七月と八月(2014-2015年頃、未完)
小夏ちゃんはVANSの赤いスニーカーをつっかけた右足を、バタバタと助走をつけてから、思いきり振りあげた。スニーカーが飛んでいった。そのスニーカーのむこうの空を、遠いから種類は分からない、羽ばたいているシルエットならば辛うじてここから見える二羽の鳥が飛んでいた。たぶんハトだった。「これが萌映ちゃん?」と千草が訊いたから、映像を止めた。鳥が宙に浮いたまま動かなくなった。見るところ鳥はカラスほど大きくなく、やっぱりハトだと思った。手ぶれによる画面の揺れも、くっきりと静止していた。
「これ?」とわたしは画面を指さす。「これは小夏ちゃんだよ」
「これがあの小夏ちゃんか。え、っていうか小夏ちゃんって年上なんだよね」
「ね。童顔だよね」
わたしの部屋で、わたしと千草はパソコンの画面にうつった映像を一緒に見ていた。床に座ったわたしがベッドの側面にもたれかかって、伸ばした足の上にパソコンを置き、千草はベッドに寝ころびわたしの肩越しに画面を覗いていた。
再生ボタンを押した。鳥が追いかけっこを再開した。千草が画面奥へ駆けていく。
むこうにはNTTドコモのビルが建っている。そのNTTドコモのビルがあまりに高く大きいので、周囲の他の建物が退色して背景のようだった。二羽の鳥はちぐはぐな起伏を描いて空を滑っていた。その姿はこうしてカメラにうつっているが、公園にいたわたしが鳥を見ていたわけではなかった。きっと視界には入っていた。わたしは小夏ちゃんが放ったスニーカーを見あげていた。額にはビデオカメラがストラップで装着され、カメラの視界とわたしの視界とがほとんどぴったり重なっている。だから、あの赤いスニーカーはこうして画面にもうつっている。
「最近はどんなの撮ってるの?」
久しぶりにわたしの家に遊びにきた千草にたずねられ、
「例えば、これは練習っていうか遊びだけど」
と先月撮ったこの映像を見せたのだ。
すると、変な動きをする二羽の鳥がそこにうつっていた。空の青を背景に二羽のシルエットはぐにゃぐにゃと滑空し、やがて木の影のなかに潜りこんで見えなくなった。
赤いスニーカーが宙空で一瞬静止し、落下しはじめた。小夏ちゃんはそれをキャッチしようと走っている。右足は靴下だけなので左右で足の長さが若干ちがって微妙に走りづらかった。
画面の隅には、わたしたちから少し離れたところにレジャーシートを敷いて寝ている上半身裸の男がうつりこんでいた。そう若くはなく体は白く瘦せぎすで、上半身裸の格好が不似合いだった。スニーカーが小夏ちゃんの数メートル手前の芝生に、ぼとっ、と落ちた。
小夏ちゃんは芝生に落ちた靴を履きなおすと、すぐさまこちらに駆けもどってきて、
「やっぱり……亜美みたいに……高く……飛ばせない……」
と息を切らし、膝に手をつき体を折り曲げながら言った。わたしは小学生のころから靴飛ばしが上手い。
昨日、古谷がGoProを貸してくれた。それでさっそく何か撮ってみようということになり、カメラを額に取りつけて靴飛ばしをやることになったのだ。飛んでいった靴がカメラから遠ざかり、それからこちらに戻って落ちてくる。しばらく二人で靴飛ばしをやり、先に疲れたわたしが木陰で涼むことにしてからも、小夏ちゃんは一人で靴を蹴り飛ばしては走りまわっていた。
「アチいなー」
小夏ちゃんが顔をあげ、むこうに寝ころんでいる上半身裸の男のほうを羨ましそうに見た。
「あたしも脱ぎてー」
「夏っ! って感じだなー」
「夏だよね」
「さっき思ったんだけど、小夏ちゃんてなんで小夏なの? 夏生まれじゃないじゃん」
「え、なんでだろう。知らない」
小夏ちゃんは顔を空へむけ、気持ちよさそうに伸びをして、芝生に座りこんだ。
わたしはボタンを押して録画を中止した。だから一ヶ月後、わたしと千草が見ているその映像はここで終わりだった。
次にわたしが再生した映像は、まず画面がひどく揺れ、「撮れてる…のか?」という小夏ちゃんの声が続き、揺れが収まると画面には伸びをしているわたしの後ろ姿がうつっていた。公園にいるわたしが「持ってて」とカメラを小夏ちゃんに渡したのだ。小夏ちゃんが「勝手に撮っててもいい?」と訊き、わたしは「いいよ」と言った。小夏ちゃんは録画を再開した。わたしは立ち上がって、小夏ちゃんがやっていたように伸びをしてみた。
汗ばんだ肌に気もちがいい強すぎず弱すぎない風が新宿御苑を吹いていた。芝生を囲う並木の枝葉が風に揺られサラサラと擦れあっていた。雑踏のざわめきが新宿御苑を取りかこんでいるのだが、ここにいるわたしにはほとんど聞こえていなかった。ヘリコプターや飛行機が飛んでいて空から音が降ってくるのに、見あげてもヘリコプターや飛行機は見えなかった。カラスの鳴き声が大きくなって、小さくなり、やがて遠くに聞こえなくなった。二羽だったので「カァ、カァ」が二つ重なって、「カカァー、カカァー」というのが聞こえていた。「そうだよ!」「きゃー!」「だからさぁ!」と、公園内のたのしい声が絶え間なく聞こえていた。
