無題
@is9
化石喫茶(2016年、未完)
キャンパス北端の芝生の広場は食堂と図書館、多面体の大きな建築に三方を囲まれている。大きさと形状の異なる乳白色の三角形が無数に張り合わされた外観の多面体の建築は「先端ICTセンター」といい、三月に竣工したばかりだった。
芝生を挟んで向かい合う食堂と図書館の建物沿いには、ひとつひとつ色味の異なる焦茶色の正方形のタイルが敷き詰められた舗道が伸び、これと同じタイル敷きの舗道が2本平行に、食堂と図書館とをつなぐように芝生を横切っている。さらに多面体の先端ICTセンターから向かい合う雑木林の方へ、食堂と図書館とをつなぐ舗道と交わるように舗道が伸びているので、上空から見下ろせばこれらの舗道が芝生の広場にいくらか潰れた形をしている「丑」の字を描いているように見えなくもないのだが、そのことには恐らく誰も気づいていない。学内のいくつかの場所に掲示されている「キャンパスマップ」を見てみても、芝生を横切る茶色い舗道は省略され、キャンパス北西部に位置するこの芝生の広場は淡い緑色にただ塗りつぶされている。
この芝生の広場の中央あたりで、というのはつまり、ひしゃげた「丑」の字の中央の横棒のすぐ下だが、そこに座り込み、仰け反るようにして宙空を見上げている慎平の視界のなかを、うす曇りのクリーム色の空を背景に、黄色い花びらがふたつ舞っていた。ヤマブキの花弁だろう。先端ICTセンターの脇にはエゴノキと並んでヤマブキが数株植えられている。とはいえ慎平はいま頭上を舞っているヤマブキらしい黄色い花弁を、ヤマブキだ、と、その名を思い浮かべつつ眺めているわけではない。慎平は、ただぼんやり花弁を眺め見ていた。
実のところ慎平の見ているそれはヤマブキの花弁ではなく、さらには花弁でさえなく、2匹のモンキチョウなのだった。
慎平とともに芝生の中央あたりに座っているぼくと景子が何やら言い合っている。ふたりとも、慎平が花びらと思って見上げているモンキチョウなど眼中にない。慎平のほかにモンキチョウを見ているものはない。とすれば、それがチョウでなく花弁であると言い切ってしまったところでどこにも不都合は生じ得ない。
慎平は隣で言い争うふたりをうるさがっているようには見えないが、言い合うふたりにウンザリして宙空を見上げたのではなかったか。近くに聳えているメタセコイヤの枝からハクセキレイが降りてきて、芝生を駆けて小虫を啄ばんだ。
「話にならない」
景子が吐き捨てるように言い、芝生から立ち上がる。彼女の勢いに驚いてその顔を見上げると、ちょうど雲の切れ目を抜けてきた光線と逆光の関係で陰になっている景子の顔は真っ黒に塗り潰されたように見え、そのとき、ようやく景子が本気で怒っていたことに気がついた。景子は背を向け、ずんずんと芝生を踏みしめるように歩き去っていく。
「どうしたんだよ」
後ろから声をかけると、「飲み物」とだけ答えた。
「飲み物、って?」
「飲み物を買いに行くんだよ!」
景子が怒鳴ったが、
「俺のお茶、あげようか」
と、ぼくは猫なで声を出す。言いながら、景子にまた怒鳴られると思ったが、景子はただ首を横に振り、雑木林の方へ歩いていく。飲み物ならすぐそこの食堂脇の購買部で買えるはずだ。景子はそのまま雑木林の端を通り抜けて図書館の角を右に折れた。
景子が姿を消したそちらには文学部の建物と図書館とのあいだを通る広い舗道があり、そこに植えられていた大きなケヤキの木が大雪の降った日に折れて今はもうなくなって、ただでさえ広い舗道が余計にだだっ広く感じられる。その広い舗道の先の体育館の壁沿いに自動販売機が数台設置されており、そこで飲み物を買えないわけではない。しかし図書館の裏手には喫煙所がある。景子は煙草を吸いに行ったに違いない。
広い舗道の雪を被ったケヤキが折れたのは昨年末の早朝だった。大きな木ではあったが老木というわけでもなかったろうが、記録的な積雪量だった。早朝なので幸い怪我人は出なかったが、構内に学生がいる時間帯であれば怪我人が出たかもしれず、怪我では済まなかったかもしれない。
タイルが敷設された舗道は円形に土を剥き出しにした部分があり、そこに以前はケヤキが生えていたのだった。ケヤキが根元から4,50センチほどのところで折れると、当日中に植木の業者が倒木をいくつかに切断し、折れ残った根元もろとも運び去った。年が明け、学年末になってもケヤキが無くなり土が露わになった舗道のその場所に新しい木が植え直されることはなく、いつの間にか、その穴はタイルで塞がれた。継ぎ足されて舗道の穴を埋めた真新しいタイルは、その周囲の色褪せたタイルのなかでしばらく浮き出るように目立っていたが、数ヶ月経つうちに汚れもつきはじめ、段々とケヤキが立っていた場所が判別できなくなってきた。
「景子、煙草吸いに行ったな」
購買部で買ったサンドウィッチの袋を開けながら言った。
「そうかもな」
慎平はひらひらと舞っている頭上の黄色い花弁をまだ目で追いながら、興味なさそうに言う。
図書館の屋根の上に止まっているカラスが鳴くと、応えるようにどこか別の場所でカラスが鳴いた。「丑」の真ん中の横線の舗道の向こう側の芝生には、大きな青いビニールシートを敷いた7,8人の男女グループがあり、そのなかのひとりがカラスの鳴き真似をした。
どこからか、トランペットの音も聞こえてくる。
