DISC 3
18章 『秘境』 Secret Area
誰も知らない、知られてはいけない。そこがどこにあって、一体何があるのか。
彼らは知らせない、近寄る者を寄せ付けない。自分たちだけが棲み、それ以外の者を必要としないその空間を。
誰もが知りたい、支配下に置きたい。未知の資源と情報が詰まった、誰の物でも無いその領域を。
彼らは許さない、侵略者には渡さない。あらゆる策略と死力を尽くし、生まれ育った故郷を。
誰もが惜しまない、どれだけ血を流しても諦めない。開拓する力を惜しまず、その土地を手に入れるまでは。
彼らは逃げない、最後まで屈しない。たとえ一人になっても。骨身を大地に埋めようとも。
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ゲームの中とはいえ、目覚める時は体が重い。やっとの事で体を起こすと、周りにはゴウト、キオ、ズパーが俺を見下ろしていた。
「ここは……どこだ?」
思い出してみる。確かあの時、試合前に仮面を付けた妙な男が部屋に来て、気付いたらこの爺さんと戦っていて……どうにか洗脳を逃れる事は出来たが、そもそも何が起きていたのかさっぱり理解出来ない。
「近くの診療所じゃ。あれから夜まで一緒に倒れたまま、係員に発見されてここまで運ばれた」
「あれから……って、やっぱり俺とあんたが戦ったのか? 何で?」
「お前さん、幽霊にとりつかれてたんじゃよ。もう終わった事じゃ」
「幽霊……ね……」
俺はキオとズパーを見た。キオは物珍しそうな顔で、ズパーはやや強張った表情でこちらを見ている。
「どうした坊主、太ったエルフがそんなに珍しいか?」
「そ……そりゃあ……」
「二人は付き添いじゃ。と言っても、ズパーはさっき目を覚ましたばかりじゃが」
俺はズパーに目をやった。確かこの男は金王の依頼で俺が魔法を食らわせた相手だが、精々砂で窒息させる程度で、治療が長引く様な重傷を負わせたつもりはない。ましてや、闘技場のスタッフが治療に手間取るとは思えない。
俺が知る限り、金王は他にも警備員である魔法使いを買収している。そこまでして勝ちに拘った理由は分からないが、やはり不正がばれない様に、ズパーも口封じがてらに押さえ付けられていたと考えた。
(金王とやら、勝つためにどこまで根回ししたんだ?)
しかし過ぎた事はどうでも良い。俺は目をゴウトに戻すと、こう切り出した。
「先に言っておくが、俺は仲間にならないからな」
俺の言葉は、二人にとって予想外だったらしい。しばらく面食らった顔になった。
「大方『一緒に日本に帰ろう』って考えだろうな。確かに俺もゲームと水晶玉を渡されて、ここに連れてこられた。でもな、俺はここが気に入ってるんだ」
「ここはゲームの中で、こうしてる内にも現実の時間は過ぎてるんじゃぞ? いつまで夢を見るつもりじゃ」
「結構結構。醒めない夢なら一生を潰す。魔物を倒して収入は安定、死ななければ不老不死の理想郷だからな」
俺はそう言うと、起こした上半身を戻し、再びベッドに体を委ねた。
ゴウトとベルのやり取りを見て、ズパーがこっそりキオに耳打ちする。
「なぁキオ……話がどうも見えてこないのだが。『げーむ』とか不老不死とか、どういう事だ?」
「うーんとね、実はぼくたち違う世界からやってきたの。代わりに本人たちはどっか消えちゃったらしいけど……」
「違う世界? 本人?」
「そっ、だからじいちゃんは本当にじいちゃんで、ぼくもただの小学生なんだ。みんなには内緒だよ」
そう言ってウィンクするキオを見て、ズパーは益々混乱に陥った。
「あんた方が冒険し、何かを成して現実に帰るのは結構。だが俺を巻き込まないでくれ。俺は好きでここにいるんだ」
「変わった奴じゃのう。無理してないか?」
