3C章 『追想』 Junko Return

『HEART BEAT HEART事件』


 新感覚恋愛シミュレーションゲーム『HEART BEAT HEART』。主人公はとある学園の男子生徒となり、様々な美少女と出会い、青春を謳歌する。


 有りふれた題材、有りふれたキャラクター。しかし本作では同社の開発した特殊視覚装置を使い、より臨場感溢れる演出を試みた。


 専用の装置はヘルメット型で、プレイヤーの視覚をゴーグルで覆うと共に、ヘッドホンで聴覚も遮断。更に脳波に直接干渉し、まるで女の子と直接居合わせる様な錯覚を起こさせる、というものだった。


 ゲームにしては大がかりな装置、そしてまた人体への影響の懸念など、良くも悪くも発売前から各種マスコミからの注目度も高く、その期待に応える様にして発売後は高額なゲームにも関わらずヒットを記録するが、専門家の予見通り事件は起きてしまう。


 ゲーム内の隠しヒロインの一人、外国人留学生「ソニア」。彼女が関連するイベントで「あなたには怖いものはないの?」という問い掛けに対し、プレイヤーは装置の拡大効果で、各々の記憶にある恐怖体験、すなわちトラウマを強制的に呼び起こされる。これは元来ゲームのプログラムには無いもので、装置が引き起こした致命的なバグだった。


 ゲーム中に不快感を覚える者は当然だが、精神が機敏に反応したプレイヤー内には発狂、精神崩壊を起こす者までも現れ、中には直接の関連性こそ不明だが死者までも生み出した。この事から瞬く間に苦情がメーカーへ殺到し、マスコミも激しくバッシングした。


 これに対し、メーカーは急遽商品回収に乗り出すものの時既に遅し。回収が半分もいかない間に、多額の賠償金の支払いと刑事責任を問われ、制作会社は破産した。


 この一連の事件は『HEART BEAT HEART事件』と呼ばれ、事件の再発防止として国会で「危険遊戯制作防止法」が成立。各ゲームメーカーは以後、人体や精神に直接影響を与える危険性があるゲーム制作の一切を禁じられた。


 もっとも、公に禁じられたものに惹かれるマニアは後を絶つ事はなく、今現在、回収を逃れた『HEART BEAT HEART』は「死ぬ危険性のあるゲーム」としてアンダーグラウンドで取引され、そしてソニアは「プレイヤーを殺すヒロイン」として恐れられている。


■■■■■□□□□□


(……広い建物)


 水晶玉を持ち、漠然と直進していたソニアは、ドーム球場の前に立っていた。


 彼女の知識データには、この建物が何なのかを知る為の、照合できる情報がない。隠しキャラクターであった彼女の出番は元より短く、学校以外に顔を出す事が無かったのだ。


 ソニアはアイドルになりたかった。そのために日本へ留学し、偶然出会った男子生徒プレイヤーと恋に落ちる。しかし、その青春の結末に辿り着けたプレイヤーはそう多くないだろう。


 大半のプレイヤーは彼女と信頼を築き上げる前に、恐怖を植え付けられて去っていったのだから。


(アイドルになれるなら……あたしがアイドルなら……)


 ソニアはドーム球場の中心に立つと、思わず踊りだした。もしも周りに見える客席が満員なら、優雅な音楽の一つでも流れたのなら。何かの邪念を振り払うように、彼女はテレビで覚えた、アイドルの振り付けを一心不乱に舞ってみせる。


(決めた! 女神様に頼んで、ここにコンサートを開いてもらう!)


