第26話 戦いの終わり
「くっ……ぬうっ……」
瓦礫の中でジルグドはみじろぎし、意識を取り戻した。
ズキズキと骨や筋肉が悲鳴をあげるような痛みを覚え、顔をしかめる。
(出血は無い。臓器に損傷なし。思考はクリア、脳に障害も無し。あとは骨折が……数カ所って所か)
意識を集中させて手早く己の負傷状況を確認する。どんな奇跡がはたらいたものか、竜の体当たりをまともに受けたわりには致命的なダメージは負ってはいない。とはいえ無視できない損傷はある。折れたのはアバラが数本、右前足にヒビというくらいだろうか。すぐ立ち上がることはできそうもない。
(
そう嘆息し、己の不甲斐なさを悔やむ。最強の猫戦士だなんだといっておいてこのザマとは。
周囲は驚くほど静かだ。逃げ惑う人の喧騒も、竜の足音も、何も聞こえない。
(あいつらは無事だろうか)
心残りとはそれだけだ。己の主、恩人の娘であるフュリアタは逃がすことはできただろう。ヤワな小娘だが馬鹿ではない。ダンジョンの中では何よりも自分の命を最優先させるよう叩き込んである。心配は無いだろう。
(シュンディリィは――死んだか)
だがもう一人、ともに戦ったあの少年は……守ってやることができなかった。
出没するはずもない階層での遭遇戦であった上に、戦うための装備も何も万全ではなくかった。そしてジルグドの取った戦術に間違いはなく、失敗したのも竜の外皮に隠れた剣のせいという予期できぬ要因のためだ。そもそも竜と戦う羽目になったのは少年自身の無鉄砲さが原因だ。ジルグドの行動に何か落ち度があるわけでもなかった。
……それでも、心の中に燻るこの苦い思いは消せるはずもない。
(いつもそうだ。俺のやることはなんでこうも裏目に出ちまうかね)
こんな気分を得たのは何年ぶりか。痛みに霞む脳裏に過去の記憶が蘇る。思い出されるのはジルグドにとってもっとも苦しい記憶――フュリアタの両親を死なせてしまった時のことだ。
○
一人前になった者は村を出るという慣習に従い故郷を出て、悪党と魔獣はびこる大陸の荒野を放浪の旅に出たジルグドは、もちまえの反骨心と血気あふれる若さに任せ猫戦士にしても無茶が過ぎる戦いを続けていた。気に入らぬ者には誰であろうと叩きのめし、立ちふさがる魔物は全て正面から打ち破る。そして何人にも阿ることなく孤高を貫き、剣を持ったもう片手に持てる物以外は富も名誉も求めない無頼の義侠を通していた。
ある日、戦士の誇りを失い悪に堕した猫戦士に率いられた凶悪な盗賊団の噂を聞いたジルグドは、成り行きから単身これに挑むこととなった。砦に攻め込み、幾日にも及ぶ激闘の末に頭目であった悪の猫戦士は倒したものの。その残党にしつこく命を狙われる羽目となってしまった。
残党の大半は実力ではジルグドに及ばぬ小者ばかりといえど、昼夜の区別なく襲ってこられればいかにジルグドといえど隙もできる。結果、深手を負いながらもなんとか包囲を切り抜けることに成功し、街から街を渡り歩いてドンキオッカの街に流れ着いたのだ。
そんな彼を拾ったのは一人の
半死半生だったジルグドを甲斐甲斐しく介抱したのは彼の妻、アミュリタ・アグザウェ。そして家に転がり込んできた奇異な猫戦士に物怖じせず懐いたのは幼い少女、フュリアタ・アグザウェだった。
こうして奇妙な一家と猫戦士の生活が始まった。看病の甲斐もあり、体調を取り戻したジルグドは一家の主人であるディンランディの護衛となった。受けた恩義は必ず返さねばならぬ、というのが猫戦士の一族の掟であったのもあるが、この男のあまりのお人好しぶりを見るにみかねた、というのも大きかった。