いつの時代でも老人はくどい。ましてや同じ日本人となると厄介だ。ゴウトは退く事もなく、俺に説得を続ける。
「お前さんも嫌じゃろう? 男なのに『ベル』だなんて、女みたいな役を与えられて」
「女だよ! これでも形式上は里一番の美女と言われてんだぞ!」
「ならばますます不憫じゃのう、このお腹じゃ誰も相手にしてくれまい」
俺はその言葉に少しカチンときた。そして……。
「バカにすんな! これでも現実じゃ結婚してんだ!」
言った後で、俺はハッとなった。それは、どうにか忘れようとしていた単語だった。
「家族がいるんじゃな。ならばお前さん、寝たきりの自分を家族が介抱する光景を見た事あるか? あるいは想像できるか?」
「それは……」
「何度も言うが、こうしている内にも時間は過ぎるのじゃぞ。本当に帰らないつもりか?」
「……帰らないつもりだと? じゃあ聞くけどよ、お前らこの世界から本気で出られると思っているのか? ヒントも指示も何もないんだぞ?」
「それは……」
俺はベッドから跳ね起き、荷物を片手で掻き集めると、窓に手をかけた。
「出来もしない事を言うんじゃねえ! このゲームにゃ目的も無ければ、ゴールもエンディングも無いんだよ!」
「待つんじゃ!」
何かを言いたげな老人を無視して、俺は窓を突き破り、そのまま外へ走りだした。エルフは駿足でありながら驚異的な持久力も持つ。休みなしで走れば里まで半日で着くだろう。
(家族だと、余計な事を思い出させやがって……)
焦りと不安を紛らわす様に、俺はガムシャラに走った。
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静まり返った部屋で、ズパーが沈黙を破った。
「ゴウトさん、どうやら逃げられた様ですが……」
「問題ない。エルフもなかなか速いらしいが、竜人の比ではないよ」
私が目をやると、キオは羽を開き、軽くはばたいていた。
「追っかけて……連れ戻すの?」
「いや、気付かれないように後を追ってくれ。場所を見つけたら、ゆっくりでいいから帰ってきなさい」
「はーい」
そしてキオは、ベルが突き破った窓から飛んでいった。まるでロケットの様に、一瞬にして夜の街並みに姿を消す。
「さて、ワシはもう少し留まるが、お前さんは?」
「私は修業のやり直しですね。腕には自信があったつもりですが、策に敗れる様ではまだまだです」
そう言って、ズパーは肩を落とした。
「ありゃあ、金王ではなく他の人間が……」
「奴以外の敵がいるのは分かってました。ただその正体を見極められなかった、何より策を破る力を持っていなかった。負けは負けです」
ズパーはマントを羽織り、立て掛けてあった大剣を取ると、出入口の扉に手をかけた。
「そう言えばゴウトさん……『首切りイゾウ』との一戦でお聞きしたかったのですが……」
「なんじゃ?」
「あんな全身凶器の怪物に、あなたはまったく怯む事無く向かっていった。どうしてあんな戦い方を?」
「そりゃあ……試合で怪我しても、最悪死んでも大丈夫と聞いたから……」
「……私は『死んでも大丈夫』と言われても、命を視野に入れた戦いなんて出来ません。怪我だってそうです。痛みに耐えられても、好んで怪我をしたいとは思いません」
ズパーは振り返ると、大剣を両手で持ち、そのまま自分の顔に刃を向けた。私は突然の行動に驚いた。
「一体何を……」
「私は……あなた程にないにせよ腕力に自信はありますし、自分の限界も知ってるからこそ、冷静に動けると自負しています。ですが、やっぱり命は惜しいのです。いつこの手が狂って、自分の顔を傷つけるかと思うと恐怖を覚えるのです」
「命は、誰だって惜しいさ。ワシだって歳が歳じゃからな」
「あなたは……うまく言えないが、そんな次元の人じゃない気がします。死や痛みを少しも恐れていない、まるで……」
