第38話 馬鹿な俺を誰かぶん殴ってくれ。

「この度は誠に申し訳ありません。うちの者が大変失礼な振る舞いをしましたこと、幾重にも重ねて申し訳ありませんでした」

刈谷崎さんは、もう一度頭を深々と下げる。俺はたまらなくて情けなくて自分で自分をぶん殴りたい気分だった。


じりじりとする中、コツコツと静かなヒールの音がする。

「加藤様、でお間違いないでしょうか」

胸にバインダーを抱えた藤宮さんが、柔らかな笑顔でニヤケ野郎の前に立っている。その唇に塗られたグロスがキラキラしていて、こんな時なのにいつもより艶っぽい姿に胸が高鳴る。

「あ、ああ、そうだけど」

軽く動揺する男に、藤宮さんがバインダーを差し出した。


「こちらにサインをお願いできますか。ミサミサちゃんの今後を私たちに託す、と言う簡単な書面なんですけど。2か所にお願いします」

 託す、と言うと聞こえはいいが、要は家族の一員である生き物を永久に飼養放棄する、と言う血も涙もない書面だ。これだけは決して使いたくないと、常々刈谷崎さんが口にしていたものでもある。

それはそうだろう、これは家族を捨てるための必要書なのだ。


「あ、ああいいよ」

ペンを走らせる男に、藤宮さんが言葉を繋ぐ。

「加藤様は、著名な方なんですね。ブログを拝見させていただきました。爽やかな語り口がとても人気のご様子ですね、とても楽しい記事でした」

「まあね」

そう言って、にっこりする藤宮さんに男は得意そうに小鼻を膨らませる。


「何千とおられる沢山の読者の方へ、口コミを発信すると先ほど仰っておられましたが、ぜひ事実発信して下さいね」

「え?」

「守野の無礼は従業員としてあるまじき行為です。プロとして非常に許しがたい。ですからそのままをどうぞお伝えください」

「そんなことしたら、おたくら困るんじゃないの?」


藤宮さんはその時、可愛らしく小首をかしげてその口を開いた。

「例え困ったことになったとしても、過ちはプロとして正さなければいけません。ですからどうぞご遠慮なく」

「おいおい、おねーちゃん大丈夫? 自分で言ってることわかってる? 正義感だかなんだか知らないけどさあ、確実に炎上するよ? クレームの電話にメールバンバンくるよ? 直接抗議に来るヤツだっているさ、そしたらしばらく営業どころじゃなくなるんじゃないのかなあ?」


 滑らかな唇がキラリと動いた。

「事実そのまま、の中にはもちろん、加藤様ご自身が、業務中の従業員を口説き、叶わないとなると家族の一員をいらないと放り投げる言動も含まれます」

明らかに男は焦った。

「いや、あれはほら、手が滑っただけでさ、よくあることじゃん?」


ガラスのような、低い一定の温度を感じさせる藤宮さんの瞳が加藤を離さない。

「そうですか、わかりました。では手が滑ったと読者の皆様へご報告を。先に申し上げますが今回の件は音声も合わせ防犯カメラに記録されています。万が一、加藤様のブログで事実と異なることが発信された場合、直ちに記録を開示させて頂きますのでよろしくお願い致します」


「おいっ、俺を脅すつもりなわけ?」

「脅しではありません、事実を申し上げているのです」


藤宮さんの瞳は、どこまでも真っ直ぐに男を見詰め続けていた。





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