ジルグドも最初は適当に金を稼いでそれをもって礼とするつもりであったのだが、ディンランディは頑としてそれを拒んだ。謝礼が欲しくて助けたのではない、と。だがかといって借りを作ったままというのもまたジルグドにとっては面白くないことだ。そこで折衷案としてジルグドが彼の店――アグザウェ商会の専属の護衛となることでその借りを返すこととなったわけだ。
本来猫戦士を護衛として雇おうとするならばかなり高額のギャラが要求される。ニ度三度ほど仕事に付き合えばそれでいいだろう。追手の目から逃れるのにもちょうどよいし、リハビリがてらの暇つぶしにはちょうどいい。……などと、考えていたがそれは甘かった。
ディンランディ・アグザウェ(と、その相棒である彼の妻アミュリタ)の護衛は一筋縄ではいかない仕事だったのだ。
『儲けが無いたあどういうことだ! 昨日ダンジョン行ったばかりじゃねえか……何、帰り道金に困ってる男に貸してやっただと!? しかも証文も無しで……名前すら知らない!? ば、馬鹿かてめえは! ええい、今すぐその男探しにいくぞ!」
『道に迷った他の迷宮行商人を助けに行くからついてこいだと? なんだってそんな余計なことを、俺はごめんこうむるぞ! ――自分一人でも行くだと? ぐっ、てめえ……! 行けばいいんだろう? 行けば!』
『なんだこの在庫の山は! 売れ残ってたから引き取ったっておまえ、安売りするにしても限度ってもんが……来週までに捌くだと? 何回迷宮に行くつもりだ! ええい、アミュリタ! てめえもちっとは止めやがれ!』
と、商人らしからぬお人好しぶりを発揮する主人に振り回され仕事を辞める機会を失い、すっかりと商会に居着く羽目となってしまった。
……実のところを言えば、それはそれほど悪い気分ではなかった。ディンランディのやり方ははちゃめちゃではあったが不思議と上手くいくことが多く、人に感謝されることも多かった。徳があるとはそういうことなのだろう。ジルグドも口では文句を言いながらも次々舞い込むトラブルとチャンスの連続を楽しんでいた。ディンランディの元で働いた数年間は、戦いのみに生きてきたジルグドの人生の中では一際にぎやかな時間だったのだ。
転機が訪れたのはジルグドがアグザウェ商会に身を寄せて数年経った頃だった。迷宮行商人の護衛としての仕事にも慣れ、ドンキオッカの街でもそれなりに名の知られた存在になった彼のところにあるオファーが舞い込んだ。ギルド・ガードへの誘い、それも黒衣にだった。
ジルグドは驚いた。ギルド・ガードの黒衣といえば猫戦士である彼から見ても卓越した戦士の集団であり、一目置く存在であった。流れ者のジルグドにその黒衣にならないかという誘いがきたのは控えめにいっても大抜擢であり、地位や名誉にはさほどこだわらないジルグドであっても興味をそそられるものであった。
誘いを受けるかどうか、ジルグドは大いに悩んだ。ギルド付きの戦士となってしまえば一介の迷宮行商人であるディンランディの護衛は辞めざるを得ない。助けられた借りはもう十分に返していたとはいえ、ではさよならだと別れられないほどには彼と彼の家族に対する愛着がわいてしまっていたのだ。
迷った結果ディンランディ本人に相談してみたところ彼は驚き、そして――おおいに喜んだ。ぜひ話を受けるべきだ、と。
ディンランディとはそういう男だ。友の栄達をまるで我がことのように喜べる男。そんな彼に相談をすれば後押ししてくれることはわかりきっていた。結局のところジルグドはアグザウェ商会の護衛を辞めてでも黒衣になりたいと思ってしまっていたのだ。その決断をする言い訳を彼に求めていたにすぎない。
そうしてジルグドは黒衣の審問を受けることとなった。勧誘をされたとはいえ、無条件でなれるほど黒衣というものは甘くない。戦闘能力はもちろんのこと、ダンジョンについての知識や商業についての考察などを厳しく問われることとなった。