 ソニアが一通り踊りを終えると、頭上から微かに拍手が聞こえた。見ればメラが杖にまたがり、ニヤニヤ笑いながら空から見下ろしていた。


「いやいや、まさか野球場でダンスを、しかもこちらに気づかない程夢中で、かわいらしかったよ」

「『やきゅうじょう』? 何か分からないけど、もしかしてあたしをバカにしてる?」

「察しが良いな、その通り。お前は田舎丸出しの、ダサい女って事」


 ソニアは一瞬頭に血が昇ったが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。


「まあいいわ。いくら挑発したって、あんたはあたしに勝てないもの。強がりの一つや二つ許してあげる」

「そいつはどうも……っ!」


 メラは会話を遮り、杖を素早く振りかざした。杖から放たれた電撃を、ソニアは手をかざすだけで相殺した。


「魔法……変身だけじゃないんだな」

「女神様が教えてくれたの。あたしには魔力っていうすっごい素質がある、それは世界さえも変えられる力なんだって」


 ソニアは両腕を広げると、ドームの天井がゆっくりと閉じ始め、辺りは暗闇に包まれていった。


「あたしは大魔法使いソニア。ねえ、あなたには怖いものはないの?」

「そうだな、夢見がちなお前がちょっぴり怖いよ!」


 メラは改めて杖を構えた。


■■■■■□□□□□


「人の記憶は駅と線路の様なもの。要所要所の大事な思い出が、線で結ばれ違う思い出に繋がる。それが私のとっておき、『記憶プレイ回送ステーション』よ」

「へええ。そのプレステとやらで、人の知人を装って不意討ち食らわすのか? しょっぱい技だな」

「ふふふ。本当の恐怖はこれからよ」


 メラは唾を吐き捨てると、辺りはすっかり暗闇に包まれた。


「空間が変わった……『領域』を使った大型の魔法だ」


 頭の中で、もう一人のメラが囁く。


(相手の土俵に引きずり込まれたって事か?)

「そんな所だ。向こうの魔力が切れるまでは、奴の言いなりになるしかない」

(要はインチキか。いいぜ、あいつをボコすのが楽しみになってきた)


 やがて暗闇は、じょじょに見覚えのある景色を作り出した。


(……ファスト城?)


「懐かしいだろ。まだお前やドイが下っぱだった頃だ」


 品のない声が聞こえた瞬間、メラは全身の鳥肌が立った。それは恐怖と言うより、圧倒的な嫌悪感によるものだった。


「あ? お前女々しい奴だと思ったら女になっちまったか」


 聖騎士団のワルロ。騎士に最も遠い、粗野で乱暴な大男。かつてメラを半殺しにし、そしてメラに殺されたはずの男がそこにいた。


「それにしてもいい体してんな、こりゃあ楽しみだ」

「死人がうるせえな」

「死人? お前勘違いしてるな」


 見れば、メラの持った銃の杖は消え去り、装備も騎士見習い時代の鎧になっていた。あくまで訓練用であり、とうてい実戦に耐えられそうにない軽量の鎧と、同じく殺傷力の欠片もない軽量の剣に、メラは懐かしさを覚える。


「分かるか? あの時と同じだ。装備も、技量も、体力も」

「結末もか?」


 メラは火の玉を放つと、ワルロは寸前で相殺する。見れば手に冷気が見えた。


「違うんだな。魔法を覚えた俺が返り討ちにする。復讐完了だ」

「返り討ちねえ……」


 鼻息荒く語るワルロを見て、メラはつい小さな笑いを洩らした。やがてそれは遠慮のない爆笑へと変わる。


「何がおかしい!?」

「お前も勘違いしたな。オレが恐れたのはお前の強さじゃない。魔法を恐れず全てを力に頼った、ある種の信仰心だ」

「あ?」

「お前を尊敬した数少ない要素だよ。あの時のお前は悪魔の力に屈する事無く、身を犠牲にしてまで魔法に勝とうとした。その執念を恐れたのさ」

「何をごちゃごちゃと……」

「物わかりが悪いな、ポリシーを捨てた男はザコって事よ」


 メラは手をかざすと、ワルロは瞬く間に火に包まれた。慌ててワルロは冷気を繰り出すが、炎の勢いは弱まらない。


「馬鹿な! 俺の魔法が! こんなあっさりと……」

「剣ならまだしも、そんな付け焼刃の魔法で勝てると思ったか? バカは死んでも治らねえな」

「……ざけんな、やっと……やっと覚えたのに……」


 火だるまのワルロは未練がましく言葉を続けた。やがて全身炭と化すと、ようやく沈黙する。異常なまでの火力は、半ばメラの憎悪を含んだ魔力の為せる技だった。


■■■■■□□□□□


「おい、やる気あるならもっとマシなの呼べや」


 どこかにいるであろうソニアに、メラは吐き捨てる様に言い放つ。


「あら、強がるのね。ムキになって魔力を使い過ぎてるみたいだけど?」

「安心しろ、テメーをぶちのめす魔力だけは温存してある」


 暗闇に響くソニアの声に、メラは舌打ちする。すかさずもう一人のメラが心に語り掛けてきた。


「彼女の言う通りだ。わざわざ丸焼きにしなくても勝てただろ?」

(うるせえな。あんなん生かしておく方が、精神衛生上よろしくないっつうの)