「俺、もう2ヶ月になるんだよ」
「何が」
「だから、煙草吸わなくなってから」
「どうして」
「どうして、って?」
「どうして煙草やめたんだっけ。あれ、これ聞いたことあるっけ」
「なんでだろう。なんとなく、健康全般のため?」
慎平は首の後ろ側のスジが痛くなりはじめているが頭上を舞うヤマブキの花弁を見上げつづけている。はじめはぼくと景子の痴話喧嘩がうっとうしく、そこから逃れるように、なんとなく目で追っていただけだったのが、今は「何かがおかしい」という思いにとらわれて、しかしそのおかしさの正体を掴み損ねていた。眩しいが眩しさにも気づかず、じっとヤマブキを眺めている。ようやく、慎平は花びらがさきほどから上空3メートルほどのところで浮遊しつづけ、いつまでもそこから降下してこず、そこに留まり続けていることに気がついた。
慎平が、不思議な面持ちでぼくの顔をじっと見た。それからまた頭上を見上げた。
「どうした」
「え、いや」
「なに」
「いや、なんか」
「なんだよ」
ぼくが慎平の視線を辿ると、ぼくの視界と慎平の視界とがほとんどぴったり重なって、ぼくと慎平はほぼ同じ空間を眺めていた。ぼくは慎平がメタセコイヤの葉むらの中に隠れている何かを見つけたのかと、葉の茂みの中にその姿を探した。そのメタセコイヤにはインコが棲みついているのだ。
いつだったか、このメタセコイヤがすっかり枯れていたのでそれは冬であったのは間違いない。ぼくはそのとき図書館4階の芝生に面した窓際の席に座っていて、窓の外に目を向けると前方に枯れたメタセコイヤの樹頂があった。そのメタセコイヤの木陰に今、ぼくと慎平は座っており、頭上を見上げている。ついさきほどまでそこには景子もいた。おそらく今は景子は喫煙所に煙草を吸いに行っていた。窓の外の右の方には今では「先端ICTセンター」が建っているが当時は建設中で、高さ2メートルほどの白い囲いで建設現場が囲われている。その建設現場の方角から2羽の、ハトでもカラスでもない鳥が飛んできて、正面のメタセコイヤの樹頂付近の樹洞に入り込んだ。鳥は尾羽が長いがオナガではなく、ハトよりは大きくカラスほどの大きさであった。体色はおそらく緑だが、図書館4階の窓際の席のここからメタセコイヤまで少なくとも20メートル以上の距離があり、その姿を詳細に観察することはできなかった。
図書館4階の窓際の席に座っていたその時、ぼくはそこで何をしていたのか、きっと課題のレポートかなにかをやっていたのだろうが、とっくに飽き飽きしており、退屈しのぎに窓の外に目をやると、緑色の鳥が工事現場の方から飛来したのだ。退屈しのぎに樹洞に入り込んだ2羽の鳥が中から出てくるのを待っていると、すぐに2羽ともが外へ出てきて洞の付近の枝に止まり、それはやはり緑色をした尾羽の長い鳥であった。インコのように見えた。2羽のインコは同じ枝に隣り同士に止まって、美しいとは言い難いものの愛嬌のある「ビュイー、ビュイー」という声で鳴き交わしている。窓ガラスを挟んだこちら側にいるぼくにその鳥の鳴き声が聞こえたはずがない。「ビュイービュイー」というその鳴き声は、数分後、YouTubeで同種のインコが鳴いている映像を見た際に聞いたのだ。
ぼくは机の上に置かれたパソコンでインターネットのブラウザを立ち上げ、「緑 鳥 尾羽が長い」や「インコ 野生 緑」などと検索をかけてみた。そこにパソコンがあったということは、ぼくはやはりそこでレポート課題でもやっていたのだ。検索文字列を工夫して試行錯誤しているうちに、目当ての記述のあるウェブページは見つかった。ブログだった。主に毎日の散歩で目にしたもの、耳にしたことが綴られているようだった。
先日のブログに写真を載せた、近所の幼稚園の木に住みついているあの緑の鳥の正体、知人が教えてくれました。
もういちど写真を載せます。
この一文の下に、2枚の写真が掲載されており、1枚目は木の幹にしがみつくように止まっているインコの写真だった。インコの背後は木の葉の茂みだが、光の加減や葉の生長具合によりムラのある緑色を背景に、そこから浮き出るように写っているインコの小ざっぱりとしたパステルカラーの黄緑の体色は、どことなく人工物のようである。窓の外のあの鳥と見比べてみるが、図書館4階のここから見る限り、写真の鳥とあそこの鳥は同じ姿形をしているようだった。写真のインコには赤いクチバシ、首の周りには黒い輪状の模様がある。窓の向こうのあの鳥も赤いクチバシを持っている、首の模様はここからでは見えない。
2枚目の写真は枝に横並びに止まっている2羽のインコの写真だった。写真の下に「夫婦かな?」と書かれている。こちらに背を向けて写っている左側のインコは、こちらを向いている右隣のインコより尾羽が短く、体色が黒ずんでいる。よく見ると、こちらを向いている右のインコには首の周囲に黒い模様がない。どちらが雄でどちらが雌なのかは分からないが、首の輪状の模様によって雌雄が判別できるのだろうか。
この鳥、ワカケホンセイインコというそうです。写真の通り、首に輪っか状の模様があって、からだはカラスほどの大きさ。インターネットで少し調べてみたところ、元来インドやスリランカに生息している種で、日本にはペットとして持ち込まれたのですが、逃げ出したり捨てられたりして、野外で一気に数を増やしたらしいです。