審問は実に数週間にも及び、さしものジルグドもそれ以外のことに関わる余裕は無かった。無論のこと、ディンランディの護衛は休まざるを得なかった。
しかし護衛が居ないからと言ってディンランディも迷宮行商人の仕事をしないわけにはいかない。いずれジルグドの代わりを雇うことにして、とりあえずは護衛が必要無いレベルの安全地帯で商売をしようということになった。
『たしかにそこなら俺抜きで行っても大丈夫だろうが……』
話を聞いてジルグドは渋面を作った。審問の合間、なんとか作った時間で面会した際にディンランディから仕事の計画を聞いたときのことだ。
ディンランディたちが向かうのはドンキオッカ近隣の、すでにある程度探索されたダンジョンだ。中層以上まで攻略されているため、上のほうにそれほど危険はないと判断できる。観光気分でとまではいかないが、十分に慣れた迷宮行商人ならばそれほど深刻なトラブルは起きないだろう。
だが何か、曰く形容し難い不安な思いが一瞬ジルグドの脳裏をよぎったのだ。ヒゲが嫌にチクチクと震える。
引き止めるべきか? その迷いがジルグドの心中に沸いてくる。だが具体的に何が危険ということもできないし、この程度の場所に道案内や護衛をつけろというのも大仰過ぎる。それになにより――自分はもはやこのアグザウェ商会の護衛ではない。自らの意思でその役を降りたのだ。何かを言える義理はない。
結局ただ「気をつけろよ」と当たり障りのない言葉をかけてディンランディ・アミュリタ夫妻の背中を見送るよりほかなかった。
それが彼らを見た最後の姿になるとも知らずに。
数日後。審問を続けていたジルグドのもとにある一報が入った。内容は単純な一言。
『アグザウェ商会のディンランディ・アグザウェとその妻アミュリタ・アグザウェ、ダンジョン内での事故により死亡――』
その報を聞いた瞬間、ジルグドは黒衣の審問の全てを放り出して駆けていた。審問を途中放棄するなどしては失格は免れないだろうが、そんなことは知ったことではなかった。苦悩に顔を歪ませ、息を切らせながらアグザウェ商会の建物……数年間彼が友とその家族とを過ごした家に飛び込んだときにはもう全てが終わっていた。
まず目に入ったのは二つ並んだ空の棺、なんらかの理由で遺体を回収できなかった死者のために用意される空虚なハコ。そしてその前に茫然として座り込みたたずむ幼い少女……。
『フュリアタ!』
呼びかけた彼の声にゆっくりと振り返った少女の青い瞳は虚ろだった。涙はもう流し尽くし、この世に自分は天涯孤独となってしまったことをもう十二分に実感しきったその表情。普段ではむしろお転婆で、はつらつとしていた少女の面影はどこにもない。心が壊れかけたか弱い子供がそこにいた。
ぐ、と歯を食いしばりジルグドは彼女の足元にすがりついた。戦士としての外聞などかなぐり捨て、悔しさと情けなさそして申し訳無さに心を押しつぶされながら少女に頭を下げる。
『すまねえ! すまねえフュリアタ……! 何もかも俺のせいだ! 俺が、俺が悪かったんだ!』
自分がもし一緒にいれば夫妻の事故は防げただろうか? それはもはや今となっては確かめようのないことだ。たしかなのは自分が己の栄達のために友の側を離れたこと、そしてこの少女の父母は助けを得られず命を落としたこと。その事実だけが全てだ。
少女は震える手で猫戦士の頭に触れた。柔らかな首筋の毛を、乾いた手がまさぐる。このまま喉を絞め殺してくれればどれほどよかったか。だが少女の手にはもはやそんな力は残っていない。今、この娘に必要なのは償いなどでは無い……!