カメラに録音された音はあとから聞くと、今わたしが公園で聞いている音とは全然ちがう音だった。まばらになったり密になったりする奥行きが圧縮され、なんとなく平板な感じになっていた。
芝生の真ん中に立ちどまり、しばらくぼーっとしていると、周囲のものごとの多さに目が眩み、耳も眩んで倒れこんでしまいたくなるその感じがわたしは好きだった。
頭上のヒマラヤヒザクラからの木漏れ日は、風が枝葉を揺らせばチラチラと動き、目に入ると眩しかった。深呼吸をしたくなって、深呼吸をした。
振りかえると、小夏ちゃんが上半身裸のおじさんにカメラをむけていた。
「バーカ」
「しずかに!」
小夏ちゃんはニヤニヤ笑っている。男が寝ころんだまま、腕と足をググッと伸ばし、こっちにまで聞こえる大きさで「ンンー」と声をだした。この日はほんとうに伸びをしたくなるような天気だった。
「バレて追いかけてきたらおもしろいのにな」
「そしたら亜美を置いて逃げるよ」
と、男が唐突に体を起こし、しきりにキョロキョロしはじめた。わたしたちは気づかれたかと一瞬どぎまぎしたのだが、結局なにごともなく、男はまたドテッと寝ころんだ。
「ああびっくりした」
「なにが追いかけてきたらおもしろいだよ。亜美、顔が引きつってたよ」
と、わたしたちは笑っていて、
「変なおっさん」
と、わたしの部屋でパソコンの画面を見ながら千草も笑い、それから、
「新宿御苑ってファニちゃんも入れるのかなあ」
と訊いた。
「どうだろう、そういや犬の散歩してる人は見たことないな」
「じゃあダメか。ファニちゃん絶対よろこぶのに。中央公園より広いでしょ」
「二倍とか三倍くらいかな」
「とてつもないな! ファニちゃんも遊ばせたい。なんだよ、裸のおっさんは良くて、ファニちゃんはダメなのか」
新宿御苑ほどではないがやはり広い芝生のある近所の中央公園にはファニーも入ることができたのだ。いつも公園の手前のセブン・イレブンのあたりでもうウズウズと待ちきれなくなりだして、リードを引っぱり千草を急かしていたファニーも今や十四歳になっていた。リードが絡まないよう注意しながら公園入口のポールをかわし、両側に花壇が並んだ透水ブロックの遊歩道を歩いていくと芝生の広場だった。
リードを手放すと、ファニーは芝生のまんなかへ駆けだした。小学生の千草とわたしは「ファニちゃん、待って!」「待って待って!」と追いかけた。笑いすぎて走りにくかった。
ファニーは興奮を抑えきれずオンオン吠えた。千草が散歩のときに常に持ち歩いていた水色のポシェットからシャボン玉のおもちゃを取りだしたのだ。先端が輪になった棒を液にひたし、口をすぼめて息を吹きかけた。小さなシャボン玉がたくさん飛んだ。ベーコンの風味のついている、食べても無害なシャボン玉をファニーは夢中になって追いかけた。ジャンプして空中で体をひねり、パコンパコンとあごを鳴らしてシャボン玉にむしゃぶりついた。普段はおとなしいファニーの全身を使った大興奮がおもしろくて、手がベトベトになってもシャボン玉を作りつづけた。ファニーも口まわりの毛がベトベトだった。そのファニーも今では十四歳だ。もうこんなには走りまわらないが、ファニーはせっせっと精をだして中央公園の芝生を毎日歩く。
小夏ちゃんが「案外、重いんだね」とカメラをわたしに手渡し、手を頭のうしろで組んで芝生に寝っころがり、大きなあくびをした。新宿のわりに良い空気だった。わたしはまたヘッドストラップを巻いてカメラを頭に装着した。
こちらへ歩いてくる大学生くらいのカップルの姿が見えていた。女のひとはじぶんの右肩を、ポンッ、ポンッ、ポンッ、と男のひとの背中に一定のペースで軽く優しくぶっつけながら歩いていた。二人がいつもそうやって歩いているということがなんとなく見て取れた。わたしはその二人のほうをむきつづけていた。
画面を見ながら、
「文化祭委員に後輩の男子がいるんだけど、ちょっと気になってしまっている」
と、千草がわたしの耳元で言う。わたしは振りかえって、
「それ初耳。あれ、皆藤くんは?」
「とっくの昔の話だよ、そんなの」
「年下かあ」
「うちもお母さんのほうが年上だし」
「はっ、もう結婚するつもりかよ」と茶化すと、「そういうことじゃなくって!」と頭をはたかれた。
カップルは肩をぶつけあいながら画面に近づいてくる。と、女のひとの肩がぶつかる寸前に、男のひとが体をひねり絶妙なタイミングで肩をよけた。女のひとは勢いそのまま、前に倒れこみそうになった。慌ててうしろから体を支えた。大笑いしている男のひとを「ねー危ない!」と小突くと、小さな青いゴムボールが飛んできて二人の足元にころがった。