適応力が強いのか、数が増えすぎてしまい、樹洞を巣としている在来種の栖を奪っていて生態系への悪影響が懸念されているんだとか。
私は今まで気がつかなかったけど、けっこう東京中のいたるところに住み着いているらしいので、代々木公園とか、上野公園とか、新宿御苑とか、今度公園に行ったときに注意して探してみようかと思います。
インコやオウムって結構いい値段で売られているのだけど、うるさいし、世話も大変だし、そのクセ長生きするので捨ててしまう人が割と大勢いるようで、日本でも海外でもけっこう問題になっているんだって。
それで思い出したんですけど、わたしの場合はインコじゃないけど、小学校低学年の頃に家で買っていたミドリガメを父が臭い! と言って近所の池に勝手に捨てたことがありました。わたしはめちゃくちゃ怒って、家を飛び出してミドリガメを探しに池まで行くと、池のなかに点在してる岩で無数のミドリガメが日向ぼっこしていて、どれが私のカメなのか分からず、目に涙をいっぱいに溜めて家に帰りました(笑)
二十数年前だから、もしかするとまだ生きてるかもしれないですね、あのカメ。今度の帰省したときに、あの池にカメを探しに行ってみようかな。呼びかけたら反応してくれたりしないかな。
でも名前忘れちゃった。
というか名前なんて付けてなかったかもしれない。
いま慎平が見ているのはしかしインコではなくモンキチョウだ。慎平はそのモンキチョウが黄色い花弁に見えている。
ぼくはしばらくメタセコイアの葉むらの中にインコの姿を探していたのだが、やはりその姿は見当たらない。やがてぼくが見ていたメタセコイヤの枝葉から少し離れたところを飛んでいる二匹の蝶が目に入った。ぼくが蝶の姿を認めたのと同時に、同時であったのは偶然に過ぎないが、慎平は花弁と思って眺めていたそれが蝶であることに気がついた。
われわれは芝生に足を投げ出して、後ろに手をついて上半身を支え、顎を上空へ突き出すようにして体を反らせた同じ格好で蝶を眺めていた。慎平は蝶は見れば見るほど蝶であり、蝶以外の何ものでもありえない。ぼんやり眺め見ていただけとはいえ、なぜそれがつい先ほどまで花びらに見えていたのか。慎平はこうして蝶を見つづけていれば、そのうちにまた花弁に見えはじめるのではないかと思ったが、蝶は蝶のままであった。
2匹の蝶はだんだんと高いところへ舞い上がっていき、だいたい上空5、6メートルほどの高さのところであろうか、メタセコイヤの無数の枝の中で1本だけ、他の枝と比べて随分長く大きく斜め上方向に張り出した枝がある。メタセコイヤの樹形は樹の下部から樹頭へ急峻な傾斜を描きつつ先細りにすぼまり円錐の形状をなしているが、その長く大きい枝だけが唯一いびつに円錐の外側へ突出しているのである。
2匹の蝶は、他の枝を差し置いて著しく成長したようなその枝の付近にしばらく留まってから、突如、螺旋を描くようにもつれ合いながら勢いよく浮上して、今ではメタセコイヤの樹頭とほぼ並ぶ高さでひらひら舞っている。
図書館の裏手の小暗い空間には芝生の禿げかけたほんの小さな山があり、そこが喫煙所となっている。景子はその山で煙草を吸っていた。山といっても、高低差は2メートルに満たない程度だから、とても山とはいえないが、喫煙者には「タバコ山」と愛着を込めて呼ばれていた。煙草の山の向こうには体育館があり、先に述べたとおり、体育館に向かって左側の文学部の建物とのあいだにケヤキが植えられていたのだが、そのケヤキが年末の大雪で折れたのだった。
体育館に向かって右側には3階建ての建物があるのだが正式な名称は知らない。部室として使われている建物であるらしいことは知っている。姿は見えないが、その建物の屋上で学生がトランペットを吹いている。すこし吹いては首をかしげ、またすこし吹いては首をかしげている。図書館を挟んだ反対側の芝生の広場でパンとおにぎりをそれぞれ食べているぼくと慎平にもトランペットは聞こえていた。一音ずつ確認しながら吹くような、間延びした吹き方であった。そのトランペットの練習音によって、午後の安穏とした倦怠感がいっそう際立つようだった。
景子は間延びしたトランペットの音を聞きながら、突然、中村を島本のところへ連れて行って話をつければ全ての面倒ごとが丸く収まるではないか、と考えついた。これは良いアイデアかもしれない。でも実際に中村を島本のところへ連れて行ったとして、その場で何を話すことになるだろう? 具体的にどのような話が行われることになるのか景子自身にも想像がつかないが、とにかく中村を島本のところへ連れていくこと自体が今回のことを不愉快に思っている中村に対する説明にもなるだろうし、どういうつもりであんなメールを送ってきたのか知らないが、どういうつもりであったにせよ島本への牽制にもなるだろう。景子は自分の思いつきに感心し、残り短くなったタバコを満足げに吸いきった。
中村とはぼくのことである。ぼくは今回のことが不愉快だったのだろうか。少なくとも景子はぼくが不愉快に感じたのだと思っていた。事実、ぼくは不愉快ではないということはなかった。しかし不愉快といっても、なにも激怒しているわけではない。すこし厭わしく思っていたという程度の話だ。ぼくが当てこするようにしつこく茶化すので、景子はぼくが不愉快に思っていると思ったのだ。めめしい、とも思ったかもしれない。
