第10章 迷いと望み

第37話 それはないでしょう!

 シートを張り終える頃、ポツポツと雨粒がいくつか落ちてきている。夜間には本降りになるのだろう。間に合って良かったと、重いシートを運んできてくれた波多野に心の中で感謝する。


 本館へ戻ると、聞き覚えのある嫌な声が耳に入ってきた。あのニヤケ野郎、ではなくあのお客様は何度もご来店されていて、今日も波多野が受付に立っている。毎回毎回あの二面相のどこがいいんだか。


「だからさあ、ご飯ぐらいいーじゃん、ね?行こうよ。ミサミサも一緒に行ってくれたら喜ぶよ? 美咲ちゃんのために今日は新車で来ちゃったし」

 カウンターに身を乗り出すようにする背の高い男に、一歩引きながらも波多野は笑顔を絶やさない。俺には無い押しの強さを持った男になんだかムカついてきたところへ、すっと刈谷崎さんがカウンター内に現われた。

 サングラスの下には穏やかな笑みを浮かべている。


「いつもご利用ありがとうございます。また、大切なご家族を波多野にお任せ頂き重ねてありがとうございます」

 刈谷崎さんがそこで深く頭を下げた。スタッフの誰もがその姿に目を吸い寄せられる。

「誠に申し訳ありません。ただいま波多野は業務中につき、業務以外の個人的なご要望にはお応え出来兼ねます」

 刈谷崎さんは頭を下げた姿勢を崩さない。

 

「ふうん」

一瞬面白くなさそうな顔をした男は口の端をニヤッとすると、今受け取ったばかりのケージを、ハムスターのミサミサを入れたまま何食わぬ顔でポイと放り投げた。波多野が慌ててキャッチする。


「だったら客やめるわ」

「そんな……」

 ケージを抱きしめたままの波多野が絶句する。

「業務に関わんない外だったらいいってことだよね? ねえ美咲ちゃん、俺何度も通ってるよね? けっこう仲良しじゃん俺たち。別にさあ付き合ってくれとか言ってないよ? ご飯ぐらいどうって簡単なことなんだけど?」


「あのやめるって、この子、この子はどうするんですか」

丸い瞳をさらに見開いた波多野の声を男が遮った。

「もういらないから美咲にあげるよ。ミサミサが好きなんだろ? じゃ俺、外で待ってるから」


足が勝手に動き出していた。脳がダメだやめろと制止していたが体が聞いちゃいなかった。男の肩を掴み正面に回り込む。

「おい!」

「なんだよ」

思わず胸倉に手が伸びていた。

「おいあんた、てめえの気持ちを勝手に押し付けてんじゃねーよ、美咲の気持ちはどーなってんだよ、いらないってなんだよっ!生きてんだぞ、てめえの道具じゃねえっ!」

力がこもる両腕を強靭な力にぐいと引かれ、はっと振り返ると、厳しい顔をした刈谷崎さんが前に出て深々と頭を下げていた。


「大変申し訳ありません」


埃を払うように襟元を直した男の頬には、歪んだ笑みが浮かんでいる。

「申し訳ありません? あのさあ、気持ちとかさあ、生きてるとかさあ、そーゆーのマジうざい。って言うかさ、ここ有名なホテルじゃないの? 宇宙一目指しちゃってるんだっけ? それがこんな口のきき方していいのかなあ? 俺口コミに書いちゃうよ? 人気ブロガーだからさあ、何千人の読者に向けて」


「こんのっ」

野郎!と飛び出す俺を有野が羽交い絞めにし、耳元に低い声を投げてきた。

「気持ちを押し付けてるのは晃、お前も同じだ。さっきから頭を下げ続けてる刈谷崎さんをちゃんと見ろ!」



俺は、俺は、やっぱり救いようのない馬鹿野郎だ――。





 

 

 

 

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