『夢枕』
電車を降りた。人も疎らになり、すっかり町明かりも消えた中、改札を出て駐輪場へと歩を向けた。少々の肌寒さを感じながら自転車にまたがり夜道を行く。いつもの様に、何ら変わりなく駅からの坂を勢いよく下り、贔屓目に見ても「古びた」という言葉が頭に付けられる様な築数十年を数えるアパートにつき自転車を止める。軋む鉄製の錆びた階段を上がり、立て付けが悪くキーキーと音を鳴らす扉を開けた。
「ただいま……」
誰もいない空間にそんな挨拶が転がる。疲れを紛らわす為に呟いた言葉であったが、それがむしろ寂しさを助長させてしまっていた。小さく溜め息をつきつつ服を脱ぎ散らかしシャワーを浴び、冷蔵庫から缶ビールを取り出して一息ついた。いつも通りの、何の変化もない日常の終わり。これから寝て、起きて、仕事に行き今日の様な夜を繰り返すのだろう。今日は一段と疲れているからか、それとも何か普段とは違うことが気付かないうちに起こっているのか。思考がどうにも暗い方向へと向かっていく。
変化が欲しかった。何でもいい。今の生活から何かが変わればいいと、そう思っていた。夢見がちな若さに身を任せ、親の反対を押し切り、特に父とは激しく意見が衝突して上京してきた。以来母には数度会ったものの、父とは連絡さえ取っていない。自分一人でもやってやろうと。きっと何かが変わると思って居た。結果はどうだろうか。今の生活は求めていたものだろうか。父と絶縁状態になるまでの価値がある生活なのだろうか?
「チッ」
気分が悪くなって来た。煙草を咥えライターで火をつける。しかしカチッカチッと音がするだけで火が出ない。視界の端にどこかの店の広告の書いてあるマッチが写ったので、仕方ないとそれを使って火をつける。シュッと軽い音を立ててマッチが燃える。煙草に火をつけ火を消して、一息ついた。
「……もう、寝るか」
煙草を吸った程度では落ちた気分は回復せず、もう寝てしまおうと考えた。時計を見れば短針は二の数字を指し示そうとしていた。明日も仕事があるのだ。この陰鬱な気持ちも寝て忘れてしまおう。そう考えて布団にもぐり込んだ。
詳しい場所は解らない。どこにでもありそうなベンチに俺は座っていた。ああ、これは夢なのだ。そう思った。座っている感覚、聞こえる音や匂い。確かに感じられる感覚は現実の様でありながら、しかしこれはあくまで夢であるとどこかで納得している自分がいた。
「いつまでぼさっとしてんだ」
頭上から投げかけられる声を聞いて初めて目の前に人が立っていることに気が付いた。そして、その聞き覚えのある声に思わず顔をしかめた。
「不細工な面してんじゃねえよ」
「親父……」
そう、親父。口の悪さ、眉間に寄った皺、気怠そうに顎の下を掻く仕草はまさに自分の知って居る父親そのものであり、そして同時に記憶より白髪が多くなり、眉間だけと言わず刻まれた年齢を感じさせる皺は上京以来止まっていた俺の中の父親の像を一気に現代へと移したような姿だった。今すぐに実家に赴けば、このままの姿で弱くなった視力の目を擦りながら新聞を読み、益体もない文句を垂れ流しているのでないかという気さえさせるほど、現実味にあふれた姿だったのだ。
「ほれ、行くぞ。時間がもったいねえ」
そう言うと父は背を向け歩いていってしまう。少々迷いはしたが、どうせ夢なのだと俺はその後を付いていった。先に歩いていく父にはすぐに追いついた。見れば右足を引きずる様に歩いて居る事に気が付く。腰も少し曲がり、その背中は酷く小さく見えた。
しばらく歩くと喫茶店の様な店構えの場所に行きついた。扉を開くとチリンと鈴の音が鳴り響く。すると父のそばに従業員らしき老婆が父のコートを預かり、それを奥に立つ老爺へと手渡した。老爺は丁寧にそれを木でできたコート掛けへと掛けた。
「こちらへどうぞ」
酷く聞き取りづらいしゃがれた声で老婆がそう言うと外の景色が良く見える席へ案内された。純喫茶と言うべき風体の見せであるが、客層は大人はもちろん子供もいる。カチャカチャと音を立てながらおはじきの様なものを積み上げ遊んでいる様だ。一人で座っている様だが親御さんはトイレにでも立っているのだろうか。それとも今日日小学生程の歳でも一人でこんな場所に来るのだろうか。少々の違和感を感じつつも、まあ夢であるのだし気にすることはないと思いなおし席についた。
