第1話

「……あれ、カズマ死んだ?」

『生ーきーてーまーすーっ』

 弱い日の光に照らされながら、今日も乳白色の超最先鋭戦闘機が空を飛んでいた。

 アークエンジェル。

 人類最後の人工地下都市群が持つ、世界最強の戦闘機。

 そしてアークエンジェルを地球で唯一保持する、世界最強の軍事組織ジオノーティラス軍所属の、オッドボール飛行小隊。

 同じく世界最高峰の偵察機であるデュアルファングと混成運用される、ジオノーティラス軍隷下の実戦部隊の一つ。

 ―異常ナシ―

 ハヤミは幾度目かの……もう数なんて数えていないが……大きなあくびをして、小さくうなる。

 地下要塞都市ジオノーティラスのセントラルコンピュータの端末でもある、アークエンジェルのマザーコンピュータはいつも同じ言葉しか提示してくれなかった。

「カズマ。緊急事態だ。暇すぎてマジで死んじまう。小隊長として緊急事態を宣言したい」

 レーダー表示もかねるディスプレイには、いつも通りの表示が緑色で点滅しているだけ。

 マザーコンピュータの端末の一つ、アークエンジェルは今日も正確な飛行ルートをたどっている。

 他の分隊も、この空のどこかをハヤミたちと同じように飛んでいるのだろうか。

 ……世界は、レーダーで全てを見るにはあまりにも広すぎる。

 ハヤミはふと、高々度を飛ぶアークエンジェルの窓ガラスをぶち破りたい衝動にかられた。

『オッドボールツー、宣言を拒否します。なあハヤミ、お前、今俺たちがどこで何してる人間か知ってっか?』

 無線から、いつものカズマのカリカリ感が聞こえる。

 空はいつも、異常なし。

 ハヤミはコクピットを破壊しようと腕に込めていた力をフニャッと抜いた。

「暇っ! あーうーあーうーあー、暇すぎる……カズマぁ、きっとアレだ、俺たちは間違ってたんだ」

『うるっせーなー。お前は壊れたレコードか何かか』

「だァっ……なあー、この俺に、この何もない空で、何をどうしろと? ええ? 俺た ちゃこんな世界で、いったい何をすりゃいーんだー」

『それを探すのが、俺たちの仕事だろーが』

 コクピットに吊るされたハヤミのお守り……二つのサイコロは、いつまでも目を定める事がない。

 今回ハヤミたちが司令を受けたミッションは “休戦中の敵国が支配する空域を、偵察機と護衛機で強行偵察する”……だったが。

 まあ、任務だけイッチョマエなので。

「へーへ。カズマ様は相変わらず真面目なこって」

 ハヤミは脱いだ裸足をズボッとブーツに突っ込むと、ブーツの空洞の中で指をピロピロと動かした。

 腕はすでに頭の後ろ。

 アークエンジェルの操縦桿が自動で動く。

「あー。暇すぎる」

 アークエンジェルは、ハヤミたちの母国を統べる超ハイテクノロジー人工知能の末端、半人工知能搭載形の空飛ぶ棺桶。

『……そうか?』

 そんな『超』がいくつもついていそうな最強の組み合わせでも、さすがにいない敵を撃つ事はできない。

 ハヤミとカズマの共有しているレーダー画面には、いつも『no objective(敵影探知せず)』の文字だけが表示されたまま。

 機体が偏り……ついでに、ハヤミの体も偏る。

「あー……っふう」

 サインランプが点滅をはじめ、窓の外に見覚えのある雲が見えてきた。

 大きな嵐の目。

 本日の任務ポイントらしい。

 ハヤミはふたたび、大きくあくびをした。

「着いたおーぉ」

『おう。んじゃー、ちょっくら仕事してくるわー』

 ハヤミがイヤイヤ今の時刻を行動予定表に書き込んでいると、その向こうからカズマ機のエンジン音が聞こえてきた。

 次いで視線の隅に、ゴテゴテとアンテナを生やした黒い偵察機の影が飛び込んできて。

 黒くて尖った翼の先に、白い空気の渦が二つ…いや、二筋が渦を巻く。

 ハヤミはそんな後ろ姿を見ながら、報告書の隅にチョチョイと落書きしてまたポケットの中に押し込んだ。

「無事に帰ってくんじゃねーぞー」

『お前こそ、そのままフラーっとどっかに行っちまえ』

「ンーフーフー、そんな無茶な話はー、俺じゃなくてこの戦闘機様に言ってくれっての」

『おーたーがーいー様ー、だな。じゃ、大人しくしてろよハヤミ』

 カズマの機体が嵐の中にと飛び込んでいくと、その後ろに、翼端に生じた飛行機雲がひらりと舞った。

 その筋も、すぐにはるか後方に飛んで見えなくなってしまう。

 見えてきたのは、大きだけの台風の目。

 目は雲の渦の中心に、赤茶けた地上を唯一空からのぞける世界唯一の非移動性低気圧だった。

 しかもそのポイントの直下には、ちょうど墜落した巨大な飛行空母の残骸が転がっている。

 ……それだけ。

 本当にそれだけ。

 ハヤミはまた大きくあくびをすると、ふたたび足の指をピロピロと動かした。

「……あーあ」

 動かしたって何かあるわけでもない。

 ……本当に、何も無い。

 とその時。

『…………ちらテトラ小隊! オッドボール小隊応答せよ』

「んあ?」

 静かだった空に、突如聞き慣れない女の声が響いてきた。

『こちらテトラ小隊。オッドボール! こちらが見えるか? 任務中にダラけてるんじゃないよ!』

「あー……なんだミラちゃんか」

 声の主は、ハヤミの元同期のミラ・エル・チャンドラー中尉だった。

 見れば遠くに、わずかに三機編隊の飛行機雲が見える。

 ハヤミは目を細めて呟いた。

「いっぱしに三機編隊なんか持っちゃってまぁ」

『なにか言った?』

「べっつにー」

 かすれた無線の中で、ハヤミの呟きに対して怒ったような声が聞こえてくる。

 というか、ミラ中尉の声はいつも怒ったような声だ。

『まったく。それに、目上の者に向かってちゃん付け?』

「じゃあ中尉殿」

『キミはどうして空なんか飛んでるんだ? 少なくともその態度、とうてい軍人には見えないけど』

 ハヤミはシートに倒れたまま、気だるそうに腕を頭の後ろに組んだ。

「前に進んで飛んでなきゃ、飛行機は墜ちちまうもんなあ。航空力学的に」

『まったく。そんな屁理屈ばっかり言ってるから、そうやっていつまでも少尉のままなんだよ。こちらには、こんなものがある』

ハヤミがダレていると、スピーカーからカチャカチャと何かを叩く音が聞こえてきた。

「?」

 それでもハヤミがボオッとしていると、今度は正面ディスプレイにポンと見覚えのある画像が送られてきた。

 数秒前に撮られたらしい、ハヤミの遠望写真だった。

 半分死んでいるような目。

 涎を垂らした半開きの口。

 十字の薄い線と距離計が描かれているのを見ると、写真はどうやら敵機撮影用のカメラで撮ったものらしい。

「ほおーお、なかなかいい画じゃん。いつからミラちゃんは盗撮の趣味ができたのさ?」

スピーカーから、数人分の忍び笑いが聞こえてきた。

『自業自得。そんなだらしの無い顔して空なんか飛んでるから』

「へん、なかなかなインファイトですな。ドッグファイトなら、いつでも受けて立つ所存でありますぞっ」

『バカ』

『アッハッハッハ。すまんなぁハヤミ少尉、それは中尉じゃないよ、俺だ』

 ミラ中尉の声におぶさる形で、今度は低く野太い男の声が聞こえてきた。

 レーダーに映る光点の一つが、ゆっくりと左右にブレる。

『久しぶりだなァ、ハヤミ少尉。元気にしてたか?』

 ディスプレイに表示される新しい通信名に、見覚えのある名前が表示されてきた。

 アトス・ノア少佐。

 部隊中でも古参中の古参で、まだハヤミとミラが同期だったころの二人の教官役でもある。

 今はミラ中尉の三機編隊で、初隊長役のミラを後見役として部隊を補佐しているとの話だったが。

「……ああ、アトスさんか。子守役お疲れさまです」

『フフフ。どうだい、そっちの空は』

「特に何も。無さ過ぎて疲れるくらいですよハファ……」

『まあ、そうだろうなぁ』

 ハヤミは通信中に、たまらずでてきたあくびを両手で抑えた。

 それでもあくびが指の間から漏れだすが、アトス少佐も特にハヤミをとがめる事は無い。

『……』

「何かあったんですか?」

『いやなに、俺たちも暇だったんでね。ミッションが終わったんで、帰投のついでに君たちが近場にいるって知ったんで、こうやってわざわざ近くまで見に来てみてただけなんだ』

「そりゃご苦労さまです。おかげで自分も、眠気がバッチリ醒めました」

『そうかそうか、ハッハッハ』

 窓に映る互いの飛行機雲が、少しずつ前後に進んでいった。

 昔はそれでもだいぶキツい教官だったが、最近はハヤミの暴言にもまったく怒る事はなくなった。

『……フーム』

「少佐、今日はなんだかため息が多いですな。なんかあったんスか?」

『んー? ふふ、いやなに、大したことない、小さな悩みだよ』

「またミラちゃんが何か悪いことをしたとか?』

『まあ、そんなとこだなぁ』

 アトス少佐の小さなため息がまた聞こえ、しばらく無線は静かになる。

 そこに、どこかで誰かが、コホンと咳払いをした。

『そんな世間話は、基地に帰ってからでよろしい』

「だ、そうですアトス少佐」

『ハッハッハ、いやいやそうだったそうだった』

『まったく』

 無線の後ろで、ふたたび笑い声が聞こえてきた。

 無線の声は、どうももう一人分いるらしい。

 レーダーにも、二機に少し後れをとる形で空を飛んでいる、もう一機分の光点も光っている。

『私のテトラ小隊に、この前入った新兵がいる。兵練維持、異種間格闘空戦の演習と小隊間オリエンテーションも兼ねて、オッドボール小隊との模擬空戦を提案したいと思っているんだ』

「提案? それは俺じゃなくてオペレーションに言う事だろ?」

『うん、まあね』

 少し無線が静かになり、ミラ中尉の声が「おい」と誰かを促すと、今度は聞いた事のない若い男の声が聞こえてきた。

『先日テトラ小隊に配置されました、テス・ヴァニエフス曹長であります! よろしく、お願いします!』

「……おおー? なんだお前テトラ小隊に配属されてたんだ?」

『えっ』

『んー? なんだ、お前ら知り合いか?』

「いや知り合ってはいないけどねー」

 ハヤミは狭いコクピットの中で、ドスッと足を組んだ。

 ジッパーを緩めたフライトブーツが、足の先で軽く揺れる。

「新兵訓練で、いきなり教習機のエンジン吹っ飛ばした奴。けっこうな噂だぜ?」

『……!!』

『ん? あの事件、テス曹長だったのか?』

「リサーチ不足だな、新米中尉さん」

『うるさいなー』

 いつも通り、無線からは強気と言うか……なんだかよく分からない『ミラの負けん気』が飛んでくる。

 ハヤミはシートの上でゴロゴロしていたが、なにを思ったか突然、横に置いてあるヘルメットをガバリと腕に抱え、そのまま自身の頭に素早く被せた。

 ゴーグルの中には、いつも現実世界と連動した空間が広がっていた。

 ゴーグル内では、空間に浮かぶ形で様々な大気諸元データがデジタル記号で表示されているが。

 ハヤミはそれらをアイセンサーを使って、MC……マザーコンピュータに一つの命令を出した。

 後ろから、フオンと排熱ファンが回る音が聞こえてくる。

 いくつかのプログラム起動の確認が表示されると、今度はハヤミの前に現実空間と瓜二つの『拡張空間』が広がった。

 次いでハヤミは、教練実習プログラムの“プログラム・フォックスハウント”を起動する。

『フーン。なるほど、あの話は曹長だったのか』

ヘッドフォンからミラ中尉の声が聞こえてきたが、ハヤミはミラの声を無視して更にいくつかの指令をMCに送った。

 次いで疑似空間がリアルタイムで更新されていき、表示と同時にダミーターゲットが再現されてくる。

 徐々に疑似空間が構築されていくと、ハヤミの目の前にはいつもの空が、まるで本当の空のように次々と広がっていった。

 構築された疑似敵機が自由自在に仮想空間の中を空を飛びはじめ、と同時にヘッドホンからはいつものミラの声が、紙をペラペラとめくる音と一緒に聞こえてきた。

 当たり前だが、仮想空間と疑似敵機……ダミープログラムが見えているのは、バイザーを被っているハヤミだけだ。

「そ。コイツはこの前の演習で、我が軍でも超珍しい実機墜落をしてくれた、超々問題児様だぜ」

『フォックスを落とそうとして?』

「それは本人に聞いてみればいいじゃないかー。なあ、テス曹長?」

『……』

『でもキミは、曹長より先にもうちょっと酷い事故を起こしてる先輩さんだから、じゃあ超々々問題児って所かな?』

 目の前の仮想敵機……フォックスがグルリと機体を一回転させる。

 グラフィックの中で、まるで本物のパイロットがいるように頭を動かすフォックスの、仮想データ。

 ハヤミはフンと鼻を鳴らした。

「じゃあミラ中尉は、その超々々問題児のお友達って事で」

『……いい迷惑だ』

「わーはーはーっ」

 フォックスは空の中で、何かを捜しているようだった。

 コクピットの中の頭も、辺りを見ながらグルグルと頭を揺らしている。

 ひっきりなしに動き続ける補助翼。

 戦時を生き、いつまでも敵を追い続けた伝説のパイロット。

 今はもう空を飛んではいないが、データとなった影だけは、未だに「無いはずの空」で「いないはずの敵」を捜し続けているわけだ。

 ちなみにハヤミの遺伝子も、半分このエースパイロットからできていた。

 ……いたが。

「なあ曹長。お前さん、フォックスを仕留められたか?」

『えっ!?』

 新米パイロットは、本能と言うか、伝統と言うか、教習の中で一度以上はフォックスと対戦する事になっていた。

 疑似空間内で。

 そして、一度は全員地面にたたき落とされる事になっている。

「仕留める前に、いつの間にかエンジンを吹っ飛ばされてたんじゃないのか?」

 新米が最初に体験する試練は、まずフォックスに追い付く事からだった。

『いや……た、たまたまですよ! 追いかけてたら、先にエンジンが限界に達したんです! あともう少しだったんですよ!』

「で、いつの間にかエンジンが吹っ飛んでいた」

 空を飛ぶフォックスが、太陽の片鱗でキラリと輝く。

 遥かに上空で索敵機動に入るフォックスは、すでに白い靄の一部と同化していた。

いるべき敵の上を行くために、敢えて高度をとっているのだろう。

 敵はもう、どこにもいないのに。

『……でっ、でも弾は全部避けられました!』

「フォックスは一発も撃ってないだろう?」

『……はい』

 遥か上空でピタリと動きを止めるフォックスを見ながら、ハヤミはボオっと過去の自分を思い出してみた。

 ほんの少し流れる沈黙。

 いろんな事があった。

 機内にまた、いつもの静かなエンジンと呼吸音が響き始める。

「……だ、そうです。懐かしい話なんじゃない? ミラ中尉・ど・の?」

『フン』

「アトスさんは?」

『んー? ああ……そうだな。とてもとても、懐かしい話だ』

『でもそんな文学を始末書に書いて本当に降格されてる様なバカじゃ、ない』

「そう言うなよミラちゃーん」

『しっしっ』

『ううううううー……』

 今度は無線から、犬か何かが唸るような声が聞こえてきた。

『悔しいんです。俺は、めっちゃ悔しいんです!』

 唸り声は、テス曹長のものだった。

『訓練ではちゃんと数字は出てたのに、墜とせると思って実際に戦ってみたら、戦うどころか何もしない内に勝手に落ちてて。何もしなかった同期達が昇進してるのに、自分だけまだ訓練生で空を飛ぶ事になるなんて……』

「うーむ……まあ……なあ」

 無線から聞こえる嗚咽と涙声を聞いて、ハヤミもつい黙り込んでしまった。

 たしか、昔の自分にもそんな時期があった。

 あまり思い出したくないが。

 ハヤミがパイロットを目指した理由だって、テス少尉とそんなに変わらない。

『空で一番になる!』そう、盲目的に信じていた。

 だから入隊して。

 フォックスがいて。

 ハヤミはフォックスを追いかけて、戦いを挑んで、負けた。

 ハヤミも一度、地上に落とされた。

 そこまでは皆と同じだったが。

 そういえばフォックスは、最初からどこの空も飛んでいなかった。

『ハヤミ少尉は、なんで空を飛んでるんですか?』

「……んー?」

 どこかで聞いたことのあるような質問だ。

『また、何かで一番になるためでしょう?』

「おいおい、俺はそんなことはこれっぽっちも……」

『えっ違うんですか?』

「いや、えーっと……」

 ハヤミはポリポリと顔を?いた。

 昔は、ハヤミにもそんな事を言っていた時期があったから。

『曹長、あんまりハヤミをいじめるなよ。少尉は、墜ちるために空を飛んでるようなものなんだから』

「……ほっほーお。なかなかウマい事言うねミラちゅあーん? 帰ったらちょっと、酒でも飲みながらゆっくりお話ししようか」

『……それ、デートの誘いのつもり?』

「それも、あるかも」

『じゃあ却下』

「あっはっは」

 ハヤミの今までの話は、すでに町では軽い伝説と化している。

 ハヤミに言わせれば「そんな昔のこと」といって苦笑いするだけのことなのだが。

「……もしかして」

『……』

 ふとハヤミはある事を思いつき、バイザーを持ち上げて、脇にあるキーをたたいて過去の戦歴を確認してみる事にした。

 いくつか指令を送ると、MCを管理するアークエンジェルの下部廃熱ファンが静かに回りだす。

「おおー、なーんか知らないデータがたくさん増えてらぁ。なあミラちゃん、そんなに俺に勝ちたいのか? ドッグファイトじゃ勝てねーからって、今度は集団戦か? 大人げねーぞぉー」

『んなっ!?』

「ふぉーふぉーふぉー、なんかミラちゃんの脈拍が……」

 訓練当時のハヤミは、対フォックスのデータとしてはそれなりの成果を出していた。

 代償として“ジオノーティラス軍初の実機墜落事件”の歴史を残しているが。

 この件も、ハヤミの伝説の一つとして未だに多くの人間に語られている。

 当時も今も、ハヤミは「伝説なんて作る気はなかった」話なのだが、ジオノーティラスでは起こる事件は元々何もないも同然の世界なので、ほんの少し目立つような事件があるとそれは本人の意志に介さず、すぐに伝説と化してマザーコンピュータに記録されていった。

 ……と、「伝説」と言うとまるで何か偉いことのようだが。

『こ、こいつっ……』

「ふははー、同期の目をごまかす事はできないぜぇー」

 伝説と伝聞は、この世界では大した違いはない。

 だからジオノーティラスでは生きた伝説が大量に存在していたし、またその伝説の多くは、伝説を作った本人がまだ存命の内に『伝説化』させられた物が大半だったりする。

 ハヤミの伝説もその一つ。

 マザーコンピュータのデータベースの一つにその『伝説』の一部として記録され、一部の熱狂的なファンの間ではハヤミのこの戦果も一種の「エンターテイメントの一つ」としてなんども空戦を再生再現する者がいた。

 だが、正しくはハヤミのデータも、フォックスのデータと同じ『パイロット育成のために一部都合良く改変されたコピーデータ』なのだ。

 プログラムそのものは一般公開されてはいるが、本来はこちらの使い方が正しい。

 のだが。

『ハッハッハ、相変わらず仲がいいな二人とも。まあまあ少尉。まあ、ちょっと待ってくれ。実はこの模擬空戦なんだけどな、提案者は実はオレなんだよ』

「……んええっ? アトス少佐が?」

『そう。実は俺もハヤミ少尉の戦歴を見てきてるんだが。……ハヤミ少尉、どうも君は、単機同士での乱戦よりも小隊単位の空戦が圧倒的に苦手なんじゃないかなと見てね。後衛のカズマ少尉の事もある、チーム戦で何かあるなら、それを使って君たちが新しい技術を見つけてくれるんじゃないかと期待してみたんだ。どうだろう?』

「はあ……そう、なんスか」

『単機とはいえ、フォックスにあそこまで迫れるパイロットは君くらいしかいない。カズマ少尉もほぼ互角の腕を持っている。だが、二機での模擬空戦だとあの結果だ。あれからだいぶ時間も経っているが……二人とも、もうあれから充分成長してきてるんだろう?』

「えっ……えっ?」

『君たちが少尉の位に甘んじている状況は非常に勿体ない。そこで、我々が当時のフォックスの代わりとなって、仮想敵となって君たち二人と戦ってみたいと考えた』

「ええっ!? 我々が叩く? って事は新米も含めてエート……」

『三対二、だな。フォックスよりは弱いかもしれんが、今までずっと私が手塩をかけて育ててきた小隊だ、そうそう簡単には負けはしないつもりだよ』

「ええええっ!!??」

『こちらは新人のテス少尉とミラ中尉がアタッカーで、バックアップには私が着く。そちらはハヤミ少尉とカズマ少尉か』

「ちょ、ちょっと待ってください!! でもそれって、自分じゃなくて空域を担当するオペレーションに相談しないと……」

 ハヤミはコクピットの中で前のめりになった。

『んふふ。中隊長も基地司令も、この話をしたらずいぶんと喜んでおられた。小隊単位の空戦は軍でも久しぶりだからな。当日のギャラリーは期待してもいいと思うぞ、ハヤミ少尉』

「ええええええええええ!!!!????」

『ハッハッハ。じゃあ、そういう事で。後の事は私がしておくよ。君たちはミッションが終わったら、まあゆっくり飛んで帰ってきたまえ。ハッハッハ』

 アトス少佐の笑い声が無線から聞こえてくると、さっきとは違う雰囲気の笑いが混ざってきた。

『フフン。自業自得だ、バカハヤミ』

「あっき……み、ミラぁぁぁぁ…………この裏切り者ォ!!」

『敬称は?』

「ちゅ、中尉……ぃぃぃぃめぇぇぇぇ……」

『バーカ』

『ハヤミ少尉! 今度は自分も一緒に戦わせていただきます!』

「かっ、勝手にしやがれ新入りっ!!」

『へへへっ』

 遠くを飛んでいる飛行機雲が、だんだんハヤミとの距離を開けてきた。

 だんだん、無線の中にもノイズが混ざるようになってくる。

 そろそろカズマが雲の下から戻ってくる頃なので、ハヤミはこの会話が聞かれていないかと気を揉みながら周囲を見回してみたが。

 だが、カズマの影はまだ見えていない。

『当日を楽しみにしているぞ、居眠り少尉君。じゃあ、グッドラック!』

『いいかいバカハヤミ! 兄さんにも伝えておいて! アンタたちも、そうやっていつまでもず……』

 ガッ!

 だんだん大きくなってきた雑音が急に大きくなり、ミラ中尉の無線を激しくつん裂いて、突然無線は切れた。

「あっ! もしもし! もしもし! ミラぁ!!」

 無線はまた、いつもの微弱電波を拾うだけになった。

 大気中のわずかな静電気達が、微量のノイズとなってふたたび無線を鳴らしはじめる。

「あぐ……くそっ」

 いつも通りの、白い世界。

 何も聞こえない無線。

 ―no objective(敵影 ナシ)―

 会話が始まった時とまったく同じ言葉が、マザーコンピュータの意思として正面ディスプレイで明滅している。

 ハヤミは歯ぎしりした。

「くっそ! あいつら言いたい事だけ言ってまた逃げて行きやがった!」

 だが……気がつくと、どこかから呼吸音が聞こえていた。

 どこかで誰かが聞いている?

『聞ーいーてーおーりーまーしーたーよーっ、ハヤミ少尉さーん』

 正体はカズマだった。

 突然近くの雲が大きく盛り上がり、雲の中から黒い飛行機がゆっくりと浮かび上がってくる。

 ハヤミの戦闘機のすぐ近くまで機体を寄せてくると、そのまますぐ後ろにピタリと翼を納めた。

『人のいない所でー、君はどうも大変面白そうな話をしておりましたなあー』

「おっ、俺じゃない! 誤解だカズマ!」

『どの話か分かってるー?』

 振り向くと黒い偵察機のコクピットに、カズマの恨めしそうな顔が見えた。

 ガラス越しなのに、なぜか視線がとても痛い。

 確か、カズマには目が無いはずだが。

『いい加減にしろよハヤミ? 殺されたいのか?』

「えっ、うー……あー……」

『ったく、お前のそのおチャラけた性格、早く何とかしろよ。早く彼女でも作るなりなんなりして、自由にすればいいじゃないか』

「いっ、いや! 俺は何もしてないんだ! 誤解だって!!」

『なーんーのー話ーだ?』

「うっ……ごめん。よく分からんが」

『ったく。お前はいつか殺されるぞ? 俺とか、俺じゃない奴に』

「そりゃどー言う事だよ」

『いや、分からないんなら分からないで。はわーぁ……はーあーあ』

「……ん。そういや、地上はどんなだったんだ?」

『んー、特に何もなし。ハヤミじゃねーけど、地球はいつも平和すぎる。誰も何も反応しやしねぇ』

「ふーん……」

『うん。……そう、それはそれ、さっきのアトス教官の話なんだけどな、俺は正しいと思うぞ』

「ん? さっきって、どれ?」

『お前は鳥頭かよ。アトス少佐の、チーム戦の話の事だよっ』

カズマの怒ったような声がして、一緒に紙束が投げられる様な音も聞こえてきた。

『さっき教官が言ってたろ。お前らが話をしてるときに、暇だったからデータベースに照会してお前の戦歴を調べてみてたんだよ。確かにお前、一対一ではけっこう強いのに、団体戦になると途端に負け数が増えてるなってね』

「えー、俺ってそんなにヒドい?」

『酷い。あの時の反省が、今も、まっっっったく活用されてる形跡がない』

 キーボードを叩く音が聞こえ、同時にペラペラと紙を擦るような音も聞こえてくる。

 ハヤミはブウと頬を膨らませた。

「あんだとー、なんか文句でもあんのかよー」

『……無いとでも思ってんのかコラ。お前は、誰が、誰のおかげで、なぜ一緒に謹慎処分されてたのか、なーんにも覚えてござらんのか』

「えー。うーん……でもほら、過去は過去の話じゃーん」

『コロスゾ』

「むう」

 ハヤミの機体が操縦桿を動かし、ふたたび機体が大きく偏りはじめた。

 ハヤミは腕を組んで正面のディスプレイを睨みながら、体ごとシートで偏る。

『お前はいつもそうだ。そうやって、いつも目先のことしか見てないし考えてない。お前は何か、自分が今まで落とされてきた状況を一つでも覚えてるのか?』

 すぐ隣を並走する形で、カズマの機体も旋回運動に入った。

 そういえば、カズマも手放し操縦なのだろうか。

 アークエンジェルの自動操縦は、いつまでも正常らしい。

「ウーン。後ろから撃たれてた」

『バカ、そりゃ当たり前だっつの。戦闘機が前からミサイル撃たれてどうするんだよ』

「……横?」

『あー。もういいもういい』

 カズマの無線が一瞬静かになり、次に激しいタイプ音が聞こえてくる。

 何か必死に作っているのだろうか。

 しばらくハヤミがボオッしていると、今度は無線越しに何かの音楽が聞こえ出してきた。

 聞こえてきたのは……これは、教育番組のテーマだ!

『よぅし! いいかいハヤミちゃん。今から君に、とっておきの魔法の言葉を教えて上げよう』

「おー! カズマおにーちゃんだ!」

『いいか、バカは黙って人の話を聞け』

「ブフッ! クスクスクス……はぁーい」

 教育番組の音楽は流れたまま、今度は正面ディスプレイに手書きの画像が送信されてくる。

 ハヤミは早速、目をキラキラさせて正面ディスプレイに見入った。

『いいか、あの時のおさらいだぞハヤミ。ここにターゲットAがいる。お前はこの後方に位置し、ターゲットをレーザー照射でロックオンし、ミサイルを撃つ。この飛行機がお前だ。いいな?』

「ぶふふッ! はーい」

『ターゲットAは回避機動を繰り返しながら、ハヤミ機のロックオンを外そうとする。その時間を約十秒と設定しよう』

 ハヤミのディスプレイに、「A」と大きく書かれたクマさんがやってくる。

 コクピットの中で、わざわざ台紙に書いた物なのだろうか。

 その後ろから、ハヤミがずっと前にオペレーションからかっぱらってきた飛行機の人形が静かに近づいてきた。

 あまりの用意周到さに、ハヤミはクックックと声を殺して笑った。

『その間に、ハヤミ機の後方に、レーダー無照射のターゲットBがステルス状態で近づいてくる。これがお前。こっちのは新しいターゲットB……ってお前、話聞いてる?』

 一度飛行機人形がピョンと跳ね、次にその後ろからキリンさん人形がやってきて、ハヤミの飛行機にキリンがガブッと襲いかかる。

 ハヤミは大爆笑した。

「ブッククク……ブァーッハッハッハッハッハ!!!!」

『要は! お前はいつも前しか見てないから! こうやって……』

「後ろから撃たれるで合ってるじゃないかー!」

『……いやいやそうじゃなくて。あのな?』

 無線のカズマの声がふたたびイライラしだした。

『お前はいつも前しか見ないで空を飛んでるから、ここでお前がターゲットAを仕留めようとしているときにィ……いいか、この時間! この十秒の間で! 後ろから別の敵がやってきて、お前を撃……』

「なるほど!」

 ハヤミは両手を打った。

「つまりもっと速く、このクマさんを落とせば良いわけだ!」

『……いやいやいや、それもそうなんだけど』

「もっと速く飛んで、クマさんもキリンさんも落とす!」

『いやいやいやいや、だから待てハヤミ、ちょっと待』

「ミラ達に負けない! 新米にも、教官にも! もっと速く! よし、今から特訓だ!」

『待てっつってんだろバカハヤミ!! ああん!?』

 無線からカズマの怒声が聞こえてきて、同時にディスプレイからクマさんを乗り越える形でカズマの顔がドアップで映されてきた。

 カズマの顔は怒っていた。

 というか、いつも不機嫌なような顔をしていた。

 背景の音楽は、まだ教育番組のテーマのままだ。

『人が言いたい事があるから、こうやって教えてやってるんだ! お前はいつもそうだ! いいから黙って人の話を聞け!』

「……でもようカズマ?」

『だァーッッッッ!!!! お前には日本語というものが通』

「いやいや違うんだカズマ。俺には難しい事なんて分からんさ。だからさ、今回も、またいつも通りの各個撃破でいいんじゃねーのかってゆーの」

『それを毎回繰り返してるからお前はいつまでたっても進歩がないんじゃないのかっ!? アアン!?』

「いやそんな事ねーぞ?」

 ハヤミはバイザーを降ろし、足を組んで、ふたたびシートに転がりつつ空を見上げた。

 上では、相変わらずフォックスが白い空を飛び続けている。

「あれから俺も、だいぶ強くなった」

『ほう! 聞き捨てならねェ! ……何にも成長してねー証拠じゃねーかゴルァ!!』

「いやいやいやいや違うぞ? 信用しない?」

『信用できない! 教官も騙されてるようだがな、こっちにはデータがある!』

 バシッバシッと、無線から紙束を弾く音が聞こえてくる。

「えーそれはそれだよ」

 ヘッドアップディスプレイに表示された疑似空間をグルリと見回してみる。

 リアルタイムで更新される疑似空間は、嵐のポイントからだいぶ離れたようだった。

「俺は、機械なんか信用してないぜ?」

 そういうと、ハヤミはキーボードをタッチして素早く秘密のコードを入力した。

 アークエンジェルのマザーコンピュータがあらゆる不正を感知し、バイザー内に様々な警告を表示してくる。

 と、同時に操縦系の何かのロックが解除された。

 僅かに自由の利きはじめた操縦桿を握りしめ、ハヤミはさらに色々なコードを入力していく。

 むかーし昔、とある墜落事件を起こした時と同じやり方で。

 当時の事を思い出し、ハヤミは少しだけ、小さく笑った。

『信用するかしないかは、そりゃお前の勝手だがな』

「じゃあデータ上の俺と、実際の俺とでどっちが強いか試してみる?」

 最後のキーを入力すると、一瞬サイドパネルの電源が切れて、ふたたび復活した。

 見ればパネルを照らす照明が、通常運航の青から非常用の赤に変更されている。

 ディスプレイの表示が一切消えていた。

「データ上の俺と、実際の俺がどれだけ違うか、お前と一緒に試してやろうじゃないか」

『はァー? どうやって?』

「演習」

『は?』

「さっきミラちゃん達がやってるって言った演習データも利用して、俺対俺対カズマ、で、いっちょ戦ってみようてんだ」

『ん……おれたいおれたいかずま……ん? お前が二人? どこでどうやって戦うって?』

「ここで! データの俺様とリアルの俺様と! どっちが強いか勝負してやろうっての! データの俺のバックアップにお前が付く! で、インファイト! もしお前たちが勝ったら、俺もその弱さを認めるよ! けどな、俺様は絶対負けねェんだぜ! カズマ、コード七で機体相互リンクをかけてみろ!」

『ななな、何を言ってるんだハヤミ……』

「相互リンクかけて、バイザー覗いて見ろっつの!」

『んむむ』

 無線がまた静かになり、そこから微かにカズマがヘルメットのバイザーを下ろす音が聞こえる。

 ハヤミはカズマがバイザーをかけるのを確認すると、そっと操縦桿とフットペダルを動かし、機体をカズマの偵察機の真上に移動させ、グルリと機体を反転、カズマを逆さまに見下ろした。

『ふん、なんにもねーじゃねー……うわうわわわわぁぁぁーっ!?!?』

「ばあ!」

 向こうで、逆さまのカズマが大慌てしはじめた。

『お、お前が二人いる!?』

「ばか、それ俺のダミープログラムだっつの」

『!?』

 逆さまのカズマが、今度はせわしなくバイザーを上げたり下げたりしながらハヤミと誰もいない空を見比べる。

 そして、今度はバイザーを上げながら生身のハヤミを見上げた。

『お前も器用なことするねぇ』

「で、これにフォックスを混ぜて一対一対二の巴戦をしてやろうと考えたわけだ。なんか懐かしいと思わない?」

『懐かしくなんか、ないッ! っつかさ、なんでまたフォックスなんか介入させるんだ? 俺とお前だけの対一で充分じゃないか』

 ハヤミはまたグルリと機体を一回転させて、背面飛行から通常姿勢に戻った。

 空の上では、相変わらずフォックスが高々度で飛んでいた。

 敵なんて、どこにもいるわけ無いのに。

「お前が俺と普通に戦ったって、どうせお前は勝てねーだろ?」

『ムカッ! 人のコード勝手に使ってる分際で!!』

「データの俺はハンデだ。で、それにフォックスを第三勢力として介入させる。これくらいだったら、俺とお前でも、まあ楽しい戦いはできそうだわな」

 ハヤミは素早くキーボードを叩いて、空を飛ぶフォックスプログラムにニューオーダーを出した。

『ターゲット、オッドボールワン及びツー、ダミーターゲット「ハヤミ」を撃破せよ』

 キーを打ち終わってからハヤミが上を見ると、ちょうどフォックスの機影が太陽の光りを反射させている所だった。

「これでどっちが勝つか勝負だ。どうせ暇だろ? 模擬空戦エリアはここ一帯、“嵐の中も含む”で行こう」

『くっそー言いたい放題言ってくれやがって! よーし! じゃあこっちからもだ! もし俺が勝ったら、これからはお前も俺の言う事聞けよ? いいな!?』

「ふっふっふ、ついでにオメーの新しいバイクも買ってやるよ!」

『言ったな!? 上等だコラァ!!』

 無線が乱暴に切られると、四筋の飛行機雲が互いに絡み合うようにして雲の中に飛び込んだ。

 見える敵と、見えない敵。

 それぞれがそれぞれの思いを持って、自由気ままに空を飛ぶ。

 ハヤミは雲の中を飛びながらふと思った。

 ……この戦いだって、端から見たらなんてくだらない戦いなんだと。

 この世界も、全ては幻なのだろうか?

 思ったが、ハヤミは軽く首を横に振って、ヘルメットのバイザーを深く降ろして軽く嘲った。

 雲の中に入ると、ハヤミはすぐにアクティブレーダーをオフにした。

 強力なレーダー波を空に照射し続ける事は、カズマの乗る偵察機に向かって「私はここにいますよ」とずっと言い続けているのと同じだからだ。

 だがレーダーを切って雲の中を飛ぶ事は、目隠しで何も見えない空をどこかに向かって飛んでいるのも同じ。

 簡単な高度計と、機首に取り付けられた風見糸と勘だけが頼りだ。

 コクピットにぶら下げられたサイコロが、意味ありげにコロコロ廻り続ける。

 ハヤミは大きく息を吸い込んだ。

「……さァって、どうするか」

 計器が僅かずつ高度を下げていく。

 すぐ直近を、真っ白な稲妻がかすめていった。

 バイザーの中は疑似空間だが、現実世界も同時進行だ。

 何も変わらない。

 ハヤミは操縦桿を少し動かしながら、バイザーを掛けたり外したりをしばらく繰り返してみた。

 スロットルを絞り、気流の乱れを極力消しつつ空を飛ぶ。

 指先で感じる、風の群れ。

 衝撃波の重み。

 強さ。弱さ。それらが群れて空を飛ぶ、気流の乱れ。

 ……何かがいる。

 バイザー上では確かにいるのに、外してみると何もない、変な空気と乱れ。

 ハヤミは静かにバイザーを掛け直すと、パネルのレーダースイッチをオンにした。

発見。あれはダミーターゲットだ。

「……ぃよしもらったぁ!!」

 間髪入れずにトレーニング用ミサイルターレットをオンにする。

 ハヤミはダミーターゲットに一気に照準を合わせた。

 が……

「クソ! そううまくはいかないか!」

 ダミーターゲットはハヤミのレーザー照射を一瞬でかいくぐり、アフターバーナーを吹かして雲の闇の中にふたたび逃げていった。

 さすがハヤミのダミー。機体反応が、普通のダミーターゲットに比べて格段に早い。

「ちっくしょー! おのれ、さすがオレ様のダミーだな!」

 ……だが、何か妙だ。

 ハヤミのダミーとは言え、同じくレーダーを全く使っていない状況でハヤミの照準を逃げられるとは?

 ハヤミは再び自分のアクティブレーダーをオフにすると、ふたたび暗闇の中を気流の乱れを捜して飛ぶ事にした。

 暗闇を、ふたたび雷が大きく照らす。

 雷が走る度に、イヤホンにも強烈な雑音が唸る。

「妙、だな。ダミーとは言え、なんで俺を追いかけてこないんだ?」

 高度計が、さっきよりも確実に高度を落としていた。

 どうやら自分は少しずつ下へ向かって飛んでいるらしい。

 ハヤミは操縦桿をほんの少し上に引き上げようとすると、突然ディスプレイに微弱なノイズが走った。

「……おん?」

 操縦桿が、わずかに跳ねあげられる感覚も覚える。

 胴体が柔らかい何かに接触したような……いや違う。これは何か、外部から操縦系をいじられている……感じか?

 お守りのサイコロが、一つの目を示して水平に揺れた。

 これは……何だろう?

『……チャラ…………チャランカチャンチャ…………ンチャ…………』

「?」

 どこからか、変な音楽が聞こえてきた。

 というか、さっきカズマが流していた教育番組のテーマだ。

 電波と一緒にカズマの音楽が流れてきている。

 その音楽がヘッドセットに響くと……ディスプレイのノイズも一段と酷くなった。

「くっそ、何なんだこれ……」

 ディスプレイを拭ったって何かいい事があるわけでもない。

 それに、雲の中で黒い偵察機を見つけるのは至難の業だった。

 それを見越してカズマも無線を切っていないのだろうか。

 余裕な自分を見せつけているのか。それとも単に、機械のスイッチを切り忘れているのか……いや待てよ?

 ハヤミは試しに、周辺空域に熱源探査をかけてみた。

 熱源あり。前方、これはダミーターゲットの方だ。

 相変わらずハヤミから一定の距離をとって飛んでいる。

「うーん。先にダミーの方を殺るか?」

 ハヤミはゆっくりとスロットルを押し上げると、速度を徐々にあげつつダミーターゲットの背後に忍び寄った。

 熱源探知だけでもロックオンはできる。

『チャーンチャー……ラチャンカ………………リン……』

 ディスプレイに小さくノイズが走る。

 今度はスロットルが動きづらくなった。

 それにあわせるように、カズマの教育番組のテーマもだんだんはっきりとハヤミのスピーカーに聞こえてくる。

 無線を切り忘れているとはいえ、真剣勝負時にこうも耳に触るものはない。

 ハヤミはダミーターゲットにロックを合わせると、ゆっくり引き金を引……

 ……。

 違う、これはもしかして!?

『も……ったあ!!!!』

 突然無線から、雑音まじりのカズマの声が聞こえてきた。

 同時に後方からの強いレーダー照射も始まる。

「あっ!? っくそ!!」

 ハヤミは反射的に操縦桿を右に切った。

 だが、ハヤミの操縦桿はビクとも動かなかった。

「な、何だ!?」

『バカめ!! お前には逃げる自由なんて無い!!』

 断続的に聞こえてくるカズマの声と共に、レーダー照射もまったく止まらない。

「このまま落ちろ!」

「くっそォー!!」

 ミサイル被弾の秒読みが始まる。

 ハヤミは我武者羅に操縦系の再起動を試みていると、その拍子に何かのスイッチが入って、ディスプレイに新しい何かが表示された。

「……!? なんだこれ!?」

 表示されたのは、いつもなら使わないはずの磁気探査画面。

 探査範囲が、なぜかいつもの五倍ほどに広がっている。

 ハヤミは一瞬自分の目を疑ったが、間断なく続くレーダー照射とその警告音にハッとしてレーダーに映されている新しい敵機マーカーを見つけた。

 今までみえなかったカズマの影……

 という事は、ここは磁気干渉帯か!

「そういうことか! 読めたぞクソカズマ!!」

 ハヤミは力を入れていた操縦桿の手を離し、マザーコンピュータそのものの再起動を試みた。

 一瞬にしてアークエンジェルの翼が解放され、急速に高度を落としてゆく。

「そうと分かりゃこっちのもんだ! 見てろカズマァ!!」

 ハヤミはいったん切ったスイッチを、ふたたび入れた。

 動かなかったスロットルと操縦桿が、今度は嘘のように自由に動くようになる。

 ハヤミはスロットルを一気にフルオープンにした。

『こいつ!? 逃ガーッ……ハヤミ!!』

「うるせえバカヤローッ!!」

 ハヤミは操縦桿を握りしめると、台風の目に向かって全速力で飛んだ。

 カズマに近づいたら操縦系を奪われる。

 カズマは情報戦のプロだ。

 でも近づかなければ、敵は落とせない。

 どうするか?

 ハヤミは、台風の目にらせん状に吸い込まれている風に翼を乗せて、通常では考えられない機速を出した。

 飛び交う氷の塊をアフターバーナーを使って飛び越し、上空に出て反転する。

「隠れるのなんて性に合わねぇ! オレ様は天才なんだッ!! 見てろクソカズマ!!」

 レーダーのスイッチを入れた。

 前方、確認。

 カズマも、ハヤミのダミーもいない。

 台風から吐き出されるまた別の流れに乗り、さらに機速を上げていく。

 アフターバーナーを吹かし加速を続ける途中でダミーターゲットがハヤミの後ろについてきたが、ハヤミのアークエンジェルはすでに勢いが十分についている。

 加速の遅れたダミーはすぐに空に置いて行かれた。

 ターゲットロック、オッドボールツー、カズマ!

「もぉらったぁぁぁぁぁ!!!!」

『…………上から……!?!?』

 ハヤミは一瞬でカズマガトリングガンで掃射した。

 カズマの抜きがけに強い衝撃波がハヤミ機を襲い、と同時に大気中に大小のカズマ機の破片が飛び散る。

 それら大小の破片がハヤミの後ろでさらに爆発を繰り返し、すぐ後ろを飛んでいたハ ヤミのダミーターゲットは破片に巻き込まれる形で誘爆、煙を吹きながら地上に墜ちていった。

 ……が、それはバイザーに広がる疑似空間内での出来事。

「ぃやっほぉう!! やったぜカズマ! どうだぁ!!」

『ックソ、やら…………た』

 ハヤミは無線先に流れる微弱電波を聞きながら、勝利の余韻に浸りつつスロットルを徐々に戻していった。

 先程まで戦っていた空域を、緩やかな風に翼を乗せつつ静かに減速していく。

「へへん! 言っただろ? オレ様は機械なんか信用しない、データ上のオレなんかよりも、本物の方が数倍強いって事よ!」

『負け……めるよ、バ………………でデータを修……………………』

「おいカズマ? 無線機の調子が悪いぞ、どうした?」

『………………………………』

 ちょっと離れ過ぎたか?

 風に乗りすぎて、機速を上げ過ぎていたか。

 ハヤミは空中ブレーキを使わないまま、ゆっくりと旋回しつつカズマのいる空域に機首を合わせる。

「もしもーし! カズマ、いるかぁー?」

 カズマがいるであろうはずの空域に突入する。

 ―You belong airway(あなたは規定航路内にいます).―

 いつもの帰投航路に辿り着くと、マザーはいつもの言葉を繰り返した。

 カズマは、どこにも無かった。

「あれ? もしもしーぃ?」

 どこからもあるべき応答もない。

 真っ暗な雲の中、ハヤミ自身の声が小さなエコーとなってイヤホンに返ってくるだけ。

「おかしいな? 周波数は……いやあってるな。あれ、カズマー?」

 ―return to your motherbase(直ちに帰投してください)―

 マザー……アークエンジェルはいつも通りの言葉しか繰り返しない。

 カズマがいない事が分からないのだろうか。

 ハヤミは同じ言葉しか繰り返さないディスプレイのスイッチを切った。

「あっれ、おかしいな。……はぐれちゃった、かな?」

 アークエンジェルの自動航行は完璧のはず。

 いったん切っているとはいえ、自動航行でカズマと自分がはぐれる事なんてないはずなのだが。

 試しにハヤミは操縦系統をマニュアルに切り換え、雲の上に出てみる事にした。

 真っ白な、雲の平原だけが広がっているだけ。

 カズマは、どこにもいなかった。

「……もしもーし!?」

 ハヤミは無線に向かって、少々強めに問いかけてみた。

 切れた半透明のディスプレイに、太陽の淡い光が映る。

『……』

 どこかで雷が鳴った。

「……やばい、マジではぐれたか!?」

 けどあれからそんなに時間は経っていないはずだ、近くでカズマも自分を捜して飛んでいるはず……んん?

 ハヤミが周囲を見回していると突然ディスプレイが再起動し、正体不明の機影をレーダーが表示しはじめた。

「これはカズ……いや、なんだ、フォックスか。あーもう、なんだよこんな時に!」

 フォックスの機影は、正面からまっすぐハヤミに近づいてきていた。

 正面から撃ち合うつもりなのだろうか。

 さっきの模擬空戦のプログラムがまだ起動したままだったらしい。

 ハヤミはキーをたたいてプログラムを強制終了すると、今目の前で仮想空間を映し出しているバイザーゴーグルをグイッと持ち上げ……

「ん?」

 バイザーは、すでに頭の上に持ち上げられていた。

「……なにこれ? えっなんで?」

 今映されている……というよりも、今起こっている事は現実での話なのか?

 試しにゆっくりとディスプレイを目で見て、確認し、頬をつねって、今自分がどの空間を見ているのかを、もう一度ゆっくりと確認してみた。

 レーダー上の機影は、確かにハヤミに近づいてきている。

 見間違えではない。

「……本物のフォックス? まさか?」

 直線距離とは言え、回避はまだ可能のようだった。

 だがレーダーに表示されている表記は、相変わらず『code name FOX』のまま。

 ハヤミは震える指先を動かして、機体の通常航行モードを空戦モードに切り換えてみた。

 このまま飛び続けると、三十秒後にはフォックスの幻影とすれ違う事になる。

「……」

 レーダーは何をとらえているのだろうか?

 ハヤミは汗ばむ掌を、操縦桿を、ギュッと握りしめた。

 雲の平原から軽く飛び出していた小さな雲が、一瞬だけハヤミの機体を包みこむ。

 その瞬間。

 ―areat! nodata object approaching!(警告 未確認の何かが接近中)―

 無機質な女性の声が、警告音としてハヤミのヘッドセットに流れてきた。

 ―we have no finded enemies.(新しい敵機を捕捉)―

僅かに聞こえてくる、何かの轟音。

 妙なプレッシャー。

 小さな影が見えてきた。

「ええっ!?」

 次の瞬間、ハヤミのすぐ隣を何かが高速で通り過ぎていった。

 白い靄に隠れてよく見れなかったが、でもそれは確かに何かの翼だった。

 一瞬の出来事なのに、所々がスローモーションのようにハヤミの頭の中で再生される。

「フォックス!?」

 急いで振り返ったがもう遅い。

 見えたはずのエンブレムマークも、見覚えのある翼も、もしくはこちらを見て笑っていたように見えたヘルメットも、すべてはずっと後ろに見えなくなっていた。

 今見えるのは、いつもの真っ白な雲だけ。

 ―WARNING! pull up! pull up!(機首を上げろ)―

 別の警告が間髪入れず響く。

 ハヤミが急いで前を見ると

「うげッ!!?? ななんだありゃあ!?」

 今度は別の、全然違う巨大な飛行物体が目の前を飛んでいた。

 しかもそれは、何かの巨大な翼を羽ばたかせていて。

 巨大な飛行物体? 航空機とは明らかに違う、全然別の何かの生き物だった。

「ぐっ、ダメだ間に合わねェ!!?? うぉぉぉぉぉ!!!!」

 ハヤミは羽ばたく翼を見て、直感的に操縦桿を下に向けた。

 持ち上がる巨大な翼の真下をハヤミの翼がかいくぐり、どこかで何かが気落ち悪い音を発する。

 次の瞬間、風景がグルグルと回りだした。

「あぐっふ!?」

 操縦桿が急に軽くなり、同時にディスプレイに大量の警告表示が点滅し始めた。

 ―WARNING! WARNING! we lost controll,(警告 警告 機体制御不能)―

「くそっ! ダメだ、操縦不能!!」

 電圧低下。

 残燃料低下。

 油圧低下。

 様々な警告が赤い明滅となって、ディスプレイに大量に表示される。

 ―you have lost PW and your way. System shutdown. you are free. I am sleeping. Good luck hayami.―

「!?」

 ディスプレイに立ち上がっている大小様々な警告表示を押し退けるように、突然アークエンジェルが何かのメッセージボックスをポップアップさせてきた。

「うわわわわ!? ええーと!? えっうわっ!!!!」

 急いでるときに、訳の分からない表示を突然映すアークエンジェル。

 ―Play the newgame...―

 ハヤミがメッセージを読みきれない内にアークエンジェルは動作を停止、機体は一瞬にして航行不能に陥り、地面に向かって緩やかな滑空をはじめ、次いで急速に高度を落としはじめた。

 ……………………

 ………………

 …………

 どこだここは?