景子の携帯電話に島本という男からメールが届いたのだ。
三日前の夜、日付が変わるか変わらないかの頃だが、景子は1通のメールが届いていることに気がついた。
「あのさ、約束覚えてる?」
とだけ書かれたメールだった。
景子はベッドに横になりながらiPhoneの画面をつついていたが、そのメールを見るなり、突如ううっと呻き声を出し、iPhoneを伏せた。
ぼくは床に寝ころんで景子の漫画を読んでいた。景子がなにやら呻いて体を動かしているようなので、
「どうかした?」
と聞くと
「なんでもない」
と籠った声が返ってきた。見ると、景子はベッドに顔を押し付けている。
「は?」
「どうもしてない」
と、まだ枕に顔を伏せたまま言い、それから顔を上げた。
「なんだよ」
とまた聞くと、
「うん、まあ」と言い淀んでから、iPhoneを手で覆い隠すようにして「なんか、嫌なメールが来ただけ」と言う。
付け放しにされているテレビでは坊主頭の芸人がなにごとか叫んでいた。その叫声を聞きつつ、ぼくは景子の顔をちょっと見ていたが、やがてテレビへ目を移した。テレビはベッドと壁との間のスペースに差し込まれるように据え置かれた木製の3段のラックの上に置かれている。ほとんどいつも付け放されていた。坊主頭の芸人は顔を歪めながら叫び続けている。ふたたび景子の方へ眼を転じると、景子も顔をテレビの方へ向けている。しかしその眼はテレビを見ているわけではなく、視界の左下の、テレビの置かれたラックのあたりを見ているようだった。
景子は何かを思い出しているとき、決まって視界の左下あたりをじっと見つめている。それは左上でも右下でもなくいつも左下である。それがもし笑いを誘うような記憶ならば、視界の左下のあたりをぼんやり眺めている景子を見ていると、次第に彼女の口元が歪めはじめ、時によっては終いに声を上げて笑いだす。
そのようなときは「また思い出し笑いしているの」と聞くと、「うん」と言い、たった今思い出していたことを話しはじめ、話を聞いてぼくも一緒に笑うこともある。
先ほども、景子のアパートの前の坂を少し上がったところにある和食チェーン店で夕飯を食べていると、景子はお新香をかじりながら、やはり左下を見て、口元を歪めていた。
ぼくの視線に気がつくと、景子はハッとしてから口を開き、高校生のころ、通学の電車に乗り発車を待っていると、閉まりかけたドアをこじ開けるようにして女の人が飛びこんできた。
見ると、会社員の女であったが、シャワーを浴びたあと乾かすヒマもなかったと見えて髪の毛が大いに濡れている。車内は満員に近かったが、多くの視線が頭から水を滴らせているこの女に向けられていた。女は周囲の視線に気づくと居心地が悪そうにくるりと閉まった扉のほうを向いたが、すると後頭部にシャンプーの泡が山ほどついていた。途端に車内の乗客一同は一斉に下を向いて居た堪れないような顔をしていた、と言って景子は笑っていた。
景子は左上でも右下でもなく、視界の左下のあたりに記憶の場面が浮かび上がっているのである。
景子が今も視界の左下のあたりに目をやって、何かを思い出しているようであるが、とてもこれから笑い出しそうには見えない。なにやら腹を立てているようだった。
ぼくは聞いた。
「迷惑メール?」
「まあ、そんなところ」
「何、そんなところって」
「…だから迷惑メールだって!」
景子はヤケになったように言ったが、すこし強く言い過ぎたと思ったのか、テレビのほうへ向けている顔を微妙に傾けてこちらの様子を伺うように横目でぼくを見たが、ぼくはぼくで疑わしそうな顔で景子を眺めていた。途端に景子は面倒くさそうに顔を歪めた。手元のiPhoneを取り上げて、「ほら」とこちらに放った。
「見てみれば」
言われるがままに画面を見ると、それは「島田」という人物から送られてきた、件名のない、「あのさ、約束覚えてる?」という一文のみが書かれたメールである。
「島田?」
「前に付き合ってた彼氏」
景子は躊躇なく言った。そのせいで、ぼくは島田というこの男についてさらに訊いてみることがなんだかためらわれ、「そう。島田っていうんだ」と声を絞り出して、目をそむけるようにテレビへ目を転じ、
「でもこのメール、ちょっと気持ち悪いよな」
と言った。ぼくはなぜだか言い訳がましいような、同意を求めるような口ぶりであった。
「いや、ちょっとじゃなくて、かなりね」
景子はそう答え、「ストーカー気質なんだよ、こいつ」と言う。
ぼくが「ストーカーされてるの?」と聞くと、景子は驚いたようにこちらを見て、「いや冗談だから」と言ったが、「でもこんなメール、ストーカーみたいなもんだろ」と今度はけらけら笑いだし、なのでぼくも笑っておいた。笑いながら、
「それで?」
と聞くと、
「は?」
「約束って何?」
「知らないよ。こっちが聞きたいくらい」
「じゃあ聞いてみれば?」
「約束ってなあに、って?ハッ、馬鹿言わないでよ。火に油でしょ。無視だよ、無視、こんなメール」
島田という男からのメールについて、この晩はこれ以上は話さなかったようである。
翌日は、ぼくと慎平が芝生広場に人しれず描かれている「丑」の字の中央の横棒のすぐ下のあたりに座り込んでいたその日の2日前である。景子とぼくは昼前に起き、歯を磨いたり着替えたり学校へ行く用意をダラダラとして、家を出た。