小夏ちゃんはウトウトしていた。なにかの拍子に、ハッと目を覚ました。「ねー危ない!」というあの女のひとの声が聞こえたのかもしれない。眠りに落ちる寸前の気だるさはどうしてこんなにも気持ちいいのだろう。すこし頭を持ちあげてわたしのほうに目をむけると、わたしはボーッとなにかを見ているようだった。わたしは肩をぶつけあって歩いているカップルを見ていたのだ。また眠たくなってきた。
小学校低学年くらいの双子の兄弟とその父親が、わたしたちが靴飛ばしをはじめる前からもうずっと休みなく、小さな青いゴムボールでキャッチボールをつづけていた。双子の一方の投げたボールが、双子のもう片方のはるか頭上を越して、むこうのスズカケノキの陰まで飛んでいった。
「へたくそ!」
と、ボールの飛んでいったほうへ駆けていくと、そこにいた女のひとがボールを拾って手わたしてくれた。目をあわさず無言でボールを受けとった。奥にいる父親らしき男のひとが女のひとに会釈して、女のひとも会釈をかえした。お父さんが「ユウくん、ありがとうは?」と促すと、チラッと女のひとの顔を見あげ、「…ありがとう」と聞こえるか聞こえないかくらいの声で言い、家族のところへ逃げ帰った。「ああ、すいません」と、父親らしき男のひとがまた頭を下げた。「かわいいね」と恋人のほうを振りかえると、恋人は「双子じゃん」と言い、視線の先に同じ顔の子どもが二人いた。
いつの間にか紫色のTシャツを着ているが、画面の奥を歩いている男はさきほど上半身裸で寝ていたあの男と同一人物だ。靴底を地面にこするような歩きかたで、そのまま公衆トイレに入っていき、十数秒で中から出てきた。自分のレジャーシートまで戻ってまた寝ころぶと、緑色のショーツのポケットからおもむろにバナナを取りだして皮を剥いて食べはじめ、あっという間に食べ終えた。
さきほどのカップルが肩をぶつけあいながら、画面を右から左へ横切っていった。
あそこのNTTドコモのビルの右奥に建っているのは代ゼミのビルで、その右隣にある、代ゼミのビルよりは距離的に新宿御苑に近そうに見えるあのビルがなんの建物かは知らなかった。てっぺんに、なにか平たいものがある。ヘリポートかもしれなかった。ヘリコプターが離着陸するところは一度でいいから間近で見てみたいと思っていた。広大な草原のまんなかに着陸するヘリコプターをその上空から見下ろすように撮った映像を見たことがある。世界史の授業で見た、ベトナム戦争のドキュメンタリー映画だった。プロペラの巻き起こす風が波紋のように草原を波打たせていた。すごく綺麗だった。
都庁のビルを探してきょろきょろ見回してみたが見当たらなかった。薄くなったり濃くなったり、途切れとぎれの飛行機雲がNTTドコモのビルのほうから、わたしの真上を通って、背後の空までつづいていた。
すこし離れたところにある水辺を、このあと小夏ちゃんが目を覚ましてから見に行った。それから二人とも満足して新宿御苑を出て、サザンテラスのクリスピー・クリーム・ドーナツで萌映と古谷と待ちあわせたのだ。
公園の出口へむかっていると、小夏ちゃんがトウワタの植わった花壇のまえで急に立ちどまった。なにかと思っていると、手に持っていたiPhoneでトウワタの写真を撮りはじめた。一枚目は手ブレしたが、二枚目と三枚目は上手に撮れた。「ね、見て。アリが蜜食べてる」と手まねきした。それで見てみると、トウワタの赤い花びらのうえに立つオレンジ色の柱の周囲にたしかにアリが群がっていた。そして公園をでると小夏ちゃんは「クリスピー・クリーム・ドーナツ行こ」と言ったのだった。
振りかえると、小夏ちゃんは木漏れ日のなかで眠っていた。ヘッドストラップを外してカメラを手に持ち、小夏ちゃんに近寄った。眠っている小夏ちゃんの顔にカメラを近づけると、
「爆睡してるじゃん、わたし」
と、五十分後に小夏ちゃんが言った。クリスピー・クリーム・ドーナツの二階の角席で萌映と古谷を待ちながら、ビデオカメラと小夏ちゃんのパソコンとを繋ぎ、さっき新宿御苑で撮ったばかりの映像をいくつか、暇つぶしがてら見返していた。画面にうつった小夏ちゃんは口をポカッとあけて眠っている。
「こんなに口あけて寝てた」
「っていうか、カメラ寄せすぎだからね」
「ほんと子どもみたいだよね、寝顔」
すると画面手前から手が伸びて、人差し指が小夏ちゃんの頬っぺたをつつきはじめた。やわらかかった。起きそうになかった。
「人が気持ちよく寝てるのにさあ」
小夏ちゃんはテーブルのしたでわたしの足をかるく蹴った。
「だってぜんぜん起きないから」
頬っぺたをつついていた手がすこし動いて、人差し指が小夏ちゃんの左の瞼をそっと持ちあげた。小夏ちゃんを起こさないよう、必死で笑いをかみ殺していた。
「オイこら、亜美、てめー!」
「ごめんごめん」