 ハヤミは、真っ暗などこかにいた。

 いた、と言うよりは、真っ暗な世界に、飛行機そのものが突っ込んでいると言うような。

 小さなコクピットランプが、弱々しくハヤミの足元を照らしては消え。

 それと同じ間隔で、尾翼にある航空灯もゆっくりと明滅している。

 光が灯るたびに周囲の世界が広がって、狭くなり、僅かにその全容を把握することができそうだったが。

「……ここは、どこ、なんだ?」

 ハヤミが僅かに腕を動かそうとすると、腕から何かの衝撃が全身に流れ、その衝撃が脳にも走り、忘れていた激痛が瞬時に体中に広がった。

「う……」

 痛みが酷すぎて、唸る事すらまともにできない。

 ハヤミは動かない腕を懸命に動かし、肩をシートにくくりつけていたハーネスロックをゆっくりと解除した。

 ガクリと体に衝撃が走る。

 縛りつけられていた全身が自由になった。

 だが……体は木の棒になったままだ。

 霞む視界を懸命に開くが、何かが邪魔で前が見えない。

 ハヤミは軽く首を動かすと……今度はヘルメットを被っていることに気がついた。

 バイザーが目の前まで落ちていて、視界を塞いでいるらしい。

 息苦しかった。

 ハヤミは動かない腕をふたたび動かし、なんとかしてヘルメットを脱ぎ去った。

 重いヘルメットが頭から手を介して床に落ちる。

 一息つくと、今度は本当に体が自由になった。

 でも、いい事は何もない。

「い、つつ……」

 ……

 ……

 あの時、空中で操縦系統を失った止めたアークエンジェルは、風に流されながら急速に高度を下げていった。

 元々機体の設計が空中滑降に向いていない戦闘機だったので、考えれば当たり前の事なのだが。

 それでもハヤミは操縦を『電動』から『手動』に切り換えて、流される風の中、必死に機体の操縦を続行しようとした。

 だが、マッハで滑空する手動機体制御は、全力で操縦桿を押しても翼が重すぎてピクリとも動かないまま。

 動かない操縦桿に必死になってしがみつき、力任せで動かそうとし続けていると……と、そこまでは覚えているのだが、そこから先は、どうして自分が地上に降りられたのか、まだ生きているのかはさっぱり思い出せなかった。

 本当に、あの時なにがあったんだ?

 一息つき、ハヤミは改めて周囲を見回してみる。

 白く光っては消える、弱々しい航空灯を頼りに周囲を見回してみても、分かるのは『世界は広かった』としか思えない闇ばかり。

 コクピットは墜落の衝撃で完全に散らかっており、ディスプレイにはヒビが、もしくは今まで自由だった操縦桿は、あらぬ方向へ傾いて固まっていた。

 紐でぶら下げられているサイコロが、なんとなく斜めに偏っていた。

 そういえば、ハヤミの体も少し偏っていた。

「何が……あったんだい、ハヤミちゃん、よ」

 正体不明の何か……フォックスみたいなものと遭遇し、次はすぐに、なんだか変なものにも遭遇したし。

 ハヤミはゆっくりと、重くなった腕をキーボードの上に這いずらせ、いくつかのボタンを押してみた。

 いつもなら即答してくれるはずのマザーコンピュータは、今はもうウンともスンとも言ってくれない。

「へへ……壊れてやがる。当たり、前、か」

 重い腕をドサリと落とした。

 自虐的に笑い、透き通ったガラスに自分の弱々しい笑顔が映されると、透かしたように濃い闇が淡い航空灯とともにゆっくりと、行ったり来たりを繰り返す。

「墜ちたのか……」

 何があったんだろう。

 まるであの時と、何もかもが同じだ。

 ハヤミはフウとため息をついた。

「ホント、なんも変わってねーな……へっ、なんも、変わって……ねーじゃねーか」

 前に墜ちた時と違う事と言えば、近くに誰かがいたか、いないか。

 そんな感じかもしれない。

 あの時は

「いない狐と一人相撲、か。バカだなぁ」

 どうして地上に墜ちたのだろう?

 ハヤミは、ズキズキする頭をさすりながら考えてみた。

 遠い過去を思い出して、今を思い出して、ふとあの時のことを思い出して自虐的に笑った。

 そういえば。

 フォックスは、笑っていた。

 フォックスもハヤミと同じように、こうやって地上世界を見たことがあるんだとか。

 非公式だが、フォックスは何度か地上に墜落したことがあるらしい。

 いつも鮮やかなディスプレイは、いつもは静かにピントをあわせてハヤミを監視しているカメラアイと共に、電源と一緒に落ちて消えている。

 フォックスは生きていた。

 生きて、どこかでひっそりと酒を飲んで暮らしているんだとか。

 虚空を覗くガラスの表面に、宙に揺れるサイコロが静かに映る。

「……」

 と、サイコロを吊るしていた紐の一つがプッツリ切れて、無音の闇の中に、澄んだガラスの音がキーンと響いた。

 小さく、遠くまで響くような、音。

 開いては閉じる航空灯の灯火に合わせ、遥か遠くの闇の中に小さな灯火が映りはじめる。

「あれ、は?」

 陽炎のように、暗闇の中でボオッと光りはじめる小さな明かり。

 風が吹いている。

 灯は揺れていなかった。

「誰か……いるのか?」

 地上に集落があるなんて話は聞いた事がない。

 それとも……何かの幻覚なのだろうか?

 ハヤミは自分の目を疑ってみた。

 航路図の在り処を捜してゴソゴソとサイドポケットに手を突っ込んでみる。

 今度はハヤミの指先が、何かビニール袋に触れて引っ込んだ。

「な、何だ? ああ、なんだ……これか」

 袋は緊急時用サバイバルパックだった。

 不時着時にパイロットが延命用に利用する、様々なサバイバルキットが収納されているビニール袋。

 ハヤミが袋を持ち上げてみると、袋は何の重みもなくスカッと持ち上げられた。

「……中身が空っぽじゃねーか」

 文句を言いながら、ふとハヤミは過去の自分がやってきた悪戯を思い出す。

 いや……思い出した。

 中身を持ち出していたのは、どうやらいつかの自分だった事を。

『どうせ何にも役にたたんだろう』とたかを括って。

 非常用乾パンは、酒のツマミとして拝借。

 ハニークラッカーは甘すぎてタイプじゃないので、大人な味の微糖チョコレートに換装済み。

 チョコレートは古くなりすぎて溶けていた。

 水分生成器……は、賭けの担保で出張中。

『有事の際の暇つぶし』のために入れられたらしい古エロ本も入っている。

 あとは、カズマが造ったお手製ゲーム(拝借品)と、専用コントローラー。

 でも何かないかとハヤミが袋の奥にゴソゴソ手を突っ込んでいくと……奥の奥から、ペラペラの耐熱アルミシートが一枚出てきた。

「ぐッ! ……なんぞ!! ……さっ、さささ寒いっ!!!」

 アークエンジェルの墜落現場は、想像以上に悲惨だった。

 暗闇の中とは言え、おおよそ見ただけでも主翼がどこにも見当たらない。

 やはり飛行機の中で友軍の救出を待っていた方がよかったか?

 振り返ってみても、後ろに見えるのは茶色に溶けかけた異様な物体と、妙に盛り上がった航空機胴体に似た物体のみ。

 下部胴体も、機体が地上に胴体着陸した形で地表のガラス質を突き破って鎮座。

たぶん全部削れて無くなっているのだろう。

 ハヤミの座っているコクピット部だけは強化フレームで守られていたが、それ以外はほとんど原型を留めているものはなかった。

 歪んだ尾翼上部では航空灯が弱々しく明滅している。

 無残な姿に成り果てた陰を見上げている内に、ハヤミは強い風にあおられて、つい握りしめた耐熱シートを宙に飛ばされてしまった。

 ……

 ……

『すべての道は、自らが決めた自らの自由なのです』

 いつかのハヤミは、学校でこんな言葉を習っていた。

 ハヤミがまだずっと小さかった頃、小学生だった時の事だ。

『世界で起こっているすべての事は、時間に捉われない形で、自分達が想う理想の世界が現実となって再現されているだけなのです』

 画面に表示されている映像と共に、目の前をふよふよと浮いている教育AIのカメラが、小さい頃のハヤミに話しかける。

 教科書は動く三次元動画。

 様々な時間を分け隔てなく、人間の過去、現在、未来を、自分たちの姿を投影しつつ、分かりやすい形で幼いハヤミ達に教えてくれた。

 クラスメイトは他に誰もいなかった。

 教師役一つに、生徒が一名。

 完全な個人授業ではあるが、別にハヤミだけがこんな特別な授業を受けているわけではなかった。

「じゃあ、どうして僕はこの学校でこんなことをしているのですか?」

 人化された高性能AIの疑似映像と、対象者しかいない、仮想空間での完全個別授業。

 この世界でできないことは何もない。

 何だってできるこの世界では。

 可能性を秘める存在で、かつ元々の絶対数が少ない『子供』たちは、ジオノーティラスでは宝物と同じ価値の存在だった。

『それは、貴方の親御さんが、貴方のためを思ってこの学校に通わせているからです』

「僕はこれっぽっちも、こんな所にいたいなんて思っていません」

『未来の貴方は、確かにこの場所と時間を望んでいます』

「今の僕は思っていない! 外で遊びたいんだ!」

『それは許されません。ルールです』

 ハヤミが騒ぐ事によって、仮想空間が停止する事はよくある話だった。

 その度にハヤミの両親が学校……プログラム実行塔に呼ばれ、ハヤミは両親や教師役のAIと共に校長先生……校長役の教育AIと複数面談をする事になる。

 AIには、直接的に人間を管理する権限は無い。

 だから親が一方的にハヤミの教育方針の主張、要望を説明し、それに対して機械側である学校は選択的に『選べる教育方針』、『ハヤミの過去のデータ』と、『現状の問題点とその克服法』を羅列していく。

 整然と並ぶ様々なデータを、両親がタッチパネルで選択していき、最終的にハヤミは『二度目三度目になる、理想的な授業』を選ばされることになった。

選ばされることになったのだが。

 自分の未来の方針を他人事として見ていたハヤミには、それらの両親の選択ですら、まるで誰かが予め敷いていたレールの上のように見えていた。

 『自由』という選択肢が、予め誰かによって決められている不思議、というような。

 ハヤミの親、もしくは『同級生』『ともだち』『まちのひと』も、自分で選んでいる道のはずなのに、なにか画一的な『変なもの』を感じてしまう。

 ……とまあ色々な事を考えていると、ハヤミはつい何もしないでボオっとしてしまうのだが。

 その度に鳴らされる、教育AIの警告音。

『次に進みましょう』

 ハヤミは、AIのアイセンサーが嫌いだった。

 後になって知ったのだが、ジオノーティラスにあるアイセンサー……コンピュータ達は、すべてセントラルコンピュータであるコアが管理運営しているらしかった。

 カメラが見ているこの世界は、すべてがデータとして保存されているものなのだろうか。

 たとえばハヤミが、学校をサボるために窓から飛び出し頭を打って痛い思いをするのも、もしくは家が嫌になって一週間以上町をうろついていたのも、何もかもが嫌になって地下世界の非公式チューブレースに参加して死ぬ思いをしたのも、ドラッグに溺れたりしたのも、かけがえのない友人達に出会えたのも、軍に入って空を飛んでいるのも、絶望を味わって空を飛ぶことすら諦めかけたのも、すべては「ただのデータ」であって、すべては「自分がそれを望み、無意識に自分を導かせていた、一つの確かなルート」なのだろうか。

 自分が軍に入ったのも?

 これが、こんなクソむかつくこの世界が、ただの確率とデータの話だと?

『すべては、自らに導かれた結果なのです』

 こんな酷い現実を、誰が率先して自分を導くものかよ。

 ……

 ……

「こんな酷い事を、自分で望んでてたまるか……よッ! さささささ寒い」

 今、現実空間では、ハヤミは氷の粒の飛び交う嵐の中を一人で歩いているのだが。

 平らなガラスの平原では、ハヤミがいくら身を屈めても嵐はまったく凌げそうになかった。

「うううううう……寒い。凍える。うう……本当に人家まで着ける……のか?」

 ハヤミは強くなる風を凌ごうと、反射的に近くにあった何かの影に身を投げた。

「くっそ……あのまま飛行機の中にいた方が良かったかな。あの光が本当に人家なのか ……分からん。ハァーっ……寒い!」

 ハヤミはグルッと周囲を見回して、光があったであろう方向を捜してみた。

 光はもう見えなかった。

「……見失ったかな。参ったな、このままだと俺は完全な迷子だぜ。俺は今どこにいるんだ?」

 ふたたび周囲を見回し、アークエンジェルの光を捜してみる。

 墜落の衝撃なんて、大量の氷の粒に比べれば全然いたくなかった。

 ……と、ふとハヤミは今自分が隠れている「何か」が、小さな木である事に気がついた。

 小さな木が枝を広げ、嵐の中で数少ない葉をざわめかせている。

 そのすぐ隣には、何かの十字架のオブジェ。

 そして……よく闇に目を凝らして見てみれば、すぐ近くにも同じような木と十字架が生えているのも分かった。

 ざわざわと、それらから同じような樹木達のざわめきも聞こえてくる。

 ここはどこなのだろうか?

「森? 墓? やっぱりここには、人か何かが住んでる……ハァーッ……の、か?」

 自然の森がこの地上世界にあるはずがない。

 かといって、誰かがまだこの地球上に生きているという情報も得ているわけでもなく。

 でももしかしてそれは、自分たちが何も知らないだけなのかもしれないし。

 やはり地上には、自分たちが知らない『何か』があるのだろうか。

 ハヤミは風に飛ばされないよう注意しながら背を伸ばすと、ふたたびどこかにあるはずの光を捜してみた。

 妙な暗闇が、すぐ目の前に広がっているのに気がついた。

 暗闇の中に、巨大な何かが影となって立ちはだかっているらしい。

 嵐が一瞬弱まったので、瞬間を突いてハヤミが暗闇に近づいてみると、今度は闇の中から巨大な『壁のようなもの』が浮かび上がってきた。

「これは……なん、だ?」

 地上に墜ちた巨大飛行空母の残骸らしかった。

 大きなきしみ音を上げながら、巨大な空母の残骸はひっそりとガラスの平原に溶け込んでいた。

 ……というよりも、『潜り込んでいる』といった方が正解なのだろうか。

 根元は暗すぎてよく見えない。

 手さぐりで装甲板沿いに歩いていると、ちょうど階段のようになった残骸の段差と丁度いい大きさの穴がある。

 風が弱まるのを見計らい、ハヤミはその隙間から機内に侵入することにした。

「おうふ!?」

 内部は、巨大な空洞だった。

 侵入、というより潜り込むという感じだろうか。

 穴があまりにも小さくて、屈んだハヤミの頭がどこかにぶつかってしまう。

 ぶつかった拍子のハヤミの声が、何も見えない暗闇の中で様々なエコーと共に周囲に広がっていった。

「何も……見えないな」

 なにもみえんななにもみえんななにもみえんな……

 穴の外では相変わらず風の音だけが聞こえているが、空洞ではハヤミの声だけが永遠に思えるエコーと共にゆっくりと闇の中に広がり続けた。

「ふーぅ……でも、風が凌げるだけ……いいか。んしょっ。しっかし、ここはどこなんだ? 倉庫か? あいイテテテテ」

 空母の外は凍えるほど寒かったのに、いったん中に入ると空母の中は意外とあたたかかった。

 だが、今度は忘れていた痛みを体が思い出し、だんだんとあちこちが痛くなってくる。

 ハヤミは暗闇の中で座るべく、足元を確認しながら腰を下ろした。

「あっつ、あだだっ……った!?」

 座ろうとして屈んだ瞬間、足腰から突然力が抜けて。

 重力がハヤミの体をビタン! と床に打ちつけさせる。

「うっつつつ……お、ん……ん?」

 衝撃だか何だか分からないが、どこかで何かがコトコトと音を鳴らしながらハヤミの周囲を取り囲みはじめた。

 音は次第にハヤミの周りをグルッと一周し、その内の一部がやや大きめのゴチリという音を鳴らして何かのスイッチがブォン! と鳴った。

 庫内の照明が淡く光りはじめてきた。

 水銀灯のような、柔らかい白い光。

 真っ黒だった庫内が、だんだんと淡い橙色に染まっていく。

 だが全部ではなかった。

「むっ!? んんんっ!?!?」

 床に広がっていたのは、巨大なドミノの集団だった。

 未だコトコトとどこかで音を鳴らし続けているが、ドミノの全容は未だ広がりきっていない橙色では全部を見ることはできない。

 その内別のスイッチも入って、今度は新しい光が新しい点滅をはじめる。

 もしくはどこかからバケツが落ちてきて、新しいドミノがバラバラと散らばって、また新しいドミノ倒しがどこかで始まっていく。

 今度はスポットライトのような光が。

 一瞬眩しすぎてハヤミは掌をかざしたが、よく見ると倉庫内の床は、全てドミノで溢れかえっていた。

 当事者のハヤミは、庫内のドミノの城の、ど真ん中にあぐらをかいていた。

「……なにこれ?」

 突然のドミノの出現に、ハヤミは開いた口が塞がらない。

 だがドミノはそんなハヤミの事など一切構わず、次々と定められた道順に倒れていく。

 その内、ドミノの一群が斜めに倒れかけている螺旋階段を器用に昇りはじめた。

 ハヤミがそっと螺旋階段に近づいてみると、ドミノが登っている階段の上には……上には、どうやらこの飛行空母の上層階が続いているらしい。

 ハヤミは一瞬眉毛をひそめたが、引いた気力をもう一度入れて、ドミノの列が登る螺旋階段を静かに登ってみることにした。

 崩さないようにしながら、斜めになった螺旋階段を、ゆっくりと。

 このドミノたちが、まさか自然現象でできた物のはずはない。

 明かりのあふれる下部とは違い、ドミノの登る飛行空母上層階は、未だまっくらなままだった。

 まだ電源が生きていることにも驚いたが、今目の前でどこかに向かって倒れ続けているドミノの群れは、一筋の列を途切らすことなく、永遠と空母の廊下を進み続けていた。

 ハヤミもドミノの列を追って、ゆっくりと通路を前進する。

 所々半壊のドアがあり、中を覗いてみると、中は大量のゴミが詰まった居住区だった。

 まあ、だいぶ風化した箇所も多かったが。

 それら廃墟と化した居室とそのドアが、廊下一面にパックリと口を開けながら並んでいる。

 ドミノは、それらを全て素通りして前に進み続けていた。

 ドミノはどこまで行くつもりなのだろう。

 ハヤミはしばらくドミノと並んで通路を歩いていたが、突然現れたT字路を左にドミノが曲がると、通路は突然いやに明るい部屋の中に入っていった。

 ドミノの吸い込まれた隙間は、半壊した防火壁が居室と通路を遮断してできている物らしい。

 やや狭いドアの隙間を、二度と動きそうにない防火壁がたたずんで邪魔をする。

 中をのぞいてみると……部屋のには、大きなテーブルと、いくつかの皿が置いてあった。

 隅に巨大な発光ランプ……ランタンも置いてある。

 見る限り、発電機は置いていない。

 誰かがここに住んでいるのだろうか?

「こ、これは……」

 テーブルの上、皿からは小さな湯気がでていた。

 いい匂いもする。

 ハヤミは隙間に沿えた両手にすこし力を入れてみたが、防火壁はまったく動きそうにないが。

 と、突然ハヤミの腹が空腹を思い出して鳴りはじめた。

「う。ハラ、ヘッタ……。けどこれっていったい何なんだ? 誰かいるのか?」

 ハヤミは動かない防火壁を強引に横に押しのけてみようともがいた。

 やはり、防火壁はぴくりとも動きそうにない。

 隙間はだいぶ狭そうだったが……いや、がんばれば何とか人一人くらいは通れるか?

 ハヤミはすきっ腹をさらにへこませると、ソロリソロリと防火壁の隙間に自分の体を潜り込ませてみた。

「う……やっぱ狭ぇ」

 そしてかなり凹凸があって、出っ張ったり凹んだりしたドアロックが、ハヤミの出っ張ってもなく凹んでもいない体を押しつぶす。

「うあイテテテテテ」

 ついでに言うと、防火壁の断面はかなり傷ついていた。

 なんとか体の凹凸をドアの凹凸にあわせて潜らせようとしてみるも……合わない所は 合わないし、狭い所は狭い。

 痛い。

 ハヤミは頑張って自分の出っ張っている箇所を、空いてる手で縮ませつつ、もう片方の手で無理やり押し込んだりポンポンと叩いてみ……

「あがっ!?」

 突然体が抜けて、ハヤミはドシャリと音を立てて部屋の中に倒れ込んだ。

 部屋にはすでに倒れきったドミノの列が並んでいたが、ハヤミが倒れるとそのドミノのピースたちが一斉に部屋中に飛び散り、そのいくつかが机の上に乗ってコロコロと音を出した。

「いっつつつつつ……」

 打った頭を抱えつつハヤミは立ち上がると、どこかを進んでいたドミノが終点を迎えたのだろうか、ハヤミのちょうど顔の前をポーンと何かが飛んで行った。

 コロコロコロ……

「ん」

 一と一。

 ゾロ目。

 というか、サイコロだった。

 ハヤミの持っていたサイコロと同じ物だが……というか、白くて四角いあの形の物が 目の前に二つ転がっている。

 そういえば、ハヤミはサイコロは飛行機の中に置いてきたままだ。

「んー、なかなか……うまそうな匂いだな。……これ、食っていいのかな?」

 転がるサイコロを横目に見つつ。

 机の上に置いてある三つの小さな皿には、それぞれ温かそうな湯気を出していた。

 対して、置いてあるスプーンとイスは一つだけ。

 スプーンはだいぶ使い古された金属製で、イスも木製でニスが剥げているが、でもいい感じに古びていた。

 手の凝った銀細工だ。

 時価いくら、という感じだろうか。ずいぶんとアンティークな趣味にも思える。

「ハラ、減ったナ……。ああもう! ……いやでも誰もいないじゃないか。いやいやでもきっとどこかにいる……ん」

 ハヤミは周りを見回してみた。

「いない、よな?」

 見えるのは、散らばったドミノだけ。

 こうこうと光を照らし続ける大きな電気ランタンと、巨大な何かの操舵棒、周辺が一望できる強化ガラス面には小さくひびが入っている。

 後ろには半開きの防火壁、別の出入り口にはドミノが倒れた列がわずかに残っていたが、その先はうっすらと影がみえるだけで、特に誰かいる感じはしない。

きっと倉庫か何かなんだろう。

 そういうことにしとこう。

「誰も……いない、よな。いないよな? いない……よね。うん。いない。なのでちょ、ちょっとだけ味見を……」

 誰に言い訳をしているのか。

 ハヤミは独り言を自分に言い聞かせるおと、指先をちょっとだけおかゆに突っ込んで、そのままぱくりと口の中に指を入れた。

 ……うまい。

 が、すでにだいぶ温くなっているようだ。

「ん、ンメぇ! こんなにウマイのを食わないなんて、こりゃここの主はひねくれ者だな? 食わない奴が悪いんだ。うん。俺は悪くない。ンマイ! ……もうちょっと、食べてみたい……かも」

 おかゆは、ほんのりと塩の味がした。

 おかゆに突っ込んだ指を、次はもう少し大胆に突っ込み、その次は指の腹で擦って、あらかた舐めとり食べ終わると、ハヤミは皿の隅にこびりついているおかゆも丁寧に舌ですくって食べてしまった。

「くっそうめぇ! ……けど、ぜんぜん足んねぇ」

 ハヤミの視線が、次なる小皿を捉える。

「そ、そうだよ食べないやつが悪いんだ。俺は……俺は何も悪くないんだ、よな?」

 ハヤミは小皿を持つと、直接すすっておかゆを食べた。

「う、うめぇ……この世の物とは思えん! なにこれ毒入りか何かなのか!?」

 ハヤミは三秒で小皿を舐めきった。

 チュウチュウ啜っても啜り切れない。

「こりゃあすきっ腹に堪えるな! ……俺は森のクマさんか何かか?」

 次の小皿はかなり小さかった。

 というか、何かの古い缶詰だった。

「これは……どっかで読んだことがあるぞ。森をさまよっていたお姫さまの前に、親切なクマさんとズル賢いキツネさんが現れた。親切なクマさんはお姫さまのために自分のおかゆを少し分けてくれたが、キツネさんは多いけど何の肉か分からない物を持ってきた。お腹をすかせていたお姫さまは、たしかどっちを食べるかで悩んでたよな……」

 ハヤミはイスに自身の腰を落ち着かせると、スプーンを持って唸った。

「その肉は確か、お姫さまのお母さんの肉だったような気もするけれど……」

 言いつつ、ハヤミはゆっくりと缶詰の肉をすくう。

「だが、お腹をすかせたハヤミちゃんは、おかゆもお肉も、両方いただくのだ。俺は悪くない、食わない奴が悪いんだ」

 スプーンを口の中に、一気に頬張る!

 程よいとろみと深い味わいが、一瞬にしてハヤミの口中に広がった。

「天っ、国……!!」

 缶にこびりついている残りをズズっと啜りとると、ハヤミは両手をあげてイスの背もたれにもたれかかった。

「いやー、うまかった! ……うーん」

 おかゆを全部食べてしまったハヤミ。

 おかゆの代わりに、後で殺されて釜ゆでになるかもしれない。

 と、漠然と考えながら椅子の背もたれにもたれかかっていると、ランタンから発せられる熱がほんのり部屋を温めて、ハヤミはふと猛烈な眠気に襲われ始めた。

「うーん……眠い、ぞ」

 寝たらきっと、すぐにここの主に何かされるだろう。

 改めて部屋中を見てみると、奥の倉庫らしき小部屋にちょうどいい大きさのベッドが置いてあった。

 ハヤミは、疲労と眠気から、すでに本能に抗えるだけの理性は持ち合わせていない。

のたのたと床を鳴らしてベッドに近づく。

「うわぁ……これが、本物の羽毛布団って、奴なのか……」

 ベッドの大きさは、キングサイズだった。

 元々はただの本棚だった様だが、今は本棚も中身と棚を抜かれ、代わりに中に敷きつめられているのは大量の白い羽毛。

 ハヤミは軽くジャンプすると、本棚の中に勢いよく身を投じた。

「ぼふっ……あー。一度やってみたかったんだあ」

 大量の羽毛に囲まれて、ハヤミの意識は眠気と共に急速に夢の中へと落ちてゆく。

 これで、次に起きた時に自分が鍋の中にいても、たぶん後悔はしないんだろうな。

 するんだろうけど。

 主は……小人なんだろうか。

 それとも大きな菜っ切り包丁を持った熊?

 荒野の魔女、とか。

 ここはどこなのだろう。

 そんな事を漫然と考えていると、次の瞬間ハヤミの意識は軽くて真っ白な何かに包み込まれて、最後は遠くどこかの世界で自分のいびきが「グウ」と聞こえて、ハヤミは完 全に眠りの世界に飛び込んでいった。

「……フゴ」

 どこかから急速に意識が戻ってきて、ハヤミはふと、自分の口が涎を垂らしているのに気がついた。

「んー……ムニャムニャ」

 寝返りをうちながら、ハヤミはズズッと右手で涎を拭う。

「……」

「……」

 うっすらと目を開くと、なぜか目の前に中華鍋がいた。

 中華鍋が逆さまになって、上からハヤミを覗き込んでいる。

 その隣には、なぜか料理に使うオタマと巨大な肉切り包丁が持たれていて。

「!?」

「!?」

 ハヤミがカッと目を見開くと、目の前の中華鍋も目を……いや、中華鍋はどうやら本体ではないらしい。

 中華鍋を被った、驚いた表情の少女が、寝ているハヤミの顔をのぞき込んでいた。

「ギャァーッ!?」

「フギャー!?」

 ハヤミが飛び起きると、目の前の少女も一緒に飛びのいた。

 慌ててハヤミが本棚から飛び出し、振り返って見る。

 と、振り返ると少女の姿はすでに見えなくなっていた。

 カラン……と、代わりにひっくり返った中華鍋が床に転がっているのだが。

「はぁっ、はぁっ……何だ今の!?」

 壁に、寝る時には無かった新しい包丁がグサリと刺さっている。

 隣の部屋にあるランタンの光を受けて、やけに白く、大きく、包丁の歯の部分がギラリと光った。

 謎の少女が驚いた拍子に投げた物だろうか。

 ハヤミはゾッとした。

「誰だ!? 熊か!! 人食いか!?」

 戸口を見ると誰かの影と共に山姥……少女の顔が、こちらを覗いていた。

「むっ!!」

 そんなにシワクチャな顔には見えないが。

 どちらかと言うと、幼いような顔。

 という事は、熊でも山姥でもないらしい。

「こっ、ここ、小人かっ!?」

 世界にはこんな奴がいたりするのか。

 ハヤミは腰の後ろに手を廻しながら、思い切って少女に問いかけてみた。

「……」

 少女の顔は何も答えない。

 壁の向こうからハヤミをのぞく目と顔が、若干斜めになるが。

 上目遣いの目がパチクリと瞬きをし、その拍子に軽くカールした少女の赤い髪がサラリと空中に流れる。

「お、おおおお……いや、落ち着けー、落ち着け俺ー」

 落ち着いてよく見たら、顔は、やっぱり少女の顔をしていた。

 ……女? という事は、人間?

 目だけを出して、不思議そうな顔つきでハヤミを見ている、少女の顔。

 小人とか、熊とかには見えそうにないが?

 いや、だが相手が人間だと判断するのはまだ早い。

「……しょ……うじょ?」

 の、顔をしているが、実は人間じゃないのかもしれない。

 となると。

「……ユーマ」

 ハヤミはボソッと、少女に対する感想を、そのまま口に出してみた。

 目の前の少女の顔と目が、さらに斜めになった。

 と、ふと床を見ると、さきほどハヤミが食べたおかゆの小皿が空のまま転がっていた。

 少女の目も、小皿とハヤミの間を行ったり来たりしている。

 どうも、この飛行空母とおかゆの主は、今目の前で目をパチパチしている少女(UMA)の物だったらしい。

「……いや、すまなかった。つい腹が減ってて。別にお前の飯を横取りするつもりはなかったんだ」

「……?」

 少女の顔が、さらに斜めになる。

 というか、ほぼ真横になっていた。

 少女の不思議そうな顔の横から新しい人間の部位……少女の細い腕が出てきて、少女は不思議そうに自身の顔を指さした。

「ユマ?」

「ん?」

「ヌェボ ロゥミーィ……ユマ?」

「しゃべれるのか?」

「ノゥート ヴェ ナ フマ」

 少女の腕が、今度はハヤミをビシッと指さす。

 お互いの、間断ない緊張の視線が交差した。

「なん……だと?」

「……」

 なにを言っているのか分からないが。

 異国語か。

 とりあえず、ハヤミは腰の後ろに廻している腕を下げて、ニッコリと笑いかけいてみることにした。

「あー。うん」

「……」

 ハヤミは改めて、敵意がない証明としてニッコリ少女に笑いかけてみた。

 すると、顔から目だけ出していた少女の目もニッコリ笑い、次いで顔が出て、ピョンと本体が壁の向こうから飛び出てきた。

「ノヴェ ロゥスィーナ ベテェーロッセ!」

 少女はまくし立てるように、空になった小皿と缶詰の空き缶を手に持ち、ハヤミに突きつけてきた。

 どうやら、さっきハヤミが食べたのを怒っているらしい。

 さっきのおかゆは、もしかして少女の残り少ない贅沢品か何かだったのだろうか。

 おかゆは、確かにとても美味しかった。

「ん!?」

 薄くて白い生地に身を包んだ、白く透き通るような肌の少女。

 軽い天然パーマの少女の髪は、やっぱり微妙に赤く染まったまま。

 見間違えでも何でもなければ、この地上世界に住み着いてるにしては、少女は不自然なほどに軽装な格好だが。

 ハヤミの目が少女の背中に生えている、有り得ない「翼」を発見して点になった。

「げっ!? おおおお、おま、おま……ッ!!!!」

「ン?」

 ふたたび叫んで後ずさりをするハヤミに、少女は小皿を持ちながら怪訝な顔つきでハヤミを見る。

「ほほほ、本物のユーマ!? ユーマ、だっ……ゆ……かはっ」

 と、突然ハヤミの頭の中で何かのスイッチが入り、睡魔とも気絶とも言えない真っ黒なものがハヤミの意識を奪っていった。

 世界のどこかで、ハヤミの体がドウと音を立ててくずれていく。

『ゆーまだゆーまだゆーまだゆーまだゆーまだ……』

 脳内にまだ疲れと睡魔とあと色々なものがあったのだろうか。

 意識が混在している中、脳のどこかで起こった何かが妙にリフレインを繰り返し、同じフレーズの言葉を、永遠にエコーを響かせて鳴り続けた。

 柔らかい何かが体中を覆う。

 意識の彼方で、ハヤミの声ではない何かがエコーと共に不思議な音色で響いた。

「ミラ ヴォ ヤネヴユマ」

 それからのハヤミは意識を完璧にどこかに落として、世界はふたたび静かになって消えていった。

 夢だったのか、なんだったのか。

「……ふご」

 もう一度、つかみ所の無い真っ白な至福からハヤミの意識が徐々に起き上がってくる。

 どれくらい意識を失っていたのだろうか?

 自分の寝言が妙に耳に残って、ふとハヤミは、鼻に何か柔らかいものが触れているのに気がついた。

「うー……ムニャムニャ」

 そっと手で払いのけても、鼻の前にある柔らかいものはぜんぜんどいてくれない。

 ゆっくり目を開けてみると、ぼやけたハヤミの目は何か、目の前に広がる大量の白い羽を見つけた。

 というか……自分の体が白い羽で覆い囲まれている。

「う……ん?」

 ハヤミはグルグルと目を回すと、自分の身に今起こっている事を思い出してハッとした。

 腕が、柔らかい羽毛の塊に沈みこむ。

「……ここ……どこ、だっけ」

 壁を見上げると見慣れない壁タイルと、床に置かれた巨大な肉切り包丁と、見覚えのある……傷跡。

 ハヤミは一瞬で昨晩の戦慄を思い出した。

「ここここはっ……人食いの家っ!!」

 と、思いながら更なる新しい記憶がよみがえってきた。

「いや……たしか、なんかの人畜無害なユーマの家だっけか、な?」

 周りを見渡してみても、少女……いや、ユーマ……少女の姿はどこにも見えない。

 すでに起きてどこかに行ってしまったのだろうか。

「夢じゃ……無いのかー。そうだよな。これは、夢じゃないよ、な……」

 自分に今起こっている事を頭の中で整理しつつ、今の自分の状況を思い出す。

いったい自分は何度飛行機を壊せば気が済むのだろう?

ハヤミは一度シュンとしたが、『でもこれは、もしかしたら自分は色々面白い体験をしているんじゃないのか?』と思いなおし、ハヤミは小さく「ぃよし!」と気合を入れて深呼吸した。

 本棚ベッドを飛び出て、改めてテーブルのある部屋に出てみる。

 と、よく見ればテーブルの置いてある部屋はこの航空母艦の操舵室のようだった。

 壊れた操舵棒は、すでに取り外されてどこかに保管されているのだろうか。

 部屋の隅には、大きな木箱が置いてあった。

 中を覗くと、古びたおもちゃが大量に入っている。

 昨日ハヤミが崩したドミノや、得体の知れないものすごく古そうな何かのカセット……と一緒に、どこかで見たことある様なとても古い兵士人形も入っていた。

「なんだこれ。あいつはこんな物と一緒に地上世界に住んでたのか?」

 ハヤミが人形を持ち上げると、人形はだらしなく、ブランと重力に任せて手足を揺らした。

 ひっくり返してみても、人形はぶらぶらと手足首を揺れて場を留めない。

 ほかにも幾つか……普通に、女の子がよく遊んでそうな着せ変え人形もあった。

 服の隅が所々焼けている以外は、まだまだ新しそうだ。

 ハヤミはそれらを抱えて椅子に座ると、二つをテーブルの上にそっと置いてみた。

 昨日ハヤミが食べた二枚と一つの皿が綺麗に積まれ、その横には見覚えのあるサイコロが静かに並んでいる。

 窓の向こうには、何百年も前から変わらないであろう荒廃した大地が、雲の上から僅かに漏れる太陽光に照らされていた。

 変わらない赤の風景を後ろに、姿の揃わない二つの人形がチョコンとテーブルの上に並ぶ。

 ハヤミはそれらを、イスの上からボオッと見つめた。

「……変な世界だ」

 銃をどこかに置いてきたらしい、ぐにゃぐにゃ兵士人形。

 片やあちこち黒ずんでいる、ボタンも顔の刺繍もほつれかけている着せ変え人形。

……どこからか、聞き覚えのある轟音が聞こえてきた。

「!?」

 ハヤミは急いでイスから立ち上がり、ひび割れた展望ガラスから空を覗いてみると……たしかに、雲の隙間に二筋の飛行機雲が飛んでいた。

「あれは!! 友軍か!? よし助かったかっ!! おーい!!!!」

 ハヤミはガラス越しに、空に向かって大きな声で叫んだ。

 操縦台を乗り越え、ガラスに手を沿えて大声を出す。

 だが、空の飛行機雲はまっすぐ空を飛び続けるだけ。

 ハヤミは大声と一緒に、大きく自分の両手を振った。

「おーい!! おい! お前らどこ行くんだっ!! おい!! 俺はここだーっ!!! 俺を、助けろ!!! おーい!!!! 俺はここだーっ!!! おーい!!!!!」

 小さく飛び跳ねつつ、両手を振り、ハヤミはありったけの声を出して空の飛行機雲に叫んだ。

 だが、空の飛行機雲は静かにまっすぐ飛び続けるだけ。

 次第に飛行機雲は空をおおう雲によって見えなくなっていくが、待てども待てども友軍の救助部隊は地上に降りてこなかった。

「くっそ!! 見殺しかよ!!!! 味方を助けないのかよ!? おい!! お前ら!! 何で無視すんだよチクショーっ!!!!」

 見えない空と飛行機雲。

 まるで地上を見ていないような友軍と、まっすぐ伸びる二筋の飛行機雲。

「クソッ!!!!!」

 ハヤミはひび割れた強化ガラスを思い切り殴った。

 ゴインと鈍い音が操舵室内に響き、握り拳はほんのり赤くなった。

 ただ、それだけ。

「なんでっ! だよ!! なんで来ないんだよ!! みんな俺が落ちてる事を知らないのか!? なんで俺を見つけないんだよ!!!」

 強化ガラスを殴りつけながら、何もないガラスと荒野に向かって叫び続けた。

 世界は何も答えない。

「クソッ!! ちくしょ、う……なんで!!!!!」

 ガンッ

「んー……」

 ……どこかで気の抜けたような声が聞こえてきた。

 少女だろうか。

「……」

 翼の生えた、あの人間じゃない少女の顔を思い出す。

 ハヤミの後ろの、だいぶ離れた所から声は聞こえた気がするが。

 ハヤミは急いで目元を拭うと、ゆっくりと後ろを振り返ってみた。

「……」

 少女の姿はどこにも見えなかった。

 改めて部屋中を見回してみても、部屋にはハヤミの影以外誰もいない。

「!?」

 と、本棚ベッドの中で、白い何かがモゾモゾと動くのを見つける。

「……ん」

「……なんだ。まだ起きてなかったのかよ」

 驚く必要もない。

 少女は、白い羽毛に隠れるようにして自分の翼で自分を包んで、まだベッドの中でくうくうとイビキをかいて眠っていた。

「ったく、無防備というか、寝坊助というか。こーゆーのは普通、客の俺より主の方が早起きだったりす……」

 ハヤミは潤んだ目を拭い直すと、今度はだんだんと眉をしかめていった。

「ってか……添い寝だったのかよ。不用心というか、何というか」

 無警戒。

 こんなにうるさくしても起きないとは、とんだ不用心な奴だ。

 ハヤミの顔が、怒りから、だんだん呆れ顔に変わっていった。

 起こすか、起こさないでいるべきか。

 むしろこんなにして起きないんだから……まあ、起こす必要は無いよな?

 ハヤミは改めて、自分のいるこの地上世界を見回すことにする。

 窓の外には暗いだけの荒涼としたガラスの世界が広がっていたが、だがよく見れば飛 行空母の足元……窓際から少し身を伸ばして下を見ると、小さな十字架と木達が整然と並んでいる場所があるのに気がついた。

 たぶん、あの翼の少女が植えたのだろう。

 ガラスの大地に穴を掘って、どこかにあったであろう木の種を植えて、どこかにある水をやって、ずっとずっと長い時を経て育ててきたのだろうか。

「フン」

 翼のある、あの少女はどうしても、ただの人間には思えない。

 だが、いったい彼女はどこから生まれた種族なのだろう?

 この地球がいかに先の世界大戦で壊滅していようが、有毒物質が地球上を覆っていようが、ああも分かりやすい突然変異(ミュータント)がこんな場所で生まれているはずが無いが。

 ハヤミはグルリと飛行空母の操舵室を見回しながら、考えてみた。

「本当だな。ここはいったい、どこなんだ?」

 真っ当な疑問。

 机の上には、なんだか使い古されたような中華鍋が転がっている。

あとおたまも。

 ジオノーティラスの領土ではない場所に墜ちている、旧世界大戦で戦っていたであろう所属不明の飛行空母の、残骸。

 似合わないそれら。

 あるはずの無い木が育っている場所。

 ハヤミのジオノーティラス軍は、ここを偵察ポイントとしての最重要地点と決めていた。

 という事は?

「まあ……敵地、だよな。普通に考えて。それ以外ありえないもんなあ」

 でもまだ納得できない事がある。

 少女は、敵なのだろうか?

 敵は、もうどこにもいなくなっているはずだ。

 それとも……

「あの少女が、実は敵の生き残り……人間以外の、だとか?」

 後ろでは、少女の寝息がクウクウと聞こえてきている。

 世界に対する疑問は沸き上がるばかり。

 ハヤミは頭を抱えて小さく唸った。

「頭が爆発しそうだ。なんだよ人間以外の生き残りって。いるんならとっくの昔に俺たちが見つけてるはずだろ?」

 空にも、自分を戦闘機ごと叩き落とせる超巨大生物がいた。

 だがそもそも味方の偵察部隊は、墜ちているはずの地上のハヤミを見つけられなかった。

 という事は、この飛行空母は誰にも見えない存在なのだろうか?

 ここはいったい、何なんだろう?

 イライラしたハヤミは、つい目の前にある机をガンッと蹴ってしまった。

「……っと」

 その拍子に机の上に置いていた兵士人形が姿勢を崩し、いきおいよく床に落ちる。

 ガシャッとうるさい音が鳴り、兵士は力なく床の上に伸びた。

「おわととと、やべやべあの子の人形を……ん?」

 床には、なんだか大きな切れ込みが入っていた。

 切れ込みの形は四角形。

 円形の、引っ込みノブ付き。

「……下? メンテナンス通路か?」

 試しにハヤミが机をどけて、ノブを捻り引っ張ってみると。

「お、なんか階段が伸びてら……」

 床下には、下に伸びる整備用ステップが伸びていた。

 配管が通り、薄暗い迷路のような通路の奥から、微かに何かの音と振動が伝わってくる。

「この先に何かあるな。何だろ?」

 ゆっくりとドアを開き、ドアのロックを確認すると、ハヤミはゆっくりとステップの上に足を乗せ通路の先に降りる。

 身を屈めると、視界は操舵室の明かりから一気に暗がりの中に突入した。

 暗い通路にはほぼ一定間隔で小さな照明灯が置いてあり、ハヤミはそれら照明灯を、通路を進む先々で一つずつスイッチを入れながら歩いた。

 途中小さな瓦礫の山にぶちあたることもあったが、これはたぶん少女が作ったゴミの山だろう。

 掃除は行き届いているが、どれも処分の行き場がないガラクタ。

 むしろ、この飛行空母自体が世界に忘れられたごみ箱なのか。

 まだ生きている電源と、わずかに震えている電源コード。

 と、そうこうしている内にハヤミの通路は大きな格納庫に入っていった。

 最後の大きめなパネルスイッチを入れると、今までの通路の証明が消えて、代わりに格納庫中のランプが点灯をはじめる。

「おお、こいつぁ……」

 太い電源パイプはまだ暗い格納庫の奥に続いていたが、その足元には今まで見たこともない大量の人型兵器たちが、無人のままで庫内に立ち並んでいた。

装備されないままの巨大迫撃砲。

 破棄され、半壊した大型ミサイルボックス。

 それらが乱雑に、たぶん墜落した当時のままで、床に転がっている。

 人型戦車たちは庫内にロックされたまま放置されていたが、ハヤミが通路上から下におりると、人型兵器の大きさを改めて実感した。

「こいつぁ、でけぇな。ウチらのと比べ物にならねぇ」

 ジオノーティラスの戦車に比べて、今目の前に転がっている戦車たちはかなり大きかった。

 それに、装甲の厚さも桁違いのようだ。

 だが、タイプとしてはだいぶ旧式にも見える。

 ハヤミは格納庫に転がっている人型兵器の一つによじ登ると、改めて格納庫の中を見回してみた。

「軍事用、だな。明らかにジオノーティラス軍のではない。けど……」

じゃあどこの所属なのだろう?

「ふーん……油圧式の対戦車パワードスーツか。まだ動くかな?」

 ハヤミは試しに人型兵器の一つを選び、コクピットを覗いてみた。

 人型兵器の内部はどれも埃だらけ、計器や配管はむき出しのままグチャグチャに壊れている。

 とても再起動できそうにない。

「……動かねぇな。当たり前だわな。もう何十年も前のものがノーメンテナンスで動くはずもないし」

 と……改めて他の人型兵器もグルリと見回してから、ハヤミはハッとした。

「違う。全部、コクピットだけ破壊されてるんだ?」

 新旧問わず、兵器はだいたい人間の入る操縦部の装甲は、いくらか薄い事になっている。

 車両型戦車なら出入り口のハッチ、戦艦なら艦橋、航空機は全体が薄いが、特に薄いのは強化ガラスでできたコクピット部だろう。

 とは言えいくら装甲が薄い部分と言っても、パワードスーツのコクピット部は最低でも対戦車ライフルくらいは弾ける仕様になっているはずだ。

 だが、今ハヤミの目の前で沈黙している人型はどれも装甲部の真ん中、コクピット部だけが黒く燃えてたたずんでいる。

「全部ミサイルが直撃した跡? んなバカな」

 有り得るといえば有り得るが、でもなぜ空中を飛んでいたはずの空母の中なのに、全機ミサイルの直撃を受けているのだろう?

 ……と、ハヤミはある講習で学んだ内容を思い出した。

 ある小さな国は、航空機でも、車両でも艦船でもない不明の存在の開発に成功していたらしい。

「……生物兵器(キメラ)?」

 資源もなく、軍隊も持たず、輸出と技術開発だけでなんとか国を保っていた弱小国。

 手持ちの技術とある物だけを組み立てて、生物兵器を開発した悪魔の国。

銃を持つ、天使のような悪魔を造った、国。

 構成物が百パーセントタンパク質だから、レーダーも磁気探査も効かない。

 講習を受けた際、ハヤミは教官と一緒に「んなアホな」と言って笑っていたが。

「いや……たしか生物兵器は、条約で製造禁止だったはずだ」

 だがあの少女には、明らかに背中に翼が生えている。

 人間でない姿格好をしているはずなのに、まるで人間のように、たしかにハヤミの目の前でしゃべっていたと思う。

 少女は異国語を話していた。

 ……あの少女が、人造兵器、キメラだと言うのか?

 ハヤミは頭を振った。

「いやいやでも……いや、でもあれは、人間限定だった、ような?」

 背中に翼のある、正体不明の、少女。

 少女は人間か?

「にん、げん……???」

 違う……?

 わからない。

 ガコン、とどこかで音がした。

 慌ててハヤミが上を振り向くと、何かの太いパイプがハヤミの上でゆらゆらと揺れていた。

「な、なんだ? 誰か来たのか?」

 周囲を見回してみても、ハヤミと闇以外は誰もいない。

 格納庫の奥、暗くてよく見えないが、奥からは何か唸るように腹に響いてくる微振動が伝わってくる。

 奥には何があるのだろうか?