景子の住む家賃8万円の賃貸マンションは大学から徒歩20分ほどの距離にある。マンションは片側一車線の車道に面して建っているのだが、この車道が長い坂であった。大学へ行くためには、この坂が平坦な道と合流するまで、15分ほど下りつづける必要がある。景子の家から大学まで、実に半分の道のりが下り坂である。
その坂道を横並びに下りはじめたが、iPhoneの画面を覗きながら歩いていた景子が、
「そういえば約束、何のことか分かったよ」
と言いだした。
「約束?」
隣を歩いている景子の顔を見ると、景子もこちらをちらっと見たが、すぐに前方に目を向け直して、「まあ約束っていうほど大ゲサなものじゃなかったんだけど」と言う。前方からスーパーの買い物袋をカゴに満載にした自転車を老人がヨロヨロと押して、坂を上がってくる。景子はいったんぼくの前に移動して道を空け、自転車をやり過ごした。ふたたび景子がぼくの横に並ぶと、
「昨日のメールの話?」
とぼくは言った。
「そう。寝る前にメール返したんだけど、そうしたらさっき返信あった」
「あ、そう」
景子は昨晩、島田からの連絡は無視してしまうと言っていたはずだが、それとも、ぼくの記憶違いだろうか。ぼくは自分の小胆さが嫌になるが、この時点で既に少しうろたえていた。ぼくは自分が当惑していることが少なからず不愉快であった。景子は二日後、図書館の裏手の小山で煙草を吸いながら、機嫌を悪くしているぼくにうんざりしていたようであるが、ぼくは思えばこのときから不愉快になりつつあったかもしれない。
中村を島田のところへ連れていって話をつければ、中村の機嫌も直るだろうし、島田の意図を探ることもできるだろう。「タバコ山」で、景子は唐突にそう思いついたのである。どうしてそれでぼくの機嫌が直るのだろうか。ずいぶんと楽天的な考えだが、しかし景子は降って湧いた自分の考えに満足しているようであった。「タバコ山」に隣接する、各種の部活動の部室として使用されている建物の屋上で、ひとりの学生がのらりくらりとトランペットを練習している。図書館を挟んだ反対側で芝生に座り込んでいるぼくと慎平にもその音は聞こえているが、当然、景子にもその音は聞こえている。あるいは、景子がぼくを島田に会わせるという突飛な考えにぶつかることになったのは、同じフレーズをダラダラと繰り返す、このトランペットの音が原因かもしれない。景子はこのトランペットの音を聞きながらボンヤリしていると、突然、このアイデアに行き当たったのだった。となれば、トランペットの音はすくなくとも原因のひとつではある。
景子はなにもぼくに不意打ちを食らわせようとして、この話を始めたわけではなかった。この話、とは島田との約束の正体が分かったと言い出してからの一連の話のことであるが、その二日後、「タバコ山」から戻ってきた景子が出し抜けにぼくに提案し、なかば無理矢理に実現させた、ぼくと島田を会わせるというアイデアにしても同じことで、景子はぼくに不意打ちを食らわせようとして言ったわけではなかった。
景子は賃貸マンションを出て坂を下りはじめると、すぐに「そういえばあの約束、何のことか分かったよ」と言い出した。景子は家を出る前から話をはじめるタイミングを探っていたようである。そして景子はこの坂を下りながら話を切り出したのだ。横並びに歩きながらであれば、顔を合わせることもなく、自転車を避けたり信号を気にしたりしながら、いわば場のはずみで話を進められる。家のなかで話をはじめたら、そうはいかない。という理由で、景子は坂を下りながら話を切り出したのだろうか。
とはいえ景子は何もかも計算ずくで話をはじめたわけでもなかった。景子はなにか並々ならぬ様子で話をはじめたわけではなく、逆に軽く見せかけようとしているふうでもなかった。つまるところ、ただの会話であった。ぼくひとりが勝手に先走り、うろたえていたのである。そしてそれが分かっているこそ、ぼくは不機嫌になりかけていたのである。
「昨日、中村が寝てから一応メール送ったんだよ。あいつ、しつこいところあるからさ、無視したせいで粘着されたりしたら嫌だし」
「それ、逆効果なんじゃない?」
「え、そう?」
「いや、わかんないけど。…で、その約束って?」
「うん。いや別に約束ってほどのもんじゃなかったんだけど。ほら、これ」
景子は何度か画面をつつき、メールの本文が表示されたiPhoneをぼくに手渡した。画面には
「カノさん、ついに喫茶店はじめるらしい!」
と書かれている。ぼくはこの一文だけでは話も何も分かるはずがないが、顔を上げると、景子はぼくの顔を覗き込んで「…ね」と言うのだ。
「ね、って言われても…。喫茶店って?」
とぼくは言うと、景子は
「あ」と笑って、「あのね、この喫茶店っていうのが化石喫茶なんだよ」と言う。ぼくはそれでもまだ話が見えてこないが、
「かせき、ってあの化石だよね」
と聞いた。
が、当然その化石に決まっている。
なにしろ、景子が熱烈に化石を愛していることはぼくもよく知っており、知っているどころか、景子の部屋にはいくつも化石が並べ置かれていて、昨晩も化石に囲まれて眠ったのだ。