と、小夏ちゃんの黒目が瞼を追いかけるように上をむいていき、しまいには白目を剥いた状態になった。
「すげー顔してる…」
小夏ちゃんはじぶんの顔にじぶんでショックを受けていた。わたしたちが大声でゲラゲラ笑っていると、奥の窓際のカウンター席に座っている太ったおばさんがじっとこちらを睨んでいた。わたしはおばさんの顔を見つめ、いきなり白目を剥いてみた。おばさんは顔を引きつらせ、目をそむけた。
指を離すと、瞼は自然と閉じた。小夏ちゃんはなにもなかったかのようにさっきと変わらない寝息を立てつづけていた。十分ほど経ってから小夏ちゃんは目を覚まし、わたしたちは水辺まで歩いていって白鳥がいないことを確かめてから新宿御苑をでた。
映像をひと通り見てしまってからパソコンを閉じると、古谷が階段をあがってきた。階段をのぼりきったところで立ちどまり、きょろきょろと探しているので「こっちだよ」と手を振った。「おっ」という顔をしてこちらに気づき、「サザンテラスにヤバい犬いたよ、いま」と古谷にしては興奮した様子で言いながらわたしのとなりの席に座った。
「ヤバいって?」
「いや、もうなんか、すごいし、なんて言うか、すごいんだよ」
「だからどんなふうに」
「直立二足歩行してんの」
「…なんだよ、早速ウソかよ」
「ウソつき」
ハア、と、わたしと小夏ちゃんは大げさなため息を吐いた。
「いや、新宿のひと、みんな見てたし」
「はいはい」
「ほんとうだって。おじいさんに飼われてるデカい犬で、後ろ足二本で立って、片方の手を、手っていうか前足だけど、おじいさんの肩に添えて、それで直立で歩いてたんだよ。サザンテラスの、すぐそこを。…いや、ほんとうだから。なに、その目。ほんとうにみんな見てたし」
「写真は?」
「……あ」
「もうさ、ウソつくのやめていいんだよ」
「なんか悩みでもあるの?」
「写真まで気がまわらなかったんだよ。っていうか、まだそこから見えるかも」
古谷は立ちあがると足早に窓際のカウンター席まで移動して、席に膝立ちになり窓ガラスに額を寄せた。小夏ちゃんもあとにつづき、古谷の隣で窓に張りついて、「どっち?」「駅の方向」「南口?」などと外を探しはじめた。そのすぐ右横でさっきのおばさんが古谷と小夏ちゃんをまた嫌そうに横目で見ていた。わたしはiPhoneのカメラ機能を立ちあげて、険しい顔つきで窓ガラスに張りついているふたりのうしろ姿の写真を撮った。
「なんだよ、いないじゃん」
「おかしいなあ。けっこう早足だったからなあ。もう移動しちゃったのかも」
「あーあ。無駄に期待した」
小夏ちゃんはこちらの席に戻ってきたが、古谷は諦めきれないようでまだしばらく窓ガラスにくっつき外を探しつづけていた。左隣に座っている小さな女の子が手にドーナツを持ったまま、不思議そうに古谷を眺めていた。
「あ、保科」
と古谷が言った。萌絵が駅のほうから歩いてくるのが見えたのだ。気づくかと思ってガラスの向こうに手を振ったが、気づかなかった。振りかえって、
「イトヤン、保科が来た」
と言った。
「もう来た? 思ったより早かったな、みんな」
「まだけっこう時間あるよ。あとで紀伊国屋寄っていい?」
「いいよ。なに買うの?」
「好きな漫画家さんのエッセイ」
犬探しを諦めたのか、古谷もこちらの席に戻ってきた。
階段を上がってきた萌映が、提げていた赤いカバンを小夏ちゃんの隣の席にドカッと置くなり、
「すごい犬見たんだけど」
と言うので、わたしたち三人は顔を見合わせた。
「……二足歩行?」
「え、亜美も見た?」
「いや、古谷が」
「ほら言っただろ!」
古谷がテーブルを叩いて、勝ちほこったように言った。
「どういうこと?」
「いや、イトヤンと小夏ちゃん、二足歩行の犬見たって言ってもぜんぜん信じてくれないから」
「だって二足歩行とか突然言われてもね」
「知ってるか? ウソつきほどひとを疑うんだぞ」
「うるさいな」
「なんかさ、犬の歩きかた、紳士的だったよね。スッスッスッ…って。すましてる感じで」
「ああ、言われてみれば。紳士っぽい感じだった」
「紳士的って?」
と小夏ちゃんが訊く。
「だから紳士的は紳士的だよ。スッスッスッ…ってこんな感じで。ねえ?」
萌映は目を薄く開けて顎を突きだし、「スッスッスッ…」と言いながら首を左右に振った。
「そんな感じ」
と古谷も同意する。
「スッスッスッ…」
萌絵はその「スッスッスッ…」が気に入ったようで、薄目で顎を突きだし首を左右に振るその動作をくり返していた。小夏ちゃんが「スッスッはもういい」と萌映の顎を手で押さえ、「で、写真は?」と訊いた。
「あっ、撮ったよ。写真っていうか動画だけども」
「おっ、まじで。見せて」
「ほんとにほんとだったのか。古谷ことがだからてっきりウソかと思った」
「ひどいなー」
「これ」