『これからは……俺がおまえを守ってやる! 』
○
「ジルグド! ジルグド、どこにいるんですか!」
「!」
過去に飛んでいたジルグドの意識は、彼を呼ぶ声に引き戻される。瓦礫の向こうから呼びかける声の主は女……フュリアタだ。
「――」
呼びかけに答えようとして口を開くが、彼女に聞こえるよう声をあげようとして胸が痛みを訴えた。大声を、人間の言語で発するのは今の体力では難しかった。
naoooooo…。
結果、発せられたのは猫戦士のネイティブの言葉。細くはあるが、遠くに届く高い声だ。
「! そこにいるんですか!」
ガラガラと降り積もった店舗の残骸をどかす音が響いて、やがてさっと一筋の光が差した。迷宮のほの明るい光源であっても、闇の中に慣れた目では眩しいほどであった。光の中から顔を出したのは見慣れた顔、フュリアタの心配そうな表情であった。
「ジルグド! 怪我は!?」
瓦礫の中から抱き上げられ、身体をまさぐられる。普段であれば不快に思い、力でもって跳ね除けるのであるが今はそうするだけの力もない。わずかにみじろぎして鬱陶しげに答えるだけだ。
「……あちこち痛むが大したことはねえよ。骨が少々いってるくらいだ。痛えから触るんじゃねえ」
「ご、ごめんなさい」
謝り、あまり動かさないようにして抱き直す。フュリアタの腕の中は柔らかく暖かく、居心地がよいが……今はかえってそれが心をささくれ出させる。
(守ってやると誓ったはずのこいつに抱きかかえられるとは……)
再び情けない思いに囚われるが、己の弱さを吐き出すほども落ちぶれてはいない。
「――竜はどうなった?」
護衛として、最優先で確認しなければならないことを問う。まずは彼女の安全が確保されているのかを確かめなければならないのだ。
「ええと……あれを」
問われたフュリアタはわずかに戸惑う気配を見せたが、ジルグドの身体を高く抱き上げてをある方向に向けて見せる。そこにあったものは、
「竜――死んでいるのか!?」
驚きに目を見張る。瓦礫の向こうに横たわる小山のような巨体。ぬらぬらと輝く鱗は間違いなくあの竜だ。
竜は身動き一つする様子もない。眠っているというわけでもないだろう。遠くからかすかに漂う血の匂い、死の香りが竜の命が失われたことを示している。
では何故死んだのか? まさか都合良くここで寿命が尽きたなどということはありえない。誰か、ジルグド以外のものが竜を倒したのだ。
今ここでジルグド以外に竜と戦っていた者、それは……
「あいつは――シュンディリィはどうなった?」
フュリアタは目を伏せ、首を振る。
「……わかりません。あなたたちがこのあたりに弾き飛ばされた後、誰かが竜と戦っていました。もしかしたら……」
「なんとか無事だったあいつが一人で竜と戦っていたってことか」
それはありえない話ではないが信じがたいことだ。勇気と無謀をはき違える若者らしさこそあったが、竜の恐ろしさを体感してなお学ばぬほど馬鹿ではない。逃げ出していてくれれば良かったのだが……。
いずれにせよ事の真相を確かめる方法は一つしかない。
「竜の様子を見に行くしかないか……。
言いかけた言葉を制し、ぐっと彼の身体を抱きしめてフュリアタは強く答える。
「私も行きますよ。ジルグドはまだ万全ではないでしょう?」
彼女の言葉にジルグドはわずかに逡巡したが、身を起こしかけては痛みに軋んだ体を自覚し、認める。
「……そうだな。ただし慎重に行くぞ」
満足に動かぬ自分の身体とまたここでフュリアタと別れるリスクを勘案して、たとえ危険があるとしても今は一緒に行動すべきだと結論づけた。