「あんまり挑発に乗ると相手の思うツボだ。君は母さんに似て、どこか危なっかしいな」

(まったく……同キャラなのに、ここまでギャップがあるとはな。ちったあ信用しろよマザコン)

「まざこん……何だそれは?」


 やがてワルロが地面に沈むと、辺りの景色が揺れはじめ、また違う景色を作り出していた。何やら洞窟の様な場所に見える。


「まあ、その空元気がいつまで保つか楽しみね。アハハハハ!」


 ソニアの甲高い笑い声が頭に響く中、突然メラの眼全にナイフが現れた。脊髄反射で、メラは上半身を反らしてナイフを避ける。


 慌てて前を見れば、足を組んで椅子に座る男がいた。見れば胸、袖、脚など、衣服の至るところにナイフを忍ばせている。


「大臣かよ……中ボスが続くな」

「聞けば、国王様は作戦遂行中だとか。ならば貴様を放ってはおけん」


 ファスト国の元大臣。表向きは禁忌とされた魔法に着手したため国を追放されるが、その実、魔法の研究を国王より依頼されていた男。


 彼は国王への忠義を貫き、言われるがままに『転位術てんいじゅつ』の研究に全てを捧げた後、侵入者であるゴウトとメラと交戦。最後は洞窟もろとも自爆を図り、全滅へと追いやっていた。


「お前もどうせ強化済だろ? 新技でも見せてくれよ」


 メラの話を聞き流すと、大臣は何も言わずナイフを投げ付けてくる。これは見てから避けるには十分。メラは思いきり体勢を低くする事で、難なくやり過ごした。


(戦法は変わらずか……)


 長く考え込むのは好きではない。メラは杖……が無いので、剣を握り締めると、簡素な気持ちで突進した。振りかぶる剣を、大臣は避けようともしない。


(どうせ寸前でワープすんだろ?)


 だが、メラの予想に反して、大臣は体を大きく仰け反り、剣を回避してみせた。直後、振り切って身動きの取れないメラの兜に、ナイフが突き刺さる。


「前回の反省は十分してある」

「……みたいだな」


 前回は回避に徹する大臣を、ひたすら攻撃する事で追い詰めたが、今回は回避に『転位術』を使わない。ついでに言えば、前回はゴウトと二人で戦ったが、今回は(頭の中のメラは除いて)一人だ。


(どうする?)

「『転位術』か、まさかこんな風に戦いに組み込む奴がいるとは……」

(感心してる場合か。何か手立ては無いのかよ)

「『転位術』は神経を使う魔法だ。物を動かすのはさておき、自分が消える分には危険が伴う、事故もあるしな」


 実際、メラの故郷でもある魔法都市パステルでは日常的に扱われている反面、ふとした事故で命を落とす者も少なくはなかった。だからこそ個人での利用を禁じ、あくまで装置などを媒体とする、限定的な利用方法にのみ留めていた。


 いくら研究を重ね術に精通した所で、魔法に「確実」や「絶対」は無い。魔法使いの共通の認識に、メラは活路を見出だす事にした。


(で? そちらの考えは?)

「『転位術』を、回避に使わせるまで攻める。事故狙いだ」

(気が合うな。丁度同じ事考えてたぜ!)