ぼくは景子のために化石を買ったこともある。景子への誕生日プレゼントとして買ったのだった。景子がリクエストした化石は、恐竜やアンモナイト、三葉虫あるいはサメの歯などの動物の化石ではなく、植物の化石だった。植物といっても絶滅した植物ではなく、イチョウの化石であった。よりよって、と思わないでもなかったが、ぼくが知らなかったのだが、景子によるとイチョウの化石は比較的人気があるらしい。
先日テレビで見知ったが、イタリアの地質学者が有孔虫という生物の化石を採集していたが、この化石の大きさは1ミリに満たないそうである。観察するとなると顕微鏡を使わなくてはならない有孔虫の化石よりはイチョウの方が人気がありそうだが、どうだろうか。
ぼくはイチョウの化石というものが存在していることさえ、景子と付き合うまで知らなかった。イチョウはシーラカンスやカブトガニなどとともに生きた化石と呼ばれている、と景子は言っていた。生きた化石、という言葉じたいはぼくも以前から知っているには知っていたが、イチョウもそうであるとは知らなかった。
芝生の広場にはメタセコイアが聳えている。この2日後にぼくと慎平がその木陰に座りこんでいた、あのメタセコイアだが、それはまた、去年の冬頃にワカケホンセイインコが飛来したメタセコイアでもあり、どうやらこのメタセコイアも「生きた化石」と呼ばれるようである。景子は「生きた化石」として数えられる生物種として、ほかにも多くの動物や植物の名前を挙げていた。なかにはオウムガイやゴキブリなど、ぼくの知っている生物種もいくつかあったが、名前を聞いたこともない、植物か動物かもわからないような生きものも当然いた。要するに、死骸が化石化するほどの太古の時代から生きており、姿かたちの変わらないまま淘汰されることなく現在まで生き残ると、それらは概して「生きた化石」と呼ばれることになるようである。
化石の話となると熱くなる景子は、絶滅したと思われていたイチョウが「生きた化石」と呼ばれるようになるまでの来歴を捲し立てるように話していたが、ぼくは景子のその話の内容はもうすっかり忘れてしまった。
ともかく、イチョウの化石自体はそれほど高価なものではなかったが、景子は国産のイチョウ化石が欲しい、と言った。さらに、できることなら北海道産のイチョウの化石がいい、と言った。その北海道産のイチョウ化石は探すのに特に苦労したというわけでもなく、インターネットで検索すると割合すぐに目当てのものは見つかった。化石販売専門のサイトというものがあることを、ぼくはそのとき初めて知った。
景子はすでにイチョウの化石は三つ持っていた。ふたつは中国産で、もうひとつは岡山県産だそうである。中国産のふたつは机の上に並べ置かれており、岡山県産の化石は本棚に置かれている。ぼくが4200円で買った北海道産の化石は岡山県産の化石の隣に並べられることとなった。このような経緯で新たに四つ目のイチョウの化石を持つこととなった景子は、しかし何にもましてイチョウの化石を愛しているというわけではなく、メタセコイヤの化石は少なくとも三つは持っているし、ぼくの気づかぬうちにまた増えているかもしれない。シダ植物の化石は葉の化石と幹の化石を合わせると十以上飾られている。その他、名前のわからない植物の化石もずいぶんある。植物の化石だけでも四十個ほどは景子の部屋に置かれている。恐竜の歯化石やアンモナイト類の化石、魚の化石もたくさんあるが、数として最も多いのは植物の化石だった。
ぼくと景子は片側二車線の道路との交差点に差し掛かると、信号が点滅していたので早足で横断歩道を渡った。渡りながら、「かせき、ってあの化石だよね」とぼくは分かりきったことを聞いたのだった。
「そうだよ、その化石」
「化石喫茶って、つまりその、化石の喫茶店っていうことだよね」
「そう。正確なところはよく分かんないけど、化石が展示されてたり、売られてたりするんじゃない?」
「ジャズ喫茶の化石バージョンのような感じ?」
「ジャズ喫茶、行ったことない」
「いや、俺もないけど」
「でもまあ大体そんな感じじゃない?」
「ふーん。その化石喫茶を、このカノさん、っていう人がやるの?」
ぼくはそう言って、iPhoneを景子に返した。
「うん。カノさんっていうのは、島田が昔、高校の先輩ですごく化石に詳しい人がいるって言って紹介してくれた人で…。あ、言ってなかったけど、島田ってね、わたしなんかとは比べものにならないほどの化石マニアなんだよ」
それを聞いて、ぼくはなんだか嫌な気がしはじめた。というより、嫌な予感がしていた。景子の化石好きはぼくもよく知っているが、島田は景子とは比べものにならないほど化石マニアだそうである。ぼくは景子に化石を買ったこともある。ぼくが嫌な予感を抱いたのは、おそらくこれらのことのせいであって、ぼくは景子の化石好きが、元々は島田の影響によるものなのではないかと懸念していたのだった。
懸念、とぼくは今言ったのだが、これがしかしどうして懸念になるのだろうか。景子の化石狂いが島田の影響によるものであるとしても、それがどうして懸念されなくてはならないのだろうか。筋違いである。しかしぼくは筋違いにあれこれ思い惑い、しまいにはぼくは景子にプレゼントした北海道のイチョウの化石が島田と景子を秘密裏に結びつけているような気にさえなりはじめた。
