vii 世界で一番のゲーム

 

 橘ひかりはベッドに眠っていた。

 目を閉じ、点滴をつけ、静かに眠っていた。

 頭には見慣れたヘアバンド型の端末を着けている。

「水城さん」

 いきなり後ろから声をかけられて、僕は思わずかかとを浮かした。

 振り返ると、見慣れた黒猫のぬいぐるみが顔の高さに浮いていた。

「ひかり、なんで」

「私は橘ひかりが作ったAIです」

 AI? 人工知能? 僕は混乱する。

「私は水城清晴の質問に答えるように設定されています」

「え、本当に人工知能?」

「そうですにゃ」

 安直なキャラ付けだ……確かにひかりっぽい感じがしなくもない。

 僕はもう一度ひかりを見た。ひかりは眠って動きそうにない。ここで立っていてもしょうがないだろう。

「それじゃあ聞くけど、ひかりは今、何をしているのですか?」

「その前に忠告。これからご主人様のことを呼び捨て禁止にゃ」

「呼び捨て?」そういえば僕はひかりのことをひかりと呼んでいた。

「……じつはひかり気にしてたのですか?」

「内心ぶちギレにゃ」

 ぶちギレだったのか……それならなにか言ってほしかった。

 これからはさん付けぐらいはしよう。

「これからは尊敬と親愛を込めて『ひかり様』と呼ぶにゃ」

「それはちょっと」

 というか、かなり嫌だ。ただでさえ精神的に圧倒されているのに、これ以上やられたら僕は冗談抜きで下僕である。

「それが嫌ならひかりでいいにゃ」

「極端すぎる……」けど、確かにひかりっぽいと僕は思った。

「それで、早く質問をするにゃ?」

 黒猫が先を促す。僕は考えるように腕を組んだ。

「……なんでも質問していいんですか?」僕が問う。

「もちろんにゃ。ちなみにご主人様の生理周期は――」

「そんなこと誰が聞いた!?」

「きっと水城さんは質問してくるだろうと思って、プライオリティが最上位の質問に設定されてるにゃ。聞かれたらちゃんと答えないとご主人様に叱られるにゃ」

「だから僕は聞いていない!」

「それならほかの質問をして欲しいにゃ」黒猫は澄まし顔で質問を促す。

 この黒猫と話していると、ひかりと話している時以上に疲れる。疲れるので、僕はさっさと聞きたいことを聞くことにした。

「ひかりが言っていた世界で一番のゲームって結局なんなのですか?」

「それはわからないにゃ」

「……」この黒猫、使えない。

 僕の沈黙を無視して黒猫は続けた。

「ただ、ご主人様は一つの考えを思いついたにゃ。それを説明するためには、昔のご主人様について説明しなくちゃいけないにゃ。昔、ご主人様は親しいお姉ちゃんにゲームの面白さを教えてもらったにゃ。それでご主人様はゲームに夢中になったにゃ。だからご主人様は考えたにゃ。世界で一番のゲームは、いったいどれほど面白いのだろう、と」

 僕にはその気持ちがわかる気がした。僕も思ったのだ。世界で一番のゲームを作りたいと。

「でもそれがどんなゲームかはわからなかったにゃ。でもご主人様には確信があったにゃ。人生は神ゲーである、こんな言葉ご存知かにゃ? これを最初に言った人は別に何か具体的な考えがあったわけではないと思うにゃ。でも、この言葉は確かに事実を含んでいると思ったにゃ。だって人生がなければ、ゲームは楽しめない。どんなゲームもこの世界には含まれている。だから、世界で一番のゲームは人生かもしれない、そう思ったにゃ。でも」

 黒猫は続けた。

「人生は、そんなに面白くもなかったにゃ」

 それはきっと事実だった。

「別につまらなくもないけど、それほど面白くもなかったにゃ。でもそれは自分が特別起伏のない人生を送っているのかもしれない。ご主人様はそう考えたにゃ。だからいろいろな人の人生を集めて、自分の脳で再現してみたにゃ。でも、やっぱり人の人生も同じようなものだった。同じくらい退屈で、同じくらい面白かった」