「コーヒーを一つ」
老婆へ父が注文を言いつけるとそそくさと立ち去ってしまう。俺の注文は聞かないのか。
「お前にゃまだ早いよ」
不満が顔に出ていたのか、父は不機嫌そうな顔を緩めずに言い放った。その言葉にますますムッっとする。
「コーヒーぐらい、飲めるようになったさ。いつまで子供扱いをするつもりなんだ」
「そう言う所だよ」
ぐっと言葉に詰まる。確かに少々今の言葉回しは幼稚であったように思えた。だが、もう二十歳を越え久しく、酒も煙草もやるようになった自分に取って今更コーヒーを飲むのがまだ早いなどと言われる覚えはない。
「とにかくお前にゃまだ早い」
釈然としないが腹が減っている訳でものどが渇いている訳でもないのだ。なにより夢に向きになって何になる。老婆がコーヒーをもって来て、父がそれを一口飲んだ所で口を開いた。
「お前が家を出てってもう何年になる」
「……十二年と少し」
「へっ、歳とるわけだ。老けたもんな」
「親父に言われたくはない」
「そうだな」
コーヒーをもう一口グイと飲むと俺の方をまっすぐに見た。それに若干の気おくれを感じてしまい、目を逸らす様に窓の外を見た。外では日が傾き、橙色の夕空が広がって居て、近くを小川が流れ、せせらぎの音が聞こえるのを感じた。
「今は、何してんだ」
「なにって、普通に会社員」
「そうか、ちゃんと食っていけてんのか」
「ああ」
「ヤニ臭えな。煙草もやってんのか。やめとけやめとけあんなもん。寿命縮めるだけだぞ」
「親父も吸ってただろうが」
「だからやめとけって言ってんだ。ま、強くは言えないがな」
十二年、会うどころか会話もしていなかった。喧嘩別れして、おそらく顔を突き合わせようともこんな風に会話することなんてないと思って居た。だが予想に反し、人間顔を合わせればなんだかんだ言葉は出てくるものらしい。だが所詮夢だ。かなり自分の願望が混じったやり取りであるのかもしれない。実際顔を合わせれば、お互い何も言わないまま時間を過ごすことになるのかもしれない。
「また小難しいこと考えてんな」
そう言って父は自分の眉間を指示し。
「ここに皺が寄ってんだよ。そういう時は大体考えなくても良いことをややこしく考えてる時だ」
と、やや得意げに言う。
「……血筋だよ」
「違いねえ」
そんな様を見て、少々気が緩んだ。自分でも散々言っているではないか。これは夢だと。なら、これ以上考え込むことはやめよう。そう思う事にした。
「しかしなあ、十二年か。俺は一、二年で音をあげて帰ってくるもんだと思ってたよ。長くて五年もちゃ良い方だと思ってた」
「そんな根性なしだと思ってたのかよ」
「いや、俺がそん位だったからだ」
「は?」
父は懐かしそうに目を細め、続けて言った。
「俺もガキの頃家飛び出して、泣き帰ったんだよ。親父にゃ随分ぼろくそいわれてな」
なんだ? 俺はこんな話を聞いたことはない筈だ。父の話を聞くにつれ、にわかにこの夢がどこか現実味を帯びていく感覚を俺は感じていた。
「あの頃は親父に反発して、こうはなるまいなんて思ってたけどな。いざてめえが親の立場になって、自分のガキが自分と同じ事言いだして…… 結局親父と同じ事してることに気が付いたのは随分後からだった」
ため息を吐きながら頭を掻きむしり、背もたれに体重をかけ、話を続ける。
「ずっと帰ってこないお前がな、すごいと思ってたよ。頭ごなしに否定して喧嘩別れして、そのことにはちと後悔してるっちゃしてるけどな。俺のできなかったことやってるんだ。それなりに、お前のことが誇らしかった」
その言葉を聞くと、胸が苦しくなった。
「そんな良いもんじゃない。ただ単に俺は、引っ込みが付かなくて、惰性で生きているだけで…… 出て行く前の方がましだったんじゃないかって思う様な機械的な日々を送ってて。親父と絶縁状態にまでなって、そんな価値があったのかって今も……」
まとまりのない言葉がボロボロと口を付いていく。視界がにじんで、手の甲にはポツポツと水がしたたる。年甲斐もなく泣いていることにようやく気付いた。そんな様子を見て、しかし父は普段の仏頂面からそうっ蔵ができないほどの穏やかな笑顔をしながら言った。
「でも逃げなかっただろ」
「……」