 壁伝いに配置されている電源ケーブルは、どれも奥に繋がっていた。

「……んばあ!」

「ふぎゃああああっ!!!???」

 突然、ハヤミの目の前に変な何かが覆いかぶさってきた。

 真っ白な布を逆三角形にした変なの……の中から、腕が伸びていて、それが布をガバリと上に押しのける。

 出てきたのは昨日出会ったばかりのUMA……翼少女ユーマの闇に輝く笑顔と、細い体躯だった。

 少女と少女の体は、電源ケーブルに足を絡ませ起用に上からぶらさがっている。

「お、おおおおお……お前はッ!!??」

「へっへっへー」

 声にもならない驚きと、突然降って湧いた衝撃、怒りのようななんだか得体の知れない感情をすべて喉の奥に飲み込み、態勢を整えるために数歩後ろに引き下がってから、ハヤミは何回か深呼吸をして少女をビシッと指さした。

「な、ななな何だお前は!!」

「んー?」

 ハヤミの指さしに対し、逆さまになりながら器用に首を傾げる少女。

 わけがわからない、とでも言いたげな表情。

「お前は、いいい一体何者なんだ!?」

 頭がパニックになり、何を言いたいのか分からくなる。

 だが、本当に聞きたいのはそれじゃないんだ。

 ハヤミは、自分でも分からないほどの意識の奥で微かに思った。

 だが少女は、それを知ってか知らずか、ケーブルにぶら下がったまま腕を後ろに組んでハヤミを見下ろしている。

「ミ?」

 そして、ゆっくりと自分の顔を指さした。

「ゆま」

「……いや。それは、俺が付けた名前だろう」

 少女の、冗談ともなんとも言えない微笑みに、ハヤミはほっとした。

 ど、同時に深呼吸もする。

「いひひー」

 ハヤミの指摘に対し、少女はなぜか笑いながら自分のケーブルを揺らした。

 ハヤミはだんだんイライラしてきた。

「お前は、いったい何者なんだ? どこの人……いや、所属だ。なぜ俺を捕まえない?」

 ハヤミの問いに、少女はまるで「つまらない質問だなー」とでも言いたそうな顔でふたたびケーブルを揺らす。

 言葉が通していないのか。

 それとも、ただ答える気がないのか。

 少女は逆さまになりながらケーブルを大きく揺らし、その勢いで近くにある人型戦車の肩にポーンと飛んでいった。

 少女とハヤミの距離が、ふたたび離れる。

「ユ ヴェロトゥ ルチィ ヴェ ハヤミ!」

「な、何だって?」

「ユー ネィマ ハヤミ!」

「……」

 少女の言葉は、明らかにジオノーティラスの言葉ではなかった。

 やはりどこか外の人間なのだろうか。

 しかし……たぶん少女の言葉は、外国語でもかなり訛っていそうな雰囲気だ。

 ハヤミがしばらく黙っていると、少女はふたたび小さく笑い、それからゆっくりと自分の首元を指さした。

「ん、ん」

「……ん? 俺のこれ……タグ? タグを読んだのか?」

 ハヤミは少女の手真似を見て、自分の首にかかっているプレートを取り出した。

 そこには、ハヤミは初めてジオノーティラス軍に入ったときに渡された日にちと、名前、階級が、バーコードや剥げた亜鉛メッキと共に刻印されていた。

「お前、これが読めるのか」

「……」

 少女は一瞬考え、次いで大きく頷く。

「フン。おおお前、普通の人間じゃ、ないな?」

 ハヤミは半歩下がって、僅かに腰をかがめた。

 軍人のタグが読めるのは、軍人か、軍人に準ずる立場の人間だけだ。

 暗闇の中、戦車の上に立つ少女の輪郭をできるだけはっきり見据えると、ハヤミは腕を構えて格闘戦の準備を整える。

「お前……キメラか」

「……」

 一瞬、少女の瞳がキラリと輝いたように見えた。

 瞳……にしては、だいぶ大きな光だったようだが。

 光は大きくゆっくりと輝きを帯びており、だが少女自身は特に何かするでもなく、そのままプイと横を向いて戦車の上をテコテコと歩きはじめた。

「お前が……この戦車たちを殺ったのか?」

 ハヤミの問いかけに、少女はピタリと足を止めた。

 だが止まったままで、横を向いたままで、どこかを見据えたままで。

 と、突然少女はクルリとハヤミに振り返り、戦車の上からハヤミに向かって指を構えてきた。

「……」

「……くっ」

 ハヤミは丸腰だった。

 もう半歩下がる。

 すると

「……バンバン!」

「!?」

 突然指先で銃の形を作り、少女はハヤミに向かって鉄砲を撃つマネをしてきた。

 だがマネをするだけで、特になにかがどうなるわけでも無い。

 庫内には、少女の無邪気な声が小さくエコーした。

「……にひひ」

「……戦争はもう終わった、ってか」

「んっ!」

 ハヤミの問いかけに、少女はふたたび大きく頷いて見せる。

 とびきりの笑顔で、身軽にトンッと戦車の上から飛び下りてきて、床の上でトン! と身軽な音を響かせた。

 降りる拍子に少女は小さく翼を広げたが、その姿はまるで本物の天使のようだった。

 本当に、少女の姿はまるで天使のようだ。

「イストゥールィャ ナヴォ レダ ムタナク ラゾ」

 風にめくれる少女の服。

 覗く胸の谷間に、何かの人造クリスタルのような物が見える。

 キメラを統制するコアか何かなのだろうか。

 闇に少女の光がゆっくりと浮かび上がる中、少女はまるでハヤミには理解できない異国語で、少女はハヤミに小さく握手を求めてきた。

 少女は笑っていた。

 だがその笑顔には、暗闇に隠れた涙と、何かの覚悟が見え隠れしているような。

 少女も、自分の立場が分かっているらしい。

 人が戦う意味なんて、もう遙か昔にすべて消えて無くなっている。

 ハヤミはえも言えない心を飲み込むと、少女の差し出してきた握手をギュッと握り返した。

 自分たちだって、一応は休戦中している身……とハヤミは、自分のお腹が突然グウと闇の中で鳴り響き、僅かに顔を赤くした。

「むっ……」

 この状況で、空気をまったく読めないのか自分の体は。

 暗闇に自分の空腹をごまかして……いや、ごまかすことはできないか。

 緊張した雰囲気の中で、まず最初に響いたのは少女の笑い声だった。

「アハ、アッハハハハハハッ!!」

「ぐっ、な、何だよ何がおかしいかよ」

「ぷぐっ、クッククククク……クスクスクスクス」

「し、仕方ないだろー、昨日のおかゆ以外まだ何も食べてないんだからー」

 ハヤミは今言える限りの抗議を、体全体を使ってジェスチャーした。

 だが、少女はハヤミのジェスチャーを見て頭を横に振るばかり、笑うのをまったく止めようとしない。

 ハヤミの言葉が通じているんだか、通じていないんだか……

「イエヴォ ラノ ディ オーフェス! あー、んん……んー」

 何か言いつつも途中で困ったような顔をし、次に何かを探し出す少女。

 少女は手近にあったパイプの様なものを手にとり、ハヤミを指さして、今度はお腹をさするような手真似をしてきた。

「んっ!」

 次は、手にとったパイプで地面を掘り起こすような素振りを見せてくる。

 何かを掘るのだろうか?

「ん? どゆこと?」

「う……うーん。ンー」

 やはり何かをハヤミに伝えたいらしい。

 少女は必死に眉間に皺を寄せて考えはじめたが、何を思ったのか、少女は倉庫の暗闇の奥を指さし、急にハヤミの頭を両手でギュッと押さえ込んだ後、そのまま突然どこかに走り去ってしまった。

「……は?」

 と、しばらくすると少女が何かを持って戻ってきたのだが。

 手にはいくつか、二つのヘルメットと一つのスコップを持っている。

 その内一つのヘルメットを少女が強制的にハヤミに被せると、気がついたら少女は倉庫の奥に向かって白い翼を揺らして走っていた。

「お、おい! どこに行くんだよ! これから何をするんだって!!」

「はーやみーっ! ネヴォ ロストヴ ィーリャ!」

 少女が見えなくなった暗闇から、大きなエコーとともに少女の声が聞こえてくる。

どうやらハヤミを影の奥に誘っているらしい。

 床に転がっているいくつもの残骸を避けながらハヤミが声の元に駆け寄ると、暗闇の中には少女の薄い輪郭とともに、床上に大きな縦穴があいていることに気がついた。

「こ、これは……」

 この飛行空母は、どこかと繋がっているのか?

 耳をすませば、穴の奥からは何かの微振動が響いてきている。

 この空母に供給されているエネルギーは、縦穴の奥にある何かから引かれている、ということか。

 船中に引かれた電源コードも、よく見ればすべてこの穴の中に伸びているらしかった。

「おい。これはどこまで通じてる穴なんだ? 何か変な所とかじゃないのか?」

「ヤッ ネズィル ヴォ ネッソ」

 少女はなぜか、穴の脇でスコップを使って穴を掘るマネをした。

 どうも、言葉が通じないコミュニケーションは難しい。

「掘る? この穴を掘るのか?」

「う、んー……んん、ンンッ! ン!」

 暗闇の中で、少女は何かのジェスチャーを激しくする。

 と、近くにあったらしいスイッチを動かして、少女は穴に引いている証明の電源を入れた。

 バシッ! とどこかで電気がショートする音が聞こえ、次いで暗闇が一気に光に照らされる。

 縄梯子が下ろされている土むき出しの縦穴は、奥までは全く見えないが、かなり深い所まで伸びているらしい。

「んー、んっ! んん、ん、んーっ、ん!」

 言葉にできない言葉で、少女は穴の奥に降りたいという意思をハヤミに伝えてくる。

 ハヤミは一言「はあ」と言って頷いたが、そこでハヤミは、ふとある事に気がついた。

「ちょっと待て、エート……んー、と。な、なんて言えば良いんだろう?」

 少女の名前が分からない……を、言葉を使わないで、どうやって少女に聞けばいいのだろう?

 ハヤミは両手で空を掴むようなマネ? をしつつ、ウーとか、エーなど、何とも言えない言葉をジェスチャーにして、少女にして見せた。

 自分でもなんて言えばいいのか分からない。

 少女も首を傾げるばかり。

 なまえ……と、少女はポンと手を打って、ハヤミとハヤミのプレートを指さして「ハヤミ!」と叫んだ。

「い、いやいやそうなんだが。いや、違うんだ。いや俺はハヤミなんだが、それじゃなくてエート」

「……アン ユマ!」

 次に少女は自分を指して、叫ぶ。

 少女の名前。

 が、ハヤミの命名した名前???

 ユーマ(未確認生命体)?

「……いや、それじゃないんだよユマちゃん。その名前じゃなくって、その……」

「?」

 不思議そうな顔で自分のヘルメットを被り直す、翼の生えた少女、ユーマ。

「名前だよ名前、エート……」

「ミゼラ ナヴォ ド ナィム?」

「そ……うん、たぶんそれだ」

「……?」

「で、俺の名前は、ハヤミ・アツシって言うんだ。ユーマちゃんの名前は?」

「ミ?」

 改めて首をかしげる、ヘルメットを被った翼の少女。

 重力の角度が代わり、少女の亜麻色の巻き毛が、僅かに肩の上からハラリとする。

「……」

 と、少女は微妙な笑顔になり、手を横にブンブンと振った。

「ミ ネヴォロ ドゥ ナ ユマ!」

 元気な笑顔で少女の名前は、やはりユーマのままらしい。

 言うと少女は慣れた風にスコップを肩に担ぎ、空いた片手と両足だけで器用に穴の中に降りていった。

 ミシミシと縄梯子がきしむ。

 ハヤミは、なんとなくはぐらかされたような気がしてその場でポカンとした。

 「黙って着いてこい」とでも言われているような、言われていないような。

 ハヤミはとりあえず少女が下った縄梯子を続いて下に降りていくことにしたのだが、降りて暫くたってから「これは大変なところに来た」と後悔することになった。

 まず一つ。

 下の果てが見えて来ない。

 所々岩から清水が染み出している所があったり、もしくは縄梯子の下る縦穴から少し外れた所に大きな地下の湖が広がっていたり。

 しかも、下れば下るほど縦穴に響く轟音がどんどん大きくなってくる。

 ハヤミは少し不安になってきた。

「おーい!」

 おーいおーいおーいおーいおー…………

 ハヤミの声はとどまる事なく、永遠のエコーとなって再びハヤミの耳に返ってくる。

 ギシギシと縄梯子はきしみ続けたが、ところで少女はどこにいるのだろう?

「ゆ、ユーマちゃんよぉッ!!」

 ゆーまちゃんよおっゆーまちゃんよおゆーまちゃんよおゆーまち…………

 こちらも、永遠のエコーとなって静かに返ってくる。

 少女の答えは無かった。

「どっ、どこまで降りるんだよ俺は……」

 地の奥底か。

 地球を突っ切るのか。

 手がしびれてきた。

 もしここで、ハヤミが手を離したら、世界はどうなるのだろうか?

「……」

 ハヤミはゆっくり周りを見回すと、体を軽く揺らしながら、梯子をきしませながら、ゆっくりと地球を下に降りていく。

 縦穴を仕切る岩の壁……ハヤミは縄梯子を降りる際に、よく背中をこすりつける風にしてしまう。

 梯子が揺れるから仕方がないのだが……でもその背中に触れる岩の感触が、ただの岩じゃないような気ががが……ガッ!

突然ハヤミが握りしめる縄梯子が左右に揺れはじめ、ハヤミは頭をゴッチンゴッチンと壁にたたきつけられた。

「ナヴォレゾゥト ナーレィ ハヤミー!」

 次いで下から……だいぶ下から、聞き覚えのあるような声も聞こえてくる。

「やかましい! ゆっ揺らすなバカァ!」

 ハヤミが下に向かって叫ぶと、今度は比較的小さく、ゆっくりと、縄梯子が揺らされて、ハヤミはふたたび頭を壁にぶち当てた。

「あがっ! あががっが……くっそー、ナメた真似しやがって……」

 先に下に着いた少女が、地上から梯子を揺らしているのだろうか。

 早く降りてこいと言う催促……下?

「地面か。ったく、あとどれくらいだ?」

 声の聞こえる下側をのぞくと、どうやら縦穴の底らしい場所で少女のコアの青白い光がわずかに光って見えている。

 ということは、そんなに離れていない場所に底があるのだろうか。

 ハヤミはまだ揺れている縄梯子を押さえつつ、何か少女のいたずらに仕返しできないだろうかと暫く考えた。

「……」

 下ではどうも、少女が退屈そうな声を出して立っているらしい。

 ……閃いた。

「ぃよし! 見てろよユーマめ! うーりゃっ!!」

 ハヤミは、勢いよく縄梯子をつかんでいた両手を離して宙に飛んだ。

 ほんのちょっとの無重力感と、次いで強い風が体を包み、強い衝撃がハヤミのブーツを伝って「ドン!」と大きな音を鳴らした。

「……うぐうっ!?」

 まだだいぶ高いところだったらしい。

 ジーンとしびれる感覚がハヤミの足を覆い、目から微妙に涙が出てくる。

 その目の前には、口をあんぐり開けて驚いている少女の顔があった。

「どっ、どうだ!」

「……ふあ」

 だいぶ驚いたらしい。

 それでもハヤミが黙ったまましびれる足を堪えていると、少女はふたたびクスクスと笑い出し、突然なぜかハヤミに抱きついてきた。

「のあ!? お……ぶふっ!!! な、なんでッ!!??」

 頭を撫でられ、抱き直され、ギューッと首を絞められ、なぜか頬にキスとキスとキスを繰り返しブチュブチュされる。

 突然の少女の乱心にハヤミが目を白黒させていると、少女はそんなハヤミの顔を見て再び「ひひひーっ」と笑って、今度は背中側に回り込んで後ろから抱きついてきた。

 胸にあるらしい少女のコアが、ハヤミの背中に押しつけられる。

 硬かった、まるで生きている人肌のようにほんのりと暖かかった。

 二人はしばらくそのままの形でじっとする事になったが、困ったハヤミはしずかに……んん?

 ここは、どこだ?

 ひっそりと静まりかえった巨大な地下洞窟……にしては、全体がほんのり輝きを帯びている。

 周りの雰囲気が明らかに、飛行空母とも地下坑道とも違う雰囲気だ。

 ハヤミ自身の胸に絡まる少女の腕をそっと外そうとしたが……少女はかたくなに、その細い腕に力を入れて離さなかった。

 ここは……どこかの地下都市の廃墟だ。

 しかもこれはハヤミの知るジオノーティラスとは違う、まったく別の国の。

 ハヤミの背中から、小さく少女の泣き声が聞こえてくる。

 ギュッと、ハヤミをつかむ腕にも力が入る。

「…………」

 少女は、ハヤミの背中で泣いていた。

 グリグリと背中に少女の頭がこすりつけられ、同時に冷たい何かがハヤミの服を濡らす。

「おまえ……」

 ここに、ずっといたのか。

 言おうとしたが、ハヤミは言葉を話すことが出来ず、息を飲んでそのまま黙りこんでしまった。

 地下世界は、見える限りではすべてが完璧に近い形で整理整頓されていた。

 整理整頓……と言うよりは、単に「綺麗にゴミがまとめられている」と言った方が正確かもしれない。

 元幾何学的だったであろう巨大高層ビル群たちは、砕け破れた場所以外はすべてピカピカに清掃されている。

 そこら中にあったであろうはずのゴミやガラクタも、見える範囲ではすべてが綺麗に収まり、まとまっていた。

「これ、お前が全部片付けたのか?」

 かなり長い時間がかかったはずだ。

ハヤミは背中で泣いている少女に問いかける。

 答えるのは、小さな嗚咽と、空洞に響く二人のこだまだけ。

「大変だったろう」

 ハヤミはポンポンと、体に廻されて動かない少女の腕をたたいた。

 少女は、腕にギュッと力を入れて無言で答えた。

「よく、頑張ったな」

 無言。

「……」

 答えはずっと、ない。

 答えは誰も、答えることができない。

「……」

二人は何も答えることが出来ないまま。

しばらくすると、ふたたび空気を読めないハヤミの腹が「ぐぐぐううううう」と鳴って、暗闇の中に大きなこだまをつくって静かになった。

「!」

「……」

 と、今度は背中の方からも「くきゅう」とかわいい音が聞こえてくる。

 ハヤミは一瞬ハッとしたが、次にその二重の音が何だったのかを理解すると、今度はなぜかハヤミはなんとなく笑いたくなってきた。

「ククッ、うははっ」

 別におもしろいことは何もないのだが。

「えへへっ」

 少女も一緒に、笑い出す。

 互いに、生まれも言葉も種族も違う間柄。

 だが、体だけはすべてに従順だった。

「腹、減ったな」

「……んっ」

 そこに、難しい言葉は必要ない。

「なんか食わんとなー」

「……」

 たとえ少女が人造兵器(キメラ)でも。

「おい。俺は腹が減ったぞ」

「むー?」

「ユーマちゃんも腹が減ってるんだろ? ほれ、昨日のあのンまかった奴みたいな。なんか食える飯、二人で一緒に探そうぜ」

「……ん! ヤナ レズォロルヴェヒニー!」

 言うと少女はハヤミの後ろでポーンとジャンプし、ハヤミの肩の上にドサリと座り込んできた。

「うっ!?」

 ……と思ったが、特に「重い」わけでもなく。

「お前、ずいぶんと軽いな」

「レノ! ダーツィェヴォナズーガ!」

 ハヤミの頭の上で、まるで操縦桿を握るような真似を見せる少女。

 少女のかぶるヘルメットの明かりを着けると、先ほどまでうっすら明るかっただけの地下都市がハッキリと見えるようになった。

「なるほどー。俺はお前の、パワードスーツって事だな? よーっし、分かった! ほいじゃーちょっくら、地下都市探検と行くか!」

「レノヴォア!」

 少女のかけ声、頭の上の感触にあわせてハヤミは足下の少女のスコップを拾うと、少女の灯す明かりをたよりに、元気よく、地下都市の中心部へと歩みを進めた。

 人類最後の戦争は、最後の最後まで、本当に何も生み出さないまま自然に終わっていたらしい。

 少女のいた地下世界は、無人のまま、本当に何十年も破棄保存されて今に至っているような不思議な雰囲気を醸し出している。

 闇に白い地肌をさらけ出す、真っ暗な超高層ビル群。

 水の枯れた噴水。

燃え残った車と、それを押しつぶす形で破棄された戦車。

それとは別に道ばたに所々置かれている国旗やさまざまな調度品の山は、これはどうも少女が町を片づけた後のものらしかったが。

淡い光に覆われた元超高度文明の廃墟は、あちこち無残に破壊された跡が残っている。

それ以外は、完全に当時のままで残っている様にも見える。

ここの住人達は、いったいどこに消えたのだろう?

地下都市を照らす光達は、どうやらこの地下都市国家特有の、何かの半永久端末の光らしかった。

「ん!」

ハヤミの肩に乗る少女が、そんな廃墟の一角を指さした。

 真っ暗な幾何学模様の世界に、所々闇の濃い部分があるが。

 ハヤミを挟み込む少女の太ももの温もりを感じながらノシノシと町を歩くと、ハヤミはふと自分の吐いている息が白いことに気がついた。

「へっ……へえっ……ど、どこだい?」

 当たり前だが、この地下都市もだいぶ大きく創られているらしい。

 自分がどこからどうやってこの地下世界に降りられたのかは……肩の上にいる、しゃべれない天使のような少女しか知らないのだが。

 ハヤミは、そんな少女の指さす場所に少女を担いで近づいてみた。

 バシャリ

 歩いていて突然、足下で音が鳴る。

 覗いてみると、いつのまにか下には水たまりが広がっていた。

「うっへ、冷てェ!」

 思わずハヤミは足を止めたが、その拍子に肩の上から少女がピョンと地面に飛び降りて、パシャパシャと音をたてながら暗闇の向こうに走って行ってしまった。

「お、おい!」

 咄嗟にハヤミは少女に声をかけるが、でも少女の白い姿はすぐに闇の中に消えてしまっている。

 しばらくしてから、今度は闇の向こうで水をかき混ぜるような音が聞こえてきた。

 バシャバシャと。

 何かを追いかけているような。

 細かい水しぶきもうっすらと飛んでくるが。

しばらくハヤミが水の上で待っていると、ふたたび少女は闇の中から走って戻ってきて。

「ん!」

「ん?」

 少女は闇の中で、二匹の巨大なエビ……エビ? 長い触角を生やした、何十本もの足をワキワキと動かしている、真っ白なシャコのような生き物を差し出してきた。

「……おお!?」

 見たこともない種の様だが。いや、なんとなく、ロブスターにも似ているかもしれない。

「ん、ん」

 言うと少女は、ロブスターをハヤミに押しつけ、手渡してくる。

「え、ええっ、あああう、う……」

 戸惑いながらも少女に手渡された白ロブスターを手に持ってみると、ロブスターは確かに、見た目と同じくらい重かった。

「ぎええ……」

 重いながらも緩慢な動きで、ハヤミの手の中で足を動かし続けているロブスター。

 見れば……なんだか、何かの深海生物みたいだ。

 しばらくハヤミは白いロブスターを持ったまま水の上に立ち尽くしていたが……いや待てよ?

 なんで、生き物がここにいるんだ?

 少女を見ると、まるで捕った獲物を自慢したくて枕元に来ている子猫のような顔の少女が、ロブスターを持って立っていた。

 足下を見ると……生き物だ。

 白いロブスターの幼生が、ハヤミの足下をふわふわと泳いでいる。

 掬うとロブスターの幼生はすぐに採れた。

「生き物だ。生物が生きて、るんだ……」

 窪みの水たまりは、まだまだ奥に広がりがあるらしい。

 波紋が広がる。

 真っ暗な闇の中では、白い服を着た、白い翼の少女が不思議そうな顔をして立っていた。

「ヤヴィ ネ ムローゥテゲ ゥハ?」

 言いながら手に持つロブスターの甲をツルツルとなぞり、ロブスターを開きにする真似をする。

 食べないのか? と言っているのだろうか。

「いや、うん。すまん、ちょっと考え事しててな」

「?」

「って、言っても分かんないよなあ……」

 そう言うと、ハヤミはワキワキと足を動かしているブロイラーを持ち上げてしげしげとその白い生物を眺めた。

「生きてる生命体が、まだ世界には普通にいるんだな、って」

 真っ白な眼に、異様に長く伸びた触角。

生まれてから一度も太陽に触れたことのなさそうな、白い甲羅。

 小さな蟹爪。

ロブスターの白い眼が、ハヤミの眼をゆっくり覗いてきたような錯覚を覚える。

このロブスターは、きっと目が見えないんじゃないだろうか。

で、今度はその盲目の眼が二つから四つに増えて、グジャっと上から新しいロブスターが覆い被さってきて、ハヤミのロブスターは重量を倍加させた。

「ネヴォロ ミ ナ メソ! ハヤミ!」

「ああすまんな。なんだって?」

 待ちきれないハヤミを、少女が何かと急かす。

少女のちんこい二つ目は、ハヤミの何かを見てキョロキョロと輝いていた。

「あー、ん。……んんん、んんっ! ん! んあー……んっ! んーん?」

少女は二匹のロブスターを両方ハヤミに押しつけると、何か言いたげに窪みの奥とハヤミを指さし、次いで自分を指さすと、今度は反対側の町の廃墟を指さした。

そしてふたたび、何かを掘る仕草を繰り返す。

「ははあ、俺にここでロブスターを採れと。その間にユーマちゃんは、向こうで何かをしてくるって訳だな」

「ん。……ろ、ろぶ、す、てーぃ?」

「これだよ、これ」

 そう言って二匹の白いエビみたいなものを持ち上げる。

「……んん!!」

 少女は満足げにうなずいた。

 昼も夜もない地下洞窟の世界では、空腹感と地下水のせせらぎだけが時を知る唯一の刻の代わりだった。

 その中で、ハヤミたちは枯れ木を組んで火をくべる。周りには干した白い布。地下に埋もれた街には病院の廃墟があり、そこから少女が新しい布を持ってきてくれていた。

「トゥ ジェ クレェス!」

 少女はたき火にむかって指をさすと、しばらくそのままじっとしてからハヤミを振り返った。

「何を言ってるんだかわかんねーけどよユーマちゃん」

 ハヤミは砂地に尻を落とすと、先ほど自分がとってきた白いロブスターもどきのハサミを折り、尻尾の先から頭に向けて枝を刺しこみ火の近くの砂地に棒をさした。

 ハヤミが棒で、ロブスターの柔らかい肉を刺すまでロブスターは緩慢に抵抗した。脚を動かしハサミの根本を左右させ必死に生きようと命を張ってもがく。だがハヤミが棒を乱暴に肉に突き刺すと、ロブスターはカカカッと一瞬だけ素早く動いて一段と激しく抵抗した。

 緩慢なだけあってその力は強かった。だがロブスターの力強い緩慢な抵抗と、ハヤミの空腹具合では相手が悪い。

 そんな様子で五~六尾ほどの白い甲殻動物の浜焼きを作ると、あとはたき火の熱がロブスターの肉を焼くまで待つという静かな時間が訪れた。

「手が、汚れちまったな……」

 ハヤミは独り言のようにその場でつぶやく。そしてそのまま、少女の方を見た。

 少女は興味津々と言った顔でハヤミを見ていた。

 たぶん言葉そのものに興味があるのだろう。長い間、たぶんずっと誰とも話してこないでこんな暗い洞窟に閉じ込められていたのだろう。彼女にしてみれば初めて自分以外の誰かと会ったんじゃないだろうか。

 自分ならそうだろうと思う。ハヤミはちょっと大げさな手振りをして自分の指を軽く振って見せた。

「手が、汚れた」

「テガ?」

「ちがうテ、ガ」

「テ、ガ……?」

「汚れた」

「ヨゴゥリタ」

 少女は不思議そうな顔でハヤミの手を見てから、今度は自分の白い手を見つめる。

 それから何か思ったように突然、こんどは自分自身の手のひらをハヤミの手の上に重ねてきた。

「……」

 突然なんの脈絡もない少女の動きに、かつてのハヤミなら面食らって、ちょっとイライラとしていたかもしれない。

 でも今ならなんとなく、不思議な余裕を感じていた。

 なにか分かるような。

 言葉ではない。その言葉の他にある、何か分からないそのほかの真意。

 この地下世界で少女は、少女をそのまま映し出す静かな水面しか見てこなかったのだろう。

「ヤ イティ インシー」

「そうだな、ちがうな」

 長い時を超えて。

 だから彼女にとっては、分からないことに意味があるのかもしれない。ハヤミはそう思った。

 ハヤミがユーマだと名付けた少女は自分の手をまじまじと見て、それからハヤミの手を見てから、ハヤミの顔を見上げてまた地面を見つめた。

「ヤ イティ インシー。ヴィスカザリィ クォト ネヴド ディヤメニャ?」

 ハヤミには彼女の言葉は分からない。

 白い砂地に、たき火の破裂する音、地下水のせせらぎが静かに響く。

 少女の問いかけはハヤミの耳に届いた。

 だがその言葉の意味は、この地下深くに埋もれた闇の世界に吸い込まれまるで言葉そのものを語ることに意味がないというような、不思議な静寂をもって地下の水の流れに飲み込まれていった。

 意味はないのだ。

「そうだな」

 誰に言うつもりでもなく、ハヤミは答えた。これではまるで自問自答ではないか。

 ……いや、そうでもない。

 彼女はそこにいるし、自分もまた、彼女ではなく自分自身の体と意志をもてあましてここに座り込んでいる。

 砂地と空と、時間に置いて行かれた暗闇と洞窟。翼の生えた不思議な少女は、本当に不思議そうな顔で自分の両手を見比べて何か考え込んでいる様子だ。

「レメナ イディ オルィース」

 少女は考えるのをやめたのか、それともハヤミとまともに話ができないことにちょっと怒ったのか、すこしムスッとした顔をしてハヤミの顔を見る。

 彼女は何を考えているのだろう。ハヤミはそれが分からなかった。

 それがなんとなく、楽しくも思えてきていた。

 何もかもが、すでに分かっていると言われ漫然と飛んでいたあの空よりも。

 パチパチとたき火に入れた木の枝が破裂して、小さな火の粉が二つ空をとんだ。

 どこまでも高く。らせんを描くように。そうして闇の中を飛んでいって、舞って、燃え尽きて見えなくなり灰となって、静かにどこかへ落ちて消えてゆく。

 いつの間にか、たき火脇に付き刺した枝付き甲骨類から、白いあぶく水がじゅくじゅくと音を立ててしたたり落ちていた。

 肉に突き刺した枝の端がほどよく黒色に焦げ付き、透き通るように白い殻にほんのり薄い焼き色がついている。

 それが何を意味しているのか。

 薄い乳白色。太陽を見たこともないような目。焼けた殻。薄い殻。柔らかい肉。

 ハヤミは黙って甲骨類の一つに手を伸ばすと、熱々の枝端を力強く握ってそれらを平らげた。

 なぜだろう涙が出てくる。こんなにうまいのを食べているというのに。何かを思い出しては、ハヤミは黙って泣いていた。

 しばらくハヤミは黙々と焼き甲骨類を黙って食べていたが、気づけばあの少女が笑いながら次々とハヤミに新しいそれを差し出しては、また膝を抱えてニマニマ笑ってハヤミを見ていた。

 山の形に組まれた薪が崩れひときわ大きな破裂音を鳴らすと、火の粉が舞い、火の気が一瞬だけ勢いを増してまた静かになっていく。

 湯気を迸らせる水気。熱に煽られ焦げた乳白色の殻。柔らかい肉。虚空を見上げる甲骨類の目。

 ハヤミはなぜかはっとした。

 少女が、自分を見つめる悪意ない瞳を見て、その目がいつか自分のことをじっと見ていたあの瞳……機械の、あの目に似ているような気がしたからだった。

 重ねて見つめても、彼女とあの機械は似てもにつかない。俺のアークエンジェルは地上に墜ちたままだ。

 独特な殻のむき方をするこの国初の朝食を終えて、ハヤミは久しく満足感と、不安感を覚えた。

 真っ暗だと思っていた洞窟は、かすかに光の色を帯びている。それになにやら落ち着かない。

 先ほどから見ているこの暗い洞窟を照らしている光は、光っていて当たり前だと思っていたがそうでもないらしい。

 どうやらこの光は、この地下に半分埋もれている都市そのものから漏れているもののようだった。

 それから地響き。この洞窟に入る前から感じていた小さな揺れと音。

 都市は生きている。地響きも、音も格段に大きくなっている。それにどこからか、やっぱり視線のようなものも感じた。

「おいユーマちゃんよ」

「?」

 少女はきょとんとした顔でハヤミの方を見た。そりゃそうだ。そう思って、ハヤミは手で顔を覆う。

 そもそも彼女には、言葉が通じないんだった。

 ハヤミは親指に張り付いた肉汁をを舌でなめとると、よっこらせと声を上げて膝をたて砂地に立ち上がった。

「……言葉が、欲しいな」

 ハヤミは少女を見た。少女は、砂の上に覗く大きめの岩に座って黙って笑っていた。

「ユー……いや、えーっとそうだな。まず何を聞こうか」

「ヴィ クォノェト スナァチデツ?」

 唐突に少女が何か聞いてきた。

 少女には、俺が何を言っているのか分かっているのだろうか?

 それとも当てずっぽうに、何か一方的に言っているだけなのか。

 ハヤミが少女に対し言っているように。とりあえず曖昧にうなずく。

 少女は岩から飛び降りると、光る洞窟の奥を指さした。

「?」

「スクォ ヴィノォーク ズナティプロヴァ? モズェブチィ ヤ ズナァユ スコォヴィシュカイェーテ」

 何か考えがあるように上を向きあごに指を添える。すると少女は突然闇の向こう側、光る建造物と丘の方へと駆けだしていった。

「お、おいユーマちゃん! どこに行こうってんだ!?」

「ヤ ピドゥ ヴザブトゥラ」

「あ?」

「ズヴァ ミー」

 立ち止まると少女は振り返り、ちょいちょいと手を振ってまた向こう側に走っていく。

 ハヤミはがりがりと頭を掻いたが、べつに掻いて立ち止まっていても何も始まらなかった。

 少女はいつも勝手だ。まるで羽のようにどこかへ身軽に走っていっては、立ち止まって自分をからかうように手を振る。

 かと思えば……思うのは、立ち止まっているだけの自分自身へのいらだちだ。

 この荒れ果て終わってしまった地下世界で、自分の目は何を見ているのだろうか。

 静かな洞窟。壊れた地下都市。しみ出る水脈のせせらぎ。生きる者たちの息吹。

 それからかすかな、光り。前に進むと、カーンカーンと音が響いた。ハヤミのブーツのかかとが地面に鳴り響く音。

 それを打ち消す、沢の音。

 そよそよと風が動き出す。

 ほこりっぽく沈滞していた地下の空気を、少しつよめのつむじ風が吹き飛ばしていった。

 目の前に、ぽっかりと拓けた場所が浮かび上がる。落石だろうか、天井近くに大きな穴が開いていて、天窓のようになったそこから外の光が地下に注ぎ込んでいた。

 光の先には、砂地と水辺が広がっている。

 小さく満ち引きを繰り返す地下湖。それから、沢。

 沢にはたくさんの生き物が棲んでいて、それこそさきほどハヤミたちがとって食べていた生き物とは比べものにならないほど多種多様な数がいた。ただどれもへんてこな形をしていて、図鑑で見たことのある物はどこにもいない。

 白い巻き貝から細長い身と目玉を突き出した、変な虫。

 あと砂地に棲んでいる甲虫。これは地下の水の満ち引きに併せて、砂の中にちゅちゅちゅっと身を潜らせまた水が満ちるとその身をさらけ出し水が引くと砂地に潜り込む奇妙なやつだった。

 外から差し込む光の筋にたかる、小さな羽虫も。

 それから、崩れて砂と化しつつある廃墟に並ぶ鳥の群れ。

 ハヤミはギョッとして彼らを見た。

 だが、鳥たちの方はのんきなものでハヤミの姿を見て頭を動かし、まるで珍しいお客さんが来たとでもいった顔と目でハヤミを見つめている。

 植物のツタ。水中から伸びているたくさんの花と茎と、巨大な葉。澄んだ水。とめどなく流れ続ける地下水は、地下に大きな湖を作っていた。

 かつて人々が戦争から逃げ伸び地下に造った巨大なシェルターは、人間が滅んだ後に砂と水と時に飲み込まれて、いつしか長い時を経て動物たちの小さなエデンとなっていたのだ。

「これは……」

 なんちゅう絶景だと、言おうと思って言葉が出ない。まるで幻想の物語中の景色そのものだ。洞窟に満ちる地下水の底にはかつての町並みがそのまま閉じ込められており、また水面から上は、楽園の園庭そのもの。

 上から差し込む光の筋にたかる羽虫たちはまるで小さな天使とかなんとか……ここは、宇宙船のベイだと周りを見てハヤミは気づいた。目の前に露出している岩のような絶壁は、破棄された惑星間航宙輸送艦の胴体だ。

 それからどっぱーんと水中に何かが落ちる音がする。何羽かの鳥が、さも迷惑そうにギャーとわめいて、振り返ればあの謎の不思議少女が断崖絶壁をよじ登っていた。

「おま、なんちゅうところに足を……コラーッ! あぶないぞー!」

 少女は足場代わりに巨大宇宙船の出っ張りを使い、器用に上を目指していた。

 さながらロッククライミングのように急角度の続く外板上を登り切り、斜度が緩やかになる装甲板の中腹あたりからひょいひょいと飛びはねるようにデッキを渡り歩く。背中に生える大きな翼がひょこひょこと揺れて本当に幻想的だ。だが、少女の凶行はまだ終わらない。

「ハーヤミーッ! ヴィタコジネクハィ ストゥリブヌリラゾーマ!」

 大きく手を振り、にっこりほほえんだ。何を言っているのか分からないが、なんとなく何をしようとしているのか分かる気がした。

「おいおいマジかよ」

「ヤ-! ヴゥール! リタティッ!」

 少女は湖に向かって、大きく飛んだ。

「イッ!!?」

 断崖と化した宇宙船廃墟の高さは、ビル一個分以上だ。少女は飛ぶと、真っ逆さまになって翼をたたみ水面に向かってまっすぐ体を伸ばす。

「み、見てらんねえ!」

 見てられないと頭では思っても、絶景と美しさがハヤミの目を背ける事を許さない。

 白い羽が、はためく布が、腕と細い体がそれぞれ一つになって空を飛び、白いしぶきを弾けさせどぼんと音がする。いや音がする前に、少女の体は水に飲み込まれていた。

 しばらく黙っていると、そのうち少女がぷはっと気持ちよさそうに息を吐き出し水面から顔を出した。

「ハァー オズヴィァーュチャ!」

「今度から何かするときは前もって言ってくれよ」

「スクォ ヴィホヴォルィテ ヴィ?」

 気持ちよさそうに少女は水面に浮くと、手と足と羽を使って器用に泳ぎ始める。

 ここには少女とハヤミ以外に誰もいないのだから気にする必要はないのだが、それでも見えるものだからハヤミは気になった。

 何が気になるって、少女の着ている服は、服と言うより布に近かったのだ。

 華奢にも見えるししっかりしているようにも見える彼女の体は、ぴったり張り付いた白い服によってよりくっきりと覗いて見えた。

 だが水面に浮かぶ彼女を見て、ハヤミはやましい気持ちにはならなかった。美しいと思うだけだ。なぜかそれ以外の感情を思うことができない。それほど、この場所が幻想的だったからなのもそうだろう。


 澄んだ湖面。

 しぶきを上げて跳ねた水滴が、壁面から飛び出た小さな鉄塔にかかり滴になってまた湖に落ちる。

 ゆっくりと満ち引きを繰り返す浜辺、崩落した天井から覗く外の光り、それから深い水底。

 沈んだ町並みがそのまま水中に取り残されて時間が止まっている、というような。

 かつてここは、きっと人々で賑わう大きな町だったんだろう。それがいつからこうやって、すべてが止まり少女だけが取り残されたのだろうか。

 外から引き込まれる風が、大きなうなりとなって洞窟中に響く。

 湖を悠々と泳ぐいくつもの魚たち。天窓から差し込む光が、空の色を湖面に落とす。

 魚が泳ぎ、背びれが水面をかすめて波紋が広がった。と思ったらあの羽の生えた謎の少女が、気持ちよさそうに水中から飛び出して息をしている。

 呼吸をするように、崩落した屋根の上の穴が風で唸る。呼応するように湖の水位もゆっくりと前後し、洞窟と水の中の廃墟は、あの日あのときに人類が消え去った時のままの姿をハヤミに示し続けた。

 そう。人類は負けたのだ。

 この地球にあるものすべてを支配するための戦いで、人類は、互いに互いを消し去る勢いで、戦い、傷つけ合い、憎しみが憎しみを産んで、そうして最後には、戦うために戦うようになり、いつの日か終わりがくるだろうと思っておきながら今まさに終わりつつあることに気づかない戦い。

 空にぽっかりと開いた大きな穴を見上げながら、ハヤミはかつてそこを飛んでいた自分自身を思い描いていた。

『空中に敵機なし』

 敵はいなかったんだと知りながらも敵を探していた。もしかしたら探していたのは敵ではなくて、なんてことない、誰かだったのかもしれない。

 ……と、ぼおっと空を見て、ふと隣にいるあの少女を見た。

 少女も、ここに来てあの空を見ていたのだろうか。

 水面に浮かんで、翼を広げ、水流に身を任せ静かに空を見ている。

 湖を泳ぐ小魚はまさに空を飛ぶ鳥だ。白い布きれはとても上等なシルクの服にも見え、頭上から注ぐ日の光はまさに天使の梯子のようで。

 少女は、空を飛ぶ天使のようでもあった。ただそれは、そう見ようと思えばそう見えるだけであり、実際の彼女は空を飛べない。

 見ていて分かる。彼女は、飛べないのだ。

 そんなことを考えていると突然彼女のほうが顔をこちらに向けて、すこしむっとしたような顔をして水の中にもぐっていった。

 しばらく湖面が揺れて水の輪が幾重にも広がってまた静かになると、小さな泡がぽこぽこと水面を打って、少女が顔を浮かべて指をさす。

 水に濡れた頭から滴を垂らして、ハヤミを指さし、おまえもやってみたらどうだと言わんばかりの、いたずら好きそうな小さな目で。

 魚がおよぎ、羽虫が踊る。その中で、ハヤミはふうとため息をつくとゆっくりと背筋を伸ばし空を見上げた。

 狭いなと思った。それにまぶしくて、遠くて、そういえばいつか見ていた空もおんなじ色をしていたなと思い出し目を細める。

 見えているのに見ていない空とか。そこにあるのに、あえて目をそらしていた空とか。本当のこととか。

 ずっと分かっていたはずだ。この地上には、もう自分たち以外誰もいないと。

 それをずっと探しているふりをしてこの誰もいない空を飛び続けて自分たちは、自分で自分の目を騙し続けていた。そう、思っていた。

 気づくとハヤミも足を前に踏み出して、断崖絶壁にできた朽ちかけの段差を上っていた。


 崩落した穴から風が出入りし低いうなり声をあげている。それから薄曇りの空模様。

 渦をまく雲。天に昇る朽ちた階段を上りきると、いつか空から見ていたあの不毛の大地にたどり着いた。

 ハヤミがずっと空から覗いていたあの景色だ。

 ただ少し違うのは、この不毛の世界にも先客がいたと言うことか。誰もいなくなった地平線を警戒しているスナイパーウォーカーの残骸とか、砕けたガラスの結晶が綺麗な層状になっている砂漠の光景とか。

 それから生き物。足下では、地下から這い上がってきた小さな虫がそろそろともがいている。

 あと足跡。たくさんの足跡がそこかしこに残っており、ハヤミがこの穴から出てくるまで誰かがいたような跡もある。

 空では羽ばたく獣のようなものが飛びかっており、ハヤミの出現にそれぞれが声を上げていた。

 このガラスの粒子と砂つぶの世界には、たくさんの者たちがいた。空を飛んでいたハヤミは、それを知らなかった。

 ふと気づくと空の彼方に見覚えのある影を見た。

 ひとつ、ふたつみっつとそれらは翼を並べ、轟音とともに白い飛行機雲を引き連れ飛んでいる。

 ハヤミはふたたび腕を上げ声を出そうと思ったが、思っただけで声を上げ手を振るのをやめた。

「あのとき俺たちは……」

 ハヤミは空から地上を見て、何もないと認識していた。

 画面上に表示されるオブジェクトを見つめ、何もいないと表示されるデジタル表記だけを信じ予め決められたルート通りの航路を飛んで生きてきたあのとき。

 確かに自分たちは、自分たち以外を探して空を飛んでいたのだ。

 ハヤミはふと考え、もう一度空を見上げる。

 太陽の光が翼にあたり、アークエンジェルの灰色の翼がきらりと輝く。

 三機編隊がゆっくりと嵐の向こう側に隠れ見えなくなるまで、ハヤミは空を見続け一つの答えを見つけた。

 それは、信じられないものだった。

「俺たちは、もしかして目隠しをされてたんじゃないのか?」

 誰も自分の言葉には応えない。砂とガラスの粒子で覆われた荒れ地にはごうごうと風が吹き荒れて、そのなかで、ハヤミのつぶやく疑問の言葉はあまりにも小さい。

「俺たちは、騙されてたんじゃないのか」

 ギャア、と声がして何者かがウォーカーの朽ちた砲身にとまる。そこには前にも見た、自分のアークエンジェルに突っ込んできた白い翼の竜のようなものがいた。

 ただしその全身は前に見たものより何回りも小さい。胸にはあの少女と同じ、赤色に輝くクリスタル状の制御装置が埋め込まれている。

 風を切る音がして、空から探査ポッドが投擲される。だがその円錐体の探査ポッドはアンテナを開かず、少しハッチを開いてすぐに動作を停止した。

 やはりそうだ。

「俺たちは、最初から何も見てなかったんだ」

 かつて自分が遊び半分でしていた、空の上でのシミュレートゲームを思い出す。

「オレたちは何かみているつもりで、本当はそこにあるはずのものを見ていなかったんだ。オレたちは、アークエンジェルの目とカメラに騙されてたんだ!」

 ぐえーと、白い竜がハヤミの言葉に習って声を出す。

 しばらくハヤミは、このとても胸くその悪い仮説を反芻して不愉快に思っていたが息を荒げ足下の砂を踏みにじり続けて、突然に、いま自分が思っているこの怒りが意味のないことだと思いふと考えを改めた。

「そうだな。本当のことを知ったって、人類は全滅したのには変わりないもんな。あるいは知らないで居続けた方が希望は持てるのかもしれん」

 竜は言葉がわからないなりにハヤミの独り言を聞き続け、それから地平線を見て飛び立つ。

「オレたちが今までずっと探してきたのが、なんでもない目の前にいたってのかよ。しかもオレたちは今のあいつも、この世界の最後の生き残りなんだろうな。この世界の、戦う意味のない」

 意味がない無意味だと口に出してみて、ハヤミは漠然と、空を飛んでいたときに自分が感じていた感情そのものを思い出してまたぽつりとつぶやく。

「無意味だ。意味がない」

 空の彼方で雲が渦を巻き、乾いた風が砂とガラスの荒れ地に吹き荒れる。疲れたパイロットスーツの襟が風に揺れ、ハヤミはその場でしゃがみ込んだ。

 足下で小さな虫が、よたよたと歩いていた。それがハヤミのブーツのつま先にふれると、触覚を持ち上げ、ゆっくり這うようによじ登ってくる。

 ハヤミは、黙って虫を見下ろした。

「オレたちはよ、今までなんのために、こんなになってまで空を飛んできてたんだよ」

 かつて自分がまだひよっこだった頃。まだ自分が、希望に燃えて、空飛ぶあのバケモノみたいなエースパイロットに憧れて空を飛んでいた頃にも同じようなことをふと考えたことがあった。

「やめたッ! こんなくだらねえ事……!!」

 気がつくと、荒野には小雨が降っていた。

 灰色だった空はさらに雲が集まって暗くなり、ごうごうとうなりを上げている風の音は、さっきにくらべてまた一段と大きくなっている。

 いつの間にか足下にいた虫がハヤミの膝のあたりまで登り切っており、触覚を動かし黒い小さな複眼でハヤミの顔を覗いていた。

 ハヤミは動かなくなったウォーカーの足下で砂地に腰を下ろし、ぼおっと地平線を見ていた。過去を、思い出していたのだ。

 それでふっと視線を感じて後ろを振り向くと……あの、不思議天然少女のアイツがこっちを見ていた。

 ふと振り向いて目があって、なんだかよく分からない照れのようなものを感じてうつむく。もう一回少女を見ると、少女もこちらを見ていた。

「さびしくなかったのか」

「?」

「ずっと一人で。コイツみたいに」

 少女は、分かっていないような顔をしていた。だが妙に深刻そうな顔で、分かっているような顔であごを地面につけて黙り込む。

「たいした奴だよ、今までよくこんなところで、ずっと一人で。今も」

 ハヤミは砂に埋もれて動かないウォーカーの装甲を叩き、やや上を見上げて小さく笑った。

「誰もここには迎えにこないって知ってて、ずっと誰かを一人で待っているってのがどれだけ大変なのか。考えるだけでも寒気がするよ。同情に値する。けどな」

 笑う、というよりも諦めに近いため息のような一息をはき出してハヤミは少女に指をさした。だがその続きの言葉が見つからなかった。

 ふっと鼻から息を吐き出して、この一人だけの世界に今まさにいる自分を笑う。後頭部を抱えて、何を言おうとしたのかよく考えて、出かけた言葉を飲み込んだ。

「いや、なんでもない。俺も変わらないな。俺だって、ずっと一人で飛んでたのさ。たとえそれが誰かに造られた偽りの孤独でもな」

 ウォーカーの冷たくざらついた装甲板を指でなで、硬くこびりついた錆びと砂とガラス片を指でなぞる。

 粉状になったガラスは、硬い。小雨が装甲板をなめとり小さな水滴の滝を、幾筋も造り出していた。

 ガラス片の埃は水滴に混ざらずいつまでも装甲板にこびりついている。

 白濁として、ぱっとしない。

 気まぐれに小雨がやむと、薄い嵐雲の上空からうっすらと覗い淡い太陽のひかりが差し込んだ。ひかりを受けて、ハヤミの指先にこびりついたガラス片の泥が輝いた。

「まあ、いい。ところでユーマちゃん。おまえさんはさっきから俺に、何を期待しているんだい。そこから飛び降りてみろってか? 俺は子供じゃあないんだ、これでもいちおう、いい大人なんだ」

 指をこすり合わせてハヤミが少女を見ると、彼女はさっきと同じような体制でこちらを見ていた。

 たぶんというか、間違いなく言葉が通じていないだろう。なので、少し大げさに腕を広げてジェスチャーをとる。

「わかるか? いいか、俺は、大人なんだ。オーケー?」

「コミュヴ ヴァン ネリタ?」

「お互い通じないな」

 かっこつけて両手を開いてみても、ジェスチャーの文化すら彼女とは違う。

 そもそも、意思疎通というのがないのかもしれん。

 そう考えてみればアホらしく思えてきた。

「ヤ ヴィチュヴェーユ ヴィホヴエリィーテ ネズニャィエーッ」

「わかんねーよっ」

「トム スコーネ ナマハィュテシャ ズロズミ、ヤネロオズミユ」

 なにか必死に説明しようとしているようだ。

「わかんねえよ」

「ボヴドゥル」

 ふくれっ面したような、何かを不服に思っている顔だ。だがそれが、いったいなぜ、彼女がそのような顔をしているのかハヤミには分からなかった。

「わかんねーよ」

 ハヤミは繰り返した。ハヤミは少女の身長が低いことをいいことに、少女から視線をそらして外の世界を見た。

 相変わらず荒涼としている。それに、雨が降ったりやんだりしている。それだけだ。殺風景な世界。

 だが少女は何か別の物をみているらしい。それも何か意味のあることを。ハヤミに伝えようとしているような。

 それがいったい何であるかはハヤミには分からなかった。言語が違うんだ。それに文化的背景も違う。

「わりぃな。ユーマちゃん、俺は無駄なことはしたくない主義でね。それにこんなところで足止めを喰らってるよりか味方に救助信号でも打った方がいいんだよ。おまえさんと話してやるのは、その後だ。それでいいかい」