 メラは剣を握り直すと、再び大臣に向かって突撃した。


「せい! せいや!」


 メラががむしゃらに剣を走らせる。魔法使いになってから、久しく使わなかった剣に、どこか心が弾む。


「随分楽しそうに剣を振るな。野蛮人め……」


 剣を避ける大臣がふと、恨めしそうに言った。


「そりゃゲームだからな、楽しまなきゃやってられないさ」

「ゲームか。我々を斬り付け、無差別に魔物を殺し、遺跡も国も荒らす。それもゲームだからか?」


 ゲームはプレイヤーに用意されたもの。プレイヤーに勝利を与える為に、敵は本領を発揮しないよう敗北し、プレイヤーがゲームで有利になる為に、「宝箱」や「報酬」として誰かが私財を譲り渡す。


 ゲームはプレイヤーの為に全てを投げ出し、奉仕する義務がある。世界はその運命を受け入れる者と、受け入れられない者に分かれた。


「否定はさせない。お前らが俺たちを踏み躙って、結局手にするのはちっぽけな自己満足だ。その報いは受けて然り。国王様の侵略もまた、お前らプレイヤーが招いた事なのだ」

「そうだ。ゲームってのは少なからず、ストレス解消の手段に用いられてきた。確かにそういう後ろめたさはあるよ。だけどな……」


 メラの鋭い突きが、大臣の胸を捉えた。


「それで仕返しにと、てめえらが現実こっちに来られちゃ困るんだよ!」


 刃が触れようとする瞬間、大臣はたまらず『転位術』でメラの傍を離れる。


「身勝手な! 一方的に我らを蹂躙し、それで許されると思うのか!?」

「知るか! ゲームと現実の区別も付かないような奴は、ゲームから出てくんな!」

「開き直りか……見苦しいぞ!」


 メラの突き出す剣を、大臣は今度こそ避けなかった。刃が腹を食い込むと、大臣はメラの腕を掴み、洞窟の天井近くに転位した。


「貴様も一緒に落ち……」


 大臣は一人、メラの鎧についていた小手だけを握っていた。見下ろせば、地上にはメラがこちらを見上げている。


「また自爆狙いかよ。今度はてめえだけが死ね」


 大臣が転位するよりも早く、メラは剣に魔力を送ると剣は一気に加速し、大臣もろとも地面に突き刺さった。


■■■■■□□□□□


 大臣が息を引き取ると、どこからか乾いた拍手が聞こえてくる。


「過去に苦戦した相手をあっさり、さすがは勇者様御一行、って所かしら?」


 ソニアの口調に焦りは感じられない。また、嫌味の無い言葉は、純粋にメラを誉めている様にも聞こえる。


「悪夢とか言う割りには、単なるボスラッシュじゃねーか。肩透かしも程々にしろよ」

「威勢が良いのね。いいわ、とっておきを見せてあげる」


 大臣の死体が消えると、またも景色が変わった。今度は城内の様だ。手入れが行き届いてないのか、壁や柱には傷が露になっている。


(古城……順番からしてみれば……)


「……メラ……私のかわいいメラ……」


 聞き慣れた声を耳にすると、メラは溜息を吐いた。


「同じ手が何度も通用すると思ってんのか。ちょっと前に本人に会ってきたばかりだぞ?」


 そして暗闇から現れたセラが目の前に立っても、メラは眉一つ動かさなかった。


「とうとうネタ切れか。こいつで終わりか?」

「倒せるならね」

「あっそ」


 メラは何のためらいもなく、セラに向かって手をかざすと。一瞬にして彼女を炎に包んだ。燃え上がる火柱から、悲痛な叫びが聞こえてくる。


「偽物と分かってりゃ、たとえ実の親でも躊躇しねえよ」

「……偽物……私が偽物?」


 メラは身構えた。火だるまになって倒れたセラが、よろよろと立ち上がる。衣服は全て焼け落ち、全身皮膚が焼けただれている。何でもありの魔法使いだろうが、不死身の様な魔族だろうが、常識ならばとても生きてはいられない状態だ。


「それに、見知らぬ外人女を母親呼ばわり? 何て親不孝な娘なの」


 声も段々変わっている。メラは段々と歯を食い縛り、ガタガタと震えだした。気付けば目線の高さがどんどん低くなり、辺りの景色もアパートの一室に変わっていた。


「純子、返事は?」

「……あ、ああ……」

「聞こえないの? ちゃんと返事をしなさい!」

「ひいっ!」


 火だるまは一瞬にして、実の母親『鈴木加奈子すずきかなこ』へと姿を変える。それに合わせる様に、メラもまた低年齢だった頃の鈴木純子すずきじゅんこへと戻っていた。


「純子! 落ち着け、これも所詮はまやかしだ!」

「お母さん……お母さん……」


 メラの言葉は純子には届かない。少女は目に涙を浮かべ、ガチガチと歯を鳴らしていた。


■■■■■□□□□□


【一家心中を図った母親、アパートに火を付け焼身自殺か】


 政治家の汚職や芸能人のスキャンダル。ひしめく様々な犯罪や事件の中に、とある報道がひっそりと挙げられた。今となってはその悲劇や恐怖を語れる人間を、純子以外にいないだろう。


