『夜釣り』


 ちゃぷちゃぷと、波が揺れる音が聞こえてくる。視界の端に映る灯台が光で遠くを照らす中、灯台下暗しの言葉通り、俺が居る場所は、持ってきたランタンの様な形のライト以外の光はなく、海は真っ黒に塗りつぶしたようだった。


「……釣れんなぁ」


 寒さに体が縮こまる様な思いをしながら垂らした釣り竿を握ること数時間。波に流され糸がゆらゆらと揺れる以外の動きは一切ない。隣に置いたバケツは、夜風に水面が震えるばかり、魚の影の形もない。要するに坊主というやつだ。せっかく寒い中出てきたし、妻と子供にはデカイ魚を期待しておけとさんざん威張り散らした手前、そこそこの時間粘ってはいたのだが釣れぬことに対するため息も白くなるほどの寒さに、さて、いよいよ諦め時かと思い始めたその時だった。


「お?」


 クイクイッ、と微妙に竿の先が撓る感覚。リールが回り始めたあたりで少し腰を上げる。


「来た来た!」


 釣り竿を引き上げるようにぐいぐいと引き、リールを縮めていく。この重さ、竿の撓り、かなりの大物に違いない。ここらは冬でもクロダイが釣れると聞いて、態々足を延ばしたのだ。これは期待が持てる! が、少しの間竿の先にかかっているであろう獲物と格闘していて気が付いた。とてつもなく竿が重い。聊か撓りすぎではないかというほどに曲がり、リールに至ってはこれ以上回せない。一体この釣り竿の先に何が掛かっているのか。昔知り合いの伝手でマグロを釣りに行った時にも近い、いや、下手をすればそれを超える重さだ。釣り竿の違いももちろんあるだろうが、しかしこれは異常だ。こんな堤防の近くにそんな大物もいるはずはない、それに仮にそんな重さの物を吊り上げるにはこの竿は貧弱だ。竿がダメになる前に諦めるか? そんな考えが過る。


「うおっ、なんだぁ?」


 どうするか迷っていた釣り竿が急に軽くなる。リールも回せるようになった。一瞬あっけにとられたが、これは逃げられたか? そう思って海を覗き込む。


「すいやせん。この釣り針、あんたのですかい?」


 そんな声が、海から聞こえてくる。……え、海から? 思考が追い付かないで混乱して呆けていると先ほどから聞こえてきていた波の音とはまた別の、ばちゃばちゃとした誰かが泳いでくるような音が近づいてきて、目の前の堤防の縁にべちゃり、と湿った手がかけられた。


「ひぃッ!?」


 突然のホラー映画のワンシーンの様な光景を目の前にして、俺は腰が抜けてその場にへたり込んでしまった。そしてその手の主はばちゃばちゃと堤防を登ってきた。


「いやぁ、泳いでる間に甲羅に引っかかっちまったようでしてねぇ」


 くちばしをカチカチとならしながらそう言うそれは、水かきのついた手を持ち、緑色のぬらりとした光沢をもつ肌をしていて、おまけに頭のてっぺんには皿を乗せた……


「か、河童ぁっ!?」


「あ、はい。河童やらせてぇいただいておりやす。田茂 河太郎と申しやす」


 驚くこちらの様子も気にせず、そんなのんきな口調で河童はそう答えた。そんな様子に少し毒気を抜かれ、思ったことがついポロリと口に出た。


「河童って…… え、海なのに?」


 その言葉にガーン、と擬音が付くようなショックを受けた表情を浮かべ、河童は膝から崩れ落ちた。


「そ、そうでさぁ。おいらは河童なのに海に出るような、河童としてのあいでんてぃてぃをどっかに放っちまった河童もどきでさぁ……」


「あ、すみません。そんなに傷つくとは思わず」


「いや、海から這い出てくるなんて河童にあるまじきもんを見せちまったおいらが悪いんです。ああ、生まれ変わったら水族館のイルカになって人気者になりたい」


 意外と理想が高かった。ではなく、そんな横文字を使うし、表情豊かなやけにコミカルな河童が目の前に出てきたのだ。世を忍ぶ妖怪がそれでいいのか。と思いつつも、珍しすぎるその生物を眺める。少々四つん這いになって落ち込んでいたが、満足したのか立ち上がってこちらに針を手渡してきて一つ、こう尋ねてきた。


