夏と煙草とお隣さんと

十千しゃなお

暑い日

「……あっついわね」


 窓を開けた瞬間に一言。冷房をつけた部屋に籠もっていると忘れがちになるけど、暦的には立派な夏だ。とっくに日が落ちているにも関わらず、蒸し暑さは日中と変わらないように思えた。


「ダルすぎるわよ……」


 気怠さたっぷりに愚痴を言って。スリッパから外用のサンダルに履き替えベランダへ。右手には愛用の煙草・ピース。濃い紺色地に白文字で[Peace]と書かれた渋くて硬派なパッケージ。そこから一本取り出して口に咥えると、苦みのある葉っぱの匂いとほのかにバニラの甘い香りがした。


 これまた愛用の黒光りするジッポライターで火をつけ、静かに煙を吸う。吸う。吸う。決して息は吐かない。夏の蒸し暑さとは別物のモワッとした気怠くて心地のいい熱風が肺へと広がっていくのを確認してから、右手の人差し指と中指で挟んだ煙草を口から離した。


「……あ~、不味い」


 白いと煙とともに愚痴が漏れてしまう。暑い日の煙草は本当に最悪だ。不味いのがわかっているのに吸いたくなってしまうのだからニコチン依存症は恐ろしい。


 夏場はメンソールに変えようかと考えながらベランダの手すりに両肘を乗せ、ジッポをポケットにしまい、手ぶらになっている左手で顎を支える。マンションの六階から見える夜景に特に感慨を抱くことはない。小うるさい虫の声に半ば強制的に耳を奪われる。


 なんでこう暑くても虫は元気なのだろうか……?


 熱中症とかなんないのかな……。


 というか、六階のここまで聞こえてくるってことは、下の人たちはもっと五月蠅いと思ってるんじゃ……?


 一階とか絶対に寝られなさそう。


 で、不眠症。


 からの、夏バテ。


 それってもう一種のテロだ。煙草税上げる前に国を挙げて殺虫剤撒いたほうがいいんじゃないかな。明らかに有害でしょ。


 そんなどうでもいいことを他人事のように思いながら一服。……不味い。


 すると、隣の部屋の窓が開いた。正確には開く音が聞こえた。


[非常の際はここを突き破って非難する為、ものを置かないで下さい]


 なんて紙の貼られた敷居があるので見えはしないけど、感覚的になんとなくベランダに人が増えた気がする。


 ……来たかな。


「お姉さん、火ぃ貸して……」


 ほうら、来た。今起きたんじゃないかってくらいゆったりとしたお隣さんの声。

 敷居の下にある僅かな隙間からネイルもしていない細くて白い指が伸びてくる。


 やれやれ……。また、か。


 毎度のことに呆れながら、彼女の手にジッポを握らせる。


 手が敷居から引っ込んだと思ったら向こうからジッポの蓋が開く音が聞こえてきた。


 次に火打ち石が摩擦される音。


 最後に聞こえてきたのは煙を吸う静かな呼吸音。


 控えめに主張する上品な味と、僅かに残るフルーティーな香り。


 副流煙を嗅いでいると、パーラメントの1ミリにはつくづく冷たいくらい真っ白なパッケージが似合っていると思わされる。


「……あ~、まーずぃ……」


 緩やかに立ち上る煙のような愚痴。


「……だったら吸わなきゃいいじゃない」


「お姉さん。それくらいで止められるんなら、とっくに止めてると思わない……?」


「確かに」


 心からの同意。

 

 自分もそうなのだから、納得出来るのが当たり前だ。私とお隣さんは喫煙者という同族なので、考えることは大体わかる。吸い始めた頃ならともかく、今はもうすっかり煙草が身体に馴染んでいた。


 禁煙というストレス地獄を味わって健康を手に入れるくらいなら、肺がんのリスクを気にしないで煙のように流されているほうがよっぽどマシだ。少なくとも、まだ二十八才と比較的若いからそう思える。