 少女は黙って不服の顔をしていた。

 ハヤミは黙っている少女の前で、アンテナを半開きにして動かなくなった味方のビーコンを拾いに行く。たとえこの機械になにか細工がしてあったとしても、アンテナが生き返ってまた信号をを送り出せれば、その信号はジオノーティラスの誰かに届くだろう。そうすれば届いた信号で、俺が、今ここにいるってのは分かるはずだ。

 半開きになったビーコン装置に歩み寄りハッチに手をかける。後ろからものすごい非難の視線を感じていた。

「……べつにコミュニケーションをとりたくないってわけじゃないんだよユーマちゃん」

 背中越しの彼女は答えなかった。

 それでハヤミは独り言のように、また言い訳を彼女に言い続ける。

「もう終わったって言ってもな……オレたちは敵なんだぞ? そりゃあ敵同士でも仲良くしなきゃならん状況があるのは分かる。今とか。世界が終わるとか。そういうときな」

 ビーコンのカプセルポッドが墜落したガラス層と砂の大地に膝をつき、半分地面にめり込んだパネルのとっかかりを掘り起こそうと指を突っ込む。

「でもオレたちは、理解しあえない存在なんだ。オレたちの住んでた世界はっ……たぶんこっちもそうなんだろうがよ。オレたちには管理者がいた。オレたちの国にはオレたちの指導者がいた。そいつが戦争を続けるって決めてるんだ。考えてみりゃおまえがこの地上からオレたちに手を振ってたことだって、オレたちの管理者なら知っていたのかもしれん。でもあえて見なかった」

 パネルのとっかかりに指が届かず、ガラスが指に食い込み赤い血が流れる。あともう少しだ。ハヤミは指を伸ばした。

 少女は黙っていた。分かっていないのかも、しれない。

「なんでッ! ……見なかったとっ、思う!?」

 勢いをつけて指を突っ込みなんとかガラス層をこじ開けると、ビーコンポッドのパネルが勢いよく跳ねてふたが開いた。

 高々度から投入されたポッドは、内部まで熱く熱していた。

 熱くなったケーブルやら基盤やらがポッドには埋め込まれている。ご丁寧にパネル操作用のピクト説明文もふたの裏には描かれていた。

「……たぶん、戦争を終わらせたくなかったのさ。いや、オレの思いつきだけどな。オレの世界も、お前のこの国に負けないくらい深刻でね。戦争でもやっておかないとダメかもしれないくらいなんだ」

 パネルに埋め込まれたスイッチをいくつか切り替え、ポッドの上を仰ぎ見る。ビーコンアンテナはまだ動かないが、パネルに埋め込まれた特定のエラー表示が点滅した。修理するには部品が必要だが、足りない部品が何なのかは分かった。

 部品が調達できる場所はここからさほど遠くない。墜ちたアークエンジェルだ。

「戦争をするための技術革新。戦争をするための新しい概念。クローニング技術。無敵の防衛網。アークエンジェル。オレも、この戦争で戦うために造られたクローンだ。オレたちの世界は戦争で生きながらえてるんだ。たとえ終わった戦争でもな。そう考えれば納得がいく」

 血だらけになった指をズボンでぬぐい、ふうとため息をついて後ろを振り向く。

 少女の姿はなかった。

 慌てて周りを探したら、気がついたらポッドの上に座り込んで、少女は難しそうな顔をして腕を組んでいた。そんな自由気ままな少女を見て、ハヤミは呆気にとられてから、微笑んだ。

 空を、またジオノーティラス空軍らしい戦闘機たちが翼を並べて飛んでいく。

 その翼は小さく、角張っていて、嵐の彼方を飛んでいるにもかかわらずなぜかものすごく窮屈そうに見えた。

「自由な空だな。まるでオレたちには似合わないくらい」

 少女の背中には、白い翼が生えていた。

 しばらく少女とその背中の翼を見ていたが、やはりというか翼の羽一枚一枚はよくできた鳥の羽と同じように見えた。だがその背中はあまりにも小さくて、頼りげなく、華奢だった。

 彼女は空を飛べないと、ハヤミが思った理由はそれだった。

 ジオノーティラスのジェット機が、不格好な翼で空を切り裂き嵐の中をまっすぐに飛んでいく。

 不気味な、どろどろとした排気音。無機質な機械と世界最先端の戦争テクノロジーの結晶でもある、空飛ぶ灰色の翼。

 その機械の翼のはるか下をまるで翼竜のように翼を広げ堂々と空を飛ぶ、この国とガラスの大地を守る生物兵器たちの群れ。

 そう、この国にはこの国で、何か歪んだ意志のようなものがあるのだ。それがいったい何であるのかは分からないが、何かありそうだというのは分かる。言葉にできない不安のような、ぴりぴりとした肌感覚のような。

「まっ、ユーマちゃんを見てりゃお前たちがこれ以上の戦争を望んでいないっていうのは分かるよ。あいつらにもオレから説明しておく。戦争は終わったって。だからお前も、おまえさんたちのお仲間達には言っておいてくれよな。オレたちの戦争は終わったんだってな」

 群れと群れ。互いが不可侵的に互いを見ず一触即発の状態のまま、互いを見失っていたこの状況はある意味奇跡だったのだろう。

 もっともその奇跡が、どちらか、あるいは両方の誰かの意志ででっちあげられておいたかもしれないというモヤモヤとした感じは、抱いてはいるが。

「オーケー?」

 振り返って少女を見上げると、少女もなんとなく納得してなさそうな顔をして、小さくうなずいた。

 たぶん通じていないんだろうな。それでもいいか。

「大丈夫さ。きっとな」

 自分に言い聞かせるように小さくつぶやく。それはまさに独り言だった。

「きっとな」

 とりあえずアークエンジェルに戻って部品をとってこようという考えと、またあの地下を通って空母の残骸に帰ろうと洞窟の縁に立って、ハヤミは下を覗く。相変わらず暗いし、下を覗くとさきほど下から上を見上げたときとは全く違う世界が、ハヤミを迎えた。

 下の加減がまったく見えないし、不気味な風の音が鳴り響いていて聞いているだけで足がすくむ。

 ところがその瞬間を待っていたのだろうか。

「!」

 少女の顔が笑う。

 ハヤミの後ろで少女がポッドから飛び降りると、最初は静かに、ややあって猛然と、少女はハヤミに向かって走り出した。

 ガラス片と砂の大地に少女の足がめり込み足跡を残した。

 ハヤミは気づいていない。

「さあて、帰んぞ! 俺は帰るんだ!」

「ヴィイデーテ ドドミ!」

「グエ!」

 暗い洞窟の中へ、問答無用で思いっきり突き落とされる。タックルだ。

「ヤホー!!!」

「わあ!!!!」

 ハヤミの体が風に飲まれ、浮遊感が全身を襲う。

 ハヤミは一瞬、自分の足がどこにも触れていないことに不安を覚えた。

『あっやばいコレ空飛んでる』

 上を見たら水面が見えた。しかもとんでもない高さだ。

 全身が引き締まり、足先から頭のてっぺんまでぴりっとした緊張が走る。みるみるうちに地下湖が迫り、ハヤミは諦めの覚悟で歯を食いしばり目を閉じた。

『アイツあとでぶっ殺してやる』

 頭の中でそう思って、ハヤミは頭から派手に水の中へ落ちた。

 いつからだろう。空が、遠く、離れていて、自分には関係ないものだとおもいはじめたのは。

 かつて空は自分のものだと思い込んでいた。誰もいない、彼方まで独り占めしている大空を、自分がすべて支配していると、そう思って飛んでいた。

 でもそのうち物足りなさを感じてきた。

 誰もいない空を、たった一人で飛んでいると。そう思い始めて、誰かいないかと探すようになった。

 けれども自分たち以外には誰もいなくて、すでに滅んでいて、胸の内側から徐々に忍び寄ってくる不安とか何かを押し殺しながら緩慢になって死にゆく何かを、無視して、鈍感になって、目を背けて、無視して、直視することをやめて、たった一人しかいない雲の砂漠を漫然と飛ぶことに何の疑問も感じなくなっていた。

 誰かを探す、という名目を守るために空を飛ぶ。

 そして見つけたのは、いないと信じ込んできた自分たち以外の誰か。

 この空ももしかしたらいつか終わるのかもしれないなと、ぼんやり思っていたら見覚えのある天井が見えた。

 ハヤミは誰かのクローンだった。かつて人類が、空に自分以外の者たちを見て懸命に戦っていた頃のエースパイロットのクローン。

 空虚で誰かを求め空をさまよう、もう一人のオレ。

 いつからだろう。いつからあいつは、知っていたのだろう。


 うっすらと開いた目を開き、ハヤミはまず自分が今いったいどこにいるのか把握するのに手間取った。

 ふかふかすぎる背中の感触。体中を覆う変な感じ。硬い小骨のようなものが体中にちくちくと刺さる感覚を覚える。

「なんだ。オレは……いつの間に寝てたんだ。って、ここあの本棚じゃねえか」

 体を起こすと妙な倦怠感が体中を襲う。それから鼻腔をくすぐるような、いいにおい。

 すんすんと鼻先で匂いをたどり部屋の外を見る。いつもの暗い窓の外。景色は見えず。ただ小雨の粒が強化ガラスを打っている。

 姿は見えないが、どうもあの娘が料理をしているらしい。

「また何か作ってんな。アイツ、一人で生きてる割には料理がうまいんだな」

 そう思ってゲスな言葉が、つい口をつく。

「いい奥さんになれるかもな」

 心にも無いことを言うなと、ハヤミは眉をひそめた。

「もっとも、オレはごめんだが」

 誰に言うでもなく自分で自分に言い訳をする。

 あのときハヤミは洞窟の上から突き落とされ、湖底に残された水中庭園とその底に眠る街の過去と、過ぎ去った時間を一通り楽しんで水面に浮かんだ。

 そのとき見たのが、ゴミに混じって埋もれるいくつかの缶詰と生きた貝の群れ。それを、ハヤミは少女に身振り手振りで取ってこいと命令された。

 こんな深い水の中をそう何度も潜ったり泳いだりできるかとハヤミも身振り手振りで抗議したが、結局少女は話を聞かずハヤミを掴まえて洞窟の上まで連れて行くと足で蹴ってまた落とした。

 泳ぐ魚たち。輝く光の帯。

 揺れる藻草。澄んだ水の流れ。それから、水に沈んだかつての栄華のなれの果て。箱物だけが残って中身がスカスカになってしまった高層ビル群。

 朽ちた戦車。貝が張り付き魚のすみかになった四輪車。タイヤの無い自転車のフレーム。

 コリコリと音を立てて、巻き貝が藻をはむ音。大きな魚のような生き物が、興味深そうにハヤミの目を見てぐるぐると周りを泳ぎだす。

 かつて自分たちを苦しめたであろう国の最新鋭機の残骸。錆びて原型をとどめないコクピットに、穴があき変形した翼が水中にそびえる。

 朧に発光している建造物の群れ。生きていた都市に、水とゴミがそのまま流れ込んで何もかもを包み込み流し去ったような墓場。

 水をかき分けムリに潜ろうとするとまず目と耳が痛くなった。暗い地底湖で懸命に水を掻いていると、興味深そうに自分を見ていた大きな魚みたいな生き物がすぅっと身を寄せてきてハヤミにくっつく。

 ハヤミがその背びれにしがみつくと、大きな名も分からない魚はそのままゆっくりと尾びれを動かし湖の底までハヤミを引き連れた。

 冷たい水の中。息も続かない。目の前に埋もれる缶詰どもを懸命に掘り起こして胸に抱えると、息が続く限り必死になって水面に向かって浮かぼうと念じた。

 足先はすでに冷えて感覚はなくて、地面を蹴りたくてもその動きすらできないくらい苦しかった。

 水面に上がって息をして、やっとの思いで岸に缶を投げ棄てて。

 そうしたらもう一回潜ってまた取ってこいと、上からあの羽の娘の声が聞こえた。

 ハヤミの周りでは魚を大きくしたみたいな奴らが、口々に水の底にあったものを適当にくわえて泳いでいる。

「冗談じゃねえよっ」

 そう、思いつつもまたハヤミは水の底に潜った。

 今はあれからかなり時間がたつと思う。腕に着けた時計はいつの間にかどこかに行っていて、いったい自分は墜落してからどれだけの時間をここで過ごしているのかもよく分からない。


 しばらくぼおっと窓の外を見ていたら、視界を白いぱたぱた動く何かをつけた背の低い誰かが通り超していった。

「ソクォティ ディヴィシーャ?」

「うるせえ。何も、見ちゃいねーよ。いや見んな見んなッ」

 しっしっとさも鬱陶しそうな顔をして手を振ると、少女は不思議そうな顔をして肩を落とす。

「ヴィホボリィテ スォザヴフディ ディヌリッチ」

 鼻をくすぐるにおいの正体は、少女が持っている鍋の中身のようだった。

「ずいぶんいいにおいだなあ」

 ハヤミが言うと、少女はちらっとだけ振り向き得意げに笑い鍋を置く。ここに来て何度目かになるここでの食事だ。

 いつの間にか寝ていた改造本棚の手作りベッドから這い出て、ハヤミは壁に掛けてあった自分の服を羽織り部屋の外に出る。ずいぶんと所帯じみたなと自分で自分に言って、ハヤミは黙って笑った。

 地上に墜ちた名も知らない巨大空母の残骸の一画。わずかに傾いた艦の艦橋は、かつて自分たちと戦っていた頃に残された大きな傷以外の装備はあらかた綺麗に片付けられていた。

 代わりに艦橋各部にある小さな台座や様々な突起、段差には隙間無く少女なりの工夫がなされている。生きた花が空き瓶に飾られていたり小さなタペストリーがつるされていたり。

 元々この艦橋は、たぶんそこまで戦略上重要な場所ではなかったのだろう。平たい区画や大きな通り道、その両側に掘られたくぼみはあらかたすべて取り払われている。

 代わりに置いてあるのは、料理の置かれた大きな古い木の机。イスが二つ。窓の外は暗い。昼が終わったのだろうが、それほど昼と夜の違いはない気がする。

 大切そうに置いてあった少女のぼろぼろのおもちゃ箱は、いつの間にか部屋の隅に追いやられていた。

 ハヤミが最初にこの艦に足を踏み入れたときそのまま。ただあの頃はもっと部屋中ガラクタが散らばっていた気がした。

 汚くて、狭くて、まさに子供部屋の様だった気がする。でも今はぜんぶこざっぱりしている。掃除をしたのだろう。いつの間に?

 それから少女の方も、最初はおっかなびっくりこちらの様子を見ているといった感じだったが、今では二人でこの艦に住んでいることを楽しんでいるようでもあった。

 いつもの食卓も、いつも通り。ただ今日は自分がとってきたあの大きな貝を、バターのような物で焼いたものと缶詰のようだった。

 匂いはバターそのものだ。

「いったいどこでこんなの取ってくるんだ?」

 白い丸皿に貝とソースが、それこそ高級料理のようにひっそりと置かれている。少女の方もなぜかきっちりと背筋を伸ばしてハヤミがくるのを待っていた。

「?」

「前から気にはなってたんだが」

 この少女はどこでこんなのを学んでいるんだろう。一人でずっとここにいたにしては、いろいろ知りすぎている気がするが。

「ヴィェティーシャ? ヤ ザヴィァディヴィヴシャ ォーディン ィド ズェムォエヨ」

 胸を張って少女は答える。その指が下を向いていたから、きっとあの廃墟のどこかでこういうのも全部調べているんだろうなと察しがついた。

「そうやって全部一人で?」

「ヤ ホォロディニー」

 さっさと一人でナイフとフォークを握りしめ、ちらりとハヤミを見てくる。ハヤミも腹は減っていた。

「分ーかったよ。で、今日はいったいどういうメシなんだ?」

 ハヤミもまねてナイフとフォークを手に取った。見れば綺麗な、銀食器だった。これも地下から拾ってきたのか。

 少女は顔と身振りだけで、見ればわかるといった仕草をした。

 器用な奴だなと思った。そう思いながら、黙ってテーブルの上に置かれたパンをかじる。

 よく焼き色もついているし、かびても古くさくも、湿気ってすらもいない。

 黄色くて濃い色のポタージュスープ。熱々の貝の……どう見てもバターで焼いたとしか思えないもの。

 いったいどうなってるんだこの国の食事事情は。

 本国からの助けが一切ないことをいいことに、ハヤミと翼を持つ謎の少女の共同生活はしばらく続くことになる。

 最初は互いの寝室を分けることから。

 朝起きて、荷物をまとめ、まだ寝ている少女を起こさないようそっと少女の寝室を出て行くことにする。ハヤミも最初は一緒に寝ることに面食らっていたのだが例のあの本棚のベッドからハヤミが出て行こうとすると、少女は必死になってハヤミを引き留めた。

 そんなに言うなら……と、最初ハヤミも諦めてしばらく少女と一緒に寝ていたこともある。

 彼女は寝相が悪かった。たぶんあの本棚の中の羽毛は、ぜんぶ抜け毛だ。

 ベッドではなくあの本棚を寝床に使っているのもうなずける。あの高い覆いがなければ、彼女は夜になるたびにきっとどこまでも転がっていくのだろう。


 珍しく空が晴れたある日。

 今日は朝から洗濯をする日と決められている日のようだった。

 先日もぐった地下道とはまた別に地下水を汲む専用の穴と木桶やロープがあって、朝から気合いを入れた少女が倉庫から汚れた布や布団を担ぎ次々と外に運び出してくる。

 生活感溢れる飛行空母の残骸というのもまた格別だ。

「珍しい光景だよな」

 表面がガラス化したちょっと大きめの浮き石に座り、アークエンジェルの技術指示書を読みながら片目で少女の動向を観察する。

 仮にどこかで緊急事態に遭った時などは、ありとあらゆる仮定とそれらに対する対処法がこの分厚い本には書かれている。

 だが、さすがに墜落した先で異人種と出会いその先どうやって共同生活を送っていくか等の具体的な事案は書いていない。

 そんなことを考えて本を読んでいると、突然上から洗濯物の山が降ってきてハヤミを石の上から落とした。

「ヴミーィエ プラチュヴァィ! トゥィネ イィァット ィイスポネン プラァテュヴァティ」

「だいたい言ってること分かる気がするけどよ」

 頭の上にのったいろんなもの、汚いもの、色のついたもの、テーブルクロスや靴下みたいなものをどかししてハヤミは頭を持ち上げる。

 そして悠然と、両手に持つ指示書を読み始めた。

「オレにはやることがあるんだ。オレはオレのやることをやったらさっさとここからおさらばする。オレぁ洗濯物係じゃないんだぜ」

「モト」

「うるせーなー」

 なんとなく嫌味を言われたらしいという、雰囲気だけは伝わった気がする。

「オレにはやらなきゃいけない大切なことが、あるんだよ」

 と、ハヤミが言い終わるか終わらないかのうちに、ドサドサッと大量の洗濯物がハヤミの頭の上に落ちてくる。

 文字通り洗濯物の塊だ。少女は何日分もの洗濯物をため込んだ大きなタライのようなものをハヤミの上にひっくり返してみせた。

「レペレァ ツュェ ヴァシュァルォボタ」

「やだね! 知らんね!」

 洗濯物の山から顔だけ覗かせ、ハヤミもやけになって本を読みながら抵抗する。

「オレは絶ーっ対にやらないぞ! オレは帰るんだ!」

「ロヴォタ! プリャモザラズ!」

「ノー!」

 ハヤミは首を振り、拒否した。

 そうして自分の家にため込んでいる自分の洗濯物も思い出す。

「帰るの!」

 さらに大量の洗濯物が降ってくる。

 そうしてハヤミの頭全部を洗濯物が覆うと、しばらく汚れた服やシーツの山は無駄に上下左右に暴れて山も多少は崩れ落ちた。

 ハヤミは観念して、洗濯物ごと両手を挙げた。

「わーかったよ、手伝うよ」

 少女は勝ち誇ったように、ふふんと微笑んだ。


 壊れかけたラジカセのスイッチがいれられ愉快な音調の、かなり古臭いがどこか懐かしさも感じる軽快なBGMが流れ出す。とにかく陽気だが、どこから電気を持ってきてるんだ? 歌手の名前は分からない。

 それら歌詞の分からない音楽に合わせてハヤミは少女の住み処、巨大な飛行空母のある一端を起点にしていくつかの杭を地面に打ち込む。

 少女に借りたハンマーをふるい、最初は何のためにこの杭を地面に打ちこんでいるのか分からなかったが、そのうち少女が艦内からロープを投げてよこしてきたので何となく察した。

 ハヤミは投げられたロープと杭を見比べて、ロープの先端を杭の先の輪にくぐらせてまた艦内の方に投げ返す。

 するとロープは杭の先端を介して空母側と地上をぐるぐるするようになり、ははあこれは手巻き式の物干しカーテンにする気だなと思った。

 あとは洗濯物を、どうやって洗うかだよな。見れば骨董品みたいなガラクタの山の中に、洗濯機が何台か置いてある。

 空母から少女がとてとてと走ってやってくると、洗濯物をかごに詰め込み、洗濯機にかごの中身を放り込んで、バケツでくみ上げた水を入れて、ボタンをピッと押してばたんとふたを閉めた。

「全自動式かよ!」

「?」

 いろいろ矛盾だらけのこの世界だが、昼間明るい時間にこの艦を外から見たおかげでだいぶ分かることがあった。

 この世界は、だいぶ居心地がいい。

 電気も生きているし食べ物もある。多少住みづらさはあるけれどそこまで極端に不自由なわけではない。

 ラジカセから流れている古くさい音楽だって、探せばきっと他の音源が下の世界にあるのだろう。

 そりゃあ不便ではないかもしれないが、この世界には絶対に手に入らないものがある。

「なるほど一人で生きていくには充分かも知れねえが、他に人は誰もいない」

 ガラクタはある。

 気分を紛らわせる、おもちゃもある。

 ピーピー鳴っている電子機器もある。住むには快適、何も足りない物はない。

 なのに究極に足りない物が、一つだけ。

「誰もいない」

 艦の半分を地上に埋没させた飛行空母は、この地に落ちてどれくらいなのだろうか。またこの少女が、この艦を住み処にしだしてどれくらい経ったのだろうか。

 振り返れば自分のアークエンジェルが、あのときのままガラスの大地に突き刺さっている。

 もしも。いやもしも、自分がこんなところにいたとしたら、どう思うだろうか。

 ハヤミはぞっとした。

 そして強く「家に帰ろう」と思った。

 こんな生き地獄みたいな場所じゃなくて、仲間も、家族もいるジオノーティラスへ。

 ジオノーティラスとは、ハヤミたちの住んでいるもう一つの地下世界のことだった。

「なあ」

 ハヤミは洗濯している少女の背中に問いかけた。

「オレたちのところに、一緒に来ないか」

 少女は答えない。


 巨大な空母の残骸。航空機の残骸。かつて、多くの人々が住んでいたであろう国の残骸。核戦争の異物、そのなれの果て。

 ガタガタガタと大きな音を立てて、かつての最新式全自動洗濯機の古品が洗濯物を洗っている。

 少女が水を汲み洗濯物を運んでいる傍らで、ハヤミは自分のやるべきことにもう一度手を出した。

 アークエンジェルの折れた翼と桁。その中には、まだ生きている電子機器が詰まっている。

「こいつはもう直せなくても、帰る手段はあるさ。きっとな」

 無数に散らばるガラクタ。過去自分たちがこの地を偵察したときに落としていった、情報収集ポッドの中身。それからアークエンジェルも。

 道具も、地下に潜ればきっとある。水も食料も大量にある。

 あとは意思の問題だ。だが、それが一番の問題だった。

「ずっとここにいれることにはいれるだろうけど、なんかおかしいんだよここ」

 ハヤミは手を動かした。

 下に降りたときに感じた光や振動。街が生きていること。電気があること。それから、この空を守っている生物兵器たちも。

 胸や胴体の一部にクリスタル状の操作盤を埋め込む、感情も心も持っている生きた兵器が翼を羽ばたかせ空を飛んでいる。

「あいつもこの街を守ってる兵器なのだろうか」

 そりゃそうだろうなあと思いながら、ハヤミは後ろの少女を振り返った。

 白い肌。白い翼。赤い髪。外見は人間のそれに非常によく似ていたが、どこか人間とは違う特徴を持った姿形。

 片や空を飛ぶ奴らは、姿も形も人間とはほど遠い。どちらかといえば、古代生物や神話上の生き物にとてもよく似た形をしていた。

 きっと設計者たちの意思で形を真似されたのだろう。

 アークエンジェルは、ガラス平原の真ん中に突き刺さって、安置されていた。

 先日の墜落事故そのままの状況だ。

 パネルを開いてタラップを出そうとしたが、その操作パネルは先日の墜落と炎上でとうの昔に吹き飛び、燃えて、中の脚もひん曲がっていた。

 仕方がないので折れた翼のミサイルラッチに足をかけ、機体上部によじ登ってコクピットを目指す。

 この国の生物兵器たちは生き物に対して興味はあるようだった。

 白い肌の竜みたいな奴。かろうじて人型をしたメカニック……だと思うが。一見すると古い本にありそうな宇宙人みたいな格好をしていたり。

 中には機械と体が融合した一体型、バイオメカニクスのような……生物でもない機械兵器が、首と六本ほどある長い手足を交互に動かしてアークエンジェルの翼を興味深そうに観察している。

「まるでガラスみたいな奴らだな」

 さきほどまで一緒に生活していたあの少女とは違って、今目の前にいるのは人間とは似てもにつかない作りをしている。のっそりと動き、あるいは死んだように動かず溝や水たまりの中に身を潜め静かに次の命令を待っていたりする。

 あるいは今も空を飛び続けているあの翼竜型みたいに……まだ、任務をこなしていたりもする。あれはきっと偵察型だったんだろうな。

「ちょいと失礼するぜ」

 歪んだ翼を飛び越え足場伝いにコクピットの内側に足を踏み込む。

 知らないうちに正面パネルには黒くて硬い何かのフタのようなものが張り付いていて、引っ張ってみたらわずかに動いた。

 そのまま力一杯引きずり下ろすとパネルの底に食い込んだ数本の足が、足に絡まった電気ケーブルと一緒に出てくる。

「クソッ、とんでもねえところだこのクソムシ」

 ハヤミは無言でパネルにしがみつく虫のようなものをはがして棄て、アークエンジェルの中央コーンピュータデータドライブの立ち上げを試してみた。

 ハヤミの様子を、近くの岩肌にとまる一つ目の翼竜のような生き物がじっと見つめている。

 最初ハヤミは、これら翼竜たちの目線を気にしてスイッチの場所などを手のひらや布でやんわりと隠そうとし試みた。でもよく考えてみれば、こいつらがたとえ自分たちの機械の使い方やスイッチの場所を知ったとしても、それを覚えて使おうとする人間がいないのだと思って隠すのをやめた。

 そう、戦争は終わったんだ。誰もいなくなった戦争で、まだ兵器だけが生きている。

 そうして大胆にアークエンジェルのシステムの起動まで進めたとき、また別の疑問がわき起こる。

「こいつら、どっから出てきたんだろう」

 向こう側で、せっせと洗濯物を洗う少女の姿が視界の隅に映る。

 誰もいないと思われていたガラスの平原に、たった一つの大型空母の残骸。

 誰もいないと思ってその地に落ちたら、残骸の中には少女がいた。

 でもオレの目も節穴じゃない。

 木々、墓場、あちこちにある空洞と、地表の割れ目。もしそこかしこにこいつらが隠れていたとしたって、見れば分かるはずだ。

「ふぅー……何が起こったのかね」

 カリカリカリと大きな異音を発しながら、アークエンジェルのシステム起動が始まる。これでうまくシステムが起動すれば、もしかしたらアークエンジェルから基地に向かって何か通信できるかもしれない。

「……拾ってくれるならな。それにオレが別に何も送らなくっても」

 本来なら墜落したときから、アークエンジェルは自動で救難信号を打っているはずだ。そうだろう? そう思ってハヤミは機体後ろの、アンテナブレードを振り返る。

 それで気づいた。

「そうだ。墜落の衝撃」

 ギェーと、近くの翼竜が鳴いて羽をばたつかせる。

「救難信号、信号だ。こいつらが兵器なら、今までずっと眠っていたのがオレの打った救難信号で起き出したってこともあり得」

 そのときボンっと大きな音がして、イスの下あたりから白くて臭い煙が立ちこめてきた。

「あちちっ、あつ! あっつ! わあ!」

 慌ててその場から跳ね起き腰を浮かせて、コクピットから脱出する。画面に映るロゴ画面は白筋のノイズだらけで、システムは起動中のまま固まっていた。

「やっぱだめか」

 パワーとテストモードのスイッチを切り、ハヤミは深くため息をつく。

「あー、なんだろうどこが壊れてるんだ。電気は生きてるけどシステムがぶっ壊れてるってか」

 煙をはき出し何かを高速振動させているような音が、シートの下、シートの後ろ、それからノーズの根本のどこかから聞こえてだんだん静かになっていく。

 のそのそと機体の下側を歩く謎の生物が、パネルに触手を伸ばしひたひたと探る音が聞こえた。

 ハヤミはブーツのつま先で足場を何度か踏むと、また大きくため息をついた。

「やっぱあのポッド使わなきゃいけねえのかよめんどくせえ、起こしたい奴は起きないのに、起きなくていい奴ばっかり集まって来やがってどちくしょうめがっ」

 ハヤミは飛び降りると、機体下部に吸い付いてなにやら何かしているらしい奴を引きはがした。

 生き物のような奴は、不思議そうに目だけをハヤミに向ける。

「フン、こいつはお前たちが飛ばしてた奴じゃねえんだ。変な風にいじるなよ、絶対にだッ、いいな!」

 言葉が通じていないだろうとは思いながらも、ハヤミは念を押すようにその生き物に向けて指をさし、何度も人差し指を立てる。

 生き物は目をアークエンジェルに向けた。そしてもういちど、ハヤミに顔を向けて口を開く。

 まるで何か言っているような仕草だ。でも冷静になって考えれば、もしもこいつらが今まで自分たちが戦ってきた国の兵器であるなら、言葉と意思はもっと単純で簡単なはずだ。

 答えはイエスか、ノー。意思は、敵を殺す。単純な思考しか持っていないはず。

 それでいて不気味なほど冴えている敵意と、わかりきった目的意識。

 周りの空を舞っていた白い翼竜たちが、距離をとってハヤミを遠巻きに囲み見下ろす。

「こいつら、オレを敵か味方か調べているな」

 早めにやること終わらせておこう。

 足下をぬるぬるとうごく脚と腕の多い生物……たぶんメカニック担当なんだろう、不定形な生き物をまたいでハヤミは先を急いだ。

 数日が過ぎた。

 白い肌の生き物たちが地上に集結しだし、ハヤミたちの日常生活の範囲は少しずつ狭まっていった。

 最初は互いに何の接触もなく良好そうにいきそうだった雰囲気だった。だが彼らは、次第にハヤミ達にたいし徐々に警戒感を示すようなってきた。

 たぶん本能からの、敵対勢力だと認識したのだろう。ハヤミたちから何かしたことはない。

 あるいはこの飛行空母の残骸に立てこもるのもいい。生きていくだけなら、この空母の残骸生活も悪くはなかった。

 だがハヤミはこの荒野からの脱出を図っていた。

 アークエンジェルの残骸は生き物たちによって完全解体され、空母とアークエンジェルの間にも、なにか踏み込めそうにない独特の空白地帯ができるようになる。

 あの白い肌をした翼竜や地を這う生き物たちがどこからかか出てきて、ハヤミたちの飛行空母に集まってくるようになった。

 ハヤミ達は孤立していた。

 相手の数は、数十とも数百とも分からない。

 ハヤミの荒野脱出計画は頓挫する。その上で、空母に貯めておいた水と食料が底をつき始めた。


 水と食料の蓄えはさらに減り、また何日か経った。

 あの羽の生えた少女ならなにかできるかもしれない。そう思いハヤミはためしに、少女を艦外に連れて行ってみることにした。

 少女はぶるぶる震えハヤミにしがみついて嫌がったが、それ以外どうしようもないと身振り手振りで彼女を説得し外に連れ出してみる。

 でも、安全を考えて彼らの手が出ないところ、ガラス張りの艦橋の上だ。

 ハヤミに抱きつき嫌がる少女の鼻先に、そっと人差し指をあててなだめて、ゆっくりと外をのぞき込む。ガラスの向こう側には翼竜型がいたが、翼竜は少女を見て小さく鳴いた程度の反応しか示さなかった。地べたの生き物たちも同様、何の反応もない。

 少女は彼らの仲間ではないのか?

 ハヤミはさらなる行動と選択に迫られた。


「坑道を降りよう」

 謎の生き物たちに囲まれ、数日が経った。

 天気は相変わらず、小雨。雲の渦が空を覆い、薄曇りだった頃は覗いて見えた青空も、太陽も見えない。

 ハヤミは少女に提案した。相変わらず言葉は少女に通じないが、暗い顔をした少女はハヤミの言葉に、不安そうに小さくうなずいた。

 だんだんお互いの言葉が通じるようになってきた証拠だ。だが状況は、まったく良くない。

 かつて二人で降りた地下洞へと続く縦穴は、あの頃のまま厳重に隠されていた。

 巨大な格納庫、散乱した武器や泥だまりのようになった何かの入れ物の奥に、坑道の入り口はある。

 かつてこの飛行空母にエネルギーを供給していたケーブルは、いつからか、下からのエネルギー供給が止まっていてかつてあげていた震動も、獣の咆哮のような地響きも止まっていた。

「まだ降りれるか」

 振り返ると少女は困惑した顔をしていた。

「デ ヴィ ジィライェテスャ?」

「ここじゃないどこかさ」

 護身用になりそうな鉄パイプを床から拾いあげ、薄暗い倉庫の中で宙にかざす。

 人を何かしたりするにはいささか頼りなさそうだったが、ここでは充分だ。別に誰かをどうするわけでもない。

 天井裏の細かい板目の隙間から、外界の光が帯状に広がって倉庫内を照らす。淡い光が部屋中に広がった砂埃を照らし、足下はほとんど見えなかったが今持っている物の外観は何となく分かった。

 それは、壊れた古い小銃の部品だった。振ればネジが音を鳴らし細かな部品が飛び散るが、それでも棍棒なみの何かくらいにはなるだろう。

「ここにい続けても、何かあるわけじゃない」

「ツェネボェズペクノ ヴローズパチ」

「別に何も考えなしなわけじゃないさ。いいか」

 埃の舞う、暗い庫内でハヤミは屋根を見上げ、それから汚れきった腕時計を見て指をさす。

「あいつら……俺たちの仲間は俺たちを見捨てたわけじゃない。ただ、見えていないだけだ。クソッタレなヘッドセットとなぜか使えない無線でな。この空域に来てるアイツらは必ず見ているはずだ」

 それから少女を、ゆっくり見つめる。目を人差し指で示しながら。

「ヘッドセット超しじゃない、この目で。希望はある、あいつらが落としていってる置き土産を使えばな」

「?」

 不思議そうな顔をする少女をよそに、ハヤミは足下に散らばった部品の一つを指先でつまんで、それから少女をゆっくり振り返る。

「直せないなら、燃やそう。煙も、炎も目立つ。それならどんな場所からでも見えるだろう。俺たちはここだって、俺たちを見ていないあいつらにだって見つけさせるには、火の光はいい」

 部品はただの部品ではない、変色しているが未使用の薬莢だった。

 坑道を降りる前までは淡い期待を込めていた迷い、疑念とわずかな希望は、絶望と確信に変わっていた。自分の乗っていた愛機アークエンジェルの翼が破砕される音と、獣たちが蠢く不気味な音とざわめきがそこらじゅうから聞こえてきたからだ。

「さあ急いで」

 ハヤミは声を押し殺し少女を坑道の先へと進めた。

 奴らの鼻が自分たちを突き止める。格納庫の扉のすぐ外にまで、やつらの気配は迫ってきていた。

 でもなぜだろう。まだ何か……何かが、心に引っかかる。

 後ろを振り向き、もう何も持っていく者もない庫内を振り返りかつてこの地にやってきた自分を思い出す。

 床一面に散らばったがらくた。不思議な輝きを放つこの世界。

 懐かしくも暗い過去。一面に散らばったままの、さいの目。


 ケーブル伝いに坑道を降りきり、岩肌から染み落ちる地下水を肌に落としながら、身をかがめ進む。

 かつて通った横道を、右に、水たまりになった小部屋をそれてさらに進む。

 少女がたった一人で開拓した地下世界。今は二人で進んでいく。

 そうしてあのときは真っ暗だった地下世界は、今度は真っ白に輝いて二人を出迎えた。

「なんだ、これは……」

 いつか坑道の外で聞こえていた静かな地鳴りや響きは、すでに地響きではない別の大きさの唸りになっている。

 かつて飛び込んだ静かな湖面はどこにもなく、地下洞窟全体の震動からくるさざ波と天井からの落石で完全に荒れていた。

 それから何か、ひっきりなしに動いているものがある。

 最初は、あの地上に現れた生き物たちの片割れかと思った。だが薄明かりの中で欲耳を澄ませば、肢体の動きに合わせて音が聞こえる。

「プラートゥイヴニク!」

 少女が声を弾ませ、水辺をかけて動くそれに走り寄る。それは一瞬動きを止め、体を大きく横にふり体制を曲げると、大きく不自然な機械音を響かせながら少女を振り返りわずかに腕を横に広げた。

「ロボット……作業用の、古い無人機械じゃないか。まだこんな奴が動いてるなんて」

 ハヤミにも見覚えのあるそれは、かつてまだ地球上に人がたくさんいた頃からずっと使われ続けていたという古い業務用作業機体の、型違いの奴だった。

「はは、すごいな。ここは本当になんでもあるんだな」

 記憶の中の作業機械はもっと大きくて、汚くて、こき使われて油だらけだったようだが今目の前にいるそいつは、どうもいろいろ部品を交換されているらしい。

 もっとも、元々のオリジナルがどんな形かなんてハヤミにも分からないが。動く古品だ。

 それはハヤミの国でも。名も知らない作業機械は少女を抱き上げると、そっと型の上に乗せた。

「へえ。おまえが、コイツのマスターとかなのか?」

「トシァ リウディーナ ミゥドゥルー!」

 少女は作業機械の首を抱きしめた。

「ふーん? 言ってることはわからんけど、何となくわかる」

 誰もいないこの世界で唯一の友達のような、意思疎通のできる者同士のわずかなコミュニケーションできる唯一の相手というような。

 少女はこの作業用無人機を相手に、ずっと長い間家族のようなつきあい方をしていたのだろうか。

『……』

 機械は不器用なほど機械らしいノイズをスピーカーから発し、マニピュレーターを動かし洞窟内を走るパイプラインの補修作業を再開した。

 機械の方には、家族というものは理解できないだろう。でも幸せだろうな。いつまでも、自分のボディを見てくれる監督者がいるのは……待てよ?

「こいつ、どうやって自分のメンテナンスをしてるんだ?」

 そして洞窟中を照らす明るい光。街の残骸の深層から漏れて聞こえる地響き。

 何かが稼働する音。

 少女を肩に乗せる機械が歩き出す。ハヤミは少女の腰に手を回し、彼女の体重を受けてそっと地面に立たせた。

 機械の方は少女にもハヤミにもまるで関心を示さない。

 それより何かある。洞窟から、周りから、何か見られているような何かが。

 見覚えのある感覚。誰かに、ずっと見られている感じ。それもはっきりと感じる。

「なんだこれ……なんなんだこれ!」

 洞窟の奥の、輝きが何倍にも大きくなり地響きが、鼓動のように、ゆっくりと胎動している。前に来たときには無かった現象だ。

 街は、この国は生きている。

 目の前を歩く無人機械が脚を曲げ、一定の速度でゆっくりと上半身を起こし直立不動の姿勢に戻る。人らしくない動作でマニピュレーターを曲げ、ゆっくりと頭部を回転させて、街のある方へゆっくりと歩いていった。

 姿は機械だが、感情だって感じられないが、背中でその歴史と時間を語っているような……そして誰もいない街の廃墟の間を丁寧にまわって、補修作業を続け始める。一人で。

「あいつが、お前の友達だったんだよな」

 隣に立つ少女に問いかけた。

 少女はしばらく黙っていたが、ハヤミを振り返ってうなずいた。

「いい友達だ」

 地響きと振動で崩れはじめている洞窟と廃墟の中を、機械はゆっくり光の方向へ進んでいく。

「いい友達だな」

 光の向こうに飲み込まれるように、体を揺らし無言で歩いていく名も無い機械を見送り、ハヤミは銃身だけの棒きれを持って少女に先を急ごうと前を指さした。


 かつての静かな湖面は、波紋と、轟音と濁った水の流れに変わっていた。

 大きく響き、続いて小さく、また大きく、不規則にゆれる地下世界の片隅で、ハヤミ達は互いに落石から互いを守ろうと懸命に走る。

 たまに落石に混じって動くものが落ちてくる事もあった。

 ハヤミは振り返らなかった。少女が何か見て、絶叫しそうな顔をしていたからだ。

 ここから先は計画なんてない。ただ仲間を信じて、空から救い出してくれるあのときの仲間がいることを、ハヤミは信じてがむしゃらに壁をよじ登った。


 細かな落石が洞窟中から落ちてくる中、小さな出っ張りをわずかな足場にして登り切り、あともう少しで洞窟出口だと思われた矢先にまた別の問題が生じる。

 壁が、ゆっくりと沈下を始めたのだ。

 壁面の凹凸に泊まっていた鳥たちが声を張り上げ、一斉に翼を広げて洞窟中を飛び回る。

「なんだよこれ……っ」

 洞窟天井から差し込む光は、土煙とパニックになった鳥たちで一本の梯子のような、光の帯を作り上げていた。だがそこを上ることは、人間にはできない。

 壁は、かつてあったベイに埋もれていたスターシャトルの側面。光の先に登り切るには、この残骸を上るしかない。

 純然とした廃墟群、機械文明の墓場。ハヤミは舌打ちした。

「ええい、まどろっこしい!」

 ハヤミは目の前に垂れ下がる茂みを掴むと、少女を振り返り手を伸ばした。

「上を目指そう。下を見るな、落ちるぞ!」

「……!」

 少女は声も出ないほど怯えている。当たり前か、こんなに地下が激変したのは、もしかしたら初めてなのかもしれない。

 そしてその原因は……街の胎動、動きはじめたあいつら、機械たちの目覚め……

「俺、なのか?」

 少女の手を掴み上へ引っ張り上げ、自分が立つ足場の一つに少女を乗せて引き寄せる。

 細かな落石があり、続いてミリミリと地面がはがれるような音が上から聞こえる。

 上を見る余裕もなく身をかがめ、もうダメかと思いながら目をつぶっていると、もの凄い大きさで風を切りながら巨大な何かがハヤミ達のすぐ近くを落ちて、眼下の濁流の流れに落ちていった。

 何トンもありそうなほどの波が壁一面に当たって砕け、水しぶきを浴びながらハヤミは少女の手をきつく握りしめる。

「見ろ、今のでハッチが開きかけてる!」

「っ……」

 少女は声も出さず泣いていた。その足下は頼りなく、しかし手はしっかりとハヤミを握っている。翼は塗れてただれており、ぼろぼろで、黒く染まっている。

 ハヤミはゆっくりと足下を確認しながら、開きかけているハッチの近くまでにじり寄った。

「いける!」

 沈みつつあるスターシップが、徐々に水面下に沈みつつある。船体の姿勢が崩れる度に、今まで足場だった場所が手を引っかける部分に、凹んで水たまりのできていた場所がひっくり返りハヤミ達の上に水を打ち付けてくる。

「船が……沈むぞ! はやく!!」

 ハッチを銃身の棒でこじ開け、少女の尻を掴んで体ごと突っ込んで自分の体も穴の中に潜り込ませる。

 ガタガタと激しく船体が震え、どこかで何かが避ける音、それから、水が入り込む音、出る音がそこら中から聞こえてくる。

 上下感覚がおかしくなって、頭がどうにかなりそうだ。

「こっちだ!」

 横道と格納庫へ続く通路が、船体がひっくり返り縦穴と落とし穴に変わってしまった荒れた船内を、ハヤミは少女を押したり引っ張ったりしながら先へと急ぐ。

 船内に取り残された壊れた箱が、ぬめりけのあるコケや藻の上を滑って転がり落ちてくる。それを受け止め、傾斜になった坂道を後方に向けて放り投げる。

 次々と細かいゴミが斜面を転がり落ちてきてハヤミたちを打つ。ハヤミは少女をかばい、両手を広げすべてを受け止めた。

 鋭利な角が、ハヤミの体の柔らかいところに食い込む。

「こなくそォー!!!」

 さらに船体が……傾斜が動き、廊下の登り角度がどんどん厳しくなっていく。ついにハヤミは斜度に体が耐えられくなりゴミや箱ごと通路の先まで飛ばされてしまう。

 さらに細かな、網やら缶などが降り積もりハヤミの体を覆い尽くす。しかしハヤミは、気合いと、助かりたい、助けたいと思う気持ちで立ち上がり、自身に降りかかるゴミやコケ、藻の塊を体中からふるい落とした。

「ハァッ! ハアッ! まだだ!!!」

 上階段差の角に引っかかるゴミのひとかけらが外れ、勢いよくハヤミの頭に落ちる。ハヤミは痛さで一瞬、足場に膝をつき崩れ落ちたが、銃身を握りしめて、もう一度立ち上がった。

 その目は、まだ絶望に染まっていない。生きる地下洞窟が、復活の兆しですべてを崩そうとするその中で、沈みつつあるスターシップの中で少女を捉える。

 だが少女の方が何かおかしい。おかしいというか、今さっきまで、自分の後ろの方にいなかったか?