「まあアイツはマニアっていうのとも違うか。わたしみたいな中途半端に集めて喜んでるんじゃなくて、ちゃんと研究室に所属して、化石の勉強してるから。まあ、それはいいとして、このカノさんって人が高校の先輩で、この人も博士課程まで行って化石の研究してたの。確か、サルの化石の研究」
「ふーん。サルか」
「うん、サルの化石。ニホンザルの祖先の化石」
「会ったことあるの、その島田さんに」
「何? 島田さん? カノさんじゃなくて?」
「あっ、カノさん、か。カノさんには会ったことあるの」
ぼくは島田にとらわれ過ぎているようである。
「だって会うもなにも、わたしの高校の先輩でもあるし」
「え?」
「は?」
「つまり、ということは、その島田と景子って同じ高校?」
「うん。あれ、わたし言わなかった?」
「いや、うん、聞いてない」
「言ったと思ってた。同じ高校なんだよ。というか、そもそもわたしが化石に興味持つようになったのも島田に化石の話を聞かされてるうちに、って感じだし」
「ああ、やっぱり」
「は?」
「なんでもない」
やはりそうだった。そうとは知らず、ぼくは景子に化石をプレゼントしたのだった。もちろん、ぼくは景子の化石好きの由来をあらかじめ知っていたとしても、景子にリクエストされたなら化石をプレゼントしたはずである。
しかしぼくは昨晩も景子の部屋で岡山県産の化石と並んで本棚に置かれていたはずの北海道産のイチョウの化石を思わずにはいられなかった。だが、ぼくは昨晩、化石の置かれた本棚の方をちらりとも見ただろうか。一瞥もしなかったかもしれない。和食チェーン店で夕食を食べてから景子の賃貸マンションに戻り、ぼくはそれから床に寝ころがってずっと漫画を読みつづけていた。その間、景子は景子でベッドに横になりテレビを見ていたようであるが、先述の通り、途中で島田からのメールに気がついたのだった。
島田からのメールについてぼくと景子は少しだけ話したが、その際、化石の話までは出なかった。ぼくはベッドに上って景子の隣で漫画を読みつづけるうちにいつしか眠り込んでいた。こう記憶を辿ってみると、ぼくはやはり、昨日は一度も北海道産のイチョウの化石に目を向けなかったようである。それどころか、もう何ヶ月もその存在を忘れていたほどである。しかしぼくは今となっては、自分がイチョウの化石の存在を忘れていたのでなく、目を背けていただけのように思えてならなかった。ぼくはますます不機嫌になりつつあった。
二車線の道路に突きあたると坂道下りはそこで終わり、腰の高さほどの三基の赤茶けた庚申塔が不意に立っている角を右に折れた。庚申塔は、向かって左側の三猿の彫られた石塔が他のふたつの塔より拳ひとつぶんほど大きく、この三猿の庚申塔の前にだけ、色つやの具合から比較的さいきん置かれたものであると思われる藍色の湯呑みが置かれていた。
庚申塔の横には三階建ての細長い建売住宅が数件並んでいる。奥の一軒の玄関扉が開くと、中から紺色のタンクトップを着た若い男が出てきて、われわれのすぐ前を同じ方向に歩きだした。
ここから五分も歩けば大学の北門に突き当たるが、道は緩やかな右カーブを描いているので、門はいまだ見えてこない。道に沿ってコンビニが二軒あり、このコンビニは二軒ともセブン・イレブンであり、二軒のセブン・イレブンのあいだには個人経営の弁当屋もある。前を歩いている男が一軒目のセブン・イレブンに入っていった。時刻はちょうど正午を過ぎた頃であった。
景子の話によれば、二年ほど前、当時博士課程の二年生だったカノさんが、突然、「自分の店をやってみたい。化石の店を出してみたい」と言い出したそうである。どうやら景子はその時に、カノさんが店をはじめたら一緒に行ってみよう、という話を島田としていたようだった。景子は言われてみればそんな会話をしたようなしていないような、今では記憶はあいまいだが、一方、島田は今でもその会話を覚えていたようである。
「島田の頭の中ではそれが約束ってことになってたんじゃないかなあ。まあだから、さっきも言ったけど、約束ってほどのもんじゃないんだよね」
と景子は言うと、同年代の男が運転している自転車が車道の脇を猛スピードで走り抜けていった。濃緑色のその自転車は車輪の幅の小さい洒落た自転車なのだが、同じ大学の学生であると思われるその男子学生は猛スピードで足を回転させ、ペダルを漕いでいた。その足の動きをぼくは目で追っていた。
「景子に会いたくなったんじゃないの。喫茶店は口実で」
「誰が。島田が? いやいや、それはないでしょ。島田の場合はね、そういうのじゃないんだよ」
「でもさあ、そうじゃなかったら今ごろ突然連絡なんてしてこないでしょ。景子も執着されてるとか言ってたじゃない」
「執着って、そんなこと言ってないでしょうが」景子は、はあ、と深く息をついた。「何ていうかね、島田の場合はね、自分にその気がなくても、ハタから見たら執着してるように見えちゃうんだよ。わたしが言ったのはそういう意味」
「まあ俺にはよく分からないけど」
「たぶん今回のことも、付き合って別れたとか関係なく、カノさんが店をはじめたのを知って、約束があるから連絡しなくちゃいけないと思って、それでわたしに連絡してきてるんだよ。つまり、島田なりに良かれと思って。
まあ、わたしとしては約束だとも思ってなかったけど」
「それ、やっぱり会いたがってるってことじゃん」
「だからあ、違うんだって」
「そんなに会いたいならさ、会ってくればいいじゃん」
