おわる

加田シン

おわる

 臆病者の猫のようにそろりそろりと、それは近づいて来ていた。誰も予想などしていなかったし、誰もそれが起こることを現実のこととして考えてもいなかった。熟し過ぎた果物が木からぐしゃりと落ちる様子を想像して欲しい。引力という抗えない力によって果物は土に還る。『抗えない力』の前に、人は無力だ。

 『世界が終わる』一時間前、東京のとあるマンションの一室。僕と同棲している彼女の美奈は、一張羅のスーツとパーティードレスを身にまとい、オセロに興じている。百戦以上はしただろうか?そろそろ飽きてきた、と彼女は呟いた。

「あと残りどれくらいかなぁ?」

「さぁ、どうだろう。一時間前に時間のわかるもの全部処分しちゃったじゃない」

「楽しかったね。携帯水没させたり壁掛け時計思いっきり金槌でぶっ叩いたり」

 世界が終わるという報を受けた時、僕らは丁度部屋にいた。付けっぱなしのラジオが突然緊急放送に代わり、深刻な声のアナウンサーが何か難しいことをつらつらと並べ立てていたような気がする。理解出来たのは、世界が終わるという事実のみだ。

 親に連絡するかしないか、外に出るか出ないか、二人で話し合いをして出た結論は『このまま二人で部屋で終わりを待とう』というものだった。狼狽えても状況は変わらないだろうし、不思議なことに僕らの気分はむしろ高揚していた。不謹慎極まりないが、台風を待つ子どもみたいな気分で。

「ワイン、まだ残ってる?」

「2本残ってる。終わる前に飲みきれるかなぁ」

 彼女は僕の膝に頭を乗せるとごろりと寝転んだ。猫のように丸くなり、お腹に顔を埋める彼女の頭をそっと撫でる。

「酔っ払ったの?」

「ううん、世界が終わっちゃったらあっくんの筋肉お布団でこんな風にごろごろ出来なくなるなぁーと思って。今のうちに堪能しとく」

「筋肉お布団って」

「ねぇ本当に世界、終わるのかな。私たちだけに仕掛けられたドッキリってことないかな」

「そうだったらいいのにねぇ」

 ふふっと彼女は笑って僕にぎゅっと抱きついた。慣れ親しんだ彼女の感触、体温、吐息。それら全てが失われてしまうことに実感などない。もう少し生きることに執着心のある二人だったら、無駄な抵抗だと分かっていても何とか生き延びる術を必死に考えていたのかもしれない。残念ながら僕らは二人とも極度のめんどくさがりだ。類は友を呼ぶ、割れ鍋に綴じ蓋、つまり最期に一緒にいるに相応しい相手なのだ。

「静かだね」

「皆、僕らみたいにこんな風に過ごしてるんじゃない?」

 そうであればいい。残された時間で何が出来るかなんて、たかが知れている。僕はワインを一口飲み、彼女にキスをした。気持ち良さそうに目を閉じる表情が愛おしい。

「セックス、する?」

「しない。盛り上がってる最中に終わりが来ちゃったら、間抜けじゃない?」

「確かにねー。腰振ってる最中とかイヤだよね」

「セックスしながら心中する小説あったよね、確か」

「あったね。タイトル思い出せない」

 生産性のないセックスに耽るより、静かにワクワクした気持ちを彼女と共有したかった。尤も、あとどれくらい猶予があるのかはわからないけれど。音楽を聴きたいと彼女がねだったので、僕はCDラックから一枚CDを抜き取り中身を入れ替えコンポにセットした。

「懐かしいね、これ」

「今の気分にぴったりかなーと思って」

「……私、あっくんより一秒だけ後に死にたいな。それで、最期に見たもの全部あっくんにあげるよ」

 歌詞になぞらえてそう言い切ると彼女は微笑んだ。神様も仏様も信じていない僕たちが死んだ後に行く場所が『どこ』かはわからない。そもそも死後の世界なんかあるのかどうかも怪しんでいるのだから、タチが悪い。それでも彼女の気持ちは嬉しかった。

「最期に懺悔大会でもする?」

「いきなりだなー。あっくんは何か懺悔しておきたいことあるの?」

「たくさん嘘をついてきたことかな」

「それだけ?」

「うん。美奈は?」

「私は……うーん、思いつかないなぁ」

「……僕の友達と浮気してたことは懺悔にならないの?」

「え?」

「止めろ止めろって何回も言ったのに違法ハーブ止めなかったことは?」

「あっくん?」

「……バカで、ごめんね」

 僕は彼女の細い首を思い切り締め上げた。

 ドレスの色と同じくらいに顔が真っ赤になった彼女は、案外あっけなく動かなくなった。

 動かなくなった彼女をベッドルームに運び、その横でICレコーダーを起動させる。


「山崎敦史34歳、東京都世田谷区出身杉並区在住。先ほど恋人の高橋美奈を絞殺しました。犯行動機は、彼女が僕の友人と肉体関係を持っていたことと彼女の薬物乱用が我慢できなくなったからです。これから僕も死にます。世界を、終わらせます」


 レコーダーを止め、キッチンから包丁を持ち出しバスルームに向かう。服を着たままシャワーを流し、手首から肘の内側まで縦に思い切り包丁を突き立て切り付けた。溢れ出る血液が滴り落ちるのをぼんやりと見つめながら、僕は彼女のことを考え続けた。

 世界を終わらせようと決めてから僕は彼女に気づかれないように慎重に準備を始めた。自主映画を撮っている友人に紹介してもらった俳優に、ニュース原稿に見立てた台本を読み上げさせて録音した。録音データをCDに焼いてコンポにセットしておき、彼女がハーブでトんでいる時を見計らって音声を流す。正常な判断が出来ないところを狙ったのだ。すっかり信じ込んだ彼女を落ち着かせて……


 僕は彼女を、愛していた。殺さずにはいられないほどに。


 本当に、世界が終わってしまえば良かったのに。

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おわる 加田シン @kada-shinn

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