 そして、当時子供だった純子に母親がどういう状況にあったのかを知る手段は無い。思い返して分かる事といえば、父親がいなかった事と、親戚と思しき人間が周囲にいなかった事と、大して面倒を見てもらえなかった事だ。何となく話の流れや火種は見えるが、それでも事件のきっかけは永久に分からずじまいだ。


「ごめんね。あなたは少しも悪くないのに」


 母親が口癖の様に言っていた言葉は、まるで呪文の様に純子の耳にまとわりついた。母親に殴られた時も、新しい服を買ってもらえなかった時も、学校の運動会で応援に来てもらえなかった時も、夕食用のおこづかいがもらえなかった時も、その言葉を聞けば不思議と許せる気になった。


「ごめんね。あなたは少しも悪くないのに」


「悪くない」という子供でも分かる赦しの言葉。その古き呪縛は灼熱の炎に囲まれ、包丁を持った母親を目の前にしても変わる事は無かった。


「純子! 僕の声が聞こえないのか?」

「お母さん……」

「純子! 目を覚ましてくれ!」


 純子には、脳内に響くメラの声が分からなかった。恐怖に体を支配され、体も心も子供に戻った今、正常な判断ができない状態になっていた。


 今すぐ母親の下へ駆け寄りたい。すぐにでも飛び込むように抱き付きたい。ほんの僅か、十歩程度の距離でそれは叶う。純子は沸き上がる衝動と、同時に身の危険を感じていた。


「お母さん……どうしたの? 火事だよ、何で落ち着いてるの?」


 子供でもこの異常事態はさすがに分かる。家庭科や理科の授業で、火の危険性は十分に教え込まれた。ほんの小さな火でさえ危ないというのに、母親はこの灼熱の空間で佇んでいる。


 このままでは母は焼け死んでしまう。そうでなくてもこの息もままならない煙で苦しんでしまう。身動き一つ取らない母親を見て、純子もまた金縛りにあったかの様に硬直した。


「純子、今まで迷惑ばかりかけてごめんね。もう安心していいわ」

「どうして? 早く逃げようよ……熱いよ……」


 加奈子は口だけは笑って、虚ろげな目をして純子を見下ろしている。純子には到底理解出来ない状況だった。


「純子、よく聞くんだ。これは幻覚だ! 過去の亡霊が、生身を殺せるわけがない!」


 メラは何とか落ち着かせようと言葉を送り続ける。亡霊は生身を殺せない、これは正しい。しかし純子が亡霊に屈したら最後、彼女はソニアの幻覚に包まれたまま朽ちていく。要は自滅である。


「大丈夫、あなたはちっとも悪くないんだから。母さんの言う通りにしてればいいのよ」


 加奈子の一言一句が催眠術の様に、幼い純子を縛り付ける。


「本当に?」

「母さんが嘘吐いたことある?」

「ううん」


 両者共に嘘で会話を交わす。加奈子の言葉は全てを肯定しないと純子に体罰が下るし、それを見据えて純子が、心ない肯定を繰り返すのを加奈子は知っている。二人は打合せたかの様に「苦労する母とそれを支える娘」という関係を、誰かから強要されるわけでもなく演じ続けていた。だからこそ二人の関係を見て、メラはふと疑問を覚えた。


(これが純子の過去なら、彼女はこの状況から生還した事になる……一体どうやって?)


 純子に歩み寄ろうとした時、加奈子は出っ張りにつまずいた。包丁が手からこぼれ、震えた手は純子を誘う。


「……母さん、もう立てないの。お願い、傍にいて……」


 母親の最後の攻撃だ。手を掴んだら最後、体力、精神共に脱出は不可能だろう。純子は誘われるがままに加奈子へと近付く。


「逃げろ! その手を掴むな!」

(……どうして?)