と、萌絵がテーブルに置いたiPhoneの画面のなかで、巨大なハウンド犬と麦わら帽子のおじいさんが大勢の見物人に囲まれている。ハウンド犬は左の前足をおじいさんの肩に添えつつうしろ足でまっすぐ立ち、鼻をツンっと上にむけてスタスタと歩いていた。その立ち姿はフラつきもせず、むしろ余裕さえ醸していた。この犬の姿を見て古谷と萌絵は「紳士的」だと思ったのだ。たしかに紳士的だと思った。小夏ちゃんはあとでわたしたちにこの動画を見せて自慢しようと思っていたが、わたしたちは古谷から先に話を聞かされていたので驚いてくれなかった。
「紳士じゃん」
「だからそう言っただろ」
と古谷はしたり顔で言い、
「それにこのおじいさんの自慢げな顔もいいんだよ」
「犬のほうが超然としてるよね」
「っていうか萌絵、どこまでついていくの」
犬とおじいさんは南口改札前の歩道をルミネ沿いに東南口まで歩いてきた。萌絵は携帯を手に、まだ後を追っている。
「やじうま根性でバルト9の近くまでついていった」
「わんちゃん、ずっと立ってて腰痛くならないのかな」
「まだあと四、五分あるよ、この動画。わたしお腹すいたからなんか買ってくるけど、古谷は買わないの?」
と萌絵が席を立った。
「俺はさっき昼飯食ったばっかりだからいいや」
「そっか」
階段を下りかけてから萌絵は財布を持っていなかったことに気がつき、「サッイフ、サッイフ」と言いながら戻ってきて、赤いバッグから赤い財布を取りだし、今度こそ階段を下りていった。
カメラを持って犬を追いかけている萌絵は新宿四丁目の交差点でようやく立ち止まり、録画を終わらせた。横断歩道をForever21のほうへ渡っていく犬とおじいさんのうしろ姿が動画の最後にうつっていた。古谷がテーブルに置かれているGoProを手にとって、「どうだった?」と訊いた。
「おもしろかった。頭にカメラ着けてきょろきょろしたりするだけでたのしい」
「二人でカメラを頭につけて走りまわってた。亜美はすぐへばってたけど」
「GoProはなんか走りまわりたくなるよなあ」
「うん。なんていうか、被写体が動くだけじゃなくて、カメラ自体が動くのにあわせて画面全体が動くのもたのしいんだよなあ、って思った。あたりまえのことなんだけど」
携帯にカメラ機能が付いたのは小学校低学年の頃だが、わたしは毎日のようにお母さんの携帯を借りてカメラで遊んでいた。当時の携帯のカメラの画質は今とはまったく比べものにならず、映像はモザイクのように歪んで、輪郭は霞み、光がちらついた。しかし当時はそれが最先端で、わたしは七、八歳だったから画質は気にならなかった。「お母さん、こっち」とカメラをむけると、お母さんは頭と腕をグネグネ動かし、タコのような動きをしはじめた。わたしはうれしくなり、カメラをむけながらお母さんの周りをぐるぐると走りまわった。お母さんは「変なの」と笑っていた。
窓際の席に座っている小さな女の子がこちらを眺めていた。窓ガラスに張りついている古谷をさきほど凝視していた子だ。視線に気がついて小夏ちゃんが手を振ると、女の子は驚いて正面に向きなおった。窓の外をピンク色の髪の毛の女のひとが歩いていて、目が釘づけになった。
「小夏ちゃんのやばい顔の動画とったんだよ」
「どんな顔?」
「だから見せないでいいよ」
わたしはパソコンを開き、さきほど新宿御苑で撮った映像をまた再生した。小夏ちゃんがヒマラヤヒザクラの木陰で眠っている。わたしはカメラを手に、息をひそめて忍びよった。パソコンの画面に小夏ちゃんの寝顔が大うつしになる。画面手前から手が伸びて、人指し指が小夏ちゃんの頬っぺたをつつき、瞼を押しあげた。こみ上げてくる笑いを噛み殺そうとわたしは必死になっていた。小夏ちゃんは白目を剥きながら寝息を立てつづけている。三人で小夏ちゃんの可哀そうな姿を見ながら笑っているとトレイにドーナツを乗せて戻ってきた萌絵が「なになに?」と画面を覗きこんで大げさにギョっとしていた。
早めに集合したはずが、そのままそこでグダグダと喋りつづけていたために開場時間をいつの間にか過ぎていた。ふと萌絵が携帯の時計表示を見て、「っていうか時間!」と驚いた。わたしたちはすぐさま店で出た。
途中、マルイの交差点の信号が変わるのを待っていると、三栖さんが小夏ちゃんに電話をかけた。三栖さんはライブハウスの前にいた。iPhoneが鳴って、小夏ちゃんが電話に出た。「小夏たち、もうなかにいる?」と三栖さんが訊いた。
「まだ今マルイのあたり。そっちむかってる」
「ああ、それじゃあ先に入ってるわ」
「そうしといて。あと十分くらいで着くから」
と言いかけたが、三栖さんはもう電話を切っていた。小夏ちゃんが舌打ちし、信号が青に変わった。横断歩道を渡りながら萌絵が、
「今の三栖さん?」
と訊いた。小夏ちゃんが、
「あいつ、また会話の途中で突然電話切りやがった」
