百鬼夜語

粉犬

『犬』

 暗い夜道を往く。街灯も禄にない田舎道。じゃっじゃっと石が擦れる音、りーんと涼しくなってきてから鳴きだした鈴虫の声。さらさらと小川の流れる音。暗いからだろうか。いやにはっきりと音が聞こえる。風情がある、そう思いながらゆっくりとあたりを見回しながら歩いていた。そこで一つ、風の音。草木がさあ、と一斉に揺れる。そして肌に張り付くような静けさがあたりを包んだ。なんとなく、嫌な感じだ。


「……」


 そう思っているところに、はっきりとした鳴き声があった訳ではない。ないのだが、何かの息遣いが聞こえた気がした。先ほどまでいやになるほど周囲は見回していたのだ。何かがいる訳がない。気のせいだ、そう納得したわたしはまた歩き出した。その時、はっ、と息を呑んだ。暗闇の中に、何かがいる。暗い中に黒い影、見えにくいはずだ。ああ、犬だ。犬が静かに、置物の様におとなしく座っている。幽かな息遣い。小刻みに動く腹。間違いなく生きている犬だ。わたしは、特別犬が好きな訳でもなかったが嫌いという訳でもなかった。しかしなぜかわたしは、その目の前に佇む犬の前を通るということが、ひどく恐ろしいことだと思ったのだ。


「……」


 依然鳴き声も上げず、幽かな息遣いをするだけで動きもしない。だが、ここで立ち止まっていても仕方がない。わたしは意を決して犬の前を足早に通り過ぎた。ちらりと視界に映ったその犬は、この暗闇の中で全身を黒で包んで、目の位置さえつかめないにもかかわらず。わたしを、じぃっと見つめていた気がした。なんなのだ、鼓動が早まる。ばくばくばくと少しずつ。その感覚を表すのなら、緊張というのが正しいだろうか。犬如きに、何をそこまでと思われるかもしれないが、しかし、確かに急き立てられるような、何か恐ろしいことを目の前にしているような緊張が体を包んでいた。


「……」


 少し歩いたところでその音はきこえた。


じゃりっ


 体を覆う緊張感は吐き気にも似た感覚になっていた。振り向かずともその石の擦れる音を聞けばわかった。あの犬がわたしを追いかけて来ているのだ。

 なぜだ。あんなに微動だにもしていなかったのに。今は軽い足音を鳴らしこちらに近づいてきているのがわかった。思わず足を止めると、すぐに足音も立ち止まった。そして、先ほど犬の目の前を通ったときのあの視線。わたしはそこに生き物がいるにもかかわらず、しかし何もない時より静かな今この時が、そしてその中に存在するこの犬が、とても恐ろしい存在に思えて仕方がなかった。走り出したい衝動はあったが、それをすることを、わたしはためらった。自分の本能ともいうべき何かが、そうすべきでないと警鐘を鳴らしていた。汗がにじみ出て、ぽたりと地面に落ちて土に浸みていく。あまり悠長にしている訳には行かないというのに……

 特に入り組んだ場所でもない一本道を、走るとまではいかないが、少々速足で進む。じゃっじゃっじゃっじゃ、音が響く。そしてそんな音と重なるようにたったったったと軽い音。かれこれ数十分は歩いているにもかかわらず、犬は変わらずわたしの後をつけてきた。なんだというのだ。体の動きを鈍くするような緊張は未だ体に張り付き、吐き気にも似た焦燥はさらに強く。わたしの視線は、はたから見れば不自然ともいえるほどにあたりを見回しているだろう。この足音が、この視線が、この息遣いが、そして自分の立場が、重なり絡まり重く重く腹にたまっていく感覚だ。また立ち止まる。足音は止まる。しかし視線は、息遣いは確かに感じる。後ろをちらりと見れば、やはり置物のようにこちらをじぃっと見ているのだ。犬らしく、舌を出して息を荒げ、しっぽを振っていれば少しは可愛げがあるものを。この犬は只々わたしを、なにかを見透かしているといわんばかりに凝視してくる。わたしは情けないほどに息が上がり、汗がべっとりと張り付いて、そしてひどく疲弊していた。帰ってしまいたい。帰って風呂に入って寝れるならば、どれほどうれしいだろうか。


「……」


 離れる気配を見せないその犬がひどく恨めしく見えた。その時遠くから聞こえてきた音にわたしの心臓は握りつぶされるような勢いで跳ね上がった。そうだ、今犬なんぞにかまっている暇なんてない。わたしはさらに歩く速度を速め、道をそれて山道へと入る。だんだんと大きな石が多くなり、歩きにくくなってきた。にもかかわらずやはり変わらぬ調子で後ろをついてくる。

 草木をかき分け、足場の悪い道を進む。やはりついてくる犬。足音、視線、息遣い、焦燥、緊張、披露、苛立ち。すべてがわたしを責め立てる。いつまでこの状況が続くというのだ。もはやわたしのすべての感情が、八つ当たりのごとく犬へと向かっていっていることを自分でも感じていた。速度をまた少しだけ速める。