「ところで人間さんよぅ。釣り針引っ掛けあうも他生の縁ってことで聞きたいことがあるんだが、ここらにある田茂川ってぇ川を知りませんかね」


 ことわざをもじるようなセンスを見せながら、そう河童の川太郎は訪ねてきた。田茂川といえば、よく釣りに出かける川だ。


「え、ええ、知ってますけど」


「おお! それは重畳、よければ方向だけでも教えてくれやせんかいねぇ。知り合いの海坊主に会いに海に出たらこれまた広いのなんの! 川の中の河童、大海を知らずってなぁこのことで、へえ」


 やけにフレンドリーに話しかけてくる河童に少し引け腰になりながら、方向を指し示そうとして、ふと思い当たる。田茂川は山間の小さな川であり、途中ででかい川に合流して海に出るのだが、そのでかい川の河口部がどこにあったかがわからない。知っていると答えた手前、やっぱりわからないというのも気が引ける。


「えー、と……」


「どうかしましたかい?」


「……く、車、乗っていきます?」


 唐突な河童との出会いの混乱がまだ抜けていなかったのか、はたまたむやみやたらとフレンドリーな態度に感覚が鈍ったか、そんな提案を持ち出し正気に返ったのはすでに車にエンジンを入れた後だった。


「長いこと生きてるけども車に乗る日が来るなんて思いもしなかったですわ。乾かないよう水まで用意してもらっちまって」


 後部座席には河童が一体。その足元には、何も釣れなかったことが幸いして空っぽだったバケツに水を張って足を浸している。なんでもあんまり水に触れていないと乾いてしんどいらしい。すれ違う車にこの状況を見られたら、リアルな河童の人形を載せてドライブする変な人と思われるのかもしれない。


 そのあと小一時間ほど河童とのドライブに興じた。道中、堤防の時からなんとなく察していたが、喋ることが大好きな様子の河童は、一瞬たりとも途切れることなくいろいろなことを話していた。やれ最近の川は汚い、子供たちが川に遊びに来ない、空気がまずい、妖怪がどんどん減っている、などなど、話していないと死んでしまうと言わんばかりにいろんなことを話していた。一通り自分のことを話し終わると、今度は俺のことを話せと言ってきた。釣りが趣味であることや、家族のこと、今日は大物を釣って来てやると胸をはって出てきたのに釣果ゼロの坊主だったなど、何故あったばかりの河童にこんなことを話しているんだと変に冷静な思考を端に押し込めて、半ばやけくそで喋り通した。


「いやぁ、ほんとにありがたい。貴重な体験させてもらいましたわ!」


 川に着くと、そう豪快に笑って背中をバシバシ叩かれながら感謝の念を伝えられる。まさにその言葉は自分が言うべきであろう。着てきたダウンコートに水がしみているのを自覚しながら、乾いた笑いをこぼす。濡れているのに乾いているとはこれいかに。そんなやり取りを一区切りし、ちょっと待っとってくだせぇ、と言って川に飛び込む河童を見送ること、数分。川から出てきた河童はまたこちらに駆け寄ってきた。


「これ、少ないですがお礼にね。持ってってくだせぇ。なんも釣れなかったじゃかっこつかんでしょうや!」


 そういいながら両手いっぱいの川魚を空のバケツに押し込んだ。


「え、いや」


「ああ、ああ! 遠慮せんでいいんですよぉ! おいらもね、釣りするからわかりますけど坊主で帰るとどうも居心地悪いでしょう? これ釣ったって自慢してやりゃあいいんですよぉ」


「河童なのに釣りすんのか。あ、いやそうじゃなくて」


「大丈夫大丈夫! 味は保証しますから! ほいじゃあ、おいらはこの辺で、またご縁があったらお会いしましょう」


 こちらの言葉を聞こうともせずに魚を押し付けて、陽気な河童は川に帰って行った。


 しばらく川の方を見ていたが、いつまでもそうしていても仕方がないと思い。バケツに詰められた魚を、持って来ていた氷の入ったクーラーボックスに入れて家路についた。


 家に帰り、もう妻も息子も寝静まった家の中を、起こさないようにして布団に入った。なんだかもう疲れた。今はただただ、眠りが恋しかったのだ。


 翌日、クーラーボックスの中身を見た妻の、予想できていた一言。


「これって鮎? 海に釣りに行ったんじゃなかったの?」


「えー…… 海で出会った河童にもらってな……」


「……海なのに?」


「海なのに」

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