 将来なんらかの疾患に襲われたら、そのときはそのとき。未来の私にはお気の毒にとしか言いようがない。


「……ねぇ、お姉さん」


「ん……?」


 不意に呼ばれ、横をちらり。


 ボサボサのショートカットに上は白いポロシャツ。下は青いジーンズ。


 いつの間にか私と同じように両肘をベランダの手すりに乗せながら、左手に持った煙草を吸っていた。


「私、思ったんだけどさぁ……」


「何を?」


「昨日バイト終わったあと、なんとなぁくテレビ見てたんだよねぇ。特にやることなかったし。眠くもなかったし」


「ふーん……それで?」


 時間の無駄遣いをしているわねと思いながら続きを求める。私にもたまにそんな日があるので人のことは言えないのかもしれない。


「面倒だったから、ずーっと同じチャンネルを垂れ流してたんだけど、いつに間にかアニメが始まってさぁ……」


「あー……確かにやってるわね」


「ね? で、見てて思ったわけ……」


「だから、何を?」


 何が言いたいのか要領を得ず、改めて問いただす。


「……勇者って格好良くない……?」


 咥えた煙草から煙を吸い、吐き出すという、喫煙者にとってごく当たり前の動作を行いながらお隣さんは言った。


「勇者、ねぇ……」


 この子は何を言っているのだろうと思う反面。


 頭を整理させるように煙草を一服すると、


「……確かに」


 あながち間違っているようには思えなかった。


 ファンタジーに憧れを抱いていた子供時代の知識によれば、勇者というのは大体魔王から世界を救うものだった。もうその時点で酔いつぶれて路上に寝そべっているおっさんよりは格好がいい。


「世界を救うとか、やばいよね?」


「……確かに」


 世界を救うって響きも悪くない。だって、世界でしょ? 世界。


 世界とはなんですかなんて聞かれても、極々一般人な私には精々週に一回は顔を合わせる知人くらいまでにしか広げられないけど、その子たちを救うだけでもかなりの偉業だ。


 アル中の斉藤さんに、新卒ながらにリボルビングでビッグな借金を負うツトムくん。キャバクラで稼いだ金の二倍の額をホストに貢ぐ香蓮ちゃん。


 私の大して広くない世界だけでもこれだけ大変な子たちがいるのだから、地球丸々救うのだとしたら、神様も喜んでその座を譲ってくれるに違いない。


「……そもそも勇者ってネーミングが硬派よね。勇む者? 空回りな匂いがプンプンするわ」


「ねぇ。それに英雄と違って、ジェンダーフリーだし……」


「え? 英雄って女性はなれないの?」


「だって、ひいでたおすで英雄だよ? めすの私たちにはなれないよ」


 あー……なるほど、そういう。下らないことを言っているわねと鼻で笑う。


「……なりたいの?」


「えー?」


「勇者に」


 どうせ特に頭で考えずに振ってきた話題だと理解し、こっちも同じように適当に振り返す。


「んー……お姉さんは?」


「そうね……うちの会社、内職は禁止なんだけど」


「平気じゃない? ボランティアだよきっと」


「……確かに。ちょっと派手な町内清掃ってところ?」


 何も得るものはなく、何も中身のない会話。


 これがベランダで煙草を吸う私たちの関係で、このたゆたう煙のような怠惰な空気はとても居心地のいいものだった。


「ねぇ、お姉さん」


「ん……?」


「明日空いてる?」


「んー……まぁ、別に」


 だからどうしたのとは言わずに相手のほうを見やる。煙を吐き出すお隣さんも誘うように首を傾げ、私のことを見つめていた。


「……世界、救いたくない?」


 真剣に言っているのか、冗談で言っているのか判断のつかない気怠げな声色。


 ……また適当なこと言っているわね。


 濁っているのか澄んでいるのかよくわからない黒い瞳に見つめられながら、フィルター寸前まで燃え尽きた煙草を灰皿に突っ込む。


「……確かに」


 お隣さんが何を考えてるのかはいつも通りさっぱりわからなかったものの、取りあえず適当に返事をして二本目の煙草を咥える。


 ポケットを弄ってみてもジッポは見つからなかったけど、ああそういえばさっき貸したままだったわねと思いながら、返してもらったところでまたすぐに貸してと言われそうなので、予備の百円ライターで煙草に火をつけたのだった。