言い掛けて、ズパーは慌てて話を止めた。
「失礼しました……私はまだ、未熟なのかもしれません」
「……一人で騒がしい奴じゃな」
「すいません。縁がありましたら、また……」
やや歯切れを悪くして、ズパーは逃げる様に部屋を後にした。そして……。
(死を恐れていない……それはゲームだからだ。他の皆が命を張っているのに、自分たちだけがルールによって生かされている)
私はこの仮初めの肉体に、ズパーに言われてようやく不気味さを覚えていた。
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(エルフも速いんだなぁ)
キオは余裕をもって後を追う。確かにエルフは足取りも軽やかに、そして力強い走りで野を颯爽と駆ける。
しかし竜人になったキオは、その気になればジェット機並の速度で飛ぶ事が出来る。飛んだ所で相手をすぐ追い抜いてしまうし、まともにコントロールも出来ない欠点はあるが、加減した今の速度でも、ベルとは自動車とスポーツカーぐらいの余力の差があった。
(竜ならじいちゃん乗せて飛べるけど、遅いし目立つからなー)
その時、キオの頭上に黒い影がよぎった。
「おや、こんな所で会うとは奇遇だな」
不意に声をかけられ、キオは横を見た。黒い竜に乗った男が、マントをなびかせ不敵な笑みを浮かべていた。
「お前は! えっと……魔王!」
「覚えていてくれたか。ゴウトは元気か? 今日は一緒じゃないのか?」
「か、関係ないだろ! ぼくがどこに行こうと、一人でいても!」
キオは迷った。追跡を中断して魔王を振り切るか、それとも無視するか。そのどちらかに踏み切れるほど、キオにはまだ決断力がない。
「まあいい。俺たちはこれから話し合いに行く所なんだ」
「俺たち……?」
振り向いて見れば、いつの間にか大量の竜や魔物が飛んでいるのが見えた。あまりの軍勢に、キオはもし自分が戦っても返り討ちに遭うことを直感した。
「何だよ……そんなにゾロゾロと、何をするってんだよ!?」
「引っ越しさ。探してた物件があって、場所が分からなかったんだが、案内人がようやく見つかってな」
「案内人? もしかして……」
眼下のエルフに目をやった瞬間、魔王が剣を抜くと、刄の先から電撃が飛び出した。キオは慌てて全速力で前方に向かって飛び出す。
「うっ!」
咄嗟の飛び出しで直撃こそ避けたが、雷がほんの少し擦っただけで体全体の動きが鈍くなり、キオはすぐに失速し始める。
「どうやら目標は一緒みたいだな。さすが『選ばれし者』、まるで引力の様に勝手に引き合うんだな」
(じいちゃん……じいちゃん!)
墜落するキオを尻目に、魔王率いる魔物の群れは、エルフの里に向けてその歩みを進めた。
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(空が騒がしいな)
ベルはふと空を見上げる。エルフの超人的な目と耳が、上空を群れる魔物の軍団を捉えた。
(何だありゃ……どこかに向かっているのか? 戦争でもする気か?)
ベルはふと故郷を案じたが、すぐに考えるのを止める。
(俺たちには関係ない。戦うなら好きなだけ戦ってりゃいいさ)
いくら人間と魔物が争おうが、中立を貫くエルフには関係ない。そんな争い事には、とうの昔に足を洗っているのだから。
しかし、ベルは気付いていなかった。一定距離を保ちつつ、魔王たちが正確に後を追っている事を、自分がそのまま里に誘導している事を。
一方で、墜落していたキオは、震える体を抑えて懐から水晶玉を取り出していた。理由は分からない、ただ本能が体を突き動かす。
「じいちゃん! エルフのおっちゃんが危ない!」
水晶玉を抱き、キオは力一杯に叫ぶ。水晶玉が青い光を放つと、彼の言葉は彼方に向かって伝達された。
「……キオ?」
ゴウトは、ベルが壊していった