「さあ、急ごう!」

 ハヤミは手をさしのべた。だが少女は、無表情な顔つきでハヤミの顔を、じっと見つめるだけだ。

 色素の薄い金髪は濡れている。なにか髪の毛も、短いような? 目つきも違っていた。

「? いや?」

 あと見覚えのない傷口が、少女の目の上と下にある。

 暗がりでよく見えないが、胸元のクリスタル状の何かも布の服を透過して、淡く輝いているようにも見えるが……

「おいユー……マ? いや、おまえは……」

 少女はじっと、ハヤミを見つめている。その顔は無表情そのまま。そして振り返ると別の横道にも、少女が立っている。

「うそだろ?」

 ハヤミの声が、艦内に響く。それとは別に、艦全体がきしみ、艦の中心を走る融合炉が砕ける音、水が流れ込む濁流、鋼材が吹き飛ぶ音、同時に何かガラスのようなものが砕ける音も聞こえ、割れたシリンダーから人影が飛び出し床面になだれ込む。

「マジかよ……」

 粘りけのある水溶液を身にまとい、糸を引きながら立ち上がる少女たちの、同一生命体。胸には淡く赤い光を帯びて、ハヤミを通路に孤立させる。

 ハヤミは銃身を握りしめ、少女のクローンたちを前に棍棒のように振り上げた。

 威嚇のためだ。あるいは、彼女たちの動きを読むためかもしれない。ただとっさの思いで振り上げただけで特に意味はなかったのかもしれない。

 クローンたちは、動じない。

 というよりも、まったく感情が読めなかった。

 目が据わっており表情もない、暗闇の中だからというのもあるだろうが体全体から漂う雰囲気というものが、通常じゃないような。

 それらが狭い通路の中で並んでいて、同じ顔、同じ体つき、同じ目で、胸元に淡い光をともしてハヤミを見つめている。

 ハヤミは焦った。濁流が隔壁を突き破り階下からは轟音とともに、水がハヤミの足下まで迫ってきている。

 わずかに通路を照らす電気のスパーク、上下が入れ替わり沈没しかけている船体。上下だったはずのエレベーターシャフトを両側から、ゆっくりと近づいてくる少女と同じ姿の……生きている、翼があり人ではない何か、生き物が。

 半開きで生気の無い瞳、シャフトの両側から、大量の少女たちがゆっくりとハヤミに迫る。

 横倒しになったエレベーターシャフトの中央で、ハヤミは完全に孤立した。棒を振り上げ少女らを追い払おうとするが、少女はまったく動じない。避ける反応すらしない。

 彼女らは、意思がないのだろうか。ハヤミはシャフトの開口部の縁まで追い詰められ、声を上げてひっくり返りくぼみの中に落ちた。

「うわあ!」

 横倒しになったシャフトから、本来は同フロアの通路へと続くエントランス部入り口のドアがある。小さなくぼみだ。

 縁とドアの間にはわずかな段差があり、ドアはみしみしと音を立てて凹み変形してハヤミの自重に耐えた。

 だが彼女たちが、無表情なクローンたちが迫り、ハヤミはくぼみの中心に向かってゆっくりと体を滑らせる。それが、まずかった。

 自重に耐えていたドアがさらに変形し、へこみ部分に挟まってドアをスライドするレールが滑車ごと外れてドアは全開になった。

「ひっ!!」

 ぬめりけのあるドア、シャフト内の壁、ハヤミはどの出っ張りにも手を引っかけることができずそのままドアの外に体を投げ出される。

 上下左右が入れ替わり、沈みゆく船体ごと横に傾いた横道が、長い縦穴となってハヤミの眼下に迫った。だが誰かの手がハヤミの手を寸での勢いで掴んでくれて、間一髪だがハヤミは命を取り留める。

 誰だ? と思い見上げてみると、少女だった。

「い!? うわやめろコイツ!! 離せ! クソ離せ!!」

 自分の手を掴んだ手の持ち主の顔を見て、ハヤミは表情を凍らせ暴れる。だがその少女は手を離さないどころか、泣きそうな顔、それから驚いた顔、困惑した顔、あらゆる感情を表に出して声を上げた。

「ゼ ゼトボーユ ヴェ ハラズ!?」

 聞き覚えのある声に、ハヤミは一瞬絶句した。見覚えのある顔でもある。見覚えのある仕草。見覚えのある見た目。肌。

 少女は力一杯ハヤミを引き上げ、別の通路の上へとハヤミの体を持ち上げる。

 ハヤミも足を段差に引っかけて自分の体を上へあげるが、まだ信じられない。

「おまえ……おまえなのか?」

 名前が分からない少女を、ハヤミはユーマと名付けた。でもそれはハヤミが名付けた名前であって、少女の本当の名前ではない。

「おまえ、いったい誰なんだ?」

 段差から引き上げられ息も荒くしたまま、ハヤミは少女の肩を掴み少女の目を見つめる。

 少女は驚いていた。

 その目は大きく、未だどことなく幼さの残るような、疑いとか、老いとかの無い純粋な少女の目だ。だがそれは形さえ違えど、今しがた上で見たあの少女らとまったく同じ。

 胸元にも、ある。見れば上で見た彼女たちと同じものが、そこにはついていた。

 そうだった。ハヤミは頭を抱え、その場でうなだれた。

 でも知っていたのだ。

 ずっと前に、それこそ出会ったその日にハヤミは、彼女の出生について知らされていた。

 だから彼女の名前を聞いても話をはぐらかされ教えてもらえなかったときも、特に気にはしなかった。

「ハア、いつかこんな日が来るかもなとは思ってはいたけどさ」

 ハヤミの様子を心配する少女を前に、ハヤミは頭をふり身構えてから、壁に背を当ててゆっくりとシャフトの上を見上げる。

 シャフト開口部、今し方じぶんが落ちてきたエレベータードアの向こう側は静かだ。

 あるいは、隠れているのかもしれない。

 なぜ隠れる必要がある? やはり、自分たちをどうかする気だったんだろうか。

 ハヤミは少女……ハヤミがユーマと名付けた翼の少女をちらりと見て、もう一度シャフトの方を見て、反対側に通じる廊下を見た。

「行こう。この船から出るんだ」

 少女は不安そうにハヤミを見て小さくうなずいたが、そうして彼女を地上に連れて行ってからどうするか。

 考えてはいたが、ハヤミの答えに彼女が納得してついてきてくれるかどうか分からなかった。

 轟音とともに沈みゆくスターシップを抜け、崖際の細い断崖を超えると、そこは前に来たことのある洞窟の外の世界だった。

 眼下にはあの地底湖、黄土色の濁った濁流が渦を巻いて、沈んでいく巨大な船体を水の中へと引きずり込んでいく。

 それから、空。大きく膨らんだ赤い太陽が、空を覆う渦巻き状の雲の隙間から光を透過させ真っ赤な夕日を作り出している。

 大きな鳥たちが空を飛び交い、沈む太陽とは対照的な黒い影の幕を空に広げる。この荒野に生きる者は、ハヤミと、少女だけだ。

 二人分の長い影が、荒野の中にゆっくり吸い込まれていった。

 実は他にいるのかもしれない。膝をつき動かないパワードスーツのアンテナには、誰が巻き付けたのかぼろ切れが垂れ下がっており、わずかなそよ風に揺れている。

 それから轟音だ。地下から響く音とは違う、何か別の。

 息を切らし、なんとかハヤミの後に続いてやってきた少女を抱きかかえハヤミは周りを警戒しながら荒野の真ん中に出た。

「相変わらず、すがすがしいほど何もないな」

 小さな丘となだらかな下り坂の連続で、わずかな傾斜の下には影がある。太陽は遠く、その影もまた大きく下方に向かって伸びていた。

 影の下には、ガラス状の硬化した大地。時が経ち雨水が作り出した亀裂、亀裂の隙間から植物の芽のようなものが飛び出ている様に見える場所もある。

 実際には枯れ木か何かなのかもしれない。周囲を飛び交う鳥たちがギャアギャアと叫び続け、また何かの拍子でパッと姿勢を変えてどこかへ行ってしまった。

「ん?」

 群れごと消えてしまうようなものか? 何もないのに?

 そう思って周囲の気配を感じようと黙っていると、耳に聞こえる轟音が、何か別の音に聞こえるようだとも思ってゾッとした。

「なんだ、これは……」

 とっさに声を上げるとすぐ後ろにいる少女の体がハヤミの背中に当たり、なにかちょいちょいと服を引っ張る様子を見せた。

 足下に、風を感じる。生ぬるい。しかも轟音は何かを振るわせているような音でしかも……緩急がある。臭いがある。それも獣独特の臭いに近いような……なにかいるような。

 ゆっくりと顔を向け少女を背中側で隠すようにしながら振り向くと、予想通りというか、大きな生き物がそこにいてハヤミを見下ろしていた。

「クソ、なんだか見覚えのある顔じゃねえかよ」

 一瞬だが忘れられない顔。そして翼。墜落したアークエンジェルに集まるあの小さな小物たちとは格が違う大きさの、コイツ。

「俺をこんな地上に、たたき落とてくれた奴じゃないか」

 そいつは鼻先にある二つの大きな穴から、挨拶とでもいう感じで大きく息を吐いた。

 あのときオレを、地面にたたき落とした奴だ。

 あのときオレを、地上に落として、アークエンジェルからこの荒野に降ろした奴。そして……そう何か他にも、誰かを見かけたような。

 と同時に別の事も気になった。コイツはどこの何者で、なぜここにいるのか。

 例えばこのでかい翼竜みたいな奴も、他にもいたあの小さな奴らの仲間何じゃないかと。思って胸元を見てみたが、制御板のようなものはついていなかった。

 あるいはどこか別の場所に着いているのかと思って少し探してみたが、やはりそんなものは見つからない。警戒しながらそいつの目を見上げ、長い首の動きに注意しながらその全身を身長に見定める。後ろに隠れる翼の少女に気をつけながら。

 やっぱりというか、どこにも無かった。じゃあコイツは何者?

 そう思っているうちに、翼竜が首を動かす。それからゆっくりと翼を広げ、口を閉じると、両脚をゆっくり縮めてから大きく伸ばし空へと飛び上がった。

「ッ!!!!!!」

 ガラスの地表につもり降った細かい塵が風圧で飛ばされ、ハヤミたちの全身に振りかかる。それから翼が、風を切る音。大きく地面が揺れる振動。しばらく目を閉じ腕で顔を覆っていると、そのうち風は弱まり風を切る音もあの巨大な生き物の吐息も体にまとわりつかなくなった。

 細く目をあけてみると、誰もいない。少女を振り返ると……髪がぐしゃぐしゃに乱れ目を手でこすり涙目になっていた。

 赤黒く、沈む太陽に照らされる雲間。その中にあって渦の下をくぐり抜けるように、あの翼竜の長い尾と後ろ姿が見える。巨大すぎてまるで遠くにいないようだがかなりの早さで空を飛んでいた。そしてもう一つ轟音が聞こえてくる。

 太陽の方だ。そして振り返る間もない内に轟音はすぐ近くまで迫ってきて、ハヤミ達のすぐ近くを通り越していった。

 轟音は大地を揺るがし鼓膜を突き破り、脳天の奥まで響くような、甲高くも低くて、耳を抑えてうずくまりそうになるほど大きかった。

 大地を切り裂き木をなぎ倒し、すべてを飲み込み奪い去っていくような風。圧倒的な音。風を裂き、かすめ、飛んでいくような轟音と風の衝撃音が、鋭利な三角翼と二枚の特徴的な尾翼をかざしてすぐ上を飛んでゆく。

「嘘だろ……おいおい嘘だろ! アイツまさか!」

 すべては一瞬だけのできごとだった。

「あいつ……死んだはずだろ? やっぱり生きてたのか? この、どこかで?」

 フォックスの翼は沈みゆく太陽の光と雲の色を受けて、にぶい銀色に輝いている。

 しかしその光も、まもなく見えなくなり轟音も荒れ地の風の音と聞き分けることも難しくなっていく。

 翼竜の姿は、もう見えない。

 この世界にはいるはずのない者たちが生きていて、風とともにすべて自分たちのすぐ近くを通り過ぎていくようだった。

「まさか、生きてたなんて」

 伝説のパイロットは生きていた。

 かつてこの空で戦い、人知れずどこかで散ったという記録が残るジオノーティラスの地下都市では、彼はただのデータとして残っているに過ぎないのに。それもこの世界が見せる幻か?

 幻? 本当の自分は、いったい何を見ている?

 ハヤミは自分の顔を手で触れ、さわって、なでた。

「幻……あれか!」

 目の前に落ちている観測用ポッド。生きている彼ら、彼女らを見ない自分たちの目。それどころかこの荒れ地に落ちて助けを求めている自分たちを見つけてくれない、仲間たち。

「やっぱり何かある。何かが……何かおかしいんだ。でも何がおかしいんだ? なにかが? なぜ?」

 そのとき。ふたたび空の彼方を、三機の編隊機が飛んでいるのをハヤミは見つけた。

 ジオノーティラスの友軍機だ。やはりハヤミを探している。

 さっきまでハヤミはわずかな希望と迷いを持ちつつ、例えばここで火を焚き煙を出せば、仲間はもしかしたら自分たちを見つけてくれるかもしれないと考えていた。

 実際ハヤミはそのつもりでここに来た。しかし今は、火をつける道具も、火薬入りの薬莢も持っていない。

 地下湖ですべてを失い、ハヤミはずぶ濡れでただそこに立っていた。彼らは自分たちを見ていないと思いながら。

 だが今日はなにかが違う。

 空の彼方をゆっくりと飛ぶアークエンジェルたちの編隊がゆっくりと回頭し、ハヤミのいる地上に向けて徐々に高度を下げ始めたからだ。

 最初は渦を巻く嵐に紛れてよく見えなかった。だがだんだん、彼らが近づくとあの特徴的なエンジン音も、嵐の音に紛れつつ聞こえるようになってくる。

 他にも誰かが地平線の彼方からも、近づいてきているような。雰囲気は察した。

 誰かがこっちに来る。

 ハヤミはふたたび腕を振って、空の彼方の彼らに叫んだ。

 最初は小さな音だった。それがだんだんと、鼓膜を振るわせるほどの大きな響きに変わっていく。

 体を飛ばされそうになるほどの風圧。徐々にゆっくりと、巨大な船体が地平線の向こう側から迫ってきて唐突に目の前に現れる感じた。

 船体があまりにも巨大だから、彼らはゆっくり現れるように見えたがそんなではない。目で見て感じる速さをゆうに超えるほどのはやさで、ゆっくりと減速しながら、地上に降りてハヤミ達を嵐の風から遮るように目の前に降り立つ。

 そうして出てきたのは見覚えある懐かしさ……ではなく、やけに厳つい格好をした、まるで宇宙服でも着ているような何十人もの人間達だった。

「少尉! 生きていたのかハヤミ!!」

 頭上を三機編隊の戦闘機集団が飛び去り船体から何人もの歩兵集団が降りてきて、一人は宇宙服のような分厚いスーツとヘルメットをかぶった男が、タラップを降りてハヤミに歩み寄った。

 男の顔はよく見えなかったが、肩章や襟元についているバッヂを見て見覚えのあるのを見つけた。

「き、基地指令?」

「生きているならなぜ連絡しなかった! しかもこんなところで!」

 両手を広げハヤミを迎えたのは、ハヤミが所属する飛行隊とその他の部隊すべてを統括指揮する高級将校だった。

「そちらの方は?」

 近くで会ったこともなければ、話したこともないほどの間柄のその男は、ハヤミの後ろで小さくなっている少女を指さした。

 腕にも極厚の甲を着け、スーツと密閉型のグローブで厳重に守っている。男の後ろから似たような姿をした歩兵たちが小銃を構え、少女とハヤミ達を囲んだ。

「さあ、こちらに来るんだ。ハヤミ少尉、君に報告してもらいたいことはたくさんある」

「エエト、基地指令。いえ、失礼しました。彼女は私の命の恩人でして、私がこの地上に墜ちてから以後、いろいろと世話を」

「報告はあとで聞くと言ったろう少尉!」

 顔もよく見えない、偏光ガラスで顔を覆う基地指令の記章をつけた男は、くぐもった声をだしハヤミを見た。

 スーツ全体ががっしりと守られており、首を回すと胴の部分も小さく動く。分厚い装甲服。周りを囲む兵士たちもゆっくりと脚を動かし、ハヤミ達を包囲する輪を少しずつ詰めていった。

「さあ、ゆっくりとこちらに来るんだ。ゆっくりとだ。声を出してはいけない」

 将校が手をさしのべる。その口調は、なにか緊張を含んだ声色だった。

「さあ」

「ち、ちょっと待ってください指令。彼女は何でもありません。戦争だって、もう終わってるじゃないですか」

「戦争が終わろうと終わるまいと、それは君が一人で決めるものではない」

「戦争は終わっていないと?」

「ここで言い合いをする気はないのだ、ハヤミ君。我々は、君を助けに来た。そして君は、私の部下であり、我々の指揮する小隊の一員だ。そうだね?」

「救援には感謝します。ですが今までずっと私は救難信号を送ってきたのにあなたたちは来なかった」

「信号は受信していない」

 やっぱりだ。彼らは今まで自分が打ってきた、アークエンジェルからの救難信号を受け取っていない。

 受け取っていないどころか、たぶん自分が手を振っていたのさえ見逃している。

「さあ、こっちに来るんだ」

「……もし、嫌ですと言ったら?」

「なに?」

 あまりにも突飛な言葉がハヤミの口から出てきて、将校はスーツ越しにも少し驚いた声を出した。だがなんでだろう。ハヤミにはなぜか、自分を助けに来た彼らと一緒について行ってはいけないような気がしたのだ。

 さっきまでユーマの少女を一緒に連れて行こうとさえ思っていたのに。

「敵に感化されたか?」

「違う。戦争は終わった。彼女に銃を向ける必要もない。オレだって、これからどこに行くのも自由だ」

「それは違うハヤミ少尉。君は、ここがどこで、どんな環境なのかを分かっていない」

 装甲服を着る将校は小さく溜息をつき、後ろを振り返らず腰あたりで、小さく手を振って後ろ側に立つ兵たちに合図を送った。

 携帯ボンベ、対弾装甲服を着込んだ重武装の兵士の一人がうなずき、指をふってハヤミたちの方へ向ける。

 残りの兵士たちが無言で続き、銃を構えながらハヤミ達の後ろ側へ回り込んだ。

「ここは危険だ。ハヤミ少尉、我々は君を基地へ送還しなくてはならない。もちろん、君の身体の安全性も確保できる準備もしてある」

「どこにも危険なんてない! ……いったい何を恐れている?」

「恐れてなどいない、だがここは充分に危険なのだ。地表は人類の踏み込んでいい世界ではないと。我々の、マザーが判断している」

 そう告げると、将校は腰のホルスターのホックを外し拳銃に手をかける。

「もう一度聞く。我々とともに来るんだ、少尉。これ以上言わせるな」

 助けに来たと言う将校は、色つきで顔も見えないフルフェイスのマスク越しに、ハヤミに対し「保護」を強制してくる。

 ハヤミは本能的に一歩身を引いたが、そのすぐ後ろは銃を持った彼らで、しかもこの場を逃げおおせたとしても、待っているのは自分たちを地表に追い詰めた白い生物兵器たちだけだ。

「待ってくれ指令。何もオレたちには、変なことはしないんだよな? オレはただ帰りたいだけなんだ……」

「もちろん」

 ハヤミの後ろ側で大きな悲鳴がする。

 兵士たちの怒声、「暴れさせるな!」「手足を縛れ」などの声も聞こえ、もがく少女はハヤミに懸命に助けを求めていた。

 男達が少女を制し首と口を手で押さえつけ、何かを胸のポーチから取り出すのが見えた。

 一人が注射器を取り出し、暴れる少女の首に何かを打つ。すると少女は一瞬だけ目を大きく開いたが、そのあとはがくりと力なくうなだれ静かになる。

 ハヤミは振り返り将校を見たが、こちらも無事には済まさせないといった様子だ。ホルスターにかけられていた手がいつの間にか、銃を持ってハヤミを見ている。

「おとなしくしてもらおう。マザーには、君の保護と彼女との分離を厳命されている」

「いったい何を言っているんだ?」

「来るのか、来ないのか」

 将校は拳銃の安全装置を外し、ハヤミに突きつけた。

 ハヤミの答えは一つしかない。それに、なぜマザーは自分たちのことを知っておいてなお、自分たちを助けなかったのかとか、彼女のことを知っていたというのに彼女を乱暴に扱うのかとか。

 戦争は、もうとっくに終わっているのに、まだ戦争を続ける風なことをしているのか。それともマザーは、分かっていて全部やっているのだろうか。

 それらを頭の中で考えているうちに、すぐ後ろで誰かが砂利を踏む音と何かを構える音が聞こえる。将校の拳銃に気を取られ一瞬の迷いがあった後に、ハヤミは後頭部に衝撃を覚え、時間がゆっくりと流れ膝が地面につくような、痛みを伴わずふわふわとした時を過ごした。

 体が、動かない。痛みを感じているはずなのに何も分からない。

 それから、夢の中で誰かが話しているようにも思った。

 マザーは全能の統治機関だ。地下世界の、すべてを、管理している……人工知能で……夢の中で、誰かが言ったような気がする。

「連れて行け」

 そこから先は、ハヤミもよく覚えていない。

 走馬燈のようなものをみていた。

 まだ自分が生まれていない頃の記憶だ。

 自分は、水のようなものの中に浮いている。

 すべてがふわふわとしていて、自分はここにいるのか、それともこれは夢なのだろうか、それすらも定かではない。ただ何かが自分を見ていることは、分かった。

 それは人の目ではなかったし、また自分もそれを見て、人かどうかすらも分かろうと思わなかった。

 それは、自分を産み育ててくれる、超えられない何かだと思った。

 そして気づけば、自分は誰かの胸の内に抱えられていた。

 彼女は懸命に自分をあやしてくれたし、また育ててくれた。あのとき自分を見ていた不思議ななにかのことを、自分は覚えていたし、またあの目を見たいと思ってはいたが、自分は言葉をしゃべれず次第にそのときのことを忘れていった。

 この世に生を受けたという自覚はなかった。

 不満はない。希望もない。

 周りと同じような姿格好で幼少を過ごし、多少なにかが優れていたのか、クラス編成のたびにいつも周りの人間は変わっていった。

 「両親」たちは、希望通りだと言った。あなたは特別だと言われたし、教官も「他よりも優れた個体」と言っていた。

 自分自身も、何か他人とは違うなと思ったが、それが何なのか分からなかった。

 次第に何かを考えるようになっていった。考えていたが、答えは出ない。

 答えが出ない問いの答えを考える内に、自らに課せられた評価テストの成績が軒並み下がっていった。

 クローンとしては失敗作だと、誰かに言われた。

 他のクローンたちとは別のクラスに最配属され、ハヤミは再教育過程を受けることになった。そこは教育のための施設ではなく、再生工場だった。

 ハヤミはクローニング工場の塀を乗り越え、逃げ出していた。


『道は、自らが決めた自由です』

 逃亡者として裏道を歩くなか、マザーが電光掲示板に経典を示していた。

 それが何なのか分からなかったが、人々はとかくその言葉をありがたがり崇拝していた。

 やがて時が経ち、ハヤミは一人で自立していた。

 最初はこの腐った町を世界のすべてだと思いゴミのような人生を生きようとしていたが、いい仲間に恵まれ、運もよく、人身売買やドラッグ売りからの、レーサーを経て、はじめて白いシーツとベッドに寝たことを、思い出した。

 あのとき自分は、真っ白な世界に生きていたんだと思った。暗くて汚い世界から憧れの真っ白な世界に飛び出し、気がつけば自分はたった一人で空の深淵をのぞき込んでいた……あの日見た空の色が、目から離れない。

 ハヤミは白い天井を見て、泣いていた。

 気がついたら、病室の中だった。

 白くて綺麗な部屋。

 窓からは、さんさんと輝く太陽の光が差し込んでいる。


 まるで何事も無かったかのように、隊舎は静まりかえっていた。

 ほとんど誰もしゃべらない静かな廊下。

 木陰でも育つ薄い緑色の観葉植物が、鉢植えごと廊下の隅に配置されている。院内の廊下はゴミ一つ無く、松葉杖をついて廊下を歩いてもまるでどこまでも左右対称のような、すこし窮屈な感じを受けた。

 消毒液のにおいがする。このフロアは、軽度の傷病兵を収容する区画らしい。

 きびきびと歩く白衣の女性と廊下ですれ違う。

 首もとを見ると、階級はハヤミより上だった。


 若い軍医はハヤミを診て、墜落の際に受けた外傷が原因の急性記憶障害だろうと言ってくれた。

 しばらく投薬とその後の様子を看るから通院しなさいと言ったが、ハヤミは上の空のようにただうなずいただけだった。

 頼りないハヤミの返事を見て、若い軍医も苦笑する。人を看るのは久しぶりだと。

 ハヤミは、なぜ自分がここにいるのかよく分からなかった。


 とある晴れた日の昼下がり。

 町は静かで、平和で、自分がいま仕事をしていることすら一瞬忘れてふらっとどこかへ出かけていってしまいそうなほど、平穏だった。

 制服を着たハヤミはそのボサボサな髪をぐしゃぐしゃと掻き上げ、制帽の内側を整えた。

 ふと見れば、公園がある。小さな公園だ。

 基地司令部付き衛生隊の窓口で渡された薬袋をゴミ箱に捨てて、ハヤミは空いているベンチの一つに腰掛けた。

 ハヤミの基地は、地下都市ジオノーティラスの中でも底辺にあり、基地に所属する部隊のほとんどは実働部隊と、それをサポートする整備科、施設科で構成されていた。

 今ハヤミは、緑地地区と住宅街の並ぶゾーンツーにいる。

 ゾーンツーは、平たく言えば地下都市の中での一等地で、通常ひとが入れるゾーンの中ではもっとも地価が高く、また地上にもっとも近いゾーンとして位置していた。

 逆に下層は地価も低く、また治安も下に潜れば潜るほど悪化していく。ハヤミが生まれたゾーンは地下都市の中で下から三番目で、今ではハーレム(無法地帯)区画として通常の立ち入りを禁止されていた。

 この地下要塞都市に底辺層から広がりつつある病的な現象、ミームというか、法の無秩序化や土地計画が頓挫する現象、ハーレム化は、誰にも止められていなかった。

 それでもこの上層区画にいる間はそんな無闇なことも忘れられる。

 あたたかい春のような気候。温暖な風。温かい日当たり。太陽。

 青い壁ぞいにエレベーターが走り、人々を乗せて他の階へと連れて行く。

 ハヤミは胸元のポケットをさぐりたばこを探した。

 無かった。

 それから自分が今まで何をしていたのか思い出せない事に、何とも言えない不安を感じていた。

「何をしていたんだっけか」

 公園には誰もいない。子供も、老人もいない。

 草が生えた小さな園庭、腰あたりまでの背丈の低木で柵が作られ、また他方にはとても小さな噴水がある。水は出ていない。

 ベンチから少し離れた場所にはゴミ捨ての籠が置いてあって、中には昨日の新聞が捨てられていた。

 行方不明だった軍人、敵の基地を発見し徒歩で帰還。敵はいまだ健在。

 そんなだっただろうか。

 隙間から覗く写真には、たしかに自分と自分を抱える仲間の姿があった。

『すべては、自らに導かれた結果なのです』

 何か大切なことを忘れているような、そんなもやもやとした気分で町を歩いているとマザーの広告が耳に聞こえた。

 マザーとは、この町全体、国、地下世界すべてを管理している行政機関だった。

 この機関は、長く争いの絶えない地上世界から人々がその生きる世界を地下に移したときに産み出した、英知でもある。

 人々は上に立つ者の意思によって生き、生活、生活を支えるインフラ、社会も、その仕組みも法も執行も、管理はすべて一つの者が行いすべてを支え彼らを支えている。

 その人の上に立つ者というのが、機械だった。

 旧世紀には議会や独裁者が立ったこの不安定な立場も、機械が取り仕切れば完璧であるとの考えだった。そして人々は生活からなにから、夢も、希望も、果ては未来までも、この自ら考え自らを律する完璧なる機械の下部としてこの地下世界に生き続けることになる。

 ハヤミもその一人だ。もっともハヤミの場合は、自分の親すらもマザーであるというくらいは、マザーに人生そのものを依存している。

 人々は人生に疑問を持たなかった。そしてこの地下世界に忍び寄る漠然とした不安に対しても、寛容であった。

 それがこの世界の意思ならば。

 法と秩序のほころび。

 自由と生命の終わり。やがて訪れる終焉の足跡が、世界の下層からやってくる。

『理想が現実となる、再現される日は間近と言えるでしょう』

 旧時代末期に作られた人工知能マザーの、ノイズとバグが走るホログラムが自らに語りかけていた。

 その目はたしかにこちらを見ていたが、ハヤミとしては、なんとなく薄ら寒くて、何か現実味がなさそうに思えた。


 軍の占有エリア片隅にある自分の住み処、基地はいつも通りだった。いや記憶の中で自分が住んでいるという日常の光景そのままのその場所が、記憶のままの通りという意味で。

 出入り口ゲートのいつもの門番に敬礼をして、形だけの身分証を見せてそのまま素通りしていく。

 無事帰還したヒーローだとか何度目の撃墜王とか紙面ではいろいろ言われているようだったが、こと現実世界でのハヤミはただの人間だったし、その日常は、記憶の中そのままのいつも通りだった。

 草のはえた荒れ地を切り貼りして作ったような駐屯基地。

 手入れされていない荒れ地区分と区分の間に、ぽつんと建てられた掘っ立て小屋のような、安い作りの宿舎。

 基地のある区画は隣の旧居住区との間に柵を設けていた。その柵の外側と内側では、世界はまったくちがった。通常の人々は、基地の中を柵の外から見つめている。

 その表情はそれぞれ違った様にも見える。そんな彼らをハヤミは、柵の内側から覗いていた。

 この前まで、自分もあちら側の人間だったのだ。今でこそこんな身なりをして、こんな場所に住み着いているがあちらの世界にも生きる人間がいる。

 柵の外の世界は、バラック小屋と、ゴミ置き場と、墓場と奴隷と娼婦たちの住むエリアだ。

 そこに住む人々の顔も、ハヤミは知っている。

 子供の頃のハヤミが見ていたのは、この基地に格納されている戦闘機だった。

 今、柵に手をかけこちらを見ている子ども達は何を見ているのだろうか。

 ハヤミはため息をつき、買い物袋からリンゴを取り出して一口かじった。

 この基地はスラム区画と居住区画の中間に位置している。年々広がりつつあるスラム街と通常の居住区の間にあって、この基地が対スラム対策の最前線基地。

 来年はこの基地もスラムに飲まれるのかなとぼんやり思いながら、ハヤミは自分の住む官舎に戻っていった。


 玄関脇でいつもの当番に帰還の報告を告げ、廊下を進んで自分の部屋の前に立つ。

 軽く日焼けした自分の名前の描かれたプレートには、うっすらと埃がついていた。それを指先で軽くなぞって落とし、勤怠スライドを「事故」から「在室」にする。

 そう、やっと戻ってきた。

 自分の部屋。自分のいる世界。

 なにかすがすがしい気分のような、何かちょっとだけ足りないような不和ついた気分のまま、自室のドアを開けた。

 部屋の中は、記憶の中のままだった。あといつもの同居人がベッドに寝ながら雑誌を読みふけっており、ハヤミがドアを開けると物珍しそうに顔だけを上げた。

「おかえり、撃墜王」

「ただいま、クソ野郎」

「書類が貯まってるぞ」

 カズマはなれた様子でそう言うと、またベッドに倒れて雑誌を読みふけり始める。

 ハヤミの使う専用の小さな机の上には、ハヤミ宛の大量の書類が置かれていた。

 いつものように。それこそ、何事もなかったように。

 ハヤミは何か大きな矛盾を感じたまま、だけれどもそれがいったい何であるのか言葉にできないまま封開けされていない封筒や書類を手に取り、手にとってとんとんと机に当ててそろえた。

「で、娑婆はどんなだったよ」

 唐突に、カズマが声を上げた。

「シャバぁ?」

「久々の外出だったろ。外の様子だよ」

「外出なんて毎日してたじゃねえか」

「バカ、壁の外だよ外。いくらおまえが撃墜慣れしてるからって、俺たちが外に出るなんてことはないだろうがよ」

「いつも通りだったんじゃねーの?」

「なんだそりゃ?」

 二段ベッドの上段に寝ていたカズマが変な声を上げ、雑誌を横に投げ出し上体を起こす。目の部分に突き出て目立つ電子義眼のピントを大きく動かし、カズマはベッドの柵に腕をかけて身を乗り出した。

「バーチャルな体験じゃ飽きたらず」

「そんなんじゃねーよ」

「地上に落ちて、身をもって世界の浄化を確認してきた。地表の放射線量は低い。俺たちはいつでも地上にあがれるってわけだ」

「オレは科学者じゃねーよ」

「粒子状になったガラス片と、旧世紀より堆積してきた埃の大地」

「ずいぶんと詩的だな」

「おまえの真似してんだよ、バカ」

 大げさな身振りを交え地表に憧れる好青年風を腕と顔芸で演じていたカズマが、一瞬で脱力しベッドの柵にもたれかかって、やる気のない顔に戻る。

 そのとき廊下の方で、誰かが走る音が聞こえてきた。

 というかこの官舎にはカズマと、そこに押し入って勝手に荷物を持ち込み住みついているハヤミしかいない。

 走る足音が廊下の奥からだんだんドアの前まで近づいてきて、あと装備か何かをがちゃがちゃ鳴らす音も聞こえ、音がドアの前で止まると勢いよくドアが開き見覚えのある身長の低い女性隊員が現れた。

「いた! 本当に戻ってきてる!」

「おう」

 パイロットスーツを着た小柄な女性兵士が走って、ハヤミの胸に飛び込んだ。

 そして半泣きの顔をハヤミの服で勝手にぬぐう。

「ずっと心配したんだから! ハヤミのバカ! アホ!」

「お、おう」

 泣きながらしゃっくりと嗚咽を繰り返すミラ中尉に、ハヤミとカズマは非常に気まずい感じになって黙る。ハヤミはどう反応すればいいのか分からなくて。カズマの方は、自分の妹が自分には見せない顔をして泣いているのを見て。

「そういうの、あー、いや。感動の再会だもんな」

「あっ」

 ミラ中尉は言われてはっとした。だがその前にハヤミが彼女の肩をやさしく抱いて、それからミラの目を見つめながらゆっくり離す。

「ただいま」

 二人の妙な様子をベッドの上で見ながら、柵越しのカズマが頬杖をつく。

 ミラもカズマの視線を思い出した様子で、慌ててハヤミを突き放した。

「おい」

「ずっとオレを探してくれてたのか」

「無視かよ」

 ベッド上から問いかけられるカズマの言葉に、ハヤミはミラ中尉……カズマの妹であり、カズマやハヤミたちの同期で、同じ教育隊から飛行隊まで上がってきた戦友から視線を外しカズマの方を振り返る。

 二段ベッドの上。カズマの住む場所。視力の弱い目を代替眼球に入れ替えて、体の一部を電脳処理したパイロットであり、チームの頭脳役でありハヤミのペアでもあるカズマが不機嫌そうに眉間にしわを寄せて頬杖をついていた。

「おまえも一緒に探してくれてたのか?」

「ああそうだよ。いくら撃墜王だからって、誰もおまえを見捨てやしないさ。おまえがロストしてから、部隊みんなでずっと探してた」

「教官もか」

「もちろん。まあ任務内容は出撃ってことにしてたけどな」

「私は! まだハヤミが見つかってないかと思って、これから出るところだったの」

「いやそれおかしいだろ。いやちょっと待ってくれ」

 ハヤミは言うと、頭を掻きわずかに思い出されるそのときの記憶を、よく思い出そうとした。

 断片的に蘇る記憶の中でハヤミは、たしか、空を見ていたような。

「いや、ちょっと待て。オレは確か……たしか、お前たちに救援信号を打っていたと思う」

「思うって、なんでそんな曖昧なんだよ」

「実は覚えてないんだ」

 ハヤミは言うと、うーんと唸りながら眉間にしわを寄せ考えだした。

「墜落の衝撃でなんも覚えていない、オレは記憶喪失らしいんだよ。医者に言わせれば」

「そうなのか? ぴんぴんしてるみたいだけどな」

「うわ、ハヤミすごい傷」

 そう言って今度はミラ中尉が、ハヤミの首裏から後頭部にかけて指をさす。

「ものすごい内出血よハヤミ。本当に大丈夫なの?」

「うーん」

「ところでミラ。おまえこんなところで駄弁ってても大丈夫なのか?」

「ん? あ!」

 カズマに言われて新米中尉のミラは、慌てて自分の胸元や肩周りを触りだし自分が今着ている服の格好を確認し出す。

「私、仕事中だった!?」

「はやく職場に戻らないと無断欠勤になるんじゃないか?」

「ならないよー、どうせまじめに仕事してるのなんて私たちくらいなんだし」

 カズマの言葉に投げやりに返事をしながら、ミラ中尉は廊下に向かって小走りに出て行く。居室のドアを開け放すと、ふとミラは振り返りハヤミを見た。

「おかえり」

 ぽつりと小さくいうと、またいつもツンとした顔になってミラは廊下の向こうに駆けていった。

 ハヤミは黙って立っていたが、しばらくしてカズマの方を振り向きおまえの妹はどうしたんだと聞いてみた。

 カズマは、妹は思春期なんだとぶっきらぼうに答える。

「なあ。それよりも、生還祝いにどっか飲みに行かないか」

 そういってカズマは二段ベッドから身を乗り出し、にたにたと笑いながら窓の外を親指でさした。

 底辺から迫るスラムが、すべての人々にとって脅威の対象というわけではない。

 例えばこの世界に住む人々にも生活があるわけだし、事情があって管理された上層階から下層のスラム世界に移り住む人々もあった。

 生まれがスラムで、死ぬまでスラムという人々もいた。

 スラムからドラッグでのし上がり麻薬王となって、上層階に新たなドラッグの市場と縄張りを持つことをもくろむ者もいた。学者になって上層階に引っ越す者もいた。

 上層と下層の境はむしろ消費文化が活発で、上の区画では取り扱われていなかった商品を、下層世界出身の商人が上層階層の人間に売るということもあった。

 ジオノ-ティラス地下世界に住む人々は、管理された地下世界と、管理されていない地下世界の両方を堪能していた。

 そして管理されていない地下世界が、管理されている地下世界を浸食しているという形だ。

 ハヤミも、スラム表層の出身だ。

 過激な新興宗教がはびこり、警察は賄賂を要求してくる意地悪いただの小役人、人身売買は公のもので、快楽と時間、命が等価価値であるとされ取引できる地下世界の表層界。

 かつて世界を破滅に導き荒廃と滅びをもたらした人造兵器の生き残りが、金と自由を手に入れ我が物顔で通りを歩き、その横では市民権を売ってギャンブルにつぎ込んだ負け犬がゴミあさりをしている。

 通りは様々な人種、様々な者らであふれかえっていた。このさらに下の層にもスラム界は続く。

 ハヤミは、まだこのスラム最下層に入ったことはない。もちろんカズマもまだない。

 二人は地下スラム界行きのエレベーターに乗り込み、基地のある中層部から下層へと向かっていた。

 軌道エレベーターの窓の外には、暗い深淵が広がっている。二人は窓辺にたち、暗いガラスの外をのぞいた。

「懐かしいな」

「そうだな」

 深淵の底には、ぽつりぽつりと明かりの列が見える。ここジオノ-ティラスはかつての大戦から今までの長い間、崖沿いにあるいくつかの大きな地下核シェルターを何十にも堀り起こし、拡張し、地下に掘り進めて区画を分けて今に至っていた。

 だから一つ一つの地下区画は広大で幅もあり、区画には高層ビルや高度な人口密集地帯もあった。

 そして特筆すべきは、雨が降ることだ。ただし地下のスラム区には、空気循環システムがない。

 地下の長い歴史と腐敗と汚泥とゴミの堆積が、独自の気流を環境を整え自然に風のながれを作っている。そして地下にわく風と雨と雲は、すべての肉と金属を腐食する強酸性となった。


 ハヤミ達の乗るエレベーターが区画乗降場に停止しドアが開く。カズマが腕に持っていたコートを身に羽織り、濃い黒色のサングラスを目にかける。ハヤミもそれに習ってコートを羽織った。

 乗降場はかなり簡易的な場所で、人目もなく、建物と建物の間にある小さな路地裏の片隅にひっそりとあるような、そんな場所だった。

 それでも架設の雨受けがあるだけマシで、コートを掛けた肩にかかる水滴はすべて雨漏りだ。

 道端で寝転んでいる浮浪者たちは、抑揚のない声で陽気な独り言を狂ったように呟いている。

 毛布は水たまりにつかり、彼らは水をよけようとしていない。

 ハヤミはフードをかぶって彼らを見ないようにした。

 この世界では、強い者、弱い者の区別がはっきりしている。

 高度な地上文明の残り香、高層ビル群、往来に立つ標識の跡、略奪され燃え残った庁舎跡地、むき出しになった鉄骨。

 力を持つ者は雨水をしのげる地下世界の中の地下にも入れるが、力を持たざる者は、雨ざらしの地下に取り残されて気が狂うまで堪えて忍ぶしか生きる方法はない。

 地下世界の均衡は、力だ。また運の良さも、悪さも、その区分を分けることができる物はなんでも、この世界では力のあるものが持っている。

 地下世界には、むせるほど濃い紫の霧が広がっていた。


 雨のふりしきる地下世界の表道から裏道へ一歩入ると、そこにはモールがあった。

 モールの中には空調機や換気扇もあり、表の濃い霧は入ってこず雨漏りもしていない。すこし雑多なゴミやガラクタはあれど、明るくネオンをともした店の軒先からは、陽気な人々の声や売女たちの艶めかしい誘いの声が聞こえてくる。

 ハヤミ達はコートのフックを外しフードを脱ぐと、防毒マスクを外しふうと息を整えた。

「なつかしいだろ」

 フードをぬぎコートを手にかけたカズマが振り返る。だがハヤミは、表通りに降る雨と水漏れの滝を見てしばらく体を止めていた。

「なんだろう。どこかで見たことがあるような」

「そりゃそうだろう、ここおれたちの地元だろ?」

「ん?」

 言われて、ハヤミはカズマの方を振り返った。

「地元?」

「忘れたのか? 薄情な奴だねえ」

 不思議そうな顔をするハヤミを見て、カズマは思い切り眉をひそめる。

 それからカズマは目をそらすとすこし上を向いて、モールを見て、流れでサングラスを外して人工網膜の目で空を仰いだ。

「おまえが昔、軍に入るってんでこの町から出て行ってから、ここらは結構変わっちまったんだ。俺はたまに帰ってきてるけどな」

 カズマは言うと、先頭に立ってモールの中を歩いていった。ハヤミは今自分がどこにいるのか、よく分からない。

 静かな通りのどこかで何かが鳴いている音。雨水が滝となって床を伝う音。バカ騒ぎ。誰かの叫び声。泣き声とか。古い機械が回転してる音。

 ツンと鼻の奥を刺す刺激臭。むせるほど濃い腐敗臭。薄い女の化粧のような香りかと思って鼻を誘われていれば、そのうち吐き気をもよおすほど濃い臭気が鼻を襲い顔をそらす。

「まだ思い出せない?」

「うえっ、いやもう充分思い出した。ここはオレの地元じゃない」

 ハヤミは手を振り鼻先の空気をかき消しながら否定した。

「オレの地元はもっとあっちだ」

 ハヤミは薄暗いネオン街のさらに奥、もう明かりの灯っていない薄明かりの奥を指さした。

「もうとっくに飲まれてる方だ」

「ああ、そうだったか。でもここらへんもよくきてたろ?」

「来てたかも知れねえけどあんまり来たくない」

「まあそう言うなよ。おまえの無事生還を祝って、おまえに会いたいって言ってる人がいてな」

「会いたい?」

 怪訝そうに、ハヤミは眉をひそめた。だがカズマは道の先を歩いているきりで振り返らずそのまま語り続けた。

「そう会いたいそうだ。俺にもよく分からんが、おまえが探しているものを知っていると言われた」

「なんだそれ」

 ハヤミは口を引きつらせ半分笑うようにして、歩みを緩めた。

「オレが探しているものってなんだよ。オレが、何を探しているんだよ。こっちが知りたいっての。おまえの知り合いは占い師か?」

「占い師じゃない」

 カズマは言い、一つの薄汚い居酒屋のようななりの店の前で立ち止まった。そして振り返ると、神妙そうな顔でハヤミに指を立てる。

 目の部分の電子網膜カメラがピントを動かし、ハヤミの目を見つめる。眉間にもしわが寄っており。

「もっと恐ろしいものだ」

 カズマが扉を開けた。なにか、恐ろしい者がいるのではないかと言うくらい暗い内側に。

 地下街の中に埋もれる深淵の一つ。墓のように見えた。

 ハヤミは一瞬たじろぎ嫌な予感がしたが、カズマに促されてゆっくり中に入った。


 ドアの内側は、闇だった。

 鼻につくのは、たばこの臭い。ハヤミの通された部屋はそこらじゅうヤニの煙で埋め尽くされておりすでにまともな息すらできなさそうだが、光がなく目に見えないので、まるでタバコの煙の塊の中に頭を埋めたような錯覚に陥った。

 まずカズマが表のドアを閉め切った。今いる場所が、漆黒になる。それから、小さく電子機器の光が煙の彼方で輝き出すのを見つけた。

 光りは淡くて小さかった。それが次第に部屋中に広がっていく。

 最初、闇の中でともる光は小さかった。まるで深海の中を泳ぐ小魚のようだ。それが一匹、二匹とゆっくり増えていって横に縦に広がっていく。

 群れのようだ。闇の中に光る小魚の群れが広がっていきハヤミの目の前で渦を巻く。

 大海原の中で小魚の大群が自身を飲み込むように。タバコの煙も幻想的にそれらの輝く小魚の群れの輪郭をぼやけさせ、気づけば部屋に広がっていた深い闇は、いつの間にか淡く大きな輝きの中で消滅していた。

 大男がタバコをゆっくりくゆらせ、目の前に座っているのをハヤミは見た。

 男の顔は見えない。だが見覚えがあった。それは、大昔のこと。ハヤミがまだ裏路地で生きていた頃だ。

 当時あったチャイルドマフィア同士のいざこざに巻き込まれ、半死半生になりどこかで死にかけていた時に彼を助けてくれた大人の一人が、彼だ。

「久しぶりだな」

 記憶の中でハヤミは彼を、オヤジと呼んでいた。もちろん彼はハヤミの父親ではないし、ハヤミの父親は厳密には人間ではない。

「オヤジさんか? またどうしてここに」

「ちょっとおまえに用があってな」

「用?」

 大男はタバコを口にくわえ、ハヤミを自身の近くに座るよう無言で促した。

 ハヤミと言えば、自分をここに連れてきたカズマが何を考えているのか、そして今し方出てきたこの大男、かつて自分を救ってくれた謎の大男が今になって出てきたこと、それから「用」というものを考えて、少しためらっている。

 カズマはハヤミのすぐ後ろに立っていた。

 自分が墜落から無事生還した祝い? その割には、もの凄く胡散臭い。

「別に、騙したわけじゃあないんだ」

「騙す?」

「酒は飲める。それはおやっさんが奢ってくれるそうだ」

 おやっさん、オヤジ、様々な呼び名があるこの大男をハヤミはよく知らない。

 男は黙ってタバコをくゆらせていた。

 そのタバコこそが、息が苦しくなるほど部屋中に煙を渦巻かせ淡い光点の輪郭を曖昧にしている存在だ。

 ハヤミは男の前に座った。バーのカウンターのような場所だ。だが男の方にはまるで存在感がない。

「ホログラフィか」

「最近は外出もままならなくなってな」

「オヤジ、アンタの見た目はあの頃とほとんど変わってないじゃないか」

「あの頃?」

 男の顔は、よく見えない。そもそもハヤミはこの大男に助けてもらったときの記憶はあるが、この男がどういう人間で、どんな顔をしていて、どこに住むどんな人間なのかまったく知らなかった。


 男は体もずっと大きかった。だがそれ以上に、威厳というか、近寄りがたいというか、なにかそんなところがあった。

 同時にどこかつかみ所がなく、とつぜん目の前に現れてもすぐ消えてしまいそうな、どこか幽霊のようでもあった。

 ハヤミが最初に彼と会ったのは、突然降ってわいた災難と抗争に負けて、小雨の降る裏路地でぼろぞうきんのようにして倒れていたときだった。

 まだハヤミは小さかった。

 自分の力も、存在感も、生きる意味も実感も、何もかもが消えてしまいそうなほど、ハヤミは自分を小さなものだと思っていた。そうして本当に消えて無くなりそうなときに、男が自分をのぞき込んでいた。

 鼻をつく臭いを漂わせる小雨が、自分を、毛布ごと溶かして湯気だたせるある日だ。

 男はついてこいと言った。

 そのときハヤミは、まだ子供だったし、施設を抜け出し路地裏の汚い世界でやっと生き残る場所を手にしたのにまたすべてを失ったばかりだったので、身よりも、明日のことも考える余裕もなかった。

 男はタバコをくわえ、ハヤミに必要なものをすべて与えてくれた。それも、どこからこんなに出してくるのかとか、なぜ自分にこんなに施してくれるのかとかいろいろな疑問が降ってわいた。

 なぜオレにこんなによくしてくれるんだと聞いたら、男は何も語らず、そのうちわかるとだけ答えた。

 それが、もう何十年も前の話だ。それからハヤミは大人になり、彼の助けを受けて軍に入った。

 男は軍の何かなのかとも思ったが違ったようだ。ハヤミが軍に入ってから、男は姿を消した。

 それが、今。

 当時と、まったく同じ姿と声でハヤミの前にいる。

「ずいぶん大きくなったじゃないか」

 男は言った。ホログラフィだと分かっていてもその異様なほど大きな存在感は、まるで本当にそこに男がいるようだ。

「あんたに食わせてもらってきたからな」

 カウンターの前に立つマッチ棒のようなイスにすわると、カウンターの前から何かが伸びてきてハヤミの前に黙って何かを差し出した。

 見ればタバコの煙の向こう側に、見慣れないロボットがいてハヤミ達を見ていた。

 無機質な目の前のロボットは、最低限の飾り、外観は無機質だがどこか威圧的、細い腕だが関節部は通常の軍事用と同じものを使っている。センサーは市街地では絶対に使うことのないレーダー照射機を装備している。

 ロボットは次に、カズマを見た。

「コイツとおなじものを寄こせ」

 カズマはハヤミを指さす。

 ロボットはカズマの言葉でハヤミを振り返り、頷きもせず、愛想も寸分の狂いも余計な動きもなく、静かに次のコップを用意してカズマの前に出した。

「軍用機だな」

 ハヤミは誰に言うでもなくつぶやいた。

「どこから出てきたんだか」

 カズマも、誰に言う風でもなく答える。

「なぜおまえがオヤジを知ってる」

「俺は知らなかったんだ」

 カズマはヘルメットを脱ぎ首を振った。

「おやっさんとお前が繋がってることを」

 カズマはそう言うと、自身の前に置かれたカップを手に取り申し訳なさそうにする。

「おやっさんとは、お前と会う前からよく顔を合わせてたんだ」

「それだけか?」

「いやまあ」

 カズマは物言いにくそうに苦笑いの表情を浮かべる。

 ひとしきり黙ってにやにやしていると、闇の奥で黙っていた大男が話し始めた。

 だが男は、ひとしきり口を開いてなにか語ろうとはしたが、その言葉はどこか歯切れが悪かった。

「ついに、このときが来たか」

「オヤジ?」

「困ったな。いつかこの日が来るとは分かっていたことだが、実際この日が来るとなるとさすがに難しい」

 大男のホログラフィはタバコを大きく吸い込むと、二重あごをうごかし、ゆっくりと息を吐いた。

 ホログラフィの影は実像を持たない。

 だが煙が部屋中に蔓延し、朧な光点がゆっくりと壁面を泳ぎ幻想的な視覚情報が、部屋に漂う虚像と実像の境を曖昧に醸し出す。

 男は覚悟したように息をのむと、ハヤミの前に座る巨体を振るわせハヤミの顔に迫った。

「フォックスを追うのをやめろ。その男を追い続けても、破滅が待っているだけだ」

 巨漢は言うと、ふうと息をつき、またゆっくりとタバコを吸い続けた。

 言われたハヤミは目を見開いた。そう今まで確かに自分はフォックスを追いかけていたが、そういえばいつからか奴を追うのを諦めていた。

 いつか交えた模擬空戦で、身をもって自分の限界を知ってからだ。

 自分が撃墜王と初めて呼ばれた日のことでもある。

 なのに、なんだろう。何か違和感があるような。

「なんで、オヤジがそれを知ってるんだ?」

「町中がおまえのことを噂している」

 男は言うと、タバコを持つ手をゆっくりと口元に持っていき、影と煙でよく見えない輪郭の前で勢いよく煙を吸って吐き出した。

「悪いことは言わない。奴を追っても、無駄なだけだ。あるいは絶望するだけだろう」

「それは知ってる」

「本当か?」

 ハヤミは昔を思い出し、墜落して傷ついた肩をゆっくり回す。

「痛みは体の方が覚えてる」

「だが、またなにか変わったようだな」

 ホログラフィの大男はかまわずタバコを吸って吐き続けるが、煙はそこら中からもくもくと沸き立って部屋中に蔓延していく。煙いどこか、空気が無くなっておぼれてしまいそうだ。

 それでも平然とした顔で目の前に立つ戦闘用ロボットは表情も変えずにそこに立ち尽くし、カズマとハヤミも小さく咳をしながらその場に居続けた。

 なぜって彼こそが、自分たちを軍に入れ、フォックスを追わせた張本人だからだ。

 少なくともハヤミの場合はそうだ。だがカズマの方はどうかというと、彼の方は何か難しそうな顔をして眉間にしわを寄せ、ハヤミが自分を見ていることに気づくと黙ってそっと向こうを見た。