 翌日。


「……あっついわね、本当に」


 世の中の恨み辛みがたっぷり籠もっていそうな炎天の下、私は近所のコンビニの前にあるスタンド灰皿の側にいた。


 ここが私とお隣さんの決める必要のない待ち合わせ場所。


 お隣さんが来るのを待ちながら煙草を吸ってみるも、暑い日に味わう熱い煙はやっぱり美味しくはなかった。


 待ち合わせの時間から遅れること三時間。


 中に着た黒いタンクトップが見えるほどルーズな首元をした白い七分丈に、ズボンも同じく七分丈のジーンズという、ラフで中性的な格好をしたお隣さんがやって来た。


「お姉さん、火ぃ貸して……」


 今起きたばかりだということが丸わかりな寝起きテンションでジッポを求める。待ち合わせの時間に遅れたことへの謝罪は当然のようにない。


「はい」


 吸い終わった煙草を円筒型の灰皿に入れ、お尻のポケットから取り出したジッポを

手渡す。謝罪の言葉がないことへの苛立ちなんて、これまた当然のようになかった。


 何故なら、私とお隣さんの待ち合わせは大体いつもこんな感じで、時間通りに待ち合わせが成功したことなんて片手の指の数より少ないのだ。


 私は日頃の疲れを取るために休日はたっぷり寝るタイプで、お隣さんは夜型の人間。


 となると、起きるのは当然お昼過ぎになるわけで。正午に待ち合わせ時間を設定すること自体が間違っていたのだ。私もここに来て煙草を吸い始めたのは三十分前なわけだし。


 遅刻してしまったとしても、待ち合わせ場所に相手がいなかったとしても、私とお隣さんが連絡を取り合うことはまずない。どうせ相手も遅刻するはず、どうせまだ寝ているんだろうなと、よくわからない信頼関係が二人の間にはあった。


「……あ~、まーずぃ……」


 嫌そうに舌を出すお隣さんを尻目に、予備のライターで私も何本目かわからない煙草に火をつける。


「それで? まずどうする?」


「ん~……?」


 怪訝そうな顔で小首を傾げるお隣さん。


「今日はどうするのかって話」


「……えーと……?」


「世界を救わない?とか言ってたでしょ」


「……そういえばそうだっけ」


 寝起きであやふやなのか、覚えていなかったのか。


 煙をゆっくりと吐き出しながらお隣さんは頷いた。


「で? どうする?」


 世界を救うという漠然とした目的に、何から始めるべきか想像なんてまるでつかないし、考えるのも面倒なので、お隣さんに答えを求める。


「ん~……取りあえず装備整えないとダメじゃない?」


「装備……?」


 何の話かと思い眉をひそめるも、お隣さんは私の身体を気怠そうに指差した。


「そんな装備じゃ、モンスターに襲われたら一発でしょ」


 そんな装備=白いワンピースにレギンスにサンダル=限りなくラフ。


「あー……なるほどね」


 モンスターが実際にいるのかどうかは置いておくとして。お隣さんが言っていることには納得だ。私が今着ている服の防御力は、きっとモンスターに対し為す術もない村人と変わらないだろう。


「……でも、だったら武器のほうが大事じゃない?」


「先手必勝ってこと? 硬派だねぇ……」


 目を細めてお隣さんがくすりと笑う。


「なら、まず武器を買いに行く~……?」


「どこに?」


「ん~……ホームセンターとか……?」


「あるかしら……?」


「あるのかなぁ……?」


 お互いに適当な相槌を打ちながら煙草を一服。


 ピースの渋い香りとパーラメントのお上品な香りが混ざり合って、輪郭のぶれた空気が辺りに蔓延していた。


 ……ホームセンターに行くのなら、一旦家戻ってからバイクで行ったほうがいいかな。これ吸い終わったらそうするか……。


 そんなことをぼんやりと考えていると、私の腰の高さよりも小さな女の子がコンビニの自動ドアから出てきた。


 恐らくバニラ味であろうソフトクリームを大事そうに両手で持つ女の子。


 きらきらとした目は今にも灼熱の太陽で溶け始めそうなソフトクリームだけを見つめていた。


 ……微笑ましいけど、転んじゃいそう。


 コンビニの店頭と歩道の間には2センチほどの段差があり、大人はともかくとして、老人や子供が転んでいるのを時たま見かける。


 ソフトクリームで頭がいっぱいな状況では段差のことなど失念していても不思議ではない。その場で食べてから行けばいいのに、おつかいに頼まれでもしているのか、一口も食べずに歩道のほうに向かってるし……