「失敗なんざするもんだ。後悔しないなんてありえねえ。逃げた俺からしてみりゃ、逃げてないお前はそれだけで立派なもんさ」
父はそう言うとコーヒーの残りを一息に飲みほした。
「お前は一度帰ってこい。母さん、折をみちゃあお前の事心底心配して俺に煩く意地張るのをやめて仲直りしろってうるさく言って来てたんだ。顔位見せてやれ」
「……解った、帰るよ」
「おう」
寝る前のあの陰鬱とした気分も、夢を見始めた時の気まずさも消え、どこか暖かい気持ちが心を満たしていた。
ボーンボーン
大きな金の音が響く。どうやら壁にかけられている時計から鳴っている様だ。
「時間か」
そう父が言うと懐から見覚えの無い硬貨を六枚程取りだし、それを老婆に渡して席を立った。来た時とは反対にある扉へと歩いていこうとしていたので俺はそれに付いていこうと腰を上げる。
「お前はここまでだ。帰る時は来た時の扉から帰れ」
そう少々語気を強めて言った。その様を見てなぜか急に寂しさと不安が綯い交ぜになった様な気分が襲ってきた。
「お、親父。また会えるんだよな?」
夢だと断じたこの空間で、何を聞いているのだろう。そう思いつつもこの気持ちをどうしても取り除きたかった。しかし親父は苦笑するだけで、明確な答えは帰ってこない。そして扉の方を向いて歩いていってしまう。何かを、何かを言わねばならない。そう思った。だがその言葉は幾ら悩んでも出てこない。こちらの焦燥を余所に父の歩みは止まらない。ついに扉のノブに手がかかった時、本当に取り返しが付かなくなると思った。すると俺は何を考えるでもなく叫んでいた。
「親父!」
その呼び声を聞き、父は振り返らずその場で立ち止まった。
「ありがとう…… またな」
なんという稚拙な言葉だろうと思いながらも、これ以上の言葉はたぶん何年考えようと出てこないだろうと思った。それを聞いた父は肩を振るわせてこちらを少し振り返った。
「おう。まあ、できるだけ会わねえことを願ってるよ」
皺の増えた顔をくしゃりと歪め、今までで見たこと無いほどの笑顔でそう言い。親父は出て行った。
ピピピピと買った時から変更していない着信音が鳴っているのを聞いて俺は目を覚ました。どこかすっきりとした気分の中、寝ている間に零れ落ちた涙でぬれた顔を拭いつつ携帯電話を手に取る。母からだ。俺は力なく携帯を耳に当てる。泣きじゃくる母の声を聞きながら、落ち着いた気分でその話を聞いた。ああやはりか。そう納得しながら通話の終わった電話を切り、窓を開けはなった。まだ日の明け始めた頃合いで冷たい風が入ってくる。その日差しをしばらく眺めていた。
母からの連絡は父の訃報だった。なぜと思うと同時にどこかで納得していた。夢と断じたあの父との対話を超えていたからこその納得だった。
数日の有休を無理を言って取ってもらい、実家へと帰った。久方ぶりに会う母は、夢で見た父と同じように年を重ねていた。少々の白髪が交じり、皺が増えた顔を歪めながら泣いていた。その後父にも会いに行った。夢のままの姿で、最近腰を悪くしていたのだという母の話を耳にしつつ、死因は肺癌、外傷はなくそのただ眠って居る様な姿を見ると、どこか現実味を感じておらずふわふわと宙に浮くような感覚から一気に覚めた。あの夢の時よりも、激しく泣いた。葬儀の準備が進む中、手伝いがひと段落したので近くの公園へと赴き、ベンチに座って空を見上げた。そうしてあの夢の事を考えた。
あれは、夢だったのだろうか。自分は夢だと断言しはしたが、果たしてそうだったのだろうか。多分に自分の願望が混ざって居るかも知れないが、あれは夢では無かったのだと信じたかった。あの対話が現実だろうが夢だろうが、なにかが劇的に変わる事は無いだろう。親子のありふれた会話だ。ただ……
「十二年も会わなかったんだ。こうなったら意地でも会いに行ってやらね」
そう言って大きく伸びをして、未だに葬式の準備で慌ただしい家に歩を向ける。
ただ、あれは現実だったと思って居た方が、俺の心持ちが変わるのだ。ここまで来れば徹底抗戦を持さない構えである。まず、できる事をしよう。俺は懐に入っていた煙草とあの夜使ったマッチをごみ箱に捨てたのだった。
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