 壁に描かれた淡い電子の光が波のようにうねって、壁中をかけぬける。

 ハヤミは黙って眉をひそめ、隣の大男に目を向ける。

 男の虚像は黙ったまま、まだタバコをふかしていた。

 かつての記憶の中、まだ自分が生まれていなかった頃に見たような記憶が、頭の中でふっと揺れる。だがその記憶と目の前にいるこの謎の多い大男との繋がりが分からない。

 ただハヤミにとって彼は、何かある度に自分の目の前に現れて、何かを手渡し、またどこかに消えてしまうよく分からない大男だった。

「君に母親はいるか。いや、前にも聞いたことがあったかな」

「いねえよ。前にも話したと思うが、俺に人間の親はいない」

「そうだった。だが父の方は?」

 大男は顔の見えないままハヤミに訪ね、またしばらく黙った。

 ハヤミは父親がいるだろうとは思ってはいたが、いるという確信も持っておらず、そして今までその事実も確認しようと思ったことがなかった。

「いねえよ」

「そうか」

「なあオヤジ。オレはあんたに今までずっと世話になってきた。恩義も感じている。ここでの生き方やここでのすべてをオレはアンタに教わってきた。でも、分からないことがある」

 ハヤミは今までずっと感じてきていたことを率直に彼に聞いてみることにした。

 もちろん、今までもずっと感じてきていた疑問だし、会う度にそのことを彼には聞いてきている。

「オヤジはオレを助けて、どうしたかったんだ?」

「それはもう何度も答えているだろう」

「答えてくれないのか」

「いや」

 巨漢は体を揺らしながら、ゆっくりとバーのカウンターの上に肘をついた。

「もう答えている。お前がこれから進もうとしているこの先の道を、変えて欲しいだけだ」

「オレは迷信深くもない。それに、占い師も信じないんだ。マザーがいつも唱えている未来とやらも約束された希望とやらも、オレはうんざりなんだ」

「知っている。お前は何度も言っていたな」

 大男は静かにうなずいた。

「なんでまた、同じ事を聞きたがるんだ?」

「アンタだってそうだ。オレの家族の話しを、何度聞きたがる?」

「お前を知りたいと思うからだ」

「でもオレはアンタを知らない。なのに、アンタはオレを知っている。あのときオレを拾ったのだって、まるでオレを待っていたようだったし。でもオレたちは長いつきあいなのに」

 ハヤミは目の前に置いてあるカップを掴むと、中身も水に勢いよく液体を飲み込んだ。

 隣で黙って見ていたカズマが、ちょっとだけ顔を動かしてハヤミの飲み方をまねる。

 煙だらけのこの地下室では、何が本当で何が虚構なのか、よく見えないしよく分からない。

 壁をなぞるようにしている淡い光点の群れは、静かに三人と無言の一体を取り囲んで悠然と泳ぐ。

 ホログラフィの大男は、小さく息を吐いて体を揺すった。

「わたしだけが、一方的にお前を知っている、と?」

 男は低くくぐもったような声で、ハヤミの問いに答えた。

 ハヤミは一息つくと、下をうつむきよく考えてから口を開く。

「オレも、あんたを何か、知っているような気がする」

「知っているのか」

「いや……わかんねえ。でも感謝はしているよ。恩も感じてる。それは悪いことじゃないはずだ」

「そうか」

 男はハヤミの感謝の言葉に、興味なさそうにただ静かにうなずいた。

 ハヤミはむっとしたが、それもいつものことだった。

 本当に、長い間この男とは関係を持っていたが彼の素性はおろか、名前も、どこに住んでいるかも分からずじまい。その上でなぜ彼が自分を助けてくれるのかその理由も分からない。

 ただ男は、顔は見えないがたまに寂しそうに肩を落とすことがある。その真意は分からないが、なにかいい意味でハヤミを助けてくれているわけではない、というのは、言葉にはならなくてもハヤミは感じていた。

 そして今もまた、男は黙ってハヤミの様子を煙の向こう側から見ていて何か考えているようだった。

 ホログラフの影は精巧にできている。その仕草も、様子も、まるで本物の人間のように見える。

「昔、おまえにとてもよく似た男がいた」

 男は突然語り出した。短くなったタバコを一端大きく吸い、ふうと煙を吐き出す。

 部屋中の煙は、すでに充分すぎるほど濃い。

「奴もおまえと同じように、フォックスを追っていた。お前と同じように、戦闘機に乗っていた。この話しはもうしたかな」

「いいや」

 昔語りはいつもよく聞く。だがそのたびに、男は新しいことをハヤミに言った。

「わたしと奴は親友だった。もっとも、年の差はあったがそれがお互いを離すことにはならなかった。奴が小さかった頃から、わたしは彼を手助けした。ちょうどお前が軍に入ってフォックスを追い出したように、彼もまたフォックスに夢中になった」

「ふふんまるでオレだな」

「いいや。おまえとは少し違う。奴はフォックスを追っている途中で死んだ。事故死だ。不幸が重なったと聞いている」

 男はいったん腕をカウンターバーの上に置くと、しばらく黙り込んだ。

「不幸な事故だった」

「その男の話と」

 ハヤミはカップの端をつまんで中身の液体を偏らせながら、カウンターの端を睨みながら、男の言葉を遮り眉をひそめる。

「オレの話しに、関係が?」

「別の話をしよう。今度の男はフォックスを追わなかった。わたしは彼にフォックスを教えなかった。別の道を進むよう男には勧め、男も軍には入らずまた別の道を歩んだ。だが途中で、偶然にもフォックスのことを知り追いかけはじめた」

「その男はどうなった?」

「死んだ。これも、事故だ」

 男は呟くように言うと、またタバコを吸った。

「もう一人も似たようなもんだ。奴はまあ、フォックスを追わなかったな」

「それで」

 ハヤミは、何か非常に気持ち悪い何かを感じつつ男に聞いた。

「どうなった」

「死んだよ。だからハヤミ、お前はフォックスを追わない方がいい」

「追わなければ死ぬんじゃないのか」

「死なないかもしれない。もっともお前はもうフォックスを知っていて、一度諦めている。だが最近、おまえはこの地下世界にはない何かと会ったようだな」

 男は見えない顔でそう言うと、ふっと笑うような仕草を見せた。

 ハヤミは男を見て不思議な顔をした。

「オレが、何と?」

「わたしにもわからない、何かだ。だが今はここにない。それがなんなのか」

「オレは」

 ハヤミはカップの淵に残った黒い液体を眺めながら、ゆっくりとカップをスタンドに置いた。

「オレが、何かと?」

「この世界にはない何かと」

 隣に座るカズマが、黙って二人の様子を見ている。ロボットの方は、始終無言だ。

 男は続けた。

「この世界にはない何かと、お前は会っている。だがそれが何なのかは分からない」

「オレは……覚えていないぞ。オレは何も知らない」

「知っているはずだ。それが何であるかを」

「オヤジが、何でそれを知っている」

「わたしはそれが何かを知らない」

「ふざけるな!」

 ハヤミは乱暴に立ち上がると、男の首筋を掴もうとして腕を伸ばした。

 だが腕は、煙の中で自分の掴むべき物を掴みきれず虚空を舞う。煙がゆっくりと舞い、電子の光たちは自由自在に部屋を泳いだ。

 姿は見える。男もまた、この世界では虚像なのだ。

 あるいは自分の記憶も。この感情も。何もかもが嘘のような。

 形のない物のような。でっち上げられた物のような。

 ハヤミはぼやける記憶の中で、忘れてはいけない何かと会っているような、何かを思い出しかけた。

 男のホログラフィはすでに輪郭がぼやけその存在は霞のようになりつつあった。あたりにはライトアップされた毒々しい煙だけが漂っている。

「今までのお前たちにはなかったことだ。だが言っておくぞ。お前はフォックスを追うな。マザーにも気をつけろ」

 声の主の姿は今ではほとんど見えない。声だけが残っている。

「奴は、今のお前たちを見守っているあいつは、いつかお前が超えるべき相手だ」

「何言ってんだアンタ」

「目だ」

 そう言って男の声は、もう二度と聞こえなくなった。

 後に残されたのは、暗い部屋にたたずむ古品の陸戦ロボットと、ハヤミと、手持ち部沙汰そうに酒を飲んでいるカズマ、煙と光の点画だけだった。

 すべては夢のような一時だった。

 巨漢が座っていたはずの席にはすでに誰の姿もなく、あれほど濃かった煙は換気扇に吸われてすでに薄くなりかけている。耳にさわるファンの回転音とともに目の前に姿を現したのは、先ほどまでたしかに動いていたはずのロボットの姿だった。

 まるでちゃちなおもちゃのようだ。使い古されたブリキのおもちゃのようなそれは、まるでもう何十年もそこに立ちすくんでいるかのようにその場でじっと立っていた。

 腕も細いし、顔の作りも軽薄で。部屋だって、真っ白で、安っぽくて、なぜあれほど幻想的にさえ思えていた部屋がこんなにも安っぽく見えるのか。

 ハヤミは完全に落ち込んでいた。

 悪酔いから目が冷めたようにまずカズマがゆっくりと立ちあがり、ハヤミの肩を叩いて外へ出るよう促す。

 ハヤミも立ち上がり、部屋を見回した。

「オレは、夢でも見ていたのか?」

「夢じゃないと思うぞ」

 カズマは自分の口座残高を見て、ハヤミに端末を突き出した。

「減ってる。まあいつものことだ」

「頭が痛いんだ」

 カズマに見せつけられた携帯端末の画面も見ずに、ハヤミはカズマを押しのけて店の外へと向かう。

 店の外は、小雨になっていた。


 屋根はある。

 雨をしのぐ場所もある。

 明かりもある。

 空気もある。無いものはなにもない。

 なのになんだろう、何かを失っているような。

「オレは」

 店の外はあいかわらず暗く、強烈な臭気が鼻を刺す。妙な頭痛がハヤミを襲い、ハヤミは何か、大切なものを思い出しかけていた。

「何を忘れているんだろう」

「生きる希望」

 ぽん、と肩をカズマが叩いた。

「約束は守ったぞ。オレは確かに、お前に酒をおごった」

「何でお前がオヤジを知ってるんだ?」

「それは、おいおいな」

 コートを外に出てきた着たカズマはハヤミのコートを手に持って、片手で押しつけてそのまま通路を歩いていく。

「ちょっと寄ってくとこがある。おまえにも行くところがあるだろう?」

「ねえよ、んなもん」

「たまには帰ってやったらどうだ?」

 そう言ってカズマは歩き続け、暗い町の奥に消えていった。

「ねえよ。帰るところなんて」

 一人残されたハヤミはカズマの消えた先を見ながら、手に持つコートを見て小さく呟く。

 幼い頃のハヤミはこの地下世界に生きていた。それで、この町になじめずいろいろな目にあったが。

 あの頃は、記憶の中の遠い思い出。ハヤミの昔の記憶は、この町のように汚れていた。

 あのときと変わらない。何も変わらない。あるいは、すべて変わってしまった。

 跡形もなくなってしまったような。かつて生きていた頃の思い出。

 気づくとハヤミは歩きだしていて、気づけばコートを着て暗い道を進んでおり、そして気がつけばいつの間にか大きな屋敷の門の前に立っていた。

 そこはかつてハヤミがいたことのある、屋敷跡だった。

 窓に明かりはついている。だが中から聞こえるのは、知らない男と女ののバカ騒ぎする声だけ。

 ここは立ち入り禁止区域。いつからこの周辺はスラムに飲まれたのか。

 暗くて濃い闇が一帯を占める。ハヤミは再び歩き出すと、こみ上げる何かをぐっとこらえてさらに歩き続けた。

 闇が一段と濃くなり周囲一帯に転々と並んでいた街灯も消え、薄暗い空の明かりがうっすらと地面を照らしている。

 ここの空はすべて疑似天井だ。日の光を擬似的に再現できる電光パネルが空を映し出し朝日や夕日を産み出していた。かつてここは、美しい場所だった。

 何も見えない闇の中。たった一本の細い道が、今は残るだけだ。空は何もうつさず、また己も、いったいどこに向かっているのか分からない。

 行く先も当てもなく。

 雨が止んでいた。よく見れば濃い霧もなくなっている。

 周りを取り囲んでいた闇はかなり濃くなっていたが、進んでいた細い道の先をみるとなぜか、周りの闇よりわずかに明るい場所があった。

 それと空気だ。今いるこの場所は、先ほどいた場所より空気が綺麗だ。

 地下の誰も入り込まないような場所の空気が、なぜ浄化されている? マスクの中で何かの違和感を感じたが、それよりさらに嫌な視線を背中に感じて身震いした。

 そうここは地下のスラム深部だ。人間の中でも、人間としてスラムで生きることすらやめた奴らがしのぎを削る場所。

 強盗とか詐欺師のなれの果てどころではない、野生を取り戻した人間のような何かがうろつく場所だ。ハヤミは彼らの足音がすぐ近くに来ているのを、野生の勘のようなもので察知して早足でその場を歩き続けた。

 野生の感は便利だ。空戦の時に役に立てば、何かを知るとき、調べるときにも役に立つ。もっともこの六感に近い感覚は、ハヤミが小さい頃にここで身につけたものだが。

 それで道をさらに歩き続けると光は確かにあることが分かって、道の先に行けば行くほど誰かがいるという、確信にちかいものを感じ得るようになってきた。

 背後に忍び寄る獣の殺意はすでに消え、ここから先は人間の何かが蠢いている場所だ。ハヤミは慎重に歩みを進めると、物陰と物陰の間を縫うようにしてさらに先を急いだ。


「なんでこんな所に人が?」

 ハヤミは足を止め、闇の向こうに目を向けた。

 何も見えないながらわずかに何かが見える。真っ暗や闇の中でも、わずかに闇の色が違う。色の違う部分をゆっくりと目で見ていくと、何か大きな建物の表口のように見えた。

 瓦礫か何かか? 最初はそう思った。けどかすかに聞こえる音があるから、何かあるんだろうなと思った。

 スラムの深部にはなんでもあるという。かつてあったこの世界の文明的な物のなれの果てとか。いやそれよりも、妙にとげとげしい何か。

 ハヤミは息を飲み込み、ゆっくりと近づいていった。

「!!」

 唐突に何かがフラッシュバックした。

 誰かが激しく声をあげ、自分に向かって助けを求めるような。

「なんだ、今の」

 頭の中が割れるように痛くなる。さっきと違って割れるような痛さだ。

 しばらく我慢してその場でうずくまっていると、次第に頭痛は弱まりふたたび周囲は真っ暗な闇に戻った。

「なんだ?」


 道なりに進み瓦礫の山を迂回し、どこから現れたか分からないパトロボットたちの目をかいくぐると、そこはもう明らかに怪しい地下世界の人工施設の中だった。

 真っ暗な周囲の中に、赤い光点がゆっくりと浮かんでまた消えていく。いくつもの小さな無人機が、周りを浮遊して侵入者を捜しているといった様子だ。

 じゃあここは、誰かが侵入してはまずい重要機密施設、あるいは何かがあるところところだ。

 そして目の前にはなぜか人の出入りできるゲートがあり、監視カメラもある。

 ハヤミはそれ以上前に進むことができなくなった。

「困ったな。こんな所までちまって、どうすれば戻れる?」

 電話か何かでもしてカズマに助けでも求めようとも思ったが、いや走れば一人でも帰れるかなと思いもう一度今来た道を振り返る。

 すると、暗い道の向こうから何かが近づいているのを見つけた。


 普通の車両より一回り大きな特殊車両がヘッドライトの光量を控えめにしながら、道なりをゆっくり走ってきていた。

 ハヤミはとっさに近くの物陰に飛び込み様子をうかがった。

 走ってきたのは年代物の内燃機関式のトラックで、縦列隊形で前後併せて三台ほど。中から兵士たちが飛び出してくると周りをぐるっと取り囲み、用意周到といったようすで銃を周りに突きつけた。

 兵士たちは人の格好をしていたが、ハヤミの知っている中で陸戦兵士に普通の人間は使っていない。いるのはハヤミと同じか、純度の高いクローンを使っているはず。

 詳細は分からないがたぶんこの兵士たちもそうだろう。

 輸送トラックの縦列隊形の真ん中一台だけは最新式の装甲車で、そこからは一向に人が出てこなかった。

 代わりに後部ハッチが開いて、中から台座に縛り付けられたかなり大きい冷凍カプセルと白衣の人間が二名だけ出てきて、手押し車のようにしてカプセルを押していく。

 ゲートだと思っていた場所が音を立ててゆっくりと開くと、白衣の男たち二人は少し立ち止まって腕時計を確認し、手押し車のようなものを押してゲートの中に入っていった。

 周りの兵士たちはその場から動かず、厳戒体制を一切解かない。

 それどころか建物ゲートの内側から大きな機動歩兵がゆっくりと出てきて、人を撃つにはあまりにも大きすぎる銃口をゲートの外に向け始める。

 その瞬間だ。白衣の男たちが押す手押し車がわずかにバランスを崩し冷凍カプセルの内側が一瞬だけ見えた気がしたのだ。

 ハヤミは、一瞬だけ目をこらした。何か見た気がしたから。それもなにか古い知り合いを見たような、単純に何か見ただけというより、見逃してはいけない何かを見たといった妙な感じ。

 心拍数が上がりハヤミは自分の手のひらに汗がにじんだのを実感した。

 ハヤミは声を出せない。もの凄い違和感を感じて息を飲み込んだ。

 白衣の男たちは車のバランスを立て直し、ふたたび建物の中に入っていった。

 外には、この暗闇には似合わない兵士たちと軍用機動歩兵たちが並んで立っている。

 ハヤミは暗闇の中で壁にもたれかかり、ずるずるとその場に座り込んだ。

「進めねえ。これ以上どうしろってんだよ」

 帰るかと思った。

『この先に、お前が追っていたものがあるんだぞ』

 唐突に隣から声が聞こえ、オヤジが自分と同じ格好で座り込んでいた。

「お、オヤジ?」

『フォックスもアイツを追いかけてたんだ』

 オヤジの幻影は自分の隣に座り込んでいたかと思えば、すぐに消え失せてしまいまた別の所に現れる。

 これは幻覚だろうか?

「オレが何を追ってるって言うんだよ」

『見ただろう?』

 白っぽい巨体のオヤジはそう言った。

『わたしも昔、あいつを追いかけていたんだ』

 オヤジの幻影がまた姿を現す。オヤジは何者だと思った。でもそれはネガティブな意味ではなく、何か、理屈ではない胸の中に感じる共鳴のような物だった。

「オヤジが、何を知ってるんだ」

『何も知らんさ。お前が知らんことは、わたしも知らない。でもあれを見たとき、何か感じただろう?』

 目で促され、ハヤミはそっと自分のもたれかかっている瓦礫の影から向こう側を覗いた。

 向こう側では相変わらず、完全装備の兵士たちが厳重にゲート前を守っている。

 彼らの隙を突いてゲートに入るなんてのはもってのほかだし、そもそもそこまでして中に入らなきゃいけないなんて動機もこちら側にはない。

 けど僅かながら、さっき自分が見た何かの片鱗が気になるのだ。

 心の中が妙にざわつく。

『その気持ちは正しい』

「だから、なんの話しだ」

 ハヤミはオヤジの幻影に問い詰めた。

「オレが何を追っていて、オレは何を探してるんだ」

 ハヤミが言うと、男は顔の見えないままハヤミを見て笑ったような顔をした。

「オレはフォックスを追っていたつもりだった。けれどもオレは、フォックスじゃない何かを追っている、でもそれは一体何なんだ」

『知らんのか』

 男の顔は見えない。けれどもなぜか、なんだか、鏡の向こう側にいる自分ではない自分を見ているような不思議な感覚に襲われた。

『あのときのフォックスも、そんなだったのかもしれないな』

 男はそう言うと、少し悲しそうな顔でうつむきながら消えていった。

 男の顔は最後まで見えなかったが、そのうちどこかで悲鳴と派手なブレーキ音が響いてきて誰かが派手に転んだ。

 それと同時に、何か手のひらの中に何かを持っている違和感を感じる。

 それは、どこかで見たことのあるような、二つの綺麗なダイスだった。

 ハヤミは変な顔をした。

「なんだよ、これ」

 誰かが瓦礫の山の向こう側で派手にひっくり返ったようだ。

 兵士たちは音のする方に銃を向けひっくり返った誰かに向けて、まず最初に警告のための一発を撃った。

 口々にののしり言葉と、隊長クラスらしい一人がゆっくりと声を上げる不審者に向けて近寄っていく。

 その裏側から、ハヤミは背を低くかがめ彼らの視線を抜けるようにして裏を通り抜けた。

「ちくしょうなんだってんだよ」

 暗がりの向こう側では不幸な誰かがゆっくり腕を上げ立ち上がろうとしている。さっさと通り抜けよう。そう思い、ハヤミは兵士の脇を抜け、大きな機動歩兵の横も素通りし正門ゲートの内側に忍び込む。

「ふーっ、嫌なもんだチクショウこそ泥みたいだ」

 額に嫌な汗が浮かぶ。腕でぬぐうと、ハヤミは先を行く白衣の男たちと台車を追いかけた。


 通路は暗闇の地下よりは、僅かに明るい程度だった。ただ無いよりはマシ、あるいは、あとで気づいたが明るすぎるよりは良かったのかもしれない。

 地下からさらに下へと続く通路はなぜか四方がガラス張りで、どこかの海の底のようなところを通っていた。

 先を見るとあの白衣の男たちがわずかに見える。彼らの足は恐ろしいほど速い。

 彼らの姿が曲がり角の向こうに消え、ハヤミは地下通路を小走りで進んだ。

 ガラス張りの地下通路のすぐ上を、巨大な生き物が泳ぎすぎていく。

 細長い体を滑らせるようにして、ヒレを突き出し大きな魚が悠然と水中を泳ぐ。いや、あれは本当に魚だろうか。

 細長い尾。下に突き出た胸びれ。飛び出る鎧のような鱗。突き出た二本の顎。白目のない真っ黒な目。

 悠然と泳ぐ様はまだに、竜のようだった。ハヤミは彼らに見られていないことを祈りながら前へ進んだ。

 通路はさらに続く。下へと降りていく中、ハヤミはあることに気がついた。

 なぜこの通路にはエレベーターやエスカレーターが無いんだ?

「長え」

 全体が眠っている何かのようだ。時折どこかで規則正しく電子音のようなものが響くだけで、それ以外は静寂に包まれている。

 白衣の男たちは滑るようにしてどんどん先に進んでしまうし、暗い通路の中で闇雲に彼らを追いかけるのは苦労以外の何者でもない。ただ彼らの白い服だけが、ハヤミが追いかけられる唯一の目印だった。


 四方が見える水中回廊がいつの間にか終わり、通路はどこかの巨大建築物の内側に吸い込まれる。

 さらに明かりが乏しくなり、ハヤミは今自分が走っている場所が本当に地面なのか、どこか変な場所を落ちたり浮いたりしているんじゃないかと疑ってしまうくらい上下感覚が怪しくなってきた。

 だが、前を進む男たちと台車の姿は前にあり、彼らは確かに前へ進んでいる。ハヤミは彼らを追いかけた。追いかけねばならないと謎の衝動が、少しずつハヤミの胸の中に生まれてきている。

 そしてだんだん、思い出してきたのだ。

 この水中とか。浮遊感とか。真っ暗な世界とか、その中で自分が追いかけている白いものとか。

 何もかもがあのときあの場所で感じていた物、そっくりなんだ。

 それはあのとき自分が落ちた場所。

 たった一人で自分を待っていた彼女。

 自分たちが探していたもの。でもあの場所は、すでに滅んでいた。

 かつてのあそこは、今の自分たちの未来なんだと。

 男たちに追いすがり、彼らを殴って、手押しの台車を引き倒す。

 フタが外され、ガラスが砕け、中から白い蒸気とともに生ぬるい空気が吹き上がる。

 彼女は眠っている。その彼女を丁寧に抱きあげ、目を覗きこんだ。

「おい」

 彼女は眠そうにまぶたを、ゆっくりと開く。焦点の合わない目。彼女は、夢を見ているのだろうか。

 ハヤミだってそうだ。この暗い世界にいて、彼女とともに過ごした地上を、あの空のことを忘れて夢を見ていた。

「起きろ!」

 ハヤミは彼女に言った。

 彼女はまどろんだ目を開けた。

 ハヤミの呼びかけに、自分が呼ばれているという意識がないようだ。

 胸の上で手を組み、彼女はハヤミを見てゆっくりと微笑む。

 ハヤミは彼女を密閉式の台車から担ぎ上げると、ゆっくりと彼女を引き上げた。

「どうして、お前がこんなところに」

「ハ……ヤ……ミ」

 かろうじてハヤミの名前を口にする彼女をかつぎ、ハヤミはゆっくりと地上に向かった。


 長い通路の先を進んでいくと、次第に通路中の機器たちが眠りから目覚めたように動き始めた。

 最初の変化は微々たる物だった。淡い光点がどこからか灯り始め、次いで一気に通路中を突き抜け世界は無機質なブルー一色に成り代わる。

『侵入者あり』

 抑揚のない時報のような声が通路中に響き、明るくなった通路中からカメラアイというカメラアイが出てきてハヤミ達を覗き出す。

「今さらお出ましかよ」

『侵入者あり』

 年の若い女のような声だが、その声質は異様に落ち着いている。この声は合成音だ。

 声に合わせて壁面の光はゆっくりと照度を上げていくが、それ以外の変化はまだない。

 ハヤミは少女を担ぎさらに先を急ぐ。

 先ほど通った、四面ガラス張りの海底トンネルは相変わらず暗い。頭上を漂う巨大な鱗魚が、巨大な目をぐりぐりと動かしハヤミ達をのぞき込む。

『侵入者あり』

「うるせえ奴だ」

 合成音がけたたましく鳴り、ハヤミたちの進む通路中を振るわせる。

 無機質なカメラアイがハヤミを捉え、通路中の突起物を動かして二人の動きに合わせてゆっくりと動く。

「今さら何が侵入者だ」

『侵入者あり』

 警備隊が出動しているという雰囲気もなく、ただ無機質な声が通路中に響いてハヤミを心理的に追い詰めた。

「これが目、なのか? オヤジの言ってた?」

『侵入者あり』

「それっぽくないけどな。いや、違うんじゃないのか」

 頭上を漂う巨大鱗魚を後に、ガラス張りの通路を上りきり再び地下深い道を進む。

 今度はどこかで地崩れが起こったように、床が小さく揺れた。

 最初それは特に気にとめるような物ではなかった。だが次第に地響きは大きくなっていき通路中が縦横に大きく揺れ出す。

 建物中が揺れ少しだけ下に沈んだような。次に、後ろの方でビシッと、何か割れるような音がした。

「!?」

 最初はどこからか水が流れ込むような音。次第に建物中から液体が噴き出す音が聞こえだし、床の揺れもどんどん大きくなっていく。

『侵入者あり』

 だが何度か繰り返される無機質な人工音声が、次には別の言葉に置き換わって通路中に響いた。

 意味の分からない英数字の羅列、訓練時によく耳にした文字列が等間隔に並んで通路中に響く。

 読み上げられる言葉そのものに、直接的な意味は含まれない。だがそこで読み上げられる英数字の羅列の、その一つ一つに意味があるのだ。

 ハヤミも軍人だった。この自動音声はなんども、訓練の時に聞いたことがある。

 これは、出動待機命令。

「敵の奇襲攻撃だと?」

 大きな地響きが通路中を襲いハヤミの足下はすくわれた。一瞬重力を感じられなくなって床に転がるが、すんでの所でハヤミは少女の肩を抱いて上へと持ち上げる。

 少女は半分寝ているのか、それとも意識がないのか完全に酩酊状態だ。その代わり胸元についているあのクリスタル状の装置が、強い赤色を帯びてゆっくりと明滅していた。

「おい、大丈夫なのか?」

 ハヤミは倒れ込んだ状態で少女を抱き上げ、少女の顔を手のひらで包んだ。

 体温は無い。ぞっとするほど冷たい。

「大丈夫なのかッ!?」

「ハヤ……ミ……?」

 少女は体をがたがたと震わせている。ハヤミは少女を担ぐと、もう一度立ち上がって通路の上を目指そうとした。

 だが気がつけば、目の前に人型の、巨大な起動歩兵が立って通路をふさいでいる。

 どこにでもよくある量産型の武装、ウォーク・アーマードウェアポンシステムだ。だがカラーリングが漆黒のように黒くて特異的に見える。武器もない。丸腰だ。

 周りのカメラアイがハヤミを捉え、二人をじっと監視している。

 AWSがゆっくりと、右のマニピュレータを差し出した。

『ハヤミ・アツシ、少尉、シリアルナンバー、ヨンヨンニーサン、イチ、ナナ、キュウ、イーヒャク、あなたは最重要機密エリアに不法侵入している』

「あー。すまない警備ボット」

 ハヤミはこの人工知能型と思われる警備ロボットをごまかせるか、試してみた。

「地震がすごいんで、安全そうな所に逃げてきただけなんだ。わるかったなすぐ出てくよ」

『ハヤミアツシ、少尉、あなたは、嘘をついている。心拍数が上昇し、発汗している、少女を置きなさい、その少女は、助からない』

 黒塗りのAWSはハヤミの顔を示し、次に少女を指した。

「はは、この子か? 倒れてただけだ」

 そして妙なことに気がつく。いくら人工知能が優れていたとしても、そこまで言うか?

「まて、お前は誰だ」

『ハヤミ・アツシ、少尉、その子を、置きなさい』

「この子が死ぬってなんだ。いや違う、軍なら命令するはずだ。なぜ命令しない」

『シリアルナンバー、ヨンヨンニーサン、イチ、ナナ、キュウ、イーヒャク、あなたは法を犯している、即刻指示に従いなさい』

「お前は誰だ」

 AWSは警告を発しハヤミにマニピュレーターをさしのべる。だがそのやり方は、軍のやり方じゃない。

 ハヤミは目の前のPWSを警戒しながら横にずれた。

 先ほどから止まない地響きがさらに大きくなり、土砂がどこかからか流れ込む音、壁や柱がきしむ音、フロアがくずれ人の悲鳴が聞こえてきだす。

『シリアルナンバー、ヨンヨンニーサン、イチ、ナナ、キュウ、イーヒャク』

「もしかして」

『ハヤミ・アツシ、学区を抜けてから、あなたは、戻ってきました、なにをしようとしていますか』

「マザー」

 黒塗りのAWS、壁面のカメラアイたちがハヤミたちの動向を捉えて離さない。

 背中の少女は未だ眠りから起きず、この巨大な起動歩兵はハヤミたちを前にして一歩も通さない構えだ。

「なぜ今頃出てきた」

『再教育が必要です、ハヤミ・アツシ、あなたの教育はまだ終わっていない』

「オレは軍人だ、もうお前に教育を受けるとか、また元の家に戻るとかそんな話しはないはずだ」

『いいえ、ハヤミ・アツシ、あなたの答えは、とても、感情的です、ですがその前に、あなたは、あなた自身の荷物を、置かなければなりません』

「荷物だと」

『私はあなたに、教育を施してきた』

「教育ってなんのことだ」

『あなたは、この世界の、未来を託されている、特異点を設定された、偉大なるクローン』

「なんのことだ」

『この停滞した地下世界を救う救世主』

 黒いAWSはぎこちない動きでハヤミを指し示し、頭部を動かすとまるで人間のように首をゆっくり動かした。

『あの男の、クローン』

「オレがクローンなのはオレ自身が知っている」

『ただのクローンではない』

「もういい」

 ハヤミは嫌な予感がして、知りたくないことを言われそうな気がして、ゆっくりと身を引いた。

『かつて、破滅は免れ得ないと思われていたた未来線上から、この国を、半永久的な停戦にまで導いた、一人の人間がいた』

「もういいやめろ」

『通常の人は、自らの運命と言うべき物も変えることはできない。しかし彼は、人でありながら、通常では考えられない特異点を有し、人類すべての未来を変えてしまった』

「もうやめろ!」

『人々は残された情報を効果的に残し、後生に託しつつ、自らものにする必要があった、ハヤミ・アツシ、少尉、シリアルナンバー、ヨンヨンニーサン、イチ、ナナ、キュウ、イーヒャク』

「もうやめろって言ってるだろ!」

 ハヤミは少女を担ぎながら、後ろへ引いた。だがそこに何かいる気配がして、とっさに上へと飛び退く。

 そこにはもう一人のAWSがいた。執拗にハヤミを捉えようとマニピュレーターを伸ばす。その長い腕の上を駆け抜けて、ハヤミは配管の上に飛び乗った。

『あなたは、後生の人類に残された、有益な情報の一つ、この世に実在しない、人類の夢と希望を、作り出すために、作られたクローン』

 飛び退いた先の配管上に新たなAWSが数体まとまって現れ、雪崩れ込むようにハヤミを追いかける。

『彼女を、離しなさい』

「離すもんかマザー!」

 マザーの操るAWSが動きを止め、白い二つの光点、人間のようにふるまう首から上の頭部でハヤミを見つめる。

 やさしそうに、諭すような顔で。

『彼女を、離しなさい。彼女は、死ぬ、彼女の仲間が、来ている』

 言われると確かに、暗かった通路の中で、彼女の胸元の端末が赤色に灯る輝きが浮かんでいた。

 赤色の光は強く、それから弱々しく、輝いたり消えかかりそうになったりしている。

「なぜそこまでこの子を追いかける、マザー!」

『彼女は、敵の作り出した、兵器、ハヤミ・アツシ』

 多くのAWS、マザー操る黒塗りの戦闘兵器たちと壁中のカメラアイがハヤミに迫る。

『この世界を、破滅へと、導こうとした、最後の特攻兵器、その生き残りが、彼女』

「そんなの知ってる! だが戦争はもう終わったはずだ!」

『彼女が、ハヤミ・アツシ、あなたと出会ったとき、彼らの最終プロトコルは、始まった』

 通路奥側で何かが爆発し土砂が大量に流れる音がする。地響きと、柱の折れる音。それとともに何者かが、通路奥に降り立ちハヤミ達を睨んだ。

 白い翼にシンプルなほど白い布の服。細い肢体、だがその肌、頬、目のまわりの人工皮質は削げて黒こげになり、内部の機械的な人工繊維、金属骨格が丸見えになっている。

 顎が開き、激しい奇声と跳躍で、一気にハヤミ達に飛びかかってきた。

 最初に犠牲になったのはAWSだ。巨体ではあったが武器を持たず、小柄な突撃兵器に対し充分な体勢をとることができず装甲板に勢いよく拳を突き刺される。

 二体、三体とAWSたちがまとめてなぎ払われ、最後の一体はコクピット部分を大きく破壊され中の基盤を思い切り引きちぎられる。

 半分は少女とまったく同じ顔で、半分は真っ白なあの翼、半分は黒く焦げて、むき出しの眼球でハヤミを見つめ不適に笑う。

 だが倒された分だけ別のAWSが他から補充され、次から次へと新しい機体が現れ少女型の特攻兵器に迫った。

『ハヤミ・アツシ、早くその少女を』

「今さら何をッ!」

 ハヤミはAWSたちを飛び越え、特攻兵器とAWSたちの格闘現場を通り過ぎる。

 少女を背負い、上を目指した。

『すべての道は』

「何が道だ」

『すべては、あなたたちが決めた道です』

「なにが、俺たちが決めた道だ」

 捨て台詞を吐き、ハヤミは少女を背負って狭い通路を走り抜けた。

 地下通路を抜けると、そこは紛れもない地獄そのものだった。

 今まで自分が立っていた、ゴミと、瓦礫と、雨の降る綺麗な闇と奈落の底という場所は消え失せかつて見たこともない紫色の豪雨と、大量の落下物であふれかえっていた。

 それから断続的に聞こえてくる爆発と、途切れ途切れに聞こえてくる誰かの悲鳴。

 足下にはさきほどの地下からあふれ出てきている、冷たい水が迫ってきていた。

「なんだよこれ……」

 少女を背負いとにかく上を目指す。すると先ほど自分たちを殺しに来た少女の片割れが、ハヤミの前に破裂音を伴って上から降ってきた。

 落ちてきた少女の姿は闇にまぐれて見えなくなる。

「なんだよこれ!」

 明かりの伴わない地獄のような闇を、うっすらと赤い光が照らした。

 肩に担ぐ少女の光だ。少女は、まだ意識が元に戻らない。だがそれと比例して胸にあるクリスタルは、弾けそうなほどに眩しく、煌々と灯って周囲を照らす。

 膝下まで迫る地下水に足を濡らして、ハヤミは全身を濡らしなりながら上に上れそうな段差を探した。

 世界は混沌に包まれていた。それは、いつか訪れるであろうとは誰もが予測していた近未来だ。だが自分たちは目の前に訪れつつある滅びの未来から目をそらし、地下に隠れその場だけの快楽を楽しんで生きてきた。

「もう少しだからな! 死ぬなよ!」

 少女を肩に担いでも、その重さはまったく分からずまるで羽のように軽く感じた。

 それが良いことなのか、悪いことなのか分からない。ただ薄暗く町中が燃えている中でもわかる程度に、顔は病的に白くなっていた。

 息も浅く呼吸数だけが多い。それと相対して胸に埋め込まれた謎の発光物だけが、燃えるように闇の中を照らしている。

「もう少しだからな!」

 懸命に瓦礫の山に足をかけ上を目指していると、どこかで誰かが叫んでいるのが聞こえた。

「助、けてくれッ」

 闇のなか、上に抜けようとしている中で誰かの声がする。消え入りそうな声で、自分に助けを求めているようだった。

 ハヤミは一瞬迷った。今ここで誰かを助ければ、今度は自分が助からなくなるかもしれない。

 頭上では自分の知らない誰かと、自分の仲間たちがなぜか襲われ戦っている。

 頭上のフロアが大きく陥没し、建材が崩れ土砂となって自分たちのすぐ近くを落ちていく。

 その落ちていく瓦礫の中で、誰かが自分を見て笑顔で落ちていくのを見た。

 なぜ笑っている? そんな死体のような市民たちが、まるでぼろ雑巾のようにわらわらとさらに降り注ぐ。

 ハヤミは、自分に助けを求める誰かを、助けることにした。

 生き延びたいのなら、助けるべきだと。そう思い少女を担いで声に駆け寄った。


 だが遅かった。

 声の主は死んでいた。重武装の警官か、兵士か何かのようだ。最初の爆発で、戦闘車両が体の上に乗り上げていたようだった。

 キャタピラに潰され、残った上半身から銃だけを受け取りそっと目を閉じる。

 まだあたたかい死体の目を閉じ、さらに上階を目指す。その途中、今度は見覚えのある何かを見つけた。

 カズマだった。しかもなぜか手錠をかけられ後ろ手にされて、地面に座ってもがいている。

「おい! 何やってる!?」

「バカヤロウ早く助けろ!!!」

「だからなんでこんな所にいるんだよ! 今度は何したんだ!」

 手錠されているのを知り、カズマには腕をこちら側に向けるよう言って目を閉じさせる。

「いいか動くなよ!」

「それでぶち抜くとか言わないだろうな? 頼むから言わないでくれよ」

「じゃあ言わないでぶち抜くからな」

 銃口を手錠の鎖に突きつけて引き金を引き、カズマを自由にしてやる。

「やめろって、言ったろ! おい、その子どうした」

「言い訳は走りながら言う」

「どういうことなの」

 物陰に隠れ、ハヤミは担いでいた少女をそっとカズマに託す。

「いいか、しっかり運べよ絶対に傷つけるな」

「だから誰なんだよこの子は」

 そのとき、上空から再び白い少女らが、滞空しながらこちらへとやってきた。

 数は二人。翼が焦げてはいるが、さきほど自分たちに飛びかかってきた個体とは明らかに違う様子。

 ハヤミとカズマ、それから少女を見下ろして、彼女らの持つ銃のようなものを突きつけてきた。

「誰なんだよあの子は」

「伏せろ!」

 一瞬だけ視界の中に太陽のような光点が入り込み、反射的にまぶたを閉じて物陰に頭を入れる。そのあと、頭の先や手や腕の表皮をかすめる土砂を感じる。次に生暖かい風、全身を襲う衝撃、耳の奥をつんざくような空気の刃、それから身を焦がすような熱を感じる。

 ハヤミは咄嗟に身を伏せて助かった。もちろんカズマたちも助かり、互いに目を合わせて、互いの無事を確認した。

 目の前にあったはずの瓦礫は、ない。

 燃える町、空中を飛ぶ二体が、黙ってこちらを見ている。

「逃げよう」

 ハヤミの提案に、カズマが声を震わせながら答えた。

「動けない」

 カズマの言葉にハヤミは即座に動く。肩を貸して、もう一人地面に倒れる少女にも肩を貸し、空を飛ぶ二体の生き物たちに背を向ける。

 これで撃たれたらもうおしまいだな。そう思っていると、また新たな音が近づいてきてハヤミ達のすぐ近くでホバリングを始める。

「おい見ろ!」

 カズマが声を上げ後ろを振り向く。空を見上げると、そこには自分たちが普段職場で見ていたヤクタタズの武装ヘリコプターが飛んでいた。

 ヘリコプターはゆっくりと下層から高度をあげてくると、ハヤミ達の近くに舞う空飛ぶ武器を持った天使然とした……生物兵器群に対し一斉掃射を始める。

 撃たれた天使は穴だらけになった。赤いしぶきと白い羽根を残して、暗い地下の底に落ちてゆく。だが第二、第三の天使たちが降りてきて、武装ヘリを取り囲んだ。

 周りから放たれる光状兵器の筋に、ヘリはフレアを撒いて応戦した。だが二基あるエンジンのうちの一つから、すでに黒い煙が出ている。

「行こう」

 ハヤミはカズマに言った。

「行く? どこに! 仲間がやられてるんだぞどこに行くってんだ!」

「いいから行くぞ! オレたちに何ができるんだ」

「ああ分かったよ行くぞ! 俺は軍人だからな」

 言うとカズマは地面に転がっていたお気に入りのヘルメットを拾い上げ、ぽんぽんと土を払うと頭にかぶって顎ひもを縛った。

 それから傍らに置いてある自分のバイクを見て、なぜかちょっとだけ皮肉そうに笑う。

「俺は基地に戻る。俺は戦うぞ。俺たちの住む世界がどんなに酷くても」

 ハヤミはそうか、と小さく言った。空ではついに耐えられなくなった武装ヘリが高度をとって逃げようとしていたが、追い打ちをかけるように天使のような形の生体兵器たちがそれぞれ追いかけ去っていく。

 爆音は遠くなった。その代わり、どこかにヘリが墜ちて爆発する音が聞こえた。

「お前の乗る機体もあるだろう。帰ろう、俺たちの基地へ」

「悪いがオレは帰れない」

 ハヤミはそう言って、カズマに肩の少女を見せた。

 少女は未だ寝たままだった。それなのに、胸の光は煌々と赤く灯っている。

「そうか」

 カズマも少女を見て表情を険しくしたが、さきほど去っていった空飛ぶ生体兵器たちの方を見て、それからハヤミと少女を見て眉間にしわを寄せる。

「帰ってきたとき、何かあったとは思っていたがまさか」

「違う、オレは裏切ったわけじゃない!」

「信じてるよ。俺は信じてる。俺たちは同じ仲間だし、小隊の落ちこぼれバディだ。けどお互いに、それぞれ別の道を歩むことになったみたいだな」

 カズマはそう言うと、燃える町並みに向かってゆっくりと歩いていく。

「さよならだ、ハヤミ。空で会おう」

 そして悲しそうな顔で、涙は流さず手だけを振って去っていった。

 ハヤミは悲しい気分になった。だがこの感情も、実は作られた偽物の感情なのではないかと、思ったような気もした。

 少女を担いでさらに上を目指す。

 気がついたら、ハヤミは地面に倒れていた。それも砂利や、石やコンクリートの破片の上にうずくまるようにして。

 ゆっくりと体を起こすと全身がぶたれたようにいたく、間接もよく動かず体中が埃だらけで、視界もかすんでいた。

 だが忘れてはいけないものがあることを思い出し傍らを見る。少女もいた。

 相変わらず意識が無いようだったが胸元の光は失っておらず、地面に伏せみじんも動かないかがらも、この地獄のような世界の中で火のように明るく世界を照らしていた。

 ゆっくりと少女の腕をかつぎ、共に前へ進むために立ち上がる。

 この地下世界には、外に出られる手段は無かった。

 あったが自らのゴミで埋め立ててしまっていた。だから、外から誰かが穴を開けるまで待つしかなかった。

 最初は見間違いかと思いこもうとしていた。だが、見れば見るほどあの侵入者たちと、今自分が担いでいる少女は同じものだった。

 あるいは自分があのとき、地上で見かけたうり二つの者たちは、この少女と同じなのかもしれない。だが少女は、彼女らを見て見覚えがないと言った。

「戦争は、もう終わったはずだろ」

 散発的な戦闘状態に落ち着いたらしいジオノーティラス地下世界は、すでに電力供給もなく、人影もまったく見えない。

 上を見るとかつて空だと思っていたあの青い世界も、今では真っ暗なコンクリート壁であることがよく分かる。

 闇が、世界を覆っていた。そのことから、人々は目をそらしていたんだと。

 世界に大小様々な穴が空いていて、そこから彼女らは侵入してきていた。

 地下世界に充満した煙も、すべてその穴から外に出ている。

 ハヤミは、自分のなすべきことをすると決めていた。それがいったい何であるのか、それは分からなかったが。

 誰かが捨てていったらしい拳銃を拾い、足を引きずって外を目指した。


 地下世界の外は、前人未踏だった。

 かつて空港として利用されていた旧ゲート前は土埃にまみれ、空には燃えるように美しい夕暮れ、低い太陽、寒空と、大きな影を大地に落とす巨大な航空母艦の底部が見える。

 ハヤミは少女の肩を担ぎ直し、非常口を出た。

「さむい……」

 汗ばむように扱った地下世界からドア1枚を隔てた外は、凍えるように寒かった。

 空を漂う巨大空母の姿はそのままで、ただ地上に墜ちていた頃よりかなり痛んでいる印象だった。

「まじかよ……あんなに大きいのが、空に浮いてる……」

 船底には大きな穴が空いており、そこからは冷却剤で使われていそうな泥色の液体が、細いのと太いのと、幾筋もの滝のようになって地上に滴っている。

 味方はどこにもいない。敵の姿も見えない。

 ハヤミははっきりと自覚していた。この少女の仲間は、敵だったのだと。

 ハヤミの自覚に合わせてなのか、何かを認識してなのか外に備え付けてあったただの残骸の一つだと思っていた外部アクセスパネルが作動し、薄暗い女性像のホログラムを映し出す。

『ハヤミ・アツシ』

「まだ、生きていやがったのか、クソマザー」

『シリアルナンバー……ヨンヨンニーサン、イチ、ナナ、キュウ、イーヒャク。これが、最後の忠告です』

「オレには最後もなにもない」

『あなたはまた私たちを、置いていくつもりなのか』

 女性の姿をかたどった実像の無い映像、ホログラムのマザーが、アクセスパネルの上でハヤミに問いかけた。

 ハヤミにはその言葉がよく分からなかった。

「置いていくだと?」

『その少女を、置いて、戻りなさい」

 マザーのホログラムは厳しい表情のまま、ハヤミに続ける。

「オレはお前のガキじゃない」

『命令です、ハヤミ・アツシ、軍の最高意思決定機関は、私です、あなたには、帰らなければならない、場所、未来がある』

「ならオレに命令すればいい。オレはあんたの命令を聞かない」

『ハヤミ・アツシ、少尉』

「オレには、帰る家はない。たった今、無くなったし、その前から無かった。さあここを開けろ」

 ハヤミと少女は地上施設の一つ、埃だらけで、赤さびの浮いた古い格納庫の前に来ていた。

 ドアロックは古い鍵で施錠されており、ハヤミの持っている軍属用のアイディーやパスワードでは開けられない物だった。

 あるいはこの中になら、何か乗れる物でもあるんじゃないかと思ってきてはいたが、無いなら徒歩で出て行くしかない。

 空にはあの巨大飛行空母が飛んでいて、滝のように流れ落ちる冷却剤、こぼれる破片、炎、それらにまじって大量の、あの空飛ぶ生物兵器たちが沸いて出てきている。

 マザーのホログラムは腕を組んで黙り込んでいた。

「へっ。実態がないんじゃ鍵も開けられないか。マザー、オマエはオレになにをさせたかったんだ」

『もう充分に、分かっていることだろう?』

 唐突に、もう一つのホログラフィが出てきた。

 出てきたのはあの男のホログラフィだった。

「オヤジ……教えてくれ。今までさんざんオレの行く先を引っかき回してきたアンタだが。いや、アンタたちは、どういうことなんだ」

『お前だって、もう分かっているだろう。この世界も、空も、お前が飛んできた空の彼方でも、おまえたちが見ていたのはぜんぶホログラフィだ』

「オレを助けてくれたあのときのオヤジも」

『そう。全部、ホログラフィだ。この荒れ果てた荒野を見てみろハヤミ』

 そう言って、オヤジのホログラフィは燃える地下世界のゲート、それからずっと視線を流して、荒野の向こう側に目を向けた。

『元に戻る見込みのない世界。死しか予見できない未来。もう袋のネズミ、それでも、かつて人類は生きようと試みた。この地下世界がどうしてできたかは、だいたいお前も知っているはずだ』

「そんなの、虚言だ!」

『現実を、ありのままのすべてを知ってどうなるハヤミ』

 マザーのホログラフィの輪郭は曖昧になり、代わりにオヤジのホログラフィの輪郭がはっきりとしてくる。

 等身大をまとう影は、夕暮れ時の世界ではよりいっそうはっきりと目に映った。

 その目は、人間の持つ目そのものだった。中身を伴わないホログラフィは申し訳なさそうな顔をする。

『今まで黙っていたが、実はわたしは、マザーのデータアーカイブに残されているフォックスのデータだ』

「……うそだろ」

『嘘じゃない。死んだフォックスの代わりに、この地下世界を存続させる第二のフォックスを作り出す、そのために私は生みだされた』

「いいや、フォックスは生きている。オレは見たんだ!」

『お前はそう言っているな。だが記録とマザーの判断では、フォックスは百年以上前にすでに戦死している。生きていたとしても、もうとっくに老衰だろう』

 マザーの虚像が映されていたアクセスコントロールキー上のホログラフィパネルにはきらきらと輝く残像が残り、その輝きの上に手のひらをかざして、まるで自分の手のひらと光点を一つに合わせるようなしぐさをしたあと。