 十中八九転ぶね、あれ。


 なんて予想は数秒後ものの見事に的中。


 案の定ソフトクリームしか見ていなかったであろう女の子は予想通り段差に躓き、あとは慣性に従って転倒した。その拍子でソフトクリームも吹っ飛び、アスファルトの上に倒れる女の子の目と鼻の先にベチャッと着地していた。


 ……あーあーあー。


 潤んだ瞳で台無しになったソフトクリームを見て倒れたまま唇を噛みしめる女の子。


 身体はブルブルと震え、今にも大声を上げて泣き叫ぶ光景が予想される。


 炎天の下に起こった不幸な事件を見たのは私とお隣さんの二人だけ。熱くてみんな外に出たくないのか、辺りに人の姿は見えず。コンビニの店員さんもレジに夢中で気づいているような素振りは見せない。


 自分の目の前で人が転んだという状況は非常に気まずいものだ。声の一つでも掛けないと薄情者だと思われかねない。かといって、自分が転んだ当事者だとしたら、恥ずかしいので声を掛けないで欲しいと思う。


 それに、相手は私の腰の高さほどもない女の子。この世知辛いご時世、迂闊なことをしようものなら[怪しい女が女の子に声を掛ける事案が発生]なんてことになりかねない。


 どうしたものかと煩わしい躊躇いを覚えていると、いつの間にかスタンド灰皿に煙草を捨てていたお隣さんが倒れている女の子の元へと歩み寄っていった。


「……泣かないなんて偉いねぇ」


 そう言ってしゃがみ込んで抱き起こし、女の子の服についた砂や埃を手で払う。


「怪我もしてないみたいだし、偉い偉い」


 目線を合わせたまま右手で頭を撫でるお隣さん。女の子は瞳を潤ませたまま、警戒するような目つきでお隣さんのことを見つめていた。


 ここで泣き叫ばれたら間違いなく事案発生だと内心ハラハラしながら、ことの行く末を見守っていると、お隣さんは尻のポケットに入れていた小銭入れから五百円玉を取り出したのだった。


「偉い子にはご褒美にお小遣い~。これで新しいソフトクリーム買ってきな~?」


「……いいの?」


 目の前に差し出された金色の硬貨を見て、女の子が恐る恐る尋ねる。見知らぬ人にお金をあげるなんて言われたら、誰だってこうなるだろう。怪しいことこの上ない。


「うん。お母さんには内緒だけどね?」


 微笑ましそうに目を細めるとお隣さんは女の子の手を両手で取り五百円玉をプレゼント。


 段差に躓いてからというものずっと険しい顔をしていた女の子だったけど、自分の手のひらにある硬貨を見つめるその表情は、固く閉ざされた蕾が花開いていくかのように明るいものへと変わっていく。


 ……おーおー、微笑ましい光景。実は子供好きなのかな?


 意外な一面に感心。


 万事丸く収まったのか、女の子はコンビニへと戻っていき、お隣さんも頭を左手で掻きながら灰皿のほうへと戻ってきた。


「……お姉さん。あとで煙草奢って……?」


「あなたねぇ……」


 呆れて鼻で笑ってしまう。あの五百円玉は煙草代だったのね。……ま、いいけど。私は見てただけだし。


「……で? ホームセンター行くんだっけ?」


「ん~……どうしよっか? ……そもそも何と戦うの……?」


「え? そりゃあ……なんだろう?」


 先に装備が大事だの言い始めたのはそっちでしょと思いながら、取りあえず考えては見るものの、ホームセンターに売っているアイテムで倒すような相手は見つからなかった。


「なんだろうねぇ~……?」


 お隣さんも気怠げに首を捻る。お互いが適当に会話をしていることが浮き彫りになった瞬間。だからといって、お互いに苛立つことは何もない。


 この適当な感じがどうしようもないほど緩く、時間を無駄にしている感じがとうしようもないくらい退廃的で居心地がよかったのだ。


 いよいよ今日の目的がわからなくなってきたので、どうしたものかと吸い終わった煙草の火を消しながら考えていると、先ほどの女の子がまたも両手で大事そうにソフトクリームを持って自動ドアから出てきた。