ぼくは正面を向いたまま、ムキになって言った。声が大きくなっていた。曲がり道の先に、大学の北門が見えている。大学は片側二車線の車道の向こう側だが、そちらへ渡る横断歩道の信号が、たった今、赤に変わった。景子は目を細め、こちらを睨むようにしているが、ぼくは頑なに正面を向き続け、景子と目を合わせないようにしていた。
「なんでそうなるワケ? なに機嫌悪くしてるの。面倒くさいなあ。わたし何か気に触るようなこと言った?」
「別に機嫌悪くなんてない。面倒くさくて悪かったね」ぼくは勢いに任せ、さらに「でもね、あのイチョウの化石にそんなウラがあったなんて、俺、知らなかったよ!」
「はあ?」
景子は急に立ち止まった。ぼくが彼女の方を振り返ると、景子は
「イチョウの化石? 何だよ、イチョウがどうしたっていうんだよ」
と言う。
「だから、それは、」
ぼくはイチョウの化石だなんて何故言い出したのか、自分でも分かるはずがない。それは仮に説明できるとしても、あまりにも情け無い話である。ぼくは、シドロモドロになりながら、訳も分からず「だから、俺の身にもなってみろよ」と声を絞り出した。
景子は肩を落として、「はあ、ダメだ」と、ふたたび溜息をついた。やがて景子は再び歩きはじめ、足早にぼくを追い越して、信号が青に変わったばかりの横断歩道を大学の方へ渡りだした。ぼくは慌てて彼女の後を追いかけ、後ろから「ねえ、景子」と声をかけるのだが、景子は「疲れた。放っておいて」と振り向きもせず言い捨てたのだった。
ぼくと景子はそれから二日経っても依然として折につけ小競り合いを続けており、先ほどもぼくは景子の怒りを買い、景子は憤然として芝生の広場を後にし、図書館の裏手の通称「タバコ山」へタバコを吸いに行ったのである。景子は今、直方体のポール状の吸い殻入れにタバコを放り込み、タバコ山を駆け下り図書館の周囲をぐるっと周って、「丑」の字の芝生の広場へ戻って来ようとしている。
ぼくと慎平のいるここからは見えるわけではないが、図書館と体育館に挟まれた位置にある、普段は各種部活動の部室として使われている建物の屋上では、気の抜けたトランペットの練習音が鳴り続けている。ぼくと慎平が眺めていた二匹のモンキチョウはメタセコイアの樹頂あたりをしばらく縺れ合いつつフワフワと舞っていたのだが、一度吹いた強い風に翻弄され、生協の建物の方向へ飛ばされて行った。
少し離れたところで男女入り交じった五、六人のグループがフリスビーで遊んでいるのを会話もせずにぼんやり見ながら、ぼくと慎平は昼食を食べ終えようとしていた。
こちらへ戻ってくる景子に気づき、慎平が
「あ、景子帰ってきたよ」
と言い、ぼくも景子の方に顔を向けた。慎平は
「…なんだ、アイツ。なんかニヤニヤしてないか?」
と言ったが、ぼくには景子が笑っているようには見えず、別段変わったところはないようだった。
早足で、ほとんど駆けるようにこちらへやって来た景子は、開口一番、
「今から一緒に島田のところへ行って、話をつけに行こう」
と言い放ち、ぼくは景子が何を言っているのか、俄かには理解できなかった。
ぼくは慎平と顔を見合わせた。慎平はニヤニヤと笑っている。ぼくは間の抜けた情けない顔をしていたはずである。
「話をつける? 俺が、島田と?」
ぼくはうろたえていたが、景子は毅然として、
「うん。よく考えてみたんだけど、それが一番スッキリする」
と言う。ぼくは助けを求めて、慎平に
「どういうこと?」
と訊くと、慎平は吹き出して、「俺に聞くな」と笑いはじめた。
「俺、嫌だよ」
ぼくは景子に言ったが、
「ダメだよ。こうするのが一番いい。中村もスッキリできるし、わたしもスッキリできるから」
「意味がわからない」
「引きずってでも連れて行くから。来ないなら、許さないから」
と断固として言う。慎平は笑い続けているが、景子は慎平に向かって、
「ねえ、慎平もこの方が結果的に良いと思うよね?」
と訊くと、
「ああ? うん。そうした方がいいよ。何もかも、スッキリだよ」
と、ますます笑っている。
「お前、他人事だと思って、面白がりやがって」
ぼくはそう言ってから、ふと気づき、
「あれ? 慎平、島田のこと知ってる?」
と聞くと、
「ああ、うん、知ってる」慎平は景子に向かって「なんか昔ね、ホラ」と言う。
「会わせたことあったよね」
と景子は応えた。ぼくは二人のこの含みのある会話が気にかからないわけではなかったが、しかし今はそれどころではない。
「どうしても?どうしても俺が行かないといけないの?」
「しつこい」
ぼくは景子の勢いに圧倒され、もはや観念しはじめていたが、
「じゃあ、慎平も一緒に行こう、な?慎平も知り合いなんだろ、な?俺、景子とふたりで島田に会いに行くのは嫌だ」
「どうして俺が?関係ないし」
「頼む、頼むよ」
と、ぼくは粘っていたが、
「悪あがきするな」
と、景子はぼくを一蹴し、
「じゃあほら、早く」
とぼくを立ち上がらせようとする。
「は?」
「早く行こう」
「え、今から?」
ぼくは一層うろたえたのだが、
「早い方がいいんだよ、こういうことは。ほら、早く立つ!」
と急き立てられ、ぼくは景子に従うより他はなかった。
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