と答えた。
ライブハウスは明治通りの先、東新宿駅の近くだった。重たいドアの先はすでに人だかりが押しあっていた。フロアはあまり広くなく、壁一面、さらに床も天井も紅色の内装は時代劇めいたところがあった。人垣のむこうがステージで、観客の頭越しにマイクスタンドとドラムセットが見えた。パリパリとした音の東洋的な雰囲気のガレージロックがBGMとしてスピーカーから流れていた。
右手奥のドリンクカウンターのそばに三栖さんが立っていて、さきほどまで岩淵さんもそこいたのだが、今はいなかった。
「岩淵さんは?」
「ついさっき準備しに行ったよ。もうすぐ始まるらしい」
三栖さんが二杯目のビールを注文した。小夏ちゃんはどこかからかかってきた電話に出たが、電波が悪く、相手の声が聞こえなかった。「ごめん、聞こえない。ちょっと待って」とライブハウスの外へ出ていった。
カウンターの脇でジンジャーエールを飲みながら開演を待っていた。やがてフロア全体の明かりが消え、BGMもフェードアウトした。観客の話し声も自然と小さくなった。照明に照らされステージが白く光った。ステージの右脇から岩淵さんのバンドの三人が出てきて、フロアのほうには一度も目をやらず、それぞれ自分の持ち場についた。岩淵さんの新しいバンドはドラムとギターとDJという三人編成で、岩淵さんはステージ左に並べ置かれたパソコンとミキサーの前で立ち止まった。
静かだった。斜めまえに立っている、あご髭を長く生やしたおじさんがしきりに咳を繰りかえしていた。
かすれた音が聞こえた気がした。パソコンの前に立っている岩淵さんが唇を噛みながら画面をじっと見つめていた。正体のわからないかすれた音ははじめは観客の話し声にまぎれてしまうほど小さかったが、次第に音量を増してきた。どうやらそれは波の音だった。波だけでなく、ひとの声も混じっていた。その声のいちいちを聞きとることはできないが、大勢の人間がわらわらと群れていて、遠くや近くで笑ったり叫んだりしているようだった。海水浴場だった。アンプから出る音がますます音量を増していき、これ以上ないほど大きく膨れあがった。ライブハウスの空気がふるえはじめた。
これと同じ音を、去年の夏、逗子の海水浴場で岩淵さんが聞いていた。砂浜に寝ころんで、目をつむっていた。眠っていたかもしれない。パラソルの影のなかに岩淵さんの体が横たわっていた。日ごろから持ち歩いているレコーダーを手に、周囲を飛び交う音を録音していた。かならずしも作曲のために使うことをもくろんで録っていたわけではなかったが、結局このような形で曲のなかで使われることになった。その音をわたしが聞いていた。
海水浴場の音に、浮いて漂うようなやわらかい耳触りの電子音と、低音から高音へ渦を巻いて反響する電子音とが加わった。ほんとうは加わったわけではなかった。これらの電子音は最初からアンプを通して流れていたのだが、わたしがそれに気がついていなかったのだ。ともかく今はたしかに聞こえていた。目を閉じてみた。海水浴場の音と電子音の奥に、ずっと甲高い、聞きとれるか聞きとれないかくらいのモスキート音もあるようだった。ガラスのようなものが軽くぶつかりあうような音が、コツン、コツンと鳴っていた。
古谷が頭を前後にゆらゆらと動かしている。どこにいるのか、先ほどから姿の見えない小夏ちゃんもこのフロアのどこかで同じ音を聞いていた。考えてみればもう四年も海を見ていないことになる。小夏ちゃんは最後に海に行ったときのことを思いだしていた。
三栖さんはもう三杯目のビールを飲んでいる。顔は赤く火照っている。顔が赤くなっていることはじぶんでもよくわかっていた。気持ちよかった。その隣で萌絵がステージを見つめていた。ステージの光が眩しく、二人は目を細めている。萌絵は人垣が邪魔なのか爪先立ちになっている。三栖さんが耳元で「前、行く?」と訊くと、首を振って「ううん、混んでるから」と応えた。
と、不意にすべての音がとぎれた。無音に促され、つむっていた目を開けた。ステージを照らしていた光がいつの間にか白から赤に変わっていた。岩淵さんはパソコンの画面を食い入るように見つめている。長くも短くも感じられるような無音の時間がつづいた。それから逗子の海水浴場の音がまた鳴りだした。ギターもそこに加わった。ドラムの女のひとがなにやら空き缶に似た金属製の円筒を叩きはじめた。
壁や天井や照明だけでなく、観客も空気も、ここからステージまでの距離感も、なにもかもが赤くなったようだった。赤のなかで体が揺れていた。わたしはまた目をつむった。
古谷がカメラをステージにむけて何枚か写真を撮った。
