認識するのと同時に、もう一つのことに気付く。

 彼が私の横に飛び出してこなければ、あの弓は私に刺さっていたのではないか?

 つまり、彼は。

 私を守ってくれたのだろうか。


「っあぁ……ッ」


 苦しそうにうめき声を上げた彼を見る。

 混乱して、身体が動かない。

 何故、彼は私を助けたのだろう。

 なぜ、ゴブリンは私に向けて矢を放ったのだろう。

 私自身のことすら分からないのに、これだけのことが一気に起こられては何一つ理解することができない。

 助けを求めるように彼を見ると、彼も私のことを見ていた。


 私は、どうすればいい?

 言葉にならない問いを彼に投げかける。

 彼は、目を向いて、口を開けて。


「ォ゛ア゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」


 ゴブリンを指さして、叫んだ。

 何一つ分からない私にも、はっきりと分かった。

 とにかく、あのゴブリンを退しりぞければよいのだと。


 そう分かった瞬間の私の動きは、自分でも驚くほど速かった。

 二足で地を蹴り、すさまじいスピードでゴブリンに接近した。

 手でゴブリンを弾き飛ばしてやろうと思ったが、自分の手を見て、すぐにひっこめる。

 これだけ鋭利な爪の生えた手でゴブリンに打撃を加えたなら、きっとゴブリンはこの爪に突き刺さって死んでしまう。

 私は咄嗟に身体を回転させ、尻尾を使ってゴブリンを弾き飛ばした。

 遠心力を使った攻撃はそれなりに威力があったようで、ゴブリンは壁まで思い切り吹き飛び、その後あたふたと逃げて行った。


「はっ、ざまー見ろ……」


 後ろから、聞いたことのある言語が聞こえて、私は思わず振り返った。

 声を発したのはもちろん、人間の彼だ。

 なんだ、普通に話せるんじゃないか。

 明確な言語を聞き取ったことで、ようやく私は安堵した。

 なぜか私は上手く言葉を話せなくなってしまったが、彼の言うことはきっと私にも理解ができる。

 それだけで、私は心強かった。


 しかし、当の本人はぼんやりとした様子で、肩で息をしていた。

 身体を見ると、依然として彼の脇腹には矢が刺さったままになっており、衣服には血の跡がじわじわと広がっていた。

 私はどうすることもできずに、その様子を遠目に眺めていた。


 ふと彼が私に気付いたように視線を上げて、こちらを見る。

 そして、穏やかな微笑みを浮かべて、言った。


「お前、もしかして寂しいんじゃないのか」


 私は驚いてしまった。

 どうして、そんなことが分かるのだろう。

 私の表情を読み取れるほどの距離感ではないはずだ。


「大丈夫だ。僕は君に危害を加えないよ」


 続けて、彼はそう言った。

 そんなことはとっくに分かっている。

 私のことを、身を挺して守ってくれたのだから。


「ほら、おいで」


 そう言って手を差し伸べる彼。

 私は胸の奥がふわりと暖かくなるような感覚を覚えた。

 暗闇の中で目を覚ましてから、心細くて仕方がなかった。

 自分が何者であるのかも分からないのだ。

 何者でもない私を『ここにいる』と認識してくれる存在があるだけで、これほど救われるのか。

 私は気付くと、彼に向かって歩みを進めていた。


「おいで」


 一歩一歩、距離を詰めてゆく。

 彼の目の前まで来た時に、私は戸惑った。

 ここから、どうすればよいのだろう。

 私が困っていると、彼は突然自分の腕を頭の後ろで組んで見せた。


「ほら、僕は何もしない」


 だから、そんなことは、重々分かっているのだ。

 しかし、私を安心させるためにそう言ってくれているのはよく伝わってきた。

 私はそんな彼の優しさに感動するが、どうしていいか分からない。

 どうにかして、私の気持ちを伝えたい。


 今だけでもいい。

 私をあなたの“仲間”にしてほしい。

 もう、一人は心細い。


 そんなことを考えながら、私は、首を垂れて。

 彼のひたいに、自分のひたいを押しつけた。

 先ほどまで困っていたのが嘘のように、その行動が自明であるがごとく、気付けば私はそうしていた。


 彼は一瞬きょとんとした後に、少し泣きそうな顔になり、そしてすぐに笑顔を見せた。

 彼も、私の額にぐりぐりと自分の額を押し付けてきた。

 私は言葉が喋れない。

 しかし、明確に意思の疎通ができたと感じた。


 私たちは、“仲間”になったのだ。


 私は、私の正体が分からない。

 だから、それが分かるまでは彼の隣にいようと思う。

 そう、決めた。





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