 暫く道を行くと少し開けた場所に出た。先ほどまで歩いていた、この忌々しい犬が私の後を付け始めた道に流れていた小川の本流だろうか。少し逡巡したがここを渡れば犬もさすがについてこないのではないか? そう思い至ったわたしは靴を濡らすのも構わず川へと踏み入った。しかし、思っていた以上に流れが速く、そして川底の石には藻のようなもので滑りやすくなっていた。中ほどまで来たあたりでわたしは足を取られ転んでしまった。しまった! そう思った。なぜかはわからない。ただすべてが終わってしまったような感覚が全身を駆け巡った。早く立たねばならない、逃げねばならない。わたしは無我夢中でもがき、何とか身を起こした。そして慌てて後ろを振り返った。


「グゥゥゥゥツ」


 するとどうだ、先ほどまで何も言わずに只々ついてくるだけであったあの黒い犬は、こちらに向かって、これで嚙み千切ってやろうと云わんばかりに歯をむき出しにして、今にも飛びかからんとしているような姿勢を取った。体がこわばり、ひゅっと悲鳴にもならない声を鳴らし一瞬息が止まり、かばうように両手を交差した。

……なんだ? 飛びかかってこない?

 犬は先ほどまでの凶暴な様相を忘れてしまったかのように、またこちらをじぃっと見ているのみだった。先ほどの腹に響くような唸り声は、またかすかな息遣いへと戻っている。なんだというんだ。訳が分からないと思いながら、また襲い掛かられそうになってはこの姿勢では逃げられないと慌てて立ち上がろうとすると、手に何かを持っていることに気が付く。先ほどもがいていた時に掴んでいたらしい。それを見ると同時に、わたしは顔をしかめた。わたしにとって今一番見たくないものだったからだ。なぜこれがこんなところにあるんだ。わたしはそれを投げ捨てる。がちゃんと重い金属がぶつかったような音が響いた。見れば相当な年月が経って錆びついていたらしく、その鉄の輪は割れていた。その様を見て、ほんの少し鬱憤が晴れた。

 濡れてしまった衣服は肌に張り付き不快であり、その上水を吸った分重く、夜風で体が冷え、少しずつ疲労は眠気へと変わってきた。体力は限界だ。川を渡ったところでこの奇妙で恐ろしい犬は期待の通り消えてくれる訳もなく、変わらずについてくる。月明りすら満足に入らないような木々の生い茂る道を進む。その足取りは重く、もはや犬を引き離そうという気など起きる余地もなく速度は遅くなっていた。ついには木に寄りかかってずるずると座り込んでしまった。犬は動かない。じぃっと、不気味なほど静かにこちらを見ているだけだ。沸々と、腹の底から激情が沸き上がるのを感じた。なぜわたしはこんな犬に振り回されねばならない? なぜこんなに辛く、惨めな思いをしているんだ? 座り込んでいる地面を手で探る。そして、つかみ取った石を、犬に投げた。

 わたしは走った。拳より一回り程も大きい石は、吸い込まれるように犬の頭に当たり、犬は血を流して動かなくなったのだ! なんということはないのだ。最初からこうすればよかった! 相手が恐ろしい想像もつかない何かであり、そんなことは無意味なのではないかと思っていたが所詮は犬だった。あれではもう動けまい! わたしは気分が軽くなっているのを感じた。精神的疲労は飛び、今このようになにを気にすることなく走れることに感動していた。ああ、わたしを見る者はいない。気配も感じない。あの耳障りな音も感じない! 心が晴れていくのと同調したかのように木々は薄くなり、月明りがさしてくる。ああ、こんな感動があるか。わたしは漏れ出る笑い声を止めもせず走っていった。

 その時だ。


「わんっ」


 一声、そう吠える声がした。聞いた瞬間身は強張り、足がもつれて転んでしまう。ちょうど坂に差し掛かっていたのでそのまま止まることなく転がって行く。体中の痛み、投げ出される体、まぶしい光、衝撃。


「だ、大丈夫か!」

「やべぇ、人弾いちまった!」

「なんでこんなとこで飛び出してくんだ! 畜生、救急車。早く呼べ!」


 騒がしい声が聞こえる中、霞む視界の中、転がってきた坂の方向を見る。木の陰に確かにいるのだ。あの犬が。こちらを見ている。とても犬の浮かべるようなものではない、痛快であるといっているようなにやけた顔をしながら近づいてくる。声は出ない。体も動かない。指先のほうからだんだん温度が抜けていくような感覚の中、わたしは、犬に食われた。



『先日起きた強盗殺人事件で容疑者として挙げられていた人物が、昨日山林の道路にて事故死したというニュースが……』

 近頃ではなくなったテレビの並べられた小さな電気屋で、そんなニュースが流れていた。そこには真っ黒な犬が座っており、そのニュースを理解しているかのようにじぃっと見ていた。暫くすると興味を失ったかのように顔を背け、暗がりに消えていった。

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