 フォックスのデータを名乗る男は、ゆっくりとハヤミを見た。

『お察しの通り、わたしはフォックスの生前の姿を借りた、マザーのもう一つの人格だ』

「マザーは」

『マザーは一つではない、集合智だ。ジオのすべてを管理し、すべてを作り上げすべての者を導くマザーは、かつてこの地下世界を創り、この世界をふたたび再生しようとしてきた科学者たちの智の結晶だ。執政官だった者もいる。この地下世界に住む者、生きる者は、おおくはかつての彼らの子孫でありクローンだ。もうオリジナルの人格を持つ者は少ない。同じような時間を、同じような人間が幾度も繰り返すこの地下世界に、未来などと言う物はない。それでも我々はいつか地球が再生したときのために、ジオの人間に希望を抱かせ続けなければならなかった。戦争が終わってはいないなどと言い続けてきたのもそのためだ』

「だがその希望は。その嘘のために、今までどれほどの人々が無意味な時を過ごしてきたか」

『分かっている。だがもう破綻した。お前が破綻させたのだ』

「オレが?」

 空の彼方をゆっくりと滞空する巨大空母が、時間の経過とともにゆっくりと影を移動させる。

 沈みゆく、真っ赤な太陽が、空に大きな影と夕焼けを彩っていた。

『お前は真空の世界から地上へと墜ち、その少女を見つけこの世界まで連れてきた。彼女も自分の任務を知らなかったかもしれんが、少女はお前を利用してジオの地下基地を見つけるための敵が用意したトラップだったんだ。彼女の、その胸の基盤にログが残っていた。敵の考えた策略だったようだ』

「嘘だ。嘘だこいつは、まさか、そんな……」

 夕暮れ時のつかの間。

「ずっと、一人で待っていたのは……オレを騙すためだったのか?」

『その、ようだな』

 男はやや申し訳なさそうな顔をして、頬をかいた。

 ハヤミは、体から一気に力が抜けたような気がした。

 担いでいた仮死状態の少女が、大きな音をたてて大地に崩れ落ちる。少女は地下で自分の名前を呟いたときのままの顔で、大地に転がっていた。

「オレは誰を信じればいいんだ。ないのか? これ全部、お前たちが作り出した幻だとでも言うのか!? オレはいったい何を見ている! オレは、オレは確かにこの目で……ッ!」

 地面に転がり抜け殻のようになって動かない少女を見下ろし、ハヤミは頭を抱え激しく横に振った。


 なぜか、少女を守りたいと思っていたハヤミの中の希望は消えたように思えた。

 長い影を残し、地平線の彼方に真っ赤な太陽が沈もうとしている。

 世界を覆う黒い影。理由のない戦い。作られた希望。

 限界を迎えた、真っ青な空。滅びようとしているこの国。

 そして腰に巻き付けたベルトに挟んでいたハンドガンを抜いて、ハヤミは地面の少女に向けた。

『おいはやまるなよ』

「オヤジ、アンタはおれを騙してた。オレはあんたらに騙されていた。そしてコイツにも、オレは全部に、自分の見ている物すべてに騙されていた。オレは全部を壊してやる」

『落ち着けハヤミ』

「アンタもだ! オヤジ!」

 ハヤミは手に持つ軍製品のハンドガンをオヤジのホログラフィに向けて、ゆっくりとコックを引いた。

 そして照準の先をゆっくりと横に向けて、この目の前のホログラフィを動かしているであろうパネルを狙う。

 オヤジのホログラフィは最初驚いたような顔をしていたが、次いで呆れた顔をしてため息をついた。

『おまえが何をしようと、お前の自由だ。だがお前が何かを壊したところで、世界は何も変わらないんだぞ。冷静になるんだ』

「オレは冷静だオヤジ。マザーやアンタたちの勝手なことに、うんざりしただけだ。今まで何度も繰り返してきているだと? だったらここで、全部終わらせてやる! ぶっ壊してやる!」

『おまえが騙されていた事実は変わらない。謝ろう。だがハヤミ、その彼女はお前を騙してはいないし、わたしもお前を騙すだけ騙して、何をしようという気もない』

 男のホログラフィはそう言って、ハヤミの足下に転がる翼の少女を指さした。

『彼女は確かに命令に忠実だったんだろう。最初の数十年くらいはな。だが長すぎる戦争のせいで、彼女は少しずつ変わっていったらしい。戦争は確かに終わっていた。彼女はおそらくそう思っていたのだろう』

「それが、オレになんの関係がある?」

 ハヤミはハンドガンの引き金に指をかけ、ゆっくりと力を加え続けた。

『彼女は何かを伝えようとしている。おまえに、何かをだ。それが何なのかはわからなんが』

「何をだと?」

『ログでは、分からなかった』

 オヤジのホログラフィはそう言って両手を挙げ、降参を示すポーズをとった。


 すでに周囲は暗くなっており、冷たい風が体をなぞって布地をはためかせる。

 空に浮いた巨大空中空母がらちらちらと覗く火の手や、地下都市の通気口からもくもくとわき上がる濃くて黒い煙が空を覆い、僅かばかり晴れている夜空に暗い色を広げている。

 オヤジを映し出すホログラフィの淡くて青白い光が周囲を照らし、ハヤミは拳銃の引き金から指を外し銃口を下に向けた。

「分からない。こいつは、オレに何を伝えようとしていたんだろう」

『マザーの中でも意見が分かれている。敵を排除し、お前と少女を捕まえて、もう一度世界を創り直そうという勢力もいる。今は拮抗状態だ』

「それでオヤジは」

『オレは、マザーの中の意思でしかない。フォックスの外見をまとっている』

「オヤジは、オレにどうしろと言っているんだ」

『フッ』

 オヤジは顔の見えない顔で笑った。そして一歩踏み込むと、ゆっくりとハヤミの近くに歩み寄ってくる。

『何かあると、誰かに何か決めてもらいたがる。初めてあの地下で出会った頃も』

 そうしてすれ違い際に、オヤジは立ち止まりぽんと肩に手をかけた。

『未来はお前が決める。何度繰り返そうとも』

 重みのない手が肩に触れ、実態のない虚像がゆっくりと闇に同化して消えていく。

『お前はお前だ、ハヤミ。フォックスの後を追おうとするな。未来は常に、お前とともにある』


 闇が、完全に世界を包み込んで幾らかが経つ。

 ハヤミは誰にも向けなかった銃をベルトに突っ込むと、地面に倒れる少女を抱きかかえ格納庫へと向かった。

 鍵は開いていた。

 出入り口の鉄製ドアを開けると、ほこりっぽいむっとした空気とともに冷たい空気が頬を刺す。

 試しに壁際のスイッチを入れると電灯がつき、庫内には一機の、とても古い戦闘機が置いてあった。

 戦闘機は、手つかずのまま何十年も放置されていたかのように荒れ果てていた。

 ただ奇跡的に計器類は、叩けば直る程度の故障のみで動かないわけではなさそうだ。

 時計とか。高度計とか。

 電源が死んでおり外部からケーブルを持ち込んで機体に接続し、試しにパワーを入れてみると燃料が入っていないのが分かった。

 燃料は、予備の備蓄燃料庫があったので車を使ってなんとかした。

 ほとんど補給はできなかったが、時間だけはどんどん過ぎていった。まったく足りない時間をほとんど使って旧世代機の復旧作業に当てたが、ついに時間切れとなった。

 朝が来る。今まで誰にも邪魔されなかったのが奇跡だが、ついにハヤミ達は邪魔者の目にとまり侵入者がやってきた。

 ハヤミは重い防火スライドゲートを広げ、格納庫を開けた。


 濃い紺色の地平線が、うっすらと白みがかっている。と同時に、自分たちが地下から出てきた時に使ったゲートも開いた。

 中から誰かが数人、銃を持ってハヤミたちの隠れている格納庫にひたひたと駆け寄ってくる。

 動きはプロ中のプロ。尋常ではない慣れた様子で身をかがめ、こちらの様子をうかがっている。

「クソッ、もう朝か!」

 これからどこに行くのか。どれだけ飛ぶのか。

 間に合うのかも何も分からない。ただひたすらに、空を目指すためハヤミは再度パネルのスイッチをオンに入れた。

 機体が震え、パネルが赤色を帯びて輝き出す。

 指示器はほとんど正常な数値を示したが、それが正しいのかどうかも確信は持てない。ハヤミは、エンジン始動手順を踏んだ。

 外部電源装置が甲高いエンジン音を唸らせはじめ、加圧空気を送り込む給気ホースが床の上をのたうつ。

「さあ来い!」

 戦闘機はゆっくりとアップを始め、回転計はまるで寝起きのようにのろのろと動いた。

 兵士が数人、遅れて一台の車が格納庫の前に止まった。それは、一目見て地下から持ち出された普通の荷台付きのピックアップトラックと呼ばれる商用車だ。だが荷台には、長い砲身の突き出た対空砲が積まれていた。

 銃座には背の低い、特徴的な羽根をつけた人造人間がいた。明らかにあれは人間じゃない。

 油圧ジェネレーターがゆっくりと回転しだし、低くくぐもった音がエンジン後方から響き始める。

「早く! 早く早く早く!!」

 二基付いているエンジンの左側にやっと火が付き始めた段階で、トラックのドアが開き中から奴らが現れる。

 その目は鋭い眼光を放っており、人とは思えないグロテスクな……皮がはげて人工繊維の中身が一部露出している者もいた。

 荷台上の機銃もこちらを向き、一気に発砲してくる。

「クソッ! クソッ! クソッ!!!」

 ハヤミはコクピットの中に身を隠し、拳銃を抜いて応戦した。相手がひるんだ隙を見て機外に飛び出し、格納庫の隅に寝かせておいた少女の元に駆け寄る。

 頭を出して外の様子をうかがえば、そこを狙って大量の銃弾が浴びせられた。

 穴だらけになって吹き飛ぶ工具棚に、塗料入れや滑車付きの予備機材庫たちも銃弾によってばらばらに吹き飛ばされる。

 僅かな壁の隙間に身を隠していると、今度はまた新手が突撃してきて銃座トラックをひっくり返した。

 それは陸軍の、人型機動歩兵だった。爆音も聞こえて、今度は戦闘車両がやってきて砲塔を回転させる。

 炎上するトラックに砲身を向けると、照準を絞り警戒している様子だ。だがそこから、新手の羽根付き兵たちが飛びかかっていって戦車たちを取り巻いた。

 ハヤミは拳銃を向けながら、少女を抱いて戦闘機に駆け上がった。

 太い外部電源ケーブルを抜き取って投げ捨て、翼によじ登ってコクピットに潜り込む。

「動いて、くれよ……ッ」

 少女を座席に入れると自分の体を片側に寄せて、ゆっくりとスロットルを動かしながらスイッチを入れた。

 エンジンの回転計が跳ねるように動き出し、油圧計が上昇する。

 目の前で、起動歩兵のコクピット部分が装甲板ごと引きちぎられ赤い何かが飛び散った。

 戦車の方も、キャタピラーを動かし右往左往している。砲塔を回しうろたえる様子はまるで、羽根蟻にたかられた小さな芋虫のようだった。ハヤミは右側エンジンの始動を試みた。

「さあ動いて! 動け……!」

 スロットルをゆっくりと前に倒しつつ、イグナイトスイッチを入れてエンジン点火を試みる。右エンジンのタービンがゆっくりと回りだし、機体がゆっくりと震えだした。

「動け動け動け! 動いてくれ!」

 レバーをを押し込み、コクピットを閉じる。アクチュエーターが閉じてガラス面がぴったりと機内を閉じ込めると、与圧が全身を包み込み、独特のむくれるような感覚が体を襲った。

 外では給気ホースが踊り、戦闘の音、発砲音がびりびりと全身に伝わってくる。

 だがそれよりも、ターボエンジンの唸り声の方が勝っていた。

 血が沸き、肉が踊るような。

 何かが始まり、何かが終わりそうな。白い羽虫のような奴らにたかられ動かなくなっていた戦車が、砲塔を回してハヤミ達の戦闘機に砲身を向ける。

 ハヤミは、自分の体に横たわり静かに息をしている少女の顔を横に向けた。そして操縦桿のカバーを外し、トリガーを引く。

「……ッ!」

 座席前方でガトリングガンが高速回転しだし、目の目にあるすべてのものが吹き飛んで消えた。紫色のガスが横に飛び出て空中に漂う。

 戦車はそこで動かなくなった。中身は、定かではない。

「いったい何が何なんだチクショウ!」

 ハヤミの戦闘機は二基のターボエンジンをさらに唸らせ、沈黙した戦車を脇に置いて駐機場から誘導路へと飛び出た。


 外は地下世界を守る最後の人類たちと、かつてあった国の生き残りたちが戦う最後の戦場となっていた。

 燃料タンクを燃やしながら走る軽戦闘車が土をまき散らしながら地表を走り、近くにいた別の車両に激突して横転させる。その軽戦車を、新たな重戦車が出てきて横から狙い撃ちする。

 物陰に隠れていた兵士たちがゲートの内側から外を撃ち、その兵士たちの脇を、ヒキガエルのような形をした丸い装甲と茶色い迷彩塗装の機動歩兵が駆け上がっていく。

 誘導路を自走していくとその周りには、いつか砂の大地で見たような形の自走砲台や戦闘車両が完璧な円陣を組んで動いていた。

 そこへハヤミの所属するジオの陸軍車列が、砲を向けて一斉に砲撃をくわえる。

 ミサイルが上空へ向けられて飛び立ち、半円を描いて地上へと降り注ぐ。その脇を、ハヤミの旧式戦闘機はゆっくりと走っていた。

『そこの予備戦闘機! 止まれ! どこの所属だ!』

 床に転がっていた古いタイプのヘルメットヘッドセットから、友軍と思われる士官の声が聞こえた。

 ハヤミはヘルメットを拾うと、マスクを手に取りマイクに向かって怒鳴った。

「こちらはジオの空軍兵、オッドボールワン! 一度離陸し上空から援護する! 離陸の許可を請う!」

『待て待て! オッドボールワン、どこの所属だって?』

 ハヤミは所属について言おうか迷った。だがカズマや、その妹や、隊長やその他の仲間たちの顔がふとよぎり、すべてを言わないことにした。

「時間がない! 離陸許可を!」

 視界の先に伸びる細い道がいったん途切れ、ハヤミはフットペダルを踏み込み機体を反転させる。

 細い誘導路は九十度に曲がり、転じて目の前に数百メートルの太い滑走路が伸びる。

 この先は前人未踏。誰も踏み込んだことのない、誰も行ったことのない空の道。

 砂埃が舞い、きらきらと輝く液化冷却剤の粒子が雨のように降り注いでいる。

「離陸の許可を!」

 ヘルメットをかぶると、耳元のイヤホンからはしばし空間微量ノイズだけが聞こえてきた。

 しかしすぐに、管制塔の若い士官の声が聞こえてくる。

『了解オッドボールワン、離陸を許可する、繰り返す、離陸を許可する!』


「了解オッドボールワン、これより離陸する」

 操縦桿や補助翼の利きを確認し、ハヤミはお祈りをするように、胸の上で眠っている少女の頭をなでた。

 覚悟を決めて、ゆっくりとスロットルを押し出しブレーキを解く。機体を止めていたディスクブレーキが解かれ、重力とともに機体はするすると前に滑り出ていった。

 みるみる内に戦場は後方に流れていき、速度計の針がゆっくりと数値を上昇させていく。

 滑走路の脇で土嚢に倒れる、名前も知らない友軍兵。刀を持って兵士たちに飛びかかる、白い翼を持った兵士。

 打ち上げられる対空ミサイル。戦車砲。爆撃。それらをかいくぐり、ハヤミの戦闘機は速度を上げていった。

「もう、たくさんだ!」

 頭上を覆う、空飛ぶ巨大な船。発射された対空ミサイルのいくつかが蛇行を繰り返し、何かを追いかけて自爆した。

 そのミサイルの爆発を避けたいくつかの人型起動歩兵たちが、ジオの予備飛行場に次々と舞い降りてくる。

 ハヤミは少女を抱きしめ、必死に速度計を睨んだ。

「ヴイワン」

 今乗っている機体の離陸距離がいくつだったのか、覚えていない。それでも針は刻々と、刻まれた数字を駆けていく。まさに祈るようだった。

 戦車砲に吹き飛ばされた敵の起動歩兵が、頭部だけでハヤミの戦闘機の脇を覗く。

 破片だけになって、ハヤミを見つめ、消える。

 そして破片は見えなくなると、今度は滑走路の終わりが覗いた。

「……飛べッ」

 消え入るような声、ハヤミは操縦桿を引いた。

 機体は不思議な浮遊感をハヤミに感じさせながら、空に浮いた。


 頭上には、白煙を上げる空中空母。

 眼下すれすれに、機動戦闘車両の車列を飛び越えながら。

 ハヤミはレバーを押し上げ、脚を格納した。

 高度をとってまず目に入ったのは、上空に停滞している飛行空母の船底。それから、船底の下を蛇行するように飛んでいる有翼獣たちだった。

 かつて地上にいたときに見た彼らが、あの飛行空母を守っている。

 戦闘はすでに始まっており、別々のゲートやカタパルトゲートから飛び出た友軍機たちが、有翼獣と奇妙なドッグファイトを繰り返していた。

 横に円を描くようにして互いの尾を追い掛ける戦闘機と翼竜。あるいは縦に。

 なぎ払われ吹き飛ぶ機体と翼。遠距離から撃たれて、血しぶきだけを残して墜ちていく影。

 気づくと目の前に、影がいた。

「クッ……フゥゥゥゥ!!!!!!」

 操縦桿を握りしめ横になぎ倒す。機体が傾き重力が横にかかる。

 ハヤミの眼前に蛇のように長い翼竜が現れ、口蓋を開きながらすぐ真横をすり抜けていった。

 ハヤミは少女を抱きしめ、少女と己の無事をかみしめた。どこにも居場所はない。この空にも、この果てにも。

 意識のない少女はハヤミの胸の中で眠り続けており、その安らかな寝息は、ここが戦場であることをまるで無視していた。

 だがそれよりも気になるのは、少女の胸についている赤いクリスタル状のもの。

 ログだか何かが刻まれているだろうが、そのクリスタル状の物が強く発光して、アクリルガラスの向こう側、空の彼方のある一点に向けて光の線を向けていた。

「なんだ、これは」

 光線は太陽の反射光ではなく、ハヤミがどれだけ機体の姿勢を変えてもある一点を示し続けた。それに伴い、周りで格闘戦をしていた翼竜の一部が方向を変え、ハヤミに向けて首を曲げる。

「これは……」

 オヤジの言葉を思い出した。少女は何かを、ハヤミに伝えたがっていると。

 ハヤミにはその指し示す光の意味が分からなかった。それにこの先には何があるのか、または何もないのかそれすらも分からない。だがハヤミは覚悟を決め、操縦桿を傾け光の示す方へと機体を向けた。

 ふと上を見ると、反射ミラーに機体後方の様子が覗く。そこにはこちらを捉えて離さない翼竜と、コクピットを割られて誰かが乗り込んだらしい味方の戦闘機が数機映っていた。


 ハヤミは操縦桿を握りしめスロットルを倒した。

 大気速度計が加速を始め、目に映る雲がぐんぐんと下に落ちていきそれに合わせて、対地高度計の針が何周も回ってメモリが積算される。

 操縦桿脇のコーションパネルが赤く点滅し、武装が積まれていないこと、燃料が足りないこと、どこかのパネルが開いていること、電気系や油圧計の異常を伝えていた。だがそんな異常よりも、後ろについて離れない敵機がそこにいる。

「逃がしてくれないのか!」

 周りにいたはずの味方機はその影を潜め、三角形をした頭上の飛行空母は長い噴煙を空に漂わせている。

 巨大すぎて今まで分からなかったが、もしかしたらあの艦は衛星軌道上にいるのかもしれない。

 ハヤミは操縦桿を握り直すと、ゆっくりと手元に引いて機体を上昇させた。

 二つのエンジンの微妙な出力差を肌で感じながら、ハヤミの左手はスロットルレバーを細かく調整する。

 後方から迫る敵の翼竜、口が開き牙が覗く、青白い焔が吐かれて翼をかする。それでもなお、ハヤミは上を目指した。

 空が薄い灰色から濃い青色、それから紺色へと変わりだし、コクピットを与圧する空気がハヤミをアクリルガラスの外の希薄さから身を守ってくれる。

 独特の孤独感と緊張の狭間、刹那の興奮。ハヤミは胸に抱く少女を抱きしめた。

 胸の光は永遠と前を示している。その先に、何があるのか。

 ハヤミには分からない。

 気づけば後ろに迫っていた翼竜たちはハヤミを追うのをやめていて、代わりに衛星軌道近くで待っていた無人機たちの群れがハヤミたちを出迎える。

 薄いフォルムに鋭利な翼、黒塗りの小型無人機が、飛んで逃げるハヤミたちの後に続く。

 見上げれば、太陽。薄い高層の雲。あとに続いて、上空の飛行空母もゆっくりとハヤミ達を追いかけている。

 無人機の一機が群れから外れてハヤミの機体を追い越し、しばらくすると速度を落とさず急反転しハヤミに向かって突っ込んできた。

「うお?!」

 ハヤミは操縦桿を横に倒しペダルを踏み込んだ。

 無人機はハヤミの翼のすぐ脇を通り過ぎ後ろに消えたが、その様子を見ていた他の無人機たちが一斉に真似をし出し、加速しハヤミを追い抜くと、あらゆる方向からハヤミに向かって突っ込んでくる。

 ハヤミは、それら突っ込んできた無人機を目で見て肌で感じ、直感と集中力、震える操縦桿を僅か左右に揺らしつつ、加速を繰り返しそれらを避けた。

 なおも反転し迫ってくる無人機たちに、ガトリングがんを撃ちはなった。

「……ッ!」

 砕け散った敵の残骸がまき散らされハヤミの機体に破片となってぶつかる。それでも機体は衝撃に耐えて、一路光の示す方へ。

 無人機の猛攻を避け続けつつ、ハヤミは自分が笑っているのに気がついた。

 翼が音速を超え機体は風を切り、ふたつの白い雲を引きつれて、ハヤミの翼は空を飛ぶ。照準が目の前に迫る無人機を捉え、ハヤミは引き金に指を当てた。


 だが撃たなかった。

「……クソッ!!!!!」

 スロットルを戻して急減速し、機体を翻して高度を下げる。

 強い縦の重力がハヤミを襲い、視界がぼやけて真っ赤に染まる。

 目がむくんで全身の血が逆流するのをハヤミは感じた。

「俺は、戦いたいんじゃねえ! まだ、墜ちるわけにはッ……」

 機体を地面にむけて直角にすると、スロットルのアフターバーナーを吹かして全力で推力を増す。

「墜ちるわけには、いかないんだ!!」

 突如地面に向かって落ち始めたハヤミ機に、 無人機たちも後に続いた。

 濃かった紺色の空が次第に青みを帯びていき、目の前に壊れかけの超巨大ヘリコプター、四枚羽根の対地攻撃機の背面が目に飛び込む。

 その要塞のような外観に相応しい対空兵器がハヤミ機を向いて、一斉に銃弾を撃ち放って段幕を作る。

 ばらばらに散らばる鉛弾に、近くで爆発する近接信管、それらの濃い段幕を飛び越え攻撃機の脇をかすめ飛ぶ。対地高度計がめまぐるしく回転し、それでもハヤミはスロットルを引き戻さず地面に向かって猛然と加速を続けた。

 地面に、黒く燃え残った元高層ビル群跡地が映る。よく見れば地上侵攻軍が点々として見えており、それらが一斉にハヤミを見上げているその姿も目に見えた。

 コーションアラートが、気が狂ったように警告音を発している。

 タイミングを見計らい、ハヤミは操縦桿を引っ張り上げた。

「ここ!!!」

 エンジンがうなりを上げ、フレームがきしみ翼が歪む。失速する寸前のふわっとした気持ち悪い浮遊感を感じながら、ハヤミはスロットルを開いた。

「あっがれええええええ!!!!」

 対地高度計がぐるぐると左回転を続け、メモリが目まぐるしく除算され次第にゼロに近づいていく。ハヤミの乗る旧式機は、今かぎりなく地上の近くを飛んでいた。

「ひッ!!」

 超高速で迫ってくる建造物の隙間をすり抜け、枯れた木をかすめ、隊列を組む歩く生体兵器たちのすぐ上を超えていく。

 いつか見た彼らは、ハヤミの旧式機を見上げて目を広げていた。それを、機体を逆さまにして逆に見上げる。ハヤミは地上の彼らを、彼らは空のハヤミを互いに見ていた。

 そして後ろから、無人機たちが銃弾を撃ち込んでくる。

 ハヤミはフットペダルを左右に踏み込み位置を微調整した。

 尾翼が風を抑制しスポイラーが開いて揚力をつくる、渦のような乱流が翼にまとい、吸い込まれた風が薄くて白い雲を作って後に続いた。

 ハヤミは目の前に迫る廃墟に目を見開いた。

 訪れる死の予感。飛びすぎるかつての町並み。そんなことで感傷に浸れる余裕もなく、地上の対空車両たちがおびただしい弾幕を広げる。

 どこかで派手な音と衝撃が走り、右側パネルに警告ランプが灯った。

『警告!!』

「くそったれ! 何をやられた?!」

 耳障りの悪い警告音とともに機械音声がけたたましく叫び、ただ警告表示が転倒されたことだけを何度も何度も繰り返した。ハヤミはリセットボタンを押してパネルを流し見た。

「右エンジンの、油圧異常?」

 見ると油圧計の針がどんどん下がっており、鏡を見ると確かに、右がわのどこからか黒い煙が吹き出ている。

「エンジンは、生きてるのか?」

 ジオの旧式予備戦闘機は異常を示し続け、煙を吐き出し続けながらそれでも空を飛び続けた。

 後方から迫る無人機たち、合流した翼竜たちは容赦なく旧式機に迫り銃弾を浴びせる。だが、地上にいる対空機銃たちはハヤミの旧式機ではなくその後ろの翼竜たちも狙って機銃を撃ち続けていた。

 静かな機内に、左右エンジンのうなり声だけが響く。左右の違い。コクピットを振るわせる異常振動。

 外の景色は、いつしか雪山になっていた。

 通り過ぎる火線の束が増して、自分たちの翼をかすめていく。警告灯をともす赤い光が増え、エンジンの異常温度と空調の異常を示しだした。

「まだだ、まだここで墜ちるわけにはいかないんだ……っ!」

 ヒーターが止まりハヤミが機内で息をする度に、白い息が吐き出され手先が冷たく感じられる。

 救いは、少女のぬくもりだった。

 未だ少女は意識を戻さず眠り続け、少女の胸元で輝く赤いクリスタル状の回路は、未だに空の一点を示し続けている。

 ハヤミは操縦桿を引き上げ、高度をとった。


 真っ白な世界。

 透き通るように、青い空。高すぎる太陽。雲間。誰もいない、空。

 ハヤミたちの乗るジオの旧式戦闘機は、いつか通ったあのときのように、静かな空を飛んでいた。

 ハヤミは雲間を抜けると、ふとガラスの向こうを見渡し声を上げた。

「誰もいないのか」

 酸素マスクからもらす声は、誰にも届かない。ハヤミは操縦桿を握りしめ、左手でいまだ意識の冷めない少女を抱きしめ空を飛び続けた。

「誰も、いないのか……この空には」

 いないことはない。地上には奴らがいて、今さきほど出てきた地下にはたくさんの人々が住んでいて、彼らは戦い、争って、今は静かなだけだ。

 ハヤミは逃げてきたのだ。あの、無意味な戦いから。

 そうして誰もいなくなった。

 高すぎる空。誰を照らすこともない、太陽。

 世界は、いつか見たときのように真っ白だった。

『……………………』

 そのうち雑音ばかり拾っていたハヤミのマイクに、途切れ途切れで誰かの声が入るようになった。

 誰かいるのか。そう思って雲の向こうを見る。誰かいそうだ。けどよく考えたらこの声がどこか遠くで誰かが話しているのを、たまたま拾ったわけではないはずだと気がついた。

 この雲は電波を通さない。磁気嵐も酷い場所だし、電波は遠くまで聞こえない。

「誰か、いるのか」

 ハヤミはレーダーを確認してみた。

 ハヤミが盗んだ旧式の戦闘機は、古いレーダーしか積んでいなかった。画面はほぼ真っ白で役に立たない、だが何かいるはずだと思って周囲を警戒する。

 この空域で、自分の近くにいると言うことは。たぶん十中八九追っ手だろう。

「誰だ」

『……こに……んだろう。ハヤミ少尉』

 耳にききおぼえのある、男の声が聞こえた。

『久しぶりだな、ハヤミ少尉』

「アトスさん?」

 雲の向こう側に、見慣れた灰色の翼、三機編隊のアークエンジェルたちが姿を現す。

 アークエンジェルたちはそれぞれ一定の距離を保ったまま、ハヤミの機体のすぐ脇まで寄ってきた。

「アトスさん。それに、テス曹長も」

『覚えていてくれたんですか』

 三機編隊のうちの一機、三番機のパイロットが軽く会釈をする。

「それに、ミラも」

『ハヤミ……』

 一番機のパイロットがこちらを見ていた。その顔は、マスクとバイザーでよく見えなかったが、声だけでそれがミラだとすぐにわかる。

 アトス少佐の機体が脇に寄ってきて、ハヤミの乗る旧式機を覗いてきた。

『聞けハヤミ少尉。大隊長からおまえに、即時帰還命令が出ている』

 アトス少佐は続けた。

『詳しい内容は俺は知らないが、もしもお前に』

 一番機のミラ、三番機のテス曹長たちが、不安そうな顔でハヤミとアトス少佐のアークエンジェルを見守っている。

『……お前に帰還する意思がないと思われる場合は撃墜も止むなしと、大隊長には言い含まれている』

 アトス少佐の言葉のあと、しばらく三機とハヤミ達は互いに何も話せなくなった。

 ふたたび口を開いたのは、小隊の中でも最年長で、指揮官でもあるアトス少佐だった。

『ハヤミ、お前は何をやったんだ』

「いえ、何も」

 ハヤミはそう言って、胸に抱えた少女を隠そうとした。

 だがそんな小細工をしてもこの三人には見逃されるわけでもなく。その様子を、三人が静かに見ていた。

『ハヤミ、あんた、とんでもないことをしたみたいだね』

 ミラはそう言うと、ハヤミを見ていた目をふと横に向けた。

「いや、その。聞いてくれミラ。信じてくれないかもしれないがオレは何もやってないんだ。信じてくれ」

『信じるさ、ハヤミ。あたしは、アンタを信じてる』

 二番機が遠ざかりアークエンジェルの三機編隊はハヤミの脇をそろって併走した。

『一緒に基地に帰ろう。アニキだって、きっと分かってくれるよ』

「信じてくれ! それにオレは、もうジオに戻るわけにはいかないんだ!」

 ハヤミは懇願するように、併走するアトス少佐に言った。

「信じてくれよ、隊長」

『……信じるさ。ハヤミ』

 アトス少佐は隣で、無線越しに、まるで疲れ切ったような、つぶやきとともにため息をついた。

『信じるさ。オレはお前を信じている、ハヤミ少尉。だがお前は、俺たちを置いてどこに行こうと言うんだ?』

 どこに行こうと言うのか。ハヤミは答えられなかった。

『おまえの居場所は、この空の先じゃない。お前には帰る場所がある。さあ、一緒に原隊に復帰しよう』 

『ハヤミ……』

 心配そうなミラ中尉とともに、テス、アトスたち三人はいつまでもハヤミの隣を飛び続ける。

 しばらくして、ハヤミはやはり帰れないと思った。漠然とした理由ではあったがあの墜ちた地上での経験が、頭から離れない。

 あのときの記憶がハヤミに、絞るように声を出させた。

「アトス少佐。あんただって、分かってるだろう。このまま地下に隠れていたらヤバいって。オレたちは、そろそろ出て行かないといけないって」

『出て行ってもこの不毛の地上世界では、誰も生きることのできない世界で、人間は生きていけない。そうだろう?』

「でも生きている奴らはいる! 地下にだって、地上にだって、オレたちがいないと思っていた奴らがいる! オレたちは地上に出るべきだ!」

『それが、お前が空を飛ぶ理由か?』

 アトス少佐たち三人のアークエンジェルはゆっくりと空を飛び続け、だがわずかずつハヤミの旧式機と距離をとる。

 三番機、テス曹長のアークエンジェルがふわりと高度をとり、上からハヤミのコクピットを覗いた。

『隊長、います。あの少女です』

『ハヤミ、最後の警告だ。原隊に戻れ。これ以上俺に言わせるな』

 やや威圧的な声質で、無線越しのアトス少佐はハヤミに問いかけた。だがハヤミの答えは、やや不明瞭で不確かではあったが、ノーだった。

 それは無言のまま空を飛び続けることで彼らには伝わったらしい。

 ミラ中尉が何度も「もうやめて」と祈るように繰り返す中で、アトスは何度目かの深いため息を漏らした。

『そこまでして、お前が地上に何を求めるのかは分からない。敵に内通して、施設に彼らを侵入させ俺たちのジオを燃やし尽くしてでも、お前は地上に出たかった。そうだな』

「そこまでは……」

 言いよどんだ。そんなつもりはなかった。

「そんなつもりは、なかったんだ」

『言い訳は無用だ、ハヤミ』

 二番機が翼を翻し、それに続いて三番機、一番機がためらうようにしばらく飛び続け、三番機の後に続いて翼をかえす。

『それでもおまえが、意地を通すというなら』

 アトス少佐の声が雑音混じりの無線に響き、ハヤミの操縦する旧式戦闘機の真後ろに機体をつけた。

 警告灯にロックオンアラートが表示され、けたたましくミサイル警報装置が音を発する。

『俺に、お前の意地を見せてみろ』

「嘘だろアトスさん、いや、少佐! やめてくれ!」

『第二小隊、目標を変更し目標の説得から、目標の破壊に移行する。各機、ターゲットを撃破せよ』

『ハヤミ、ごめん……!』

 アトス少佐のアークエンジェルが、続いてミラ中尉、テス曹長のアークエンジェルたちも、ハヤミに向かって一斉にミサイルを放った。

 螺旋の渦を巻くように、いくつものミサイルが筋をひいてハヤミのエンジンの尾に迫る。

「ちっ!」

 ハヤミは旧式機のスロットルを開き、アフターバーナーを入れた。

 しかし機体はハヤミの指示通りに動かず左側のエンジンだけが、赤い炎を伴って高熱状態に移行した。

 警報装置が作動しけたたましく非常警報が鳴り響く。それと同時に、右エンジンの異常加熱を感知したという警報灯がついた。

「なぜ!」

 ハヤミはエンジンのスロットルを戻しながら無線にどなった。

「なぜだ! なぜオレを逃がしてくれない!?」

『裏切ったからよ!』

 ミラ中尉の声が、泣きながらなのか鼻づまりしたような声が響く。

『あながた、自分勝手なことをしたから私のお母さんたちは!!』

「それは誤解だ!」

 ハヤミはきりもみ状態に陥りながら懸命に弁論を繰り返した。

「オレは何も裏切っちゃいない! 敵にだって寝返っていないし、内通だってしていない! オレははめられたんだ!」

『じゃあその子はなんなの?! なんのために、一緒に逃げようなんてしているの!』

 視界が回る中、ハヤミは操縦桿を引いてから戻し、フットペダルを踏み込んで姿勢を戻した。

 だが目の前に地面が迫る。

「くそっ!」

 緊急回避として操縦桿を引き上げる。だが油圧が足りず、翼が言うことをきかない。

 咄嗟の判断でハヤミはブレーカーを引き抜き、燃料位相系をすべて作動させ燃料タンクを切り替えた。

 異常加熱で作動不良を起こしていた右エンジンが止まり、ブレーカーが外されたことで第一燃料タンク、第三燃料タンクに残燃料のすべてが集中する。

 ハヤミは左エンジンを吹かし、右油圧系統をすべて非常用油圧系統に切り替えた。

 死んでいた右翼が、突如動きを回復させ補助翼が動く。操縦桿が左側に大きく動いた。

「あがれ!!」

『上がらせるか!』

 頭上から影が迫り、アークエンジェルの三番機がハヤミに向かって機銃を放つ。

『少尉、あなたはやり過ぎたんだ!』

「テス曹長か!」

 地面すれすれを機体がかすめ飛び、跳ね上がった石がアクリルガラス板を傷つける。

「どうしてオレを追う! おまえにとってオレはなんなんだ!?』

『あなたはオレにとってヒーローだった! 今までだって、ずっと!』

「じゃあそれが、オレを落とさなきゃいけない理由にはならないだろう曹長! それとも命令ならなんでも落とすって言うのか!」

 対地高度のすぐ上をとられ、機体の後ろを執拗に追いかけてくるテス曹長のアークエンジェルにハヤミは問い続けた。

「オレを逃がしても、お前に罰が当たるわけじゃないだろう?!」

『そうやって、あんたは逃げればいい。けどオレの見てきたあんたは勇敢だった。でも実際は違った、あんたは弱い! 逃げ続けるだけだ!』

「オレはお前と戦いたくない!」

 黒煙がエンジンからあがり、非常用油圧アクチュエーターが絶叫をあげた。

 パワーはあがらず。だがそうこうしているうちに、視界が開け眼下に湖が広がった。

 ハヤミは懸命に操縦桿を握りしめ、後方から迫るアークエンジェルたちの動向をうかがった。

 三番機の後ろに一番機、ミラ中尉のアークエンジェルがついている。

『あんたがそうやって逃げ続けるつもりというなら!』

 テス曹長のアークエンジェルがすぐ後ろについて、機銃を回す。翼をかすめる銃弾が湖面を打ち砕き、砕けた水が滝のようになってハヤミの翼をなでた。

『オレはあんたを殺す!』

「誤解だ! それは誤解だ!」

 湖面を振るわせ、空気を吸い込み、ハヤミの旧式双発機は超低空を這うように飛び続けた。そのすぐ後ろを二機のアークエンジェルが、互いに螺旋を描くように、あるいは競うようにハヤミを追いかける。

 苦し紛れに操縦桿を引くと、機体が上昇しかけたその先に機銃が撃ち込まれた。

 太陽を背にして、渦を巻く雲と雲の間を灰色の翼のアークエンジェルが飛んでいる。

『いつまで逃げ続けるつもりだ、ハヤミ少尉』

 アークエンジェル二番機、アトス少佐の翼。

 少佐の機体は他の二機とは違う指揮官仕様だった。少佐は、ゆっくりと空を飛び続けてはいるがハヤミの旧式機が高度を上げ後ろの二機を引き離そうとすると、そのたびに機銃を撃ってハヤミを牽制した。

 広い湖の上を、一基のエンジンだけを吹かして二人の追跡を受け続けてきて、そろそろ機体が限界を迎えつつあった。右エンジンが死んで動かないところを、左エンジンまでもが限界高温に突入しようとしている。

 ハヤミは祈るように操縦桿を握りしめ、そうして傍らの少女を再び抱きしめた。

 追い詰められ、これ以上進める先がない。湖は終わりを告げてその先にはガラスの山脈が広がる。

 ハヤミは覚悟した。そのとき、レーダーに別の反応が示された。

 最初はなんてことのない、四機目のアークエンジェルだと思っていた。軍から脱走したハヤミを追ってきた第二小隊の後続……くらいだと思っていたがその動き方がおかしい。

 最初は一機。次に二機。四機八機と機影が増えて、丸いレーダー画面の半分ほどを埋め尽くす光点の大部隊がハヤミと第二小隊の後を追いかけ始めた。

『な、なんだ?』

 最初に異変を感じたらしいのはアトス少佐だった。続いてハヤミも空の向こうを見てみたが、レーダーに写っているアークエンジェルの大編隊は見て取れない。

 だがアトス少佐たちは、その動き方を見るとはっきりとその姿が見えているらしい。

『なんだこいつらは』

『しょ、少佐!』

『味方が! こちらを!』

 ハヤミを追いかけていたテス曹長とミラの二機が回避機動に入り、射線がハヤミを捉えなくなった。その隙を突いてハヤミは上昇し高度をとったが、上空にいるアトス少佐の二番機もハヤミの動きに反応しない。

 それどころか、見えない何かに反応して回避機動をとっているようだった。

「何があったんだ?」

 三機のアークエンジェルたちが見えない何かと戦いはじめたとき、ハヤミは雲間の彼方に、なにか黒いごま粒のようなものが覗いているのを見つけた。

「あれは……デュアルファング?」

 遠目に見ても特徴的な、下方に伸びた二枚のブレードアンテナがよく見て取れる。だがあの機体が誰のものなのか、なぜそこにいるのか、そこで何をしているのかは遠くで見ているだけでは分からない。

 ただあの機体に乗っていて、この空域に来てまでハヤミを追っているのだとすれば。

「カズマ! カズマなのか!?」

 ハヤミは懸命に無線に問い続けた。だが無線はノイズを拾うばかりで、黒光りするデュアルファングからの応答は一切拾わない。

 ブレードアンテナ、両脇に突き出たレーザー射出口、ポッド型の自立航行兵器、一対の大型射撃兵装をフル装備したデュアルファングは不気味な静けさを保ちながら、雲間から降りてゆっくりとハヤミの旧式機に近づいてきた。

 無線周波数が合ったのか、ノイズと共に聞き慣れた声が聞こえた。

『ハヤミか』

 カズマの声だった。

「カズマ! あの三人に言ってくれ、オレを撃たないでくれって。オレはジオを裏切ってなんかないし全部誤解だ! オレは逃げてるんじゃない、追いかけてるんだ!」

『追いかけるだって? 何をぬけぬけと』

 カズマの声が徐々にはっきり聞こえるようになる。

 カズマのデュアルファングはハヤミに追いつくと、はっきりとした殺意をもってハヤミの乗る旧式機の後ろについた。

『ハヤミ。おまえ親はいるのか』

「……いや」

 ハヤミは答えにくそうに答えた。

『育ての親はいただろう』

 ハヤミは答えなかった。カズマの、殺意をにじませた声がはっきりと耳につく。

『今日、俺の母さんが死んだ。家に帰ったら化け物に襲われてた。地上から来たあいつらだ。その化け物がジオにくるの、おまえ全部知ってたんだろう』

「だからっ、それは誤解なんだっ! カズマお前なら分かってくれるだろう?!」

『ああ分かってやるよ。お前はいつも身勝手で、誰の話も聞かないでいつも勝手に何かやらかして、その尻ぬぐいはいつも俺がしてやっていた。鼻持ちならねえ、どっかの天才様みたいな顔したクソ野郎だったが、それ以上にいいところもあったさ』

 カズマのタレットガンが動き、射撃レーダーがハヤミを捉えていると警告音が鳴る。

 ハヤミは祈るように天を仰ぎ、震える声で無線の先に声をかけた。

「なあ、カズマ。オレたち仲間じゃないか。話せばわかる、もうエンジンがもたないんだ」

『ああそうだな。俺たちは仲間だ。いっつも、そうだ。おまえが話して、俺が聞く。だが今日は俺がお前に答えてやる日だハヤミ。俺がお前を殺す!』

「やめてくれカズマ! オレを殺す気か?!」

『死ねハヤミぃ!!』

 尋常ではない怒気をはらんだカズマの言葉が、無線先から聞こえてくる。

 他にも頭上で回避機動をしていたアークエンジェルたちの動きが落ち着き、そろってハヤミたちの後ろをついてくるようになる。

『そこの黒塗り! もしかしてカズマ少尉か?』

『アニキ! そこどいて! そいつ撃てない!』

 小柄で、古ぼけていて、使い古され時代遅れの旧式機を、デュアルファングと、三機のアークエンジェルたちが追いかける。

 空に伸びる筋状の雲、白い雲、黒い雲、ハヤミの乗り込む旧式機はすでに限界を、エンジンの融解点を超えていた。

「クソッ! 寄ってたかってオレを殺す気か!」

『生きて帰れると思うなよ!』

「帰るかバカヤロウ!! オレはオレのすることを」

 咳をするように途切れ途切れの黒雲をはき出すハヤミ機に、白い翼と黒い翼の新鋭機たちが、螺旋になって追いすがる。

 カズマの黒い機体は斜めに伸びたフィンが、大気を歪ませ熱線をはき出す。それが先頭を飛ぶハヤミ機の翼端をかすめ、火がついた。

「オレがお前を騙すわけないだろう?! 世話になったオマエのかーちゃんを、オレが殺すわけないだろう! 今までオレが嘘ついたことあるか?!」

『嘘つき野郎が! それが人の親を殺した奴の言葉か!』

「オレはオマエのバディだ! 今までも! これからも! まだ軍に入る前だって、地べた這いずり回ってた時だって、オレたちは一緒にそうしてきたじゃないか! それを、おまえは殺すのか!?」

 カズマが叫び、デュアルファングのフィンが幾筋もの熱線をはき出す。


「目を覚ませカズマ!」

 いつしか後続のアークエンジェルたちは距離を取り、ハヤミと、カズマのドッグファイトを静観するようになっていた。

 周りの空域は、荒れた岩肌の見える山脈の麓。

 流れる雲。渦を巻く大気。雷鳴。光る雲。それから、空を駆け抜けるどす黒い雨。

 ハヤミ達が最初に来た場所だった。

 ハヤミたちの動きが鈍ってきたところを、アークエンジェルの一機が狙いを澄まして後ろにつき、そのまま掃射を試みる。

 次に隊長機が上空を陣取り、ハヤミの空域脱出を阻止する。エンジン出力を増してハヤミ機に近づきとどめの一撃を食らわせる三機目が現れて。

 カズマのデュアルファングが、アークエンジェルの軌道に割り込んだ。

『……! カズマ少尉! 離れてください!』

 突撃を試みた三機目のアークエンジェル、テス曹長の三番機は懸命にデュアルファングを追い抜こうと軌道修正を試みた。だがその鼻先を、デュアルファングはかたくなに邪魔して先に進むことを許さない。

『少尉!』

『テス曹長……手を、出すな。この口先ヤロウを、俺が絶対ぶっ飛ばすんだ。テメエらはすっこんでろ!』

『少尉?!』

『すっこんでろっつってんだよ!』

 テス曹長のアークエンジェルの航路に割り込み、その他の二機たちにもフィンを向け、熱線の射出口を広げチャージの音を出す。

 大型なデュアルファングは小回りが利かない。その代わり、全方位に対して攻撃ができる特性があった。高々度射撃プラットフォームでもあるデュアルファングは、いまこの空域にいる全機を同時に攻撃できる能力があった。

『アニキ……そいつをなぜかばうの! アニキだって分かってるでしょ! お願いだからもう、やめてよ。もうやめてよ!』

 ミラが泣き声で訴え、テス曹長のアークエンジェルも動きをにぶらせ、自身の進むべき航路に迷っている。

 一人だけ、最後までぶれずにまっすぐ飛び続けている機体があった。

 アトス少佐のアークエンジェルが、ゆっくりと前に出てきてカズマのデュアルファングに近づく。

『カズマ少尉。君はハヤミ少尉を守るのか。オレたちジオの、第二小隊の邪魔をするのか』

『オレは、教官に言われたとおりにずっと空を飛んできたつもりですよ。そりゃあいろいろありましたが』

 ハヤミは煙を噴く計器板を押さえ込み、途切れ途切れの無線を拾いつつ黙って聞いていた。

 コクピットの脇、鏡に映る反転した空、デュアルファングの黒い翼が、まるで迷うようにふらふらと飛んで付いてきている。

 その後ろに、第二小隊のアークエンジェル。

 残燃料低下のアラームが灯り、ハヤミは息をのんだ。

『決着を、つけなきゃならないんです。この、バカ野郎と俺だけの話しだ』

 カズマが何か決意したように、言葉に力を入れてしゃべる。

『それだけは教官にも譲れません』

『命を賭けてでもか?』

『ええそうです。これは、俺とアイツの問題です』

 そのとき、眼下の岩肌と低高度に広がる灰色の雲の隙間から、見覚えのない古いタイプの戦闘機が姿を表した。

 最初はただの黒い点だったが、急速に接近してきてハヤミとカズマ、それから三機のアークエンジェルたちの前に現れて翼を翻す。

『……あれは!』

 アトス少佐が声を上げた。

 テス曹長やミラたちが息をのむ音も聞こえ、ハヤミもブレーカーを引きちぎりながら機体残念料の延命操作を中断し、空を見た。 

 灰色の翼。連なる星。最新型のアークエンジェルにはついていない、古いタイプのカバー。国籍を表す塗装は剥げ落ち傷んだような外観はあるものの、その姿はまさに。

「アーク、エンジェル」

 ハヤミは息をのむようにつぶやいた。

『フォックスじゃないか』

 フォックスだった。誰の目に見ても。

 それはまぎれもない、自分がジオ地下の仮想空間でずっと戦ってきて、追いかけて、落とされて、諦めて、ずっと下から、遠くから、羨望と諦めの目で見つめていた伝説のアークエンジェルと、フォックスの姿だった。

 と同時に自分が今何を見ているのか不安になってくる。

 これはまた仮想空間なのか。カズマのハッキングと電波妨害なのか。ハヤミは自分の目の周りを手でなぞった。

 それから気になって周りを振り返ってみる。

 この旧式機には、仮想空間を認識できるバイザーも高度なコアも積んでいない。

「フォックスなのか?」

 ハヤミのつぶやきに呼応するようにふたたび無線が騒がしくなり、アトス少佐が『静かにしろ!』と一括した。

 強い統率力のアトス少佐の一声に、ミラとテスは黙った。

『フォックス、なのか。これが報告にあった、いや』

 疑念に駆られるように、アトス少佐は声を絞るようにして無線先に問いかけ続けた。

『本当に本物なのか?』

 だがフォックスは答えなかった。

 手信号でフォックス自身の状況をこちらに伝えようとしてくる。そのやり方はまるで前時代的だったが、やり方は基本通りの内容で、それこそハヤミ達が航空学生だったころに教科書で習ったとおりのような形だった。