 それは先ほど聞いた。

「だからご主人様は思ったにゃ。もしかしたら、自分は世界の楽しみ方を間違えているんじゃないかと」

「世界の楽しみ方?」

 僕にはわからない。

「問題にゃ。二つの全く同じ深さの井戸があるにゃ。そのうちどちらの井戸の底にあるボールのほうが、より安定かにゃ?」

 それはひかりにされたクイズだ。トンネル効果を考えれば、どちらの井戸の底にもある一つのボールが安定だという話。二つの状態の重ね合わせ、対称性が高い状態のほうが、より安定なのだ。

 対称性の高いもののほうが、より望ましい。

 僕の頭の中で何かが動き始める。

「これと同じことがゲームの面白さにも言えないかにゃ? ある二つのプレイ方法がある。どちらも同じくらい楽しい方法なら、ふたつ合わせて2で割った方が面白い、そんなことありえないかにゃ?」

 僕は考える。世界には様々な人がいる。だから世界で一番のゲームを決めることは難しい。でももしも、すべての人類を足して、Nで割るようなことができたら。でもどうやったら、人間の意識を足して割るなんてことができるのか。

 そこまで考えて、僕は思わず自分の頭に手をやった。

 頭につけるボタン電池ほどのプラスチックの端末が手に触れた。

 僕は自分が普段付けているマシンを思い出す。

「そしてそれを可能にするのがVR端末にゃ」

 脳の仕組みを思い出す。

 脳には1000億個のニューロンがあり、それが発火状態と基底状態の二つの状態を取ることができる。つまり脳とは、デジタル計算機みたいなものである。それぞれのニューロンは0と1の二つの状態を取り、それの活動によって意識が生まれている。

 それは1000億個の0と1のからなる数列だ。しょせんはただの数列だ。数列だから、足すことができる。引くことができる。ある人の脳の状態と、別人の脳の状態は、足して2で割ることができる。

 そして脳の状態をコントロールすることが、VR端末ならできる。

「私はその方法はどうだろうと思いました。根拠はありません。ある人の意識と別の人の意識がトンネル効果で入れ替わるなんて聞いたこともありません。でも、なんとなく思ったのです。この方法なら、特別な誰かを定義することなく、面白さを定義できるんじゃないかって。と言っても世界中の人間のデータを集めるのは難しいので、まずは手近な人間、ざっと300人分ほど集めてテストという感じですが」

 僕は黒猫の口調が変わっていることに気が付いた。

「本当に世界で一番のゲームができるのかもわかりません。でも、失敗したら失敗したでいいと思います。その時はまた、別のゲームを作ればいいだけの話です」

 きっと彼女はいいクリエイターになるだろう。あきらめないから。作りたいものがあるから。僕にはできないこともできるのだろう。

「でも、どうして僕をここに呼んでくれたのですか?」僕が聞く。

 黒猫は、ひかりは言った。

「約束しましたから」

「約束?」

「ゲームができたら2番目にプレイさせてあげると約束しましたから」

 僕は思い出す。そういえばそんな話もした。ひかりは意外と律儀だなと思った。

「ゲームはあと10時間くらいで終わるはずです。それまでは適当に過ごしていてください」

 それだけ言って黒猫は消えた。

 僕はもう一度ひかりを見る。

 ひかりはどんなゲームを遊んでいるのだろう。僕にはそれはわからない。

 ゲームが終わった時、どんなことを言うだろう。

 面白かったと言うだろうか。つまらなかったと言うだろうか。

 僕には全く予想もつかない。

 僕はベッドのそばの椅子に腰を下ろした。椅子は誰かに蹴られたみたいに足の一本が曲がり、グラグラと揺れる椅子だった。

 ひかりが起きるまでは10時間。

 ゲームの発売まで待たされるのには慣れているのだ。

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世界で一番のゲーム @Sugra

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