 先ほどと違うことといえば、手元のソフトクリームしか見ていないのではなく、店から出てくるなりキョロキョロと辺りを見回していることだろうか。


 恐らくお隣さんのことを探しているのだろう。お隣さんにさっきの女の子が出てきたよと顎で教えてあげる。


「今度は気をつけてねぇ~」

 

 軽く上げた手を気怠げに振り、ひと声掛けるお隣さん。

 

 そんなお隣さんに気づくと女の子は眩しいほどの満面の笑みで、


「ありがとーおばさーん!」


 とお礼を言った。


 凍りつくように固まるお隣さん。


 上機嫌な足取りで去って行く女の子。


 そして、思わず吹き出してしまいそうになるのを必死で堪える私。


 ……お隣さん、まだ二十四才なのにおばさん扱いとか面白すぎない?


「おばさん……まぁ、いいけどねぇ」


 女の子の姿が見えなくなるなり、ときが動き出したようにお隣さんがポツリと漏らす。

「あの子はきっと気づくんだ。今の私と同い年になったときに。ああ、自分はこんなに酷いことを言ってたんだ、って」


 全く気にしていないとばかりな気怠るい雰囲気。


「ま、その頃には本当におばさんになってるけどね」


 なんて私が軽口を叩くと、


「お姉さん? それは本当に酷いよ?」


 お隣さんは普段のゆったりとした口調からは想像出来ない冷たさで釘を刺した。何よ、ちゃんと気にしてるじゃない。まぁ、その頃は私もおばさんになってるけど。


「はぁ……もう、今日どうする~?」


 明らかに疲れ混じりなため息をつき、お隣さんが尋ねる。


 そうねぇ……。


「……取りあえずご飯食べない?」


「ご飯~……? 世界、救うんじゃなかったっけ……?」


「腹が減った自分を救ってあげるのも、世界を救うってことに入るでしょ」


「……入るのかなぁ……?」


 納得しきれないのか、微妙な顔をするお隣さんだったが、私にはわかる。


 私が今日まだ一食も食べていないということは、お隣さんも今日はまだ何も食べていないはず。


「ん~……何食べよっか……?」


 ほら。やっぱり満更ではないようだ。


「暑いし、冷たいものがいいかもね……」


「いいねぇ、それ。冷たいの」


 暑い日に熱いものを食べるのも悪くはないが、今日は二人ともそういう気分ではない。


 とはいえ。


「冷たいものねぇ……」


 自分で言っておきながらちょっと悩む。


 冷たい食べ物と言われて思い浮かぶものは、アイスやかき氷など、どう考えても主食じゃない食べ物ばかり。


 さっき女の子がアスファルトにぶちまけてったソフトクリームもそう。いつの間にかあのソフトクリームは甘い匂いを残して溶けきり、ただの白い液体に変わっていた。


 冷たい主食が思い浮かばないのはお隣さんも同じようで、何も言わずに難しい顔。


 お互いがお互い、考えることが面倒になっているのがありありとわかった。


「……ラーメンでよくない?」


 お隣さんの妥協案。


 全く冷たくはないけど、私とお隣さんが何を食べるか悩んだときは大体ラーメンが鉄板だった。


「じゃあ、ラーメン食べながらこのあとどうやって世界を救うのか適当に考えよっか……」


「だねぇ……」


 お互いに異論は無いようなので、そろそろ行くかと足を動かそうとすると、


「あ、ちょっと待ってお姉さん」


 お隣さんに呼び止められた。


「とりあえず、もう一本吸ってからにしない……?」


 左手の人差し指と中指の間には、既に火のついていない新しい煙草が挟まれている。私はまだなんとも言っていないのに、もう一本吸うことが勝手に決定してしまっていた。


 ……まったく。いつまでここの灰皿の前にいればいいのかしら。暑いのに。

 そう思いながら、


「……確かに」


 流されるまま私も新しい煙草を一本取り出すのだった。

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