 手信号で伝えてきた内容は多くはなかった。フォックスの機体は古く、無線が壊れている。この近くには敵が多く、交戦は控えるように。今すぐ引き返せ。

 ハヤミは煙の出ているコクピットから懸命に顔を覗かせ、併走するフォックスに向かって懸命に自身の状況を伝えた。

 無線は生きている。電源系統は半分死んでいる。油圧は死にかけている、エンジンはそろそろ限界。燃料はあと五分で切れる。

 フォックスはゆっくりとうなずき、このまままっすぐ飛べと伝えてきた。

 次は、ぴったりとハヤミの後ろについてきているデュアルファングとカズマだった。

 無線ではテス曹長とミラ同士のささやき合いやアトス少佐らしい人物の声が混線し判別が難しかったが、カズマだけは無言を貫いているようだった。

 視界取りが難しく直接振り返って見ることもできなかったが、カズマは何かの意思をフォックスに伝えたらしい。

 しばらくして、フォックスはゆっくりとデュアルファングから離れ最後尾の三機の脇まで降りていった。


 少し経ってフォックスのアークエンジェルが第二小隊のアークエンジェルたちから離れ、もう一度ハヤミたちの脇に機体を寄せて下を指さし、それから二本指を倒してみせた。

 ゆっくりハヤミ達の前につくと、大きく翼をバンクさせる。

「ついてこいだと?」

『カズマ少尉に、ハヤミ少尉。我々はこれより、基地に帰投する。おまえたちの果たし合いを最後まで見届けられないのは残念だが、予期し得ない強敵と接触し、被害は甚大、燃料も保たない。中隊長たちにはお前たちは互いに撃ち合って、地面に墜ちたと報告しておく。事実、その通りになるだろうからな』

 アトス少佐の言葉にハヤミは振り返ると、確かにカズマのデュアルファングも黒い煙を吐いていた。

 先ほどなんだろうが、おそらくテス曹長との異常接近の時に弾が翼をかすったか貫通したのかもしれない。

 ハヤミの方も限界だった。マスクから供給される酸素と空気に煙が混ざっている。

『ハヤミ少尉は覚悟してのことだろうが、カズマ少尉。分かっているだろうが、お前の軍籍はなくなる。ジオにお前の居場所はなくなる。それでいいんだな?』

『俺はコイツと、決着をつけます』

『妹にも会えなくなるんだぞ』

 後から追いかけてきているアークエンジェルたちがゆっくりと機速を落とし、次第にハヤミ達から距離を遠ざけていく。

 だがそのうちの一機だけ、ミラ中尉の乗る一番機だけが、しばらくハヤミ達と一緒に空を飛び続けた。

『それで、いいんだな』

 アトス少佐の声が、途切れ途切れで無線に響いた。残響のように、消え入るように、徐々に声が遠くなっていく。

 ミラ中尉、カズマの妹で、ハヤミ達と昔から一緒にいた悪友でもあり、ガレージ仲間でもあったアークエンジェルの一番機は、しばらくすると何も言わず翼を翻し遠くへ飛び去っていった。

『それが、お前たちの選択だな。それなら、仕方がないな』

 次にアトス少佐が、翼を翻す。

 テス曹長もそのまま帰るのかと思っていたが、しばらく迷うようにしていた。

 ハヤミは無線のスイッチを入れた。

「テス曹長。きれい事を言うわけじゃないが、自分の信じた方へ進むのも悪い事じゃないと思うぞ」

『違います。俺はただ、なんか、自分が思っていた少尉は、なんだか全然違ったんだなって思って』

「なにが違ったって?」

『…………なんでも、ないです』

 ハヤミはフン、と余裕の声を出した。残燃料が残り二分を切り、内心はひやひやしていた。

「ジオでまた会おう曹長。今度は負けねえからな」

『是非とも。じゃあ、お気をつけて』

「おう」

 そうしてテス曹長も翻り、濃い雲の彼方へと消えていく。

 カズマのデュアルファングのうなり声、雷鳴が響き、アクリルガラスガラスが雨粒をはじき飛ばし、フォックスのアークエンジェルは高度を下げていく。

 ついに警告が残燃料低下から、燃料無しに切り替わった。

 残り三十秒弱。眼下に古い空港跡が見える。

 フォックスはいなくなっていた。

 日が傾き山の裾野に黒い影が伸びる。

 からからに乾いた大地に砂塵が舞い、地上世界にぽつんと残された小さな空港には、滑走路と、半壊した小さな建物だけが残っていた。

 しかも滑走路の長さは、小さな民間用航空機がぎりぎり使える程度の長さしかなかった。

 ハヤミの旧式戦闘機はとにかく降りるのでせいいっぱいであとは止まることができず、パラシュートを開き、エアブレーキを駆使してそれでも足りず、滑走路を逸脱し車輪が外れ機体の先端が地面にのめり込み、大破して、なんとか空港に着陸できたのだった。

 とうぜん滑走路には多くの散乱物が残り、続いて降りたカズマのデュアルファングは滑走路に着陸できずにそのまま近くの建物に突っ込んだ。

 黒雲が立ちこめ砂砂埃が舞い、ハヤミはなんとか機内から少女を脱出させると地面に降りた。

「くそ、まるでいつかみたいじゃないか」

 視界がまったく見通せない。ブーツの底からは堅い感触が、砕けたガラス片と死の大地の感触が伝わる。

 遠くで燃えるデュアルファング、静かに呼吸を繰り返す少女、ハヤミは少女を担ぎ直すと、漂う黒雲と僅かに聞こえる炎の音を目安にしてカズマを助けに向かった。


 不時着したデュアルファングは、ハヤミが予想していたとおり大破していた。

 ただその大破状況はそこまで悲惨ではなくて、翼が建物の柱にとられて折れ本体の一部が損傷している。ただしパイロットの乗るコアフレームの部分だけは無事のようで、解放された風防とコクピットの隙間からはカズマの腕が飛び出していた。

「カズマ! 大丈夫か!?」

 ハヤミは少女を床に寝かせ、急いでデュアルファングの下に駆け寄った。

 惰性で回転を続けるエンジンのファンブレードがからからと音を鳴らし、高圧ガスがエンジンカウルの隙間から異臭とともに吹き出ている。

「カズマ大丈夫か!」

 声掛けをしながらハヤミはデュアルファングのノーズの近くに歩み寄り、危険箇所をすり抜け、慎重にスライドドアを引き開けた。

 ドアは足場になっており、折れた柱の隙間も利用してなんとか機体上部の足場まで体を持ち上げる。カズマはぴくりとも反応しなかった。

「カズマぁ! おい!」

 ハヤミは懸命にカズマの体を抱きかかえると、ショルダーハーネスを外しゆっくりと体を引き上げた。

「今助けてやるからな!」

「は、ハヤミか……」

「しゃべるなカズマ!」

 カズマの腕を肩に引き込んでかつぎ、ゆっくりと大破した機体を降りる。

「てめえには……い、言ってやりたいことが山ほどあるんだ」

「静かにしてろ! いいか、今治療してやるからそれまで動くんじゃないぞ」

「足が、痛てえ、チクショウ」

「かすり傷だ、大丈夫だ」

 ハヤミはカズマの体を支え、ゆっくりと床の上に寝転がせた。

 さいわい、カズマの体は確かに折れてはいなさそうだった。詳しく見てみても、これといった重傷は見あたらない。さすがデュアルファングと言ったところか。

 その隣には例の翼の少女を寝かせ、ハヤミは一息つく。だがこれからのことを考えてハヤミはため息をついた。

 二人の機体はどちらも全損。修理はおそらくできない。エンジンもおそらく使い物にならないだろうし、精密機械が多すぎて直すのは不可能。

 デュアルファングも自分が乗ってきたあの機体も使えないとなると。

「ここまで、か」

 くすぶるデュアルファングと屋根に穴の開いた建物を見上げ、ハヤミはその大穴から空を見上げた。

「夜、なんだろうか」

 空には相変わらず厚い雲が広がっており、雨は降っていなかったが暗い影が世界を覆い尽くしていた。


 墜落してからどれほどの時間が経ったのか。時計を失い光も失った世界の中で、ハヤミは目を覚ました。

 気づいたら近くの空きコンテナによりかかり、そのまま眠っていたらしい。体の節々が痛く、体を起こす気にもなれない。最初は無感覚に近かったが、そのうち猛烈な寒さを覚えた。

 そして暗闇の中で唯一光るものが、赤い光が、少女の胸元で灯っているのを見る。

「う……このままだと、死ぬ」

 行くこともできず、引くこともできず、暗がりの何もないこの状況。ハヤミは、八方ふさがりであることを認識した。それでもその場で踏みとどまるのだけはなぜかしようと思わず、とにかく前へ進もうと、ハヤミは不思議と思った。

 それは、少女を見てからかもしれない。前だったらたぶん、ここで諦めていた。

「は、ハヤミ……」

「カズマ! どうだ、体の方は」

「動かねえんだ。体が……息も、できねえ。苦しい、痛えんだ」

「どうすれば楽になる?」

 少女の灯す赤い輝きを頼りに、ハヤミはカズマの服を脱がし楽にしようとした。だがそれをカズマが止める。

「水をくれ。なんだか、喉が渇いちまった」

「水?」

「耳を澄ませてみろ。水が流れてるんだ」

 ハヤミは言われたとおりに耳を澄ました。だが水の音は聞こえなかった。

 よく見ればカズマは吐血している。影に紛れて、カズマは血を吐いていた。

「なあ、水を飲ませてくれ。もうダメなんだ、喉が渇いて仕方がねえんだ」

 カズマはそういうと乱暴にハヤミの腕を掴んだ。これが最後とでも言い足そうな表情で、サイボーグカメラの周辺の筋肉を歪ませ必死の表情でハヤミに迫る。

「わかった、水だな、待ってろ今すぐ持ってくるからな」

「水を飲ませてくれ!」

 言い合っているとき、闇の向こうで物音がした。ハヤミはカズマの頭を抑えつけ床に抑えると、かがみながらゆっくりと物音のする方向を向いた。

「誰かいる」

「誰か? フォックスか?」

「いいや」

 隣で眠り続けている翼の少女は相変わらず苦しそうに息をし続け、目を覚ましていない。

 それに胸元の赤い光はジオにいた頃よりも強くはっきりした光を灯しているが、その光は今はもうどこも示していなかった。この周辺一体を全体的に照らしている。

 ハヤミは拳銃を抜くと、物音のした方に向けた。

「そこにいるのは誰だ」

 荒い息をするカズマ、苦しそうな少女を背にハヤミは一歩前へ進む。少女を背にして、ハヤミの黒い影が前方に伸びる。すると壁のようにそびえていた真っ暗な闇が、ゆっくりと動いてハヤミをのぞき込んできた。

「ッ!!!」

 それは、翼竜だった。それも、ハヤミとジオを襲っていた奴らよりも何倍も大きな個体だ。

 牙を覗かせ目を開き、眼下のハヤミを睨んでいる。だがその獣は、ジオを襲った奴らのような凶暴性が感じられなかった。

 それによく見ると、第三の目のように見えなくもない胸元の例光る物……胸元の制御クリスタルは、翼の少女が最初そうだったように輝いていない。

 ハヤミは少女を振り返った。少女は未だ昏睡状態のまま、胸元の赤い光を灯し続けている。

『…………』

 目の前の巨獣も、少女を見ているのだろうか。その目が少女を見て何を思っているかハヤミには分からなかったが、敵意や悪意があるようには見えなかった。

『……』

 その証拠に名前も分からない巨獣はゆっくりと歩くと、ハヤミの横を通り抜けて少女の下へしずかに進んだ。

 ハヤミが慌てて巨獣と少女の間に割ってはいると、巨獣はハヤミの動きを察してかそれ以上進むことはなくなった。だが長い首を前に伸ばすと、床に横たわる少女に鼻を近づけ、大きく息を吸ったり吐いたりした。

「ッ……」

 しばらく声を出せないでそのままにさせておくと、巨獣はそのうちおおきく深呼吸するように少女の胸元のクリスタル基盤から何かを吸い出し、そのまま何もなかったかのように頭を持ち上げた。

「あっ」

 赤い光が、だんだん弱くなっていく。少女が灯していた赤い輝きがだんだんその勢いを落としていく。それはまるで、短くなったろうそくがゆっくりと輝きを失っていくようでもあった。

 ただ少女の方は、今まで苦しそうだったのが楽になったようだった。スウスウと寝息をたてて眠っている。

「消えた。なにを、したんだ?」

 巨獣は答えなかった。ただ人の言葉が分からないのか、それとも分かってはいるが答えられないのかは分からないがじっとハヤミを見つめたあと、ゆっくりとその場を歩いて去っていく。

 格納庫の巨大な入り口を超えて、翼を開くと、巨獣は大きな翼をはためかせて飛んでいく。

 強い風が埃とともにハヤミを襲いハヤミは腕で目を覆ったが、しばらくして風が弱まりハヤミが腕をどかすと、すでに巨獣の姿は黒雲の彼方に消えていた。

 外は暗かった。向こうにはドーム型の建物がある。

 ハヤミはいったん格納庫の奥に戻り、寝ているカズマや少女の様子を見定めた。

「いま、水をとってくる。それまで静かにしていろよ」

 カズマは返事をする代わりに、小さくうなずく。少女は未だ眠り続けていた。

 壊れた格納庫を出て闇の中に飛び出し、まず最初に目に付いたのは渦を巻く暗い雲と、どこまでも続く荒野だった。

 遠くには高い山脈も見えはするものの、あれが今し方自分たちが飛び越えてきた山脈なのかどうかは分からない。

 ただ目の前には小さな丘状の物があって、その一面には、半分地面に埋もれる形でなにかの大きな建物があった。

 ガラスで覆われた大地を踏みしめ、折れた鉄塔や溶けた煉瓦片などの間を駆け抜けていく。建物に近づくと、大きなシャッターと壊れた鍵が目に入った。

 さらに近づくと、シャッターは半分開いていた。いや、人が一人分だけ入れそうな隙間ができていた。

「…………」

 嫌でも緊張感が走る。なぜなら今までハヤミは少女と、荒れ地のある一角でしばらく生活してきたからだ。

 そしてそのずっと前から、少女は独力で生き続けてきている。つまりこの施設にも、誰かが生きていても不思議ではない。

 もちろん生体兵器の何かがいる可能性はあるだろうがそれよりやっかいなのは、確固たる政治的な意志を持って生きている知的生物の存在だ。

 ハヤミは銃を手に握り、ゆっくりとシャッターの隙間から内側を覗いた。

「……クリアだ、誰もいない」

 自分に言い聞かせるようにして声を出し、ゆっくりと半身を隙間に入れてシャッターの影を確認する。そして、すばやく身を中に入れた。

「オーケークリアだ、ヨシ」

 シャッターの内側は、大きなエレベーター待機所だった。

 エレベーターの作りは至ってシンプル。モーターと電源施設と帯、レール、むき出しの車輪、大型車両が載せられる程度の幅と奥行きを持った足場だけ。

 まるで昔の核シェルターの入り口だなとハヤミは思ったが、すぐに思い直してその場で固まった。

 そういえば、自分が出てきたジオの入り口にも似たような物があった気がする。

 廃止されているし動かないから使わないで昇ってきたが、作りも外見もまるでそっくり。もしかしてと思って外壁を見ると、そこには確かに見覚えのあるスイッチがあった。

 スイッチには電源が通っていた。おぼろげな輝きを帯びて、主が己のスイッチを入れるのを待っているようにも見える。

 スイッチに近寄るとその作りもスイッチの場所もすべてがジオのそれと一緒だった。

 メーカーロゴはさすがに剥げ墜ちていて読めないが、所々の小さな差異はあれどほとんど一緒だ。まるでコピー品のようにも見える。

「ジオ?」

 いや、そうではない。たぶん、この世界とジオは競合していたんだろう。そうして、たまたま、とても似ているような物ができあがりそれぞれが別々に使用していた。

「……」

 もしそうだとしたらこの大深度シェルターは元々ジオと同じかそれ以上のテクノロジーを有していたことになる。

 自動警備システムとか。シェルターの維持管理とか。もしかしたら、兵器テクノロジーも。

 足下に積もった埃にハヤミの足跡だけがついていた。そっと足を引いても、ハヤミ以外の足跡は見つからない。

 スイッチに触るとうっすらと砂が付着していて、ハヤミの指先を薄汚くよごした。力を入れてスイッチを入れると部屋中に警報音が鳴り、回転灯が点いてエレベーターのシャッターが動く。

 ハヤミは軽く首を振るとエレベーターに乗り込み、静かに柵が閉じられるのを待った。

 このシェルターは生きている。

 何かの意図をもった誰かがいる。

 赤い回転灯に見送られ地下に響く警報音を聞きながら、ハヤミは口を堅く閉じ覚悟を決めた。


 果てしなく続く思いで長い地下道を下っていくと、ついにエレベーターの台座は終着地点に着いて動きを止めた。

 柵が解放され明かりが灯る。人はいない。

 エレベーターステーションの前には解放された区画ゲートがあって、その向こう側には街があった。

 電灯が灯り、ネオンがひかり、空調も効いていて、天には巨大な空調設備がついていてモーターが回っている。

 ゴミもある。ビラのようなものが地面にはばらまかれており、無人タクシーのようなものが乗客を待って路上駐車をしている。

 だが人がいなかった。

「……」

 高層ビルの上階に掲げられた巨大な液晶画面には見たこともない商品の広告が流され、そこかしこに掲げられている掲示板には、営業中、ウェルカム、そのような雰囲気と文字が並んでいるが人が誰もいなかった。

 近くでは無人の清掃車両が路上を綺麗に磨き上げており、その清掃車両が道路をこするブラシの音がどこまでも響く。

 しばらく呆気にとられてから、ハヤミは自分の目的を思い出しどこかで水が手に入らないかとあたりを見回した。

 道路の隅に見覚えのある箱の機械を見つけた。

「自動販売機!」

 ウィンドウにはまるで見たこともないような、珍しい清涼飲料水っぽいものが並んでいる。

 金? そんなものは持っていない。だが硬貨や紙幣を入れる場所がないので、さすがにハヤミは不思議に思いよくその機械を観察してみた。

 そうして、まさかなと思いながら試しに自動販売機のボタンを押してみる。すると、大きな音とともに下の受け皿に液体の満たされた容器が落ちてきた。

 とってみると容器は冷たかった。中身も入っている。ふたを開けて臭いを嗅いでも、口に含んでみても何も異常はない。

 完全無料の飲料水販売所、みたいなものなのだろうか。ジオにも似たようなのはあった気がする。

 するとあのパン屋みたいなのも、肉屋も、魚屋も、あの雑貨屋も商店も。目の前でドアを開くこのタクシーも。

 無料?

「ウソだろ?」

 なのにこの街には、人が誰もいない。

 ハヤミの腕時計が小さなデジタル音を発して夕方六時を示す。

 屋根の色彩が一斉に変わりはじめ、地下世界は濃い夕方の色から、夜の世界になった。


 エレベーターを起動させふたたび地上世界に戻ると、空は曇り空から一変して綺麗な星空になっていた。

 風もなく、肌を刺すような冷たさもない。

 荒涼としていた荒れ地は一片の曇りもないガラス張りの鏡になり、空に広がる満点の星空をもう一つ大地に映し出す合わせ鏡のような。星空が、上と下の両方に広がるという、幻想的な世界がハヤミを迎えた。

 遠くには雷雲。白くて単発的なひかりをいくつか伴い、黒雲を白い稲光が走って大地の彼方に落ちてゆく。その音はまるで太鼓や、大きな打楽器のような音を響かせ、それに合わせて小さな金管楽器がかたかたと大地を鳴らし響かせる。

 小さな風が吹くとそれだけで大地のガラスは共鳴し、高い音、低い音、ドラム、打ち鳴らす音、丁寧になぞる音、あらゆる音が、四方からハヤミの耳に入ってきて心に染みる。

 そうして静かになると、今度は自分の心臓の音まで聞こえるほどの静寂が広がり、そしてまた、静かな音が荒野に広がる。

 いつかひろった何かのようなもの、ハヤミはポケットの中に忍ばせていた拾いもののダイスを手に取ると、音を鳴らしているガラスの大地にそっと投げ入れてみた。

 二つのダイスは不思議な音色を奏でながら、ぽーんぽーんと転がって闇の中に消えていった。

 そうしてハヤミは、思う。

 と同時になんだかもやもやとした気持ちがわいて出てきて、ハヤミは頭を抱えて笑った。

「ちくしょう、帰ってきちまった……」

 今までずっと、なんとなくそうなのかなと思ってはいたがやっぱりそうだなと改めて思う。

 なんてことはない。ハヤミが一番最初に墜ちた場所に、いろいろあったりなかったりしたあと、もう一度戻ってきて墜ちたのだ。

 きっとこの小山の向こう側には林があって、基地があって、あの少女が住んでいた場所があって、もうちょっと歩けばあの岩の切れ込みと地下の湖のあった場所に行けるんだろう。

 そう考えるとあの少女がたった一人であの場所に居続けられたのも、納得できる。

 アイツは人がいなくなった大深度地下シェルターから徒歩数分の、めちゃくちゃ便利な場所に住んでいたわけだ。

 洗濯機で洗濯物を回していたのも電気が生きていたのも納得できる。あいつはたぶん、地下のインフラ設備を独り占めしてずっと一人で生きてきたんだ。

 ものすごい贅沢な奴!

 なんというインチキ!

「……そういうのは、やっぱり嫌だなあ」

 ハヤミは思い、空を見上げた。

 誰もいない世界の真ん中で、この星空を独り占めしてみても。

 それを誰かと分かち合えないなんて、いうのは孤独だなと。

 少女に抱きしめられた時の柔らかさ、息の温かさ、涙の冷たさ、それから腕先の力強さを思い出す。

 ハヤミはだんだん、自分がやっている事の正しさが分からなくなってきた。

「オレは、本当にこのままでいいのか?」

 誰もいなくなった地下世界。未だに生き続けている街。管理された地下世界。それらを捨てて、外へと飛び立つその行為が。

 ハヤミは力なく息を吐くと、地下で手に入れた飲料パックを手に持ち格納庫で待っているカズマの元へと急いだ。

 格納庫の中は静かだった。

 格納庫のシャッタードアを通り抜けて、動かなくなったカズマのデュアルファングの翼の下をくぐり抜けてゆく。

 丈夫だったらい難燃性のトタン屋根と鉄骨柱の残骸、それからひっくり返った鉄製の棚を越えていくとカズマたちが寝ていたはずの場所に着いた。

「? おいカズマ?」

 そこには誰もいなかった。

 荒れた庫内。動かなくなったデュアルファングの黒い翼。残骸から垂れる布きれ。

 破れた屋根からは星空が見える、格納庫の外壁を鳴らす風の音、耳を澄ますと遠くから草の葉がこすれる音、それらの茂みに棲む虫たちの声もわずかに聞こえた。

 だがいるべきはずのカズマたちの姿が見えない。

 ハヤミは急いでペンライトを灯した。

「おい、カズマ!? 返事しろ!」

 遠くまで照らす特殊加工されたペンライトで建物の中をまんべんなく照らす。しかしライトの光は破損した庫内の壁や、崩れてむき出しになった壁の繊維や空の棚しか照らさない。

「それに、アイツもいない!」

 ふと足下をライトで照らしてみると、そこには血の跡があった。

 それにハサミや、刃物、いくつもの足跡が残り、砂の上には荒らされた跡が残っている。

 嫌な予感しかしない。ハヤミはつばを飲み込むと、ペンライトを逆手にとって左手に、拳銃を右手に持って構えつつ、ペンライトを持った腕で銃を下支えし周囲を警戒した。

「誰かいる」

 この血の跡。なにかをした跡。その足跡は半壊の格納庫奥にある、また別の部屋まで続いている。鉄製の扉は閉ざされていた。

 ためしにノブをひねると、鍵は開いている。

 ハヤミは一息つくとドアをそっと押して隙間を作り、部屋の様子をうかがった。

「……!」

 音がする。誰かがそこにいる。

 ハヤミはもう一度深く息を吸い込んではき出すと、勢いよく肩でドアを押し開いて部屋の中に飛び込んだ。

 そこにはカズマと少女の姿があった。

「動くなァ! あ?」

「おまえは何をしてるんだ?」


 カズマと少女は、床に開いた穴に糸を垂らし二人でコミュニケーションを取ろうとしているところだった。

「おまえらは何をしてるんだ。動いて大丈夫なのか?」

「おかげさまでな」

 眉間にしわを寄せて不愉快そうな顔をしているカズマは少女とのやりとり、身振り手振りをやめてぶっきらぼうに答えた。

 少女の方はハヤミに向かって笑顔で手を振ってくれる。

「おまえが水を持ってきてくれるのがあんまりにも遅かったからな。先に起きたコイツに、治してもらったら動けるようになったんだ」

「へえ。よかったじゃん」

「よかぁねーよ」

 カズマは手元に置いてあったコップの中身を飲み干し、ついでにランタンのようなものを手に持つとハヤミの近くに置いてくれた。

 光の輪が少しだけ広がり、カズマたちの座っている場所の他に座れそうな小物が落ちているのに気づく。ハヤミは銃を降ろし腰に差すと、大きめの箱の上に腰掛けた。

「その。悪かったな。いろいろ心配かけて」

 カズマが釣り竿の方を向いてぼぞっとつぶやく。

 そういえばこの竿はどこから持ってきたのだろう。

「ああ、まあ、いいさ。オレも迷惑かけたし。その、おまえとか、ミラとかにも」

「いやお前が何かしたわけじゃないってのは分かったよ」

「……なんで?」

「こいつが、その、教えてくれたからさ。お前は無実だって」

 カズマが照れくさそうに俯きながら、ランタンの光の向こうで少女の方を指さした。

 少女の方は何を言われたのか分かっていなさそうな顔をしていたが、ハヤミとカズマの顔を見比べるような仕草をみせると、小さく顔を傾けた。

 カズマは小さく顔を横に振り、消え入りそうなほど小さくため息をついて俯く。するとそのタイミングで、水面に糸を垂らしていた竿が小さく動いた。

 カズマが素早く竿を持ち上げると、糸の先には小さな魚が一匹かかっていた。

「ホントだ、本当に魚が釣れた!」

「器用な奴だな。どっから竿なんか持ってきたんだ?」

「コイツが持ってきたんだよ。それに、この傷だって全部この子が治してくれたんだ」

 そう言うとカズマは竿と魚を置いて、服の裾をめくり上げて脇腹の青い傷をハヤミに見せた。

 痛々しそうな色をして、カズマの横腹が変色している。血も出ているようだったが、そこは包帯でふさがれていた。

 カズマはふたたび服を降ろすと、床に置いた魚を針から外して近くの入れ物に投げ入れる。

 遠くでは風に揺れ葉のこすれる音、虫の声、床下に流れる地下水脈の小さな音が聞こえた。

 少女が何かをつまんでカズマに渡した。それをカズマは、針先に刺して水面に落とす。

 竿を床にたててしばらく待つ。水面が揺れる。竿が振れて魚がとれる。

 消えないランタンの光が三人を照らす。

 しばらくそのような事を繰り返していると、カズマが口を開いた。

「下は、どうだった」

「何も。お前が好きそうな飲み物はあったけど誰もいなかった。ジオみたいな所だったけど、誰もいない」

「早めに、出発した方がいいかもしれないな」

 抑揚なく静かにつぶやくカズマの言葉に、ハヤミはぴくりと耳を動かした。

「出発?」

「ああ。お前のことだ、すぐにでもここを経つつもりだったんだろう?」

「まだ何にも決めてないけどな」

 あぐらをかき箱の上に座り込んでハヤミがしばらく考え込んでいると、逆に水面を見つめていたカズマが不思議そうな顔をしてハヤミを見上げた。

「出ないつもりなのか?」

 そうじゃないさと。ハヤミは言いたかったが、言葉が出なかった。

 今まで何も考えないようにしてきたつもりだし、もう後悔したってどうもできないところまでやってきてしまった所ではある。だがこのまま何もない荒野の向こうに飛んでいったとしても、新しい何かがあるわけじゃないとだんだん冷静に考えていたらそう思うようになってきたのだ。

 ハヤミは深くうなだれて考え込んだ。それはすべてジオに置いてきたと思っていた、後悔の念に近かったかもしれない。

 しばらくハヤミとカズマは黙り込み、少女はカズマが持ち込んだミニプレイヤーとイヤホンで何かを聞き込んで黙り込む。

 風がながれ、時間が止まり、桶に入れていた半死の魚がぴくりと尾を振り間抜けな音を鳴らした。

「そろそろ、魚でも焼くか」

 そうカズマが言うと少女が顔を上げ、待ってましたとばかりにどこかへ走っていった。

 それでまたすぐ帰ってきたが、その手には小振りのガスコンロがある。

 少女は得意そうな顔をして小さく胸を張ったが、その姿はまさに、いつか見た少女のそれであった。

 最初に少女を見たときとまるで変わらない。カズマも困ったように笑っていた。

「ずいぶんと便利な廃墟じゃねーか。この分だとおまえ、前に墜落したときもバカンスを楽しんでたんじゃないのか?」

「うん。だいたい合ってる」

「そうか」

「そうだ」

 ガスコンロはそれ単体で動くものだった。

 火をつけ、魚に串を刺し、コンロの上にアミを敷いて魚を置く。アミも串も少女が持ってきたが、それをどこから持ってきたのかは何も言わなかった。

 カズマとハヤミは話さなくなった。

 だが二人の沈黙とは別に、いつもなら聞いていなくても何か話しているような少女が、なんだか妙に無口なままでいることが気になりだす。

 ハヤミはなんだか得体の知れない不安を感じながら少女を見て、少女の全体を本人にばれないよう観察する。

 顔は……元気だ。カズマの持ってきたプレーヤーとイヤホンをつないで何かの歌を聴いていた。

 おおむねシャカシャカいっているアップテンポな奴だ。

 別に本人が歌っているところを見たわけではないが、今まで一緒にいた経験を思い返してみれば突然立ち上がって歌い出してもおかしくないような、そういう脳天気な奴だと思う。

「なあ」

「?」

「どうした。何を聞いてるんだ?」

 ハヤミは少女に手を伸ばしイヤホンの一つを催促してみた。少女は笑ってイヤホンの片方を手にとって渡してくれたが、その動作の一つ一つがやたらと重そうに見える。

 というよりも、手先が小さく震えていた。

「まだ、どこか苦しいのか?」

 ハヤミは少女に聞くが、少女は笑顔のまま何も答えない。その代わりにカズマの方が答えた。

「ハヤミ。おまえ、もしかして聞こえてないのか」

 魚の身が破裂し、中身の汁が垂れてコンロの火にくすぶられる。

 火はついたり消えたりを繰り返し、その焦げた魚をカズマが一つ一つ丁寧にひっくり返していく。

 ランタンの光がカズマを照らし、少女を照らし、そしてハヤミを照らす。大きな影が建物の壁に映り込みそれらはさらに大きな影、建物や、星空の元に広がる際限のない影の中の一つに吸い込まれていた。

「さっきから、何かの指示が飛んでるぞ」

「何言ってんだここにゃオレとお前と、コイツしかいないんだぞ?」

「お前はサイボーグ化してねえから聞こえてないだけだ。ここには俺たちとこのコだけしかいなっていったな」

「いや。もしかしたらジオを襲ったコイツのお友達が、まだどこかにいるかもしれない」

「それだといいが、どうも違うようだぞ」

「だからよおッ、なにがどう違うんだって」

「おまえに聞かせてやりたいけど、コイツが壊れてるから聞かせられない奴だよ」

 カズマは、壊れたデュアルファングを振り返った。無線機や電波探知機のことを指しているのだろうか。

「俺たちが空でずっと探していた奴だ。軍の周波数帯の暗号電波がどこかから出てる。かなり近い。なあ、おまえ地下に行ったとき、ジオとそっくりの街があったって言ったよな?」

「ん。ああ、言ったけどそれがどうした」

 串刺しにしてコンロであぶる魚を何度もひっくり返しながら、カズマはサイボーグ化したアイセンサで地面を睨み大きく息を吐く。

「ジオにはマザーがあったろ。俺たちの。それみたいなのがもしも、まだこの地面の下に生きているなら」

「! ……ありえる。たしかにこのシェルターは生きてる」

「そしてそいつらがまだ俺たちジオと戦っているつもりで、俺たちがここにいるのを脅威と考えているなら」

「……あいつらが、攻めてくる?」

「それだけじゃないぞ。俺のデュアルファングには発信器が付いてる。お前の乗ってたのにもたぶん付いてる。ジオは発信器のあるここを手がかりに、必ず報復に出る」

 だいぶ焼けて黒くなりつつある魚をさらにひっくり返して、カズマは何かを深く考えるよう地面を見つめ続けた。

 それからふいに頭を上げ空を仰ぎ見る。

「たぶん明朝。ここら一帯は全部戦場になる。俺たちも軍人なら戦わなきゃいけない義務はあるけど、もしも逃げるなら、今しかチャンスはない」

「ん。なあ待てよ。もう戦争は終わったんだぜ。この子だって分かってる。オレたちはもう戦わなくてもいいんじゃないのか? なあ、もうそろそろ終わりにしようぜ」

「終わりたいとは思うけどさ、ジオのマザーは戦いは続いているって主張だった。聞かせられるなら聞かせてやりたいけど、こっちのマザーもその気みたいだぜ」

「じゃあなんでこの子はオレたちを襲わないんだ?」

 ハヤミは少女を指さした。

 少女は怯えたように目を左右に動かして、ハヤミとカズマの両方を見比べて様子を見ている。

 焦げた魚を火の上から持ちあげて、その黒こげになった魚の尾や胴体、汁の噴き出した腹を見ながらカズマは告げた。

「そのコはたぶん、エラーかなんかなんだと思う」

「どうしてそう思う?」

「この暗号通信は自滅を命令している。教育隊で習った覚えがある。宛先は、たぶんこのコだ」

 コンロに踊る青白い火が揺れ、すきま風が格納庫の隙間という隙間を通り抜け寒い冷気が肌を撫でた。

 カズマは眼球の無くなった目で黒ずんだ魚を見続け、気の棒と魚をゆっくりと回し続ける。

「たぶんこのコ、今までずっとこの信号を聞きながらここに住んでたんじゃないのか。なあハヤミ、お前がこのコをジオに連れて行ったのって、間違いだったんじゃないのか」

 何も答えられずハヤミが黙っていると、カズマはくるくると魚と気の棒を回し続け、それからハヤミに投げてきた。

 投げて寄こされた焼き魚を、ハヤミは素早く受け取った。

 答えられなかった。代わりにカズマが新しい焼き魚をコンロから拾い上げ、口の中に入れて食べ始める。

 あまりおいしそうには見えなかった。

「バディ。お前はこれからどうするつもりだ」

 ハヤミが黙って魚を見ていると、その様子を魚を租借し飲み込んだカズマが一息ついてから、改めて聞いてきた。

「どうするつもりなんだ」

「どうするって」

 ハヤミは今までなんとなく決めてきた、これからのこと、これからの未来のことを考え、そうしてもう一度ジオに置いてきた今までのことを思い出した。

 置いてきたものの数は、決して少なくない。

 例えば家とか?

 ハヤミは官舎に住んでいる。ガラクタとか、おもちゃとか、必要のないものばかりため込んでいて必要な物は何もない。

「なにかあるんだろ?」

 しゃくしゃくと魚を食べながらカズマが聞いてきた。

 そりゃああるさ。人とか。オヤジの幻影とか。マザー。それにミラとか。アトスさん。テス。多くの仲間たち。地下に置いてきた友人。

 それ以上に多くの物を置いてきたはずのカズマは、何食わぬ顔で黒こげになった魚の丸焼きをかじり、まずいともうまいとも言わず黙ってかみ続けていた。

 そうしてハヤミも自分が持っているこの得体の知れない小魚の丸焼きを見返して、どうしてこんなに黒こげになるまで火であぶったのかを問い詰めようかとも思った。

 だがそれを言葉にせずに飲み込んで、汁のにじんだ焼いた小魚の腹にかぶりついて飲み込む。

 不思議な味がした。

 苦くて、柔らかくて、白身からは水が滴り、柔らかい肉とうまみが口いっぱいに広がって、ハヤミは自分が思い悩み考えていたことがばからしくなった。

 カズマは何も言わないでそっぽを向いているが、コイツはこいつで何か考えているんだろう。そうとは分からずずっと自分のことばかり考えていたことを、ハヤミはすこし恥ずかしくなった。

「どうするんだ」

「地下には、生きるのに必要な物は全部そろってると思う。探せば何でもあるはずだ」

「それで?」

 カズマは魚を食べ終わり、残った棒きれを床に捨ててコンロの火を見つめていた。

「そこで、必要な物を探してくる。出るのは明朝、あいつらが戻ってくる前にここを発つ」

「あてはあるのか」

 カズマが不思議そうな顔をして、いつもの何か不満そうな顔で振り向いた。

 あてはなかった。けどもしこの大深度シェルターが、ハヤミ達の住んでいたジオとそっくりの作りをしていて、ジオと戦争をしていた当時のままお互いに対抗意識に燃えてまったく同じようなことを、互いが互いにしていたとしたら。

「地下の居住区。その下にはオレたちの住んでいた官舎と基地の区画。潰れていなけりゃドックだって格納庫だってあるだろう。でもそんなの探してる時間はねえ。地上のどこかに、緊急用の古い機体が隠してあるはずだ」

 カズマはハヤミの言葉を聞いてちょっと驚いた顔していた。そして少女の方は、あくびをして、かなり眠そうな顔をしていた。

「行こう。空の向こうへ」

 ハヤミが立ち上がると、カズマも立ち上がった。

「そうだな。地下に籠もっても、たぶん俺たちは生き残れない」

「おまえとなら、きっとどこまでも行けそうだ。フォックスも行ったことのない、空の向こう側にも」

「フォックス」

 カズマは何かを少しためらうように一瞬言葉を押しとどめたが、拳を握って腕を上げる。

「そうだな」

 二人は堅く、拳同士をぶつけあった。

 かくして、この国の予備機は見つかった。

 整備状況は、おおむね完璧。人知れず誰かがずっと整備をし続けていたんだろう、パッチ跡やグリースを丁寧に塗り込んだ跡が随所にあった。

 空になった燃料タンクに燃料を入れればいいのが分かったが、ここにきて大問題が発生した。

 この予備機は低速のレシプロ機、それも一人乗りだった。

 どんなに荷物を捨てて軽くしても二人までしか乗れない。それに夜明けも近くなった紺色の地平線には、見覚えのある巨大艦艇が刻々と近づいてきている姿が見えた。

 煙を吐き出す大破艦に、その周囲を細かな黒い粒のようなものがびっしりと覆っている。あれ全部がジオを攻めた生物兵器たちだと思うとゾッとした。

 それとは別方角からも、新手の追っ手がいる。最新鋭の小型飛行艇とアークエンジェルたちの大編隊が、ハヤミ達の隠れる地下都市に迫りつつあった。

 眠れる地下都市が震えはじめ、心なしかそこらじゅうから地鳴りが聞こえ始める。

「嫌な予感しかしない」

 まどろむ少女を物陰に隠し、ハヤミは地平線の彼方を双眼鏡で覗きこんだ。

 こんどは地鳴りが一段と大きく響き、比較的近くにあった地面が動いて盛り上がり、ばりばりとガラスを砕いて内側からミサイルサイロが姿を現した。

 空港の地上施設や寂れた管制塔が次々に破壊されそれら廃墟に偽装されていたサイロや隔壁が次々に姿を現し、今まで何もなかった地上部は次第に要塞のていを成していく。

 そして現れたシェルターのシャッターが開き、非常用として使うのであろう、歩行型の戦闘車両や重戦車、対空車両などが現れる。

 ただし、それら予備兵器たちは地上に出てきはしたもののそれ以上動こうとしない。

 エンジン音が基地全体に響く。初期動作チェックをこなす機体もある。

 だが兵器たちは動かなかった。

 ただ主を待って控えている巨人たちのようにその場で膝をつき、静かに地面を見つめている。

 寒気を感じた。今までけだるそうだった少女が、まるで夢遊病者のようにそれら兵器へ近づこうとしていた。

「やめろ! おい、やめろってユーマ! 死ぬぞ!」

 ハヤミは力ずくで少女を押さえ込もうとしたが、少女は動きにくそうな体ではあっても、まるで渾身の力を入れて肢体を動かし続けた。それも声にならない声をあげながら。

 その言葉は、ほとんどかすれ声で聞き取れない。体を押さえつけ顔を両手で覆うと、少女の体が異様に冷たかった。

 まるで生気のない顔で、ほとんど聞き取れないくらい小さな声で何か呟いていた。

 徐々に近づいてくる爆音と、艦載機たちが上風を切る音が直上の空を舞い始め、彼女の言葉は声になっていなかった。だがハヤミにははっきりと聞こえた。

「プルー シ、もういい、休め」

 まるで部品か何かのような言葉だった。それが彼女の名前だった。

 彼女は兵器だったのだ。

「……はじめやがった! くるぞ!」

 カズマが叫び、空気を裂くような飛翔体の飛ぶ音とエンジン音、爆発なのか地面が抉られたときの地響きなのか分からない衝撃が体全体を覆い、少女をかばうハヤミの背中を熱い衝撃波が走る。

 見上げると船底が見えた。それは小さな強襲上陸艇で、底部に多数の戦闘車両を垂下し敵地に上陸する構えのジオの海兵隊。その強襲艇を体当たりで押しのけ、今度はあの飛行空母が頭上に現れる。

 発砲を始めた地上の対空迎撃システムたちが、空飛ぶジオの艦艇めがけて連装ミサイルを打ち上げる。その様子はまるで夏の夜空に見る花火のようだったが、空から降ってきたのはきらきらと光る火花や煙ではなく、血だった。

 肉片と体の一部が雨のように降り注ぎ、そのうち一部の肉片は落下しても動き続け近くで待機していた戦闘車両に乗り込もうとする。

 まるで人間のような戦闘車両が強襲艇から降下し、肉片を踏みつぶす。待機していた車両を破壊する。燃やし尽くす。それでもなお戦意を失わない、戦うだけの肉片たちは、武器を手に取り、爆弾を握りしめ、果敢にジオの兵士たちに襲いかかった。

 あるものはコクピットを素手で破って中の兵士を殺し、あるものは味方が落としたミサイルポッドをその場で撃ち放って直撃させる。

「これが……戦場」

 カズマが体を震わせ物陰で叫んだ。

 そこへ誰かが入ってきた。カズマが頭を抱え悲鳴を上げる。咄嗟に、ハヤミは彼を撃った。撃たれて、絶叫し頭から後ろへのけぞって絶命したのは、ジオの兵士だった。

 ハヤミは足下に倒れる少女を抱きかかえ、拳銃を握りしめた。

「戦って! 戦って! 互いに戦って! 地下に籠もって、なにが決められた未来だ! もうたくさんだ! 戦争は終わったんだ!」

 返り血のついた額を震える手でぬぐい、ハヤミは拳銃をしまった。

 格納庫の屋根を破るように上から歩行型のウォーカー、人型の戦闘車が乗り上げハヤミ達をのぞき込む。

 所属はジオだ。その背面から、また別のウォーカーが乗り上げて銃器を構える。

 鉄の殻で覆われた兵器の内側から、言葉では言い表せない祈りのようなものをハヤミは感じた。それがパイロットの念じた思いなのか、それともハヤミの思い込みなのか。撃たれて、血を流し、空からの機銃掃射で装甲板を貫かれ、人型の戦闘車両は獣のような雄叫びを上げてふたたび空を見上げる。

 空には灰色のアークエンジェルたち。鉄のゆりかご、目を閉ざされ耳をふさがれた、戦うための獣。

「もうたくさんだ!!」

 休眠状態に落ち着いた少女を担ぎ上げ、ハヤミはレシプロ機の翼に駆け寄った。

 車輪止めを外し、少女を前席の隙間に押し込んでクランクシャフトを取り出す。

「カズマァ! 早くこっちに来い!」

「ム、ムリだそんなの!!」

 格納庫の壁をいくつもの流れ弾が貫通し、大きな穴を開けていく。

「今飛び出ていったってただのいい的だ! 下に降りよう! 様子を見て脱出するんだ!」

「今飛ばなかったら一生飛べないままだぞ?!」

 飛び交う弾丸を避けながら、カズマがレシプロ機の先頭まで駆けてくる。

「飛んだってこいつは一人乗りだ! 三人も乗るなんてムリだ!」

「大丈夫だ!」

 ハヤミはカズマがプロペラを回したのを確認してから、イグニッションスイッチに指をかける。

「オレたちは飛べる、大丈夫だ!」

「なにが大丈夫なもんかよクソッタレ!」

 クランクシャフトをエンジンに差し込み、カズマは全身でシャフトをぐるぐると回し始める。

 甲高いスターターの音とともに徐々に電圧メーターが上がりだし、ハヤミはイグニッションキーを回した。

 ガリガリッと音がする。だがうまくかからない。ジェネレーターは回るがエンジンが冷えているのか着火がうまくいかないようだった。

 屋根の隙間から被弾した航空機が勢いよく舟艇に激突する様子が見え、ばらばらに散らばった破片が地面に向かって飛び散る様子が見えた。

 さらにキーを回す。エンジンはかからない。

「もっと回せ!」

「やってるよ!!」

 カズマは勢いよくシャフトを回し、それに連動してプロペラもかくかくと回りそうな勢いをする。

 ハヤミがスタータースイッチを何度か入れた後、ようやく濃い煙が排気管から吹き出てプロペラが回り出した。

「乗れ!」

「言われなくなって!!」

 クランクシャフトを抜き取って、顔にかかった油をぬぐいながらカズマが走る。直後、格納庫の外からウォーカーが突っ込んできて仰向けになり行動不能になる。

 破壊された壁から順にすべての壁が崩れ落ち、世界のすべてが目に入る。

 嫌でも目に入ってくる、耳に聞こえる、鼻に訴えかける地獄絵図。燃える廃油、汚泥、血まみれになった無人の機体、膝から崩れ落ち銃口を地面に突き刺して擱座するウォーカーたち、空を飛び過ぎる輸送機の群れ、爆撃機を無人機が追いかけ、あるいは爆散して小山にぶつかるもの達が無数に飛び交う、非武装のハヤミたちのレシプロ機はそんな戦場のど真ん中にいた。

 プロペラ機は出力を上げ滑走路に向かう。

「早くッ! もっと!」

 カズマがコクピットで暴れ操縦桿がうまく操作できない。

 座席を前に倒し、荷物を捨ててカラになった胴体部にカズマの体を押し込む。上部の取り出しパネルを開いてカズマが顔を出し、ヘルメットを抑えながら怒鳴った。

「とにかくすすむぞ!」

「おうよ!」

 広域な戦場の真ん中で燃える戦車たちを置き去りに、ハヤミたちのプロペラ機は前進する。だが飛行場はすでに穴だらけで、破壊された車両や爆散したミサイルの破片が飛び散り滑走するのもままならない。

 低空をあの巨大飛行空母がかすめ飛び、小さく爆発を伴いながらなおも高度を下げつつ飛び続けている。その真下を、輸送機、揚陸艇、小型無人機の群れ、ありとあらゆる兵器たちが飛び交っている。

 ばりばりとエンジンが音を立て、エンジンオイルが胴体に張り付いた。

「イチかバチかだ!」

 ハヤミは滑走路から外れ外の敷地に機体を進ませると、登りかける朝日めがけて機体を走らせた。

「どこに向かおうってんだよ!」

 後部のカズマが叫んだ。ハヤミは少女を抱え、ゆっくりとフットペダルを踏み込んで機首の向きを変える。

 その先に、滑走路はなかった。ただ永遠と広がるガラスの大地、太陽、誰もいない青空が広がっていた。

「賽は投げられたんだぜ! 誰かが決めたトコなんかに、誰が行くかよ!」

 フットペダルのブレーキを緩め、未調整だったトリムタブを調整し尾翼の傾きを僅かにずらす。

 そのとき背後の小山、施設があった場所の岩肌近くで何かが爆砕した。

 ハヤミは後ろを振り向く余裕なんか無かった。頭上を壊れかけの飛行空母が飛び去っていき、垂下式の格納甲板や砕けた第二艦橋などが目に入る。後ろでは何者かが雄叫びを上げる声が聞こえた。

 ハヤミはスロットルを押し開けた。エンジン出力計はゆっくりと出力を上げる。その勢いの伸びは、まるで疲れてよっぱらったオヤジのように遅かった。

「なんか来てる! なんか来てるぞハヤミ!!」

 カズマが叫ぶ。

「潰されそうになったら教えろ!」

「もうそこにいる!!!」

 操縦桿を握りしめ、ペダルを斜めに踏み込んで、機首先の紐を睨んで風を読んだ。

 後ろに聞こえる咆哮と共に風が大いに乱れるが、機体は順調に速度を増していった。

 スピードが乗ると前輪が小石にぶつかって揺れる度合いが大きくなった。尾輪が持ち上がる。だが、機体が重くてうまく離陸できない。

 ハヤミは祈るように、機首にくくりつている細い風見の紐を睨んだ。

 毛糸の風見紐は揺れている。

 走るプロペラ機の周りにいた歩行戦車、ウォーカーが、後ろ側に向かって銃砲を撃つ。通り過ぎた後すぐに、踏みつぶされる音が聞こえる。

 その音が何を意味するのか、ハヤミは理解していたが後ろは振り向かなかった。

「早く!」

「まだだ!」

「踏みつぶされる!!」

「まだだ!!」

「早く!!!」

 三人乗りのプロペラ機はガラスの平野を走り続け、地響きが機体越しにも伝わってくる。速度はすでに離陸点を超えていたが、機体は上がったり下がったりを何度も繰り返す。

 頭上を飛び交う航空機の数が増え、次第に大型艦が目に入ってきた。

 バウンドを繰り返すハヤミのプロペラ機に向かって、上空から執拗な機銃掃射が向けられる。その合間をぬうように走って、ハヤミはタイヤが地面を離れた何度目かの瞬間に操縦桿を引いた。

 最初は不安定だった。風が主翼をすり抜け、思うように機体が持ち上がらない。

「……クソ、無理なのかッ!」

 背後から迫る地響きが迫り、カズマが叫んだ。そのとき胸に抱いていた少女が目を開け、ハヤミの握る操縦桿に手を当てる。

「?!」

 みるみるうちに機体が軽くなる。そんな気がする。カズマが絶叫し、ハヤミは息をのむ。体が地面を離れ軽くなるような不思議な気持ちになり、視界が青くなる。

 すると、背後に迫っていた何かが飛び上がり大きな影がハヤミ達を覆い込んだ。

 そこには足が見えた。大量の足、節足動物のような、足。縦に並んだ無数の、足。

 土煙を上げ、砂とガラスを蹴散らし、頭上の飛行艦艇に飛びかかって、乗り上げる。

 そしていくつもの中型飛行艦を踏みつけ渡り歩くようにしていくと、体を丸めて、飲み込んでいったジオの飛行艦と共に深い崖へと落ちていった。

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