古谷がカメラの電源を入れたとき、カメラの裏側のディスプレイが黄緑色に光っていた。それは二時間ほど前、わたしが新宿御苑で撮った動画のサムネイル画像で、その黄緑は芝生の色だった。動画を再生したならば黄緑色の画面が動きだす。画面がぐらぐらと揺れている。わたしがヘッドストラップを巻いてカメラを頭に取りつけている。しかし、古谷は再生ボタンを押すことはなく、そのままカメラをステージにむけ、写真を撮った。バンドの三人の顔が赤黒く影になっていた。
カメラを取りつけ終わると画面の揺れはひとまず収まった。
画面右奥で、上半身裸の男がムクリと体を起こし、紫色のTシャツを身につけてから立ちあがった。靴底を地面にこするような歩きかたで芝生を横切り、そのまま画面の外側の空間へ出ていった。小腹が空いていた。緑のショーツのポケットのなかにはバナナが一本入っていた。
大学生くらいのカップルが肩をぶつけ合いながら歩いている。転びそうになったが転ばなかった。足元にボールが飛んでくると、拾いあげて駆けてきた男の子に手渡してあげた。
そのむこうのNTTドコモのビルのほうに顔がむくと、画面の中央にビルがうつっていた。直方体がいくつも積みあがったような外観のビルだ。高いところの直方体ほど細長くなっていて、最上部の直方体の上にはアンテナのような棒状のものが立っている。アンテナのようなそれは赤白の縞模様をしているが、光の加減でその縞模様まではうつらなかった。
背後で小夏ちゃんが眠っていた。頭上のヒマラヤヒザクラからの木漏れ日がちょうど目のあたりに落ちかかっていた。眠っていても眩しさは感じているようで、無意識ながら腕が動かされ、右手首が目を覆った。眠りが深くなると腕がそこからずり落ちて、また眩しくなってしまった。
トイレから戻ってきた男はレジャーシートに座りこむと、ショーツのポケットからバナナを取りだしてその皮を剥きはじめた。二口ほどでバナナを食べきってしまった。またTシャツを脱いでレジャーシートに寝ころんだ。ただでさえ青白い体が陽に照らされて淡く光っていた。その手前をさきほどのカップルが横切って、プラタナスの並木のほうへ歩いていった。プラタナスの下に並べ置かれたベンチに座ってすこし休んでいると、離れたところでプラタナスの写真を撮っていた女のひとがこちらに近づいてきた。
「あのー」
女のひとはアジア系の外国人だった。
「はい?」
「あの、ピクチャー、おねがいします」
外国人の女のひとはカメラを差しだして、じぶんとプラタナスとを交互に指さした。
「あ、はい。いいですよ」
男のひとが立ちあがってカメラを受け取り、並木の全体が入るようにカメラを縦に構えた。アジア系の女のひとは並木道のまんなかに立ち、後ろ手を組んだポーズではにかんだ。
都庁のビルはここからは見えなかった。飛行機雲が空に長く伸びていた。喉が渇いていた。
「小夏ちゃん、あとであっちにある川のほう、行ってみよ」
と声をかけたが反応がなかった。振りかえると、小夏ちゃんはいつの間にか眠りこんでいた。音を立てないよう密かに忍びより、手に持ち替えたGoProを小夏ちゃんの顔に近づけた。小夏ちゃんの頬っぺたや瞼を触った。目は覚まさなかった。笑いを堪えるのが大変だった。
しばらく小夏ちゃんの顔をもてあそんでから、GoProの録画を止め、小夏ちゃんの横に腰を下ろした。鞄からお茶のペットボトルを取りだして飲んだ。
ハクセキレイが芝生の上を駆けまわっている。時々つんのめるように前傾姿勢になって嘴を芝生のなかに突っ込ませ、虫かなにかを採っている。スズメやカラスのように両足で跳んで移動するのではなく、片足ずつ交互にタタタタ…と俊敏に動かして駆けまわり、そのあいだ長い尾羽をまっすぐ水平に伸ばしてバランスが保っていた。立ち止まると、長い尾羽を上下にひゅいひゅいと振った。ハクセキレイはあそこにもそこにも芝生のあちこちに何羽も走りまわっている。それぞれ首を回して辺りを見渡しじぶんの方向を見定めて、タタタタ…と走り、つんのめり、立ち止まっては尾羽を上下に振った。いちばん近くにいる一羽が急に飛びたって芝生すれすれの低いところを上下にうねうねと波のような軌道を描いて飛んでいった。
今日は青々と葉を茂らせているわたしたちの頭上のヒマラヤヒザクラ、向こうで今その近くを4、5人の小さい子どもが走り回っているイチョウとハルニレ、そしてその手前のメタセコイヤは、五ヶ月後、小夏ちゃんがひとりで新宿御苑を散歩した際にはもうほとんど葉を残していなかった。池の周囲に沿うように植えられたカツラとイヌザクラには乾燥した葉がまだ残っていた。ちょっとした中島みたいなところを経由して池の対岸に渡り、そのままぐるりと道なりに進んだ先にはプラタナスの並木があるが、そのプラタナスもまだ葉を残している。年が明けて一月末にもまた新宿御苑に行った。カツラもイヌザクラもプラタナスも、もうすっかり落葉していた。