流れ出る竜の血の匂いにわずかに死臭が混じりだした頃、竜の周りにはすでに遠巻きに人だかりが出来ていた。竜に商店を荒らされた近辺の迷宮行商人たちだ。
「猫戦士の旦那! あんた無事だったのか!」
瓦礫を踏み越え竜のもとにたどり着いたフュリアタとジルグドを迎えたのは、武器商人の男だった。
彼の店があったのはジルグドの倒れていたすぐ近く、竜に踏み荒らされた通り道だ。自分の店の跡よりも竜を先に見に来たのは、竜を警戒してのことだろう。
「なんとか命拾いしたさ。あんたの店は――残念だったな」
「なに、しょうがねえさ。この商売は命あっての物種だよ」
肩をすくめて気楽げに答える男だが、その顔には疲れが見える。これからのことを考えると気が重くもなるのだろう。
「竜の様子はどうだ?」
「ああ、どうやら死んでるみたいなんだがな。おっかなくって誰も近づけねえんだよ。魔狩人が戻ってくるまで待とうかって話してたところなんだよ」
「ふむ……」
ジルグドもまた竜の死体を前に思案する。目の前に来てようやく竜が死んでいることは目で確認できたが、さりとて安全が確保されたというわけでもない。
竜の死体は非常に危険な代物だ。ブレスに使われる体内に流れる高い可燃性を持つ体液はわずかな火の粉ですら大火災を起こしかねないし、牙や爪に毒性を持つ竜種も少なくない。そうでなくても死したことをキーにして発動する呪いがあらかじめかけられていることや、雑霊がとりつき
商人たちも被害の実態を把握したいのであろうが、かといってうかつに近寄ることもできず困っているというところなのだろう。今はとりあえず専門知識と技能を持つ者、魔狩人や解体屋を待つしかない。
「……なあ、あんたのとこのあの鑑定魔術師の坊主は?」
おずおずと武器屋の男はジルグドたちに尋ねる。この男も数時間前に顔を合わせたあの少年が猫戦士とともに戦っているのを見ている。その姿が見えないことを心配してくれているのだろう。
「私達も彼を――シュンディリィ君を探しているんです。なにかご存知ありませんか?」
「いや……すまん。俺たちもここには来たばかりでな、それらしいものは何も見てないんだ」
「そう、ですか……」
武器屋の男の言葉にフュリアタは肩を落とす。気の毒そうに男はフュリアタを見るが、何かしてやれるわけでもない。
「元気出しなお嬢ちゃん、今はとにもかくにもこのドラゴンを片付けないことにはどうしようもないんだ。今地上に連絡を取りにいったやつがいるからそれで――」
言いかけて竜を振り返り、仰ぎ見た時。竜の死体が――わずかに動いた。
「ッ! 下がれ!」
それに真っ先に気づいたのはもちろんジルグドだった。死体の上に乗っていた瓦礫の破片が少し落ちただけで彼の鋭敏な感覚はそれをとらえたのだ。
遅れて人間たちがそれに気づき、「わぁっ!」と悲鳴をあげて竜の死体から距離を取る。フュリアタも数歩後ずさり、固唾を飲んだ。
「くっ……」
一瞬ジルグドは無理にでも同調の魔術を使いフュリアタを逃がすべきかと思案したが、ぐっと彼を抱きかかえているフュリアタの手は固かった。それは彼女が身体をこわばらせた反射的な手の動きだったのかもしれないが、結果としてジルグドはその手を振りほどくことはできなかった。
その一瞬を逃し、動く機先を失ったことで彼も黙って竜の動きを見守るしかなくなってしまった。
フュリアタとジルグド、そして商人たちが見ている中、竜の死体は首元をもごもごと動かしている。もともとアンデッド化がされることの少ない霊廟の中であるが、なにごとにも例外というものはある。油断することはできない。
