『わたし』



 ぎぃこ、ぎぃこ、と木の擦れる独特な音が、朝の少々霧が掛かった川に響き渡る。川縁にいた自分の前には、どこの時代劇から飛び出したのか、はたまた自分がどこかの観光地へと間違えてきていたのかと思うが、間違いはない。そう、僕の目の前には櫂をえっちらおっちらと動かしながら川を進む小さい木の船があった。


「おやお兄さん、そんな場所でどうしましたか」


 船頭の老人は、その歳を感じさせぬ陽気さでこちらに話しかけて来た。元気な老人だ。船を漕ぐ仕事をしているのなら、それくらいの元気がなければやっていけないのかもしれないな。そんなどうでもいいことを考えつつ、その問いに答えを返す。


「何をしているという訳ではないですが、少し川を眺めていたのです」


「これはこれは可笑しなお人だ。こんな霧のかかった川で何を見るというのかね」


 それはもっともな話だと苦笑を浮かべた。


「川を眺めるお暇があるというのならどうでしょう。ちょいと船に乗ってはみませんか。ここで見えぬ川を見るより、船に揺られる方がいくらかましでしょうや」


 船か、ああそれもいいかもなぁと思ったが、あいにくと財布を持ってきていない。そう言おうとすると、後ろのポケットからチャリ、っと小銭の擦れるような音がした。僕はそれを手に出して確認しようとすると、いつの間にか目の前にいた老人にそれをひったくられた。


「おぉおぉ、丁度ですな。いやはや、お兄さんもお若いのによおく解っていらっしゃる」


 どういうことだろうか。その疑問は僕の口から出ぬ内に、あれよあれよと背中を押され、船に押し込まれた。


「お兄さん、靴は並べなきゃいけませんよ。ええええ、それは大切なことですからね」


 そういうと川縁に脱いだ靴をそっと綺麗に並べた。はて、僕はいつ靴を脱いだろうか。船に乗るのに靴を脱ぐ習慣などないはずなのに。しかしやはり靴を取ろうとする間すらなく、また先ほど響いていたぎぃこ、ぎぃこと音を立てて川を進んだ。


 ちゃぽちゃぽと水の音を立て、先の見えぬ川を行く。進むうちに先ほどまでいた川縁すらも見えなくなっていた。


「この船はどこまで行くのですか」


「あちら側の川縁までさ。運賃は片道だからね」


 そうなると僕の靴はそこに置いたままになってしまうのではないだろうか。まあ靴くらい後で取りに行けばいいか。


「よくこんな霧の中を進めますね」


「この仕事も長いからね。迎えに行って、あちらに渡しての繰り返し。もう何年になるかね」


 おかしいな、僕の知る限りこの川にそんなことをする人はいなかったように思う。どこかから新しく来たのだろうか。


「お兄さんは何をしている人なんですか。私はしがない船頭ですがね、そんな見てわかることなんて語っても仕方がない。見てわからないことこそ世の中大切だったりするんですよ」


 確かに僕は私服でここまで来ている訳だし、このお爺さんの様に見てわかるような特徴なんてあるはずもない。


「僕は、普通にサラリーマンですよ。特に何か変わったことがあるわけでもない。会社に行って仕事をして、それだけの」


「立派なもんじゃないですか。こんな日がな一日中気ままに船を漕ぐ爺なんぞよかよっぽど良いお仕事をしていらっしゃる」


「そんなことないですよ。きっとお爺さんの方がよっぽどいい。あ、これは船頭さんを馬鹿にしている訳じゃなくてですね」


「ええええ、わかっておりますとも。それにしてもあなたはどうもご自分のお仕事にご不満があるようですなぁ」


 これも年の功というものであろうか。僕の心は簡単に見抜かれていたらしい。いや、それとも簡単にわかるほど、僕は不満をもって先の言葉を口にしていたのだろうか。


「どうですか。まだまだ時間はありますよ。ここはひとつ、愚痴の一つでも零してみては。ここには耳の遠い老いぼれしかおりません。重い言葉も川に流れていきましょうや」


 そう軽い調子で言ってくる老人に、確かに口にすることで何か変わることもあるかもしれないと、僕は気が付けば口を開いていた。


「まあ、なんていうかな。働いている会社がですね。世にいうブラック企業ってやつなんです。サービス残業上等、労基も無視する勢いの、絵にかいたような。上司もこれがまたひどい人で、暇があっては怒鳴り散らすような」


 船を漕ぐ音と水音以外の音は何もなく、船頭の老人さえいなくなり、自身が一人ここにいるかのような錯覚に陥り、そんな言葉がこぼれ出てくる。自分でも驚くほどにつらつらといろんなことに対する文句が出てくるのだ。会社のこと、上司のこと、日々の生活、最近会った嫌なことから昔の失敗。川面を覗き込みながら、涙がにじみ出ている自分の顔が写るのをみていると、酷く惨めな気持ちが沸きあがってきた。


「それで、疲れちゃって…… 今日も仕事あったんだけどサボっちゃって」


 そこでふと、急に自分の中でいろんなものが覚めていく感覚に襲われた。


「そう、今日も仕事だったんだけど。気分転換に散歩に、気分転換? そうだったっけ」


 自分の少しの戸惑いを無視して、船は進む。川面を覗き込む自分の顔は、いや今の体勢は既視感があった。


「川を覗き込んで…… 僕はその後」


 何か決定的なことを思い出しそうになったその時、船頭のお爺さんがぽんと肩を優しく叩いた。


「お客さん、どうもね。向こう岸には着かないみたいだ」


「へ?」


 我ながら間抜けな声だった。そんな気の抜けた声に何か言うでもなく船頭さんは続ける。


「わたしの仕事は長いけどね。偶にあるんですわ。どうにもね、乗ってる人が迷っちゃうとダメなんだ」


 一人で納得しながらそう話す船頭さんに、こちらは混乱して言葉にもなっていないうめき声の様な声が出るのみで、意味を成す言葉を話せない。それを見ながら、船頭さんはいきなり僕の背中を強く押して川へと突き落とした。


「お代はね、預かっておきますから。次はちゃんとわたさせてください。できればね、それは遠い日だといい」


 最後に聞いたのはそんな言葉だったように思う。



 目を覚ませばそこは船頭さんに出会った川縁だった。慌てて起き上がると霧なんて一切ない、向こう岸だってすぐに見えるくらいの狭い川。呆然とその川を見ていると風が吹いて、急に寒くなり、くしゃみをしてしまった。全身びしょ濡れで、体はだるい。これは風邪をひいてしまったかなと自分でも驚くくらいの平坦な心持ちでつぶやく。帰って風呂に入って寝てしまおう。そう決めて、靴を履いて、封筒を拾い、僕は帰路に着いた。

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百鬼夜語 粉犬 @konainu

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