一月末のそのときは、入り口の門をくぐってまっすぐ歩いて行くと両側に植えられているソメイヨシノの間を抜けた先でカンザクラとロウバイが花を咲かせていた。おじいさんやおばあさんや外国人が十人ほどカメラを持って寄り集まり、それぞれ横から下から斜め下から、いろんなアングルで花の姿をうつしていた。芝生は今日この七月はこんなに緑色だがいちめん真っ黄色に枯れている。その黄色が陽光をきわどく反射させていて、ものすごく眩しかった。
黄色い芝生を歩いていると、なにか木の下でガサゴソしている。目をむけるとハトやスズメ、ムクドリが入り混じった鳥のグループがせかせかと食べ物を探していた。鳥たちは嘴で落ち葉をどかせて食べ物らしく見えるものがそこにあると、よく確かめもせず啄んだ。よく確かめもしないので、啄ばんだそれの大半は食べ物ではなく落ち葉の切れ端や小枝や小石だ。すると、ポイッ、とそれを放り捨て、またなにか目につけば無闇にそれを啄ばんで、ポイッとまた捨て、小虫や木の実にようやく出くわすと首と喉をぶるっと震わせて飲みこんだ。
紫色のTシャツを着た男が急に立ち上がると、そのまま画面を横切り左枠の外側へ出ていった。一分も経たずして再び画面左枠から現れて、レジャーシートに戻り、バナナを食べだした。
肩をぶつけながら歩いているカップルが画面の右端から出現して左端へ消えた。
眠っていても日の光が眩しかった。腕が動いて日差しを遮った。
アジア系の外国人の女のひとは熱心にプラタナスの並木の写真を撮りつづけていた。
芝生の奥に立ち並んでいる木々が「ザァーーッ」と鳴って大きくかしいだ。風が芝生を吹きわたった。頭上のヒマラヤヒザクラも「ザァーーッ」と揺れた。
「そんなボール、ほっぽりなさいよ」
「いいのいいの」
おじいさんはどこかで拾った黄色いゴムボールをポンッと上に放ってキャッチし、またポンッと上に放った。
「子供じゃないんだからさあ」
おばあさんがそう言った瞬間だった。強い風が吹き抜けた。風に煽られて飛んでいったボールが芝生の上を転がった。おじいさんはすぐさまボールを拾いにいく。
「だからあ、ほっぽっておきなさいって」
「大丈夫、大丈夫」
「大丈夫じゃなくってさあ」
「いいの、いいの」
おじいさんは拾ったボールをまたポンッと放った。
男は青白い上半身を晒して仰向けに寝ころんでいた。なんの前触れもなく、強風が吹きつけた。レジャーシートがめくれあがって体に覆いかぶさり、驚いた男は手足をジタバタさせてもがいていた。
むこうがわで木々が「ザァーーッ」と揺れ、数秒後、芝生を挟んだこちらがわの木々も「ザァーーッ」と揺れた。小夏ちゃんはまだ目を覚まさない。なんとなく芝生の中央まで歩いていって、そこに腰を下ろすことにした。GoProをまた頭に付けた。しばらくあたりを見回していた。
入道雲が空を流れて太陽を覆い隠し、数十秒間日差しがやわらいだ。
少しして、小夏ちゃんが目を覚ました。両手をついて体を起こすと、わたしが芝生のまんなかあたりであぐらをかいているのが見えた。あくびをしながら、ぼんやり眺めていた。けっこう寝たかもな、とショートパンツの左ポケットに手を突っこみiPhoneを取りだした。待ち受けの時計表示は十五時三十七分で、三十分くらいは眠っていたかもしれない。くすぐったい気がした。見ると、右の太ももをアリが一匹、いや二匹歩いていて、デコピンで、ピン、ピン、と飛ばした。
わたしのポケットのなかのiPhoneがふるえた。ポケットから取りだして見てみると、小夏ちゃんからの電話だった。振り返ると、小夏ちゃんは目を覚まし、体を起こしてこちらに手を振っている。電話に出た。
「おーい」
ヒマラヤヒザクラの木の下で小夏ちゃんの口が動き、耳に当てたiPhoneから声が聞こえた。
「やっと起きたんだ」
「こっち戻ってきてよー」
「寝すぎなんだよ」
わたしは立ちあがり、小夏ちゃんの隣に戻った。小夏ちゃんが「どのくらい寝てた、わたし」と電話越しでなく直接訊いた。電話は切れていた。
「たぶん十分とか」
わたしは小夏ちゃんの横に腰を下ろし、そのまま仰むけになった。腕を組んで頭の下に敷いた。
「もっと長く寝た感じがした」
と小夏ちゃんはあくびしながら言った。言葉があくびと一体化して、なんと言ったのか聞き取れなかった。
「公園出るまえにあっちの川に行こう」
「川?」
「川っていうか、池?」
「白鳥いるかな」
「いないでしょ。湖じゃあるまいし」
「白鳥って湖だけなの」
「うん、誰かがそう言ってた気がする」
仰むけに寝ているわたしの視界の大半はヒマラヤヒザクラの葉と枝に覆われている。葉はあちこち虫食い穴が空いていた。
わたしの右の脛をアリが這っていた。
岩淵さんのバンドのライブが楽しみでしかたなかった。
無題 @is9
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