だが竜の死体は立ち上がってくる様子もなく、動くのは首元ばかり。それも大きな動きではなく、喉をわずかに揺らす程度。断末魔の鳴き声をだそうとしているのか? いや、絶命自体は確認されているためそれはありえないだろう。
あるとすれば、竜の喉に何か動くものが居るということ――。
「まさか……!」
ハっと気づき、フュリアタは竜に駆け寄った。「お、おい!」と武器屋の男は慌てて彼女を呼び止めようとするがフュリアタはかまわなかった。
ジルグドも彼女に抱かれたまま竜に近づく。危険はあるが彼女を止めなかったのは、彼もまたフュリアタと同じことを考えていた。
「シュンディリィ! そこにいるのか!」
痛む肋骨に顔をしかめながら、声を張り上げて少年を呼ぶ。彼の声に反応するように竜の喉がピクリと動いた。
それに気づいたフュリアタも大声で呼びかける。
「そこにいるんですか、シュンディリィ君! 返事を――返事をしてください!」
本当にシュンディリィがそこにいるのか、居たとしてもどのような状態になっているのかはわからない。だがそれでも反応があったということは希望はあるということだ。
竜の死体はゆっくりと、わずかな隙間を探るように動く。やがて身体の一部が体内側から押し上げられるように動かされると、血にまみれた白銀の剣がギラリと光った。
「あれはうちの剣じゃないか!」
その剣を見た武器屋の男は驚きの声をあげる。その剣はフュリアタたちにも見覚えがあった。市場についたとき、シュンディリィが鑑定したあの剣だ。ならばやはり、竜の体内にいるのは――。
「た、助けて……」
くぐもったか細い声が剣が押し開けた肉の隙間、竜を死に至らしめた喉の傷口より漏れいでる。その声の主は紛れもない。
「シュンディリィ君!」
フュリアタは今度こそ竜の体に完全に駆け寄った。ジルグドを傍らに置いて竜の頭の周辺を探り、中をうかがう。死後硬直で閉じられた口の隙間、鋭い牙の居並ぶ先の向こうに……少年の顔があった。暗い体内である上に返り血と粘液にまみれて詳しい様子はわからないが、少なくとも五体満足には見える。
だが無論のことこのまま放置してよいわけではない。竜の身体に押しつぶされたり、粘液が着火する可能性もある。一刻も早く救け出さなければ……!
竜の牙はまるで檻のようにしてシュンディリィを引っ張り出すのを阻んでいる。まずはこれをこじ開けなければならないが、素手では到底不可能だ。
「何か……これだ!」
フュリアタは周囲を見回し、瓦礫の中から金属製の棒を引っ張り出した。工具を中心とした商品を扱っている店だったのだろう。かなり頑丈な作りのズシリと重い鉄の棒だ。フュリアタは棒の先端を竜の口の隙間にねじ込み、思い切り引っ張った。
「く、うう……!」
歯を食いしばり、全身で力を込めて棒を引く。てこの原理によってゆっくりとだが竜の口は開いていく。
「もう少し、で……!」
それでも開いたのは腕が一本入るかどうかというところ。シュンディリィを引っ張り出すにはまだ足りない。竜の強靱な筋肉は死してなお堅いままだ。普通の女よりは力があるといっても細腕は細腕。フュリアタではこれが限度だ。
「おい! てめえらボサッと見てないで手伝いやがれ!」
まだ身動き出来ないジルグドが傍らでそう檄を飛ばすと、彼女の奮闘を呆然と見ていた商人たちも我に返って動き出す。竜の死体は恐ろしいが、少女が一人頑張っているのをただ見ているだけの情けない者は居なかった。