「殺されるからだ!」

(殺される……わたしが母さんに……?)


 母さんが、わたしを?


 メラの言葉に、純子は我に振り返った。


(……そうだ。だからあの日、私は燃えていく母を見捨てて逃げた。殺されないために……殺した)


 純子は震える手で包丁を拾うと、加奈子を見下ろした。


「純子?」

「分かってる……母さんは……もういないんだ……」


 加奈子と目が合った瞬間、純子は包丁を振り下ろした。刃が加奈子の額に当たり、血がゆっくりと滲み出る。


「母さんは死んだ! あの日に私が……私が殺したんだ!」


 純子は何かを吹っ切る様に、包丁を振り回す。母を傷付ける度に、自分もまた身が引き裂かれる様な錯覚に陥る。


「痛い! 止めて! 純子!」

「偽者め! 消えろ! 消えちまえ!」


 何度も振り下ろされる包丁が、無数に飛び散る血が、やがて景色を、闇を、炎を、純子自身も切り裂く。


 そして全てが音を立てて崩れ去った瞬間、純子は元の魔法使いの姿で、ドームへと戻っていた。


■■■■■□□□□□


「はあっ……はあっ……はああああああ!」


 呼吸を荒く、咆哮に乗せて血走った両目を開くと、薄暗いドーム内で愕然と口を開いたソニアの顔が見えた。メラは一瞬にして、彼女の眼前に飛び出す。


「そんな、まさか! あたしの『記憶の回廊』を打ち破るなんて……」

「そんなに意外か? またくだらない幻覚でも見せるか? やれるならやってみろ! 全部ぶっ殺してやる!」


 鬼気迫る純子の怒号にソニアは尻餅をつくと、目に涙を浮かべ始めた。背を丸める姿は、外見以上にソニアを幼く見せる。


「そんなに怒らなくても……私は悪くない! 悪いのはあなたの過去じゃない!」

「悪いに決まってんだろ。それにお前は殺されても文句の言えない事をやった。泣いても許される事じゃない」

「だって……あんたを倒さないと、あたしは女神様に捨てられちゃうのよ!」

「知るか。それに脅迫されたからって、そんな胸糞悪い魔法を使うんじゃない。友達無くすぞ?」


 ソニアは「友達」という単語に目を伏せた。


「友達なんか……いない。みんな、あたしを前に逃げていくの」

「そらそうだ。そんな魔法使われて、誰が仲良くなろうってんだ」

「違う! あたしはこんな力なんていらなかった! 素敵な男の子と知り合って、普通の恋をして、アイドルになりたかった……たったそれだけだったのに!」


 堪えきれなくなったのか、ソニアは大声を上げてとうとう泣き出す。さすがの純子も彼女の反応に惑いを覚え、同時に怒りが引いていくのを感じた。


「……見た目通り、ほんっとにガキだな。じゃあこうしろ」


 メラは小指をソニアの前に差し出した。


「オレが友達になるから、そんな魔法は今すぐ捨てろ。アイドルはそのあとに目指せ」

「え?」


 ソニアだけでなく、メラも思わず目を丸くした。


「冗談じゃない! 体は僕のだ! それに彼女は異世界の人間だぞ!」

(るせーな。人助けがそんなに嫌か? こいつ、多分ノベルかギャルゲー出身みたいだけど、こんな陰惨な能力じゃ迫害されっぞ)

「それは……」

(いいな。あと見たところ歳もそんな離れてねえ。お前が面倒見ろ、何なら付き合っちまえ)

「なっ!?」


 言葉を失うメラを無視し、純子は泣きじゃくるソニアに小指を差し出した。


「いいか、これは魔法の儀式だ。一度誓えばそんな魔法は使えなくなるし、お前は今日から生まれ変わる。誓えるか?」

「そんな夢みたいな事……できるの?」

「できるんだよ。いいから騙されたと思ってやってみろ。じゃなきゃずっとこのままだぞ」


 ソニアは涙を拭くと、静かに頷いた。


「よし。これは『ゆびきりげんまん』って言ってな……ほら、お前も小指を出して……」

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