「嬢ちゃん! 俺らに任せろ!」
武器屋の男を始め、いかにも力自慢というような体格のいい男たちが数人集まってくる。男たちはフュリアタを横に押しのけて棒を引き始める。
やはり男の力というべきか、フュリアタ一人とは比べものにならない力強さで金属棒は竜の口を大きくこじ開ける。
「口が空いたらなんでもいいからぶち込んで隙間を固定しろ!」
「そこに盾が埋まってるだろ! それ持ってこい!」
「まだ粘液が漏れてんぞ! ランプは近づけるな! 明かりの魔術が使えるやつは来てくれ!」
「口の端の腱を切ればもっと開くはずだ! よく切れるナイフは無いか!」
現場が動き出せばそこは第一線で働くやり手の商人たちの集まりだ。あっという間にシュンディリィを助けるための態勢は整った。
「ぐぐぐぅ……っ、これが限度か!?」
硬い鉄の棒がしなるほどの力を込めてこじ開けた竜の口は、身体一つが通るくらいがやっとが限界だった。それも大人の男では通らないくらいだろう。ならばその身を通して少年を救うのは、
「私が行きます!」
意を決し、フュリアタはわずかな隙間にその身を滑り込ませた。そこはただの隙間ではない、鋭い牙が居並ぶ竜の口だ。
体内は暗く、中を見通すことは困難だ。光源を体内に持ち込むのは引火の危険がある。手探りで進しかない。
「っ……!」
竜の長い牙の一本がフュリアタの頬を薄く撫でた。肌に一本赤い線が引かれ、揺れた髪が牙に触れハラリと落ちる。
彼女の額には汗がにじむ。まだ体温の残る竜の体内は蒸し暑いというのもあるが、それよりも緊張感によるものが大きい。
男たちが全力で口を開かせてくれているが、なんらかの拍子で勢いよくその口が閉じられてしまえば、挟まれたフュリアタの細い身体など容易に真っ二つだ。
「フュリ、アタさん……!」
くぐもった少年の声が竜の喉の奥から聞こえる。少年はやはり竜の体内に居た!
「シュンディリィくん、手を伸ばして!」
べちょりとした粘液をかきわけ、フュリアタは手を伸ばす。それを見た少年は最後の力を振り絞り、なんとか動く片腕を上げる。その手をフュリアタは――たしかにつかみ取った!
血と粘液のぬめりが握力を奪いながらも、少女の手は少年の手を握り込む。あとは引っ張りあげるだけだ。
「よし! 今だ! 引けッ!」
ジルグドの号令をきっかけに何人かの商人がフュリアタの脚を持って外へと引っ張り出す。強い力に引き上げられながら、少年の手を離さないように必死に力をこめる。
ずるりと竜の口の中を滑りながら、二人は竜の口の外へと転がり出た。
その直後、死後なお引き締められる竜の筋肉に支えが耐えきれず音を立てて砕ける。あと少し遅ければ大変なことになっていただろう。まさに間一髪であった。
「はぁ、はぁ……」
「ぐ、ううう……」
フュリアタは緊張から解放され荒い息を吐き、シュンディリィは迷宮の地面に寝かされ苦痛に呻いた。
「シュンディリィくん……大丈夫、ですか?」
よろめきながら少年に寄り添ったフュリアタは彼の様子を見た。シュンディリィが身につけていた革の鎧は、竜との激しい戦いでボロボロになっていた。紐は千切れ、革に穴は空き、金属の補強は歪み、粘液の腐食で色あせてしまっている。もとより気休め程度の防御力しか無いとはいえそれでも鎧は鎧だ。それでもいくらかはシュンディリィの身代わりになってくれたのだろう。
そのボロボロになった鎧を見つめ、ジルグドは目を細めた。この鎧は彼の友の形見でもある。
(――ディンランディ、おまえが守ってやったのか?)
それはジルグドの勝手な感傷だろう。死者は何もしない。何もできない。全ては生者が己を納得させるための方便にすぎない。しかしそれでもジルグドは感謝した。
(本当におまえには頭が上がらねえな。ありがとよ、ディンランディ)
自分が守ろうとして果たせなかった少年の命を守り、これ以上フュリアタに何かを失わせないでくれたことを。それはジルグド自身の救いでもあるのだから。
「ゲホッ! ぐ、ハァッ……!」
身体が痛むのか、苦悶に顔を歪めて少年は咳き込んだ。重傷は無いとはいえもちろん無傷ではない。打ち身や擦り傷はもちろんのこと、骨も少しは折れているだろう。応急の手当は必要だ。
「シュンディリィくん、これを――」
フュリアタが懐から取り出したのは液体の入った小瓶だ。
「それはどこかで――」
彼女の取り出した小瓶をシュンディリィは見覚えがあった。
「はい。シュンディリィ君が選んでくれたあのポーションです」
そう、それはシュンディリィとフュリアタが出会ったきっかけだ。行商人からポーションを仕入れようとして、そして商品を選ぶことが出来ず困り果てていた彼女を助けるためシュンディリィが鑑定を買って出たあのポーションだ。
結局このポーションは商品の中でもっとも優れたものではなかった。シュンディリィの奇妙にねじくれた鑑定では判別できなかったのだ。だがそれでもこのポーションは製作者の特別な思いがこめられた一品であり、それになにより二人の『縁』をつないでくれた思い出の品だった。
「……何故か売り物にはしづらくて、いざというときのために使おうと思って別に仕舞ってあったんです」
売り物にする商品の大半は、竜に襲われ逃げる前に『格納』の魔術によって収められている。もとはといえばその時間稼ぎをするためにシュンディリィは竜に挑んだのだ。本来ならばそのポーションも簡単には取り出せない異空間にあるはずだったが、フュリアタはそれとは別に自分でこの小瓶を持ち歩いていたのだ。
封栓を開け、シュンディリィの頭を膝の上に乗せて液体を喉に滴らせる。
『老練なる調合師の治癒の祈り――願わくばこの小瓶を呷る者に安居楽業ならんことを』
かつてこの言葉で『鑑定』されたこのポーションは二人を出会わせ、そして廻り廻ってシュンディリィの命を救うこととなった。これもまたアイテムがもたらす奇縁なのだろうか……。
「ゲホッ! ぐ……ゲホッ!」
「我慢してください。すぐに効いてくるはずですから」
薬液が身体に染み渡るごとにシュンディリィは
「く、うう……ハッ、だいぶ、楽になってきました……」
やがて息が収まってくるとシュンディリィはなんとか身を起こせぐらいには回復できた。
ジルグドはシュンディリィの手に前足をちょこんと乗せ、彼の回復具合を測る。
「うむ。しっかりと脈も落ち着いてきてんな。ちゃんと鎮静効果も効いてるようだ。安いポーションじゃこうはいかんぜ? いいモン買ったじゃねえか、おまえら」
「はい。シュンディリィ君はとってもいいものを選んでくれました。
そう言って誇らしげにフュリアタは少年の頭を抱いて撫でる。シュンディリィはその柔らかな感触に戸惑いながらも、
「へへへ……はい、俺! やりました!」
少年らしい快活な笑みでグッと拳を握ってみせる。見守っていた商人たちからも穏やかな笑いの声が響いた。
その笑いの声につられ、ふとジルグドは首を上げてを天を見た。少年たちの背後にはシュンディリィが斃した竜の亡骸が鎮座する。猫戦士である自分の力を借りたとはいえ、ただの鑑定魔術師の少年が勝ち取るには大きすぎるほどの大戦果だ。
それはただ竜に勝ったというだけのことだけではない。店を守り、商売を続けたいというフュリアタの夢と未来を守ったことが大きい。
(それに……俺も少しは肩の荷が下りた気がするよ)
亡き友の棺の前に誓った約束の一分を、シュンディリィが果たしてくれたのかもしれない。
「本当によくやったよ、シュンディリィ……。おまえは――男だ」
そう言って戦士は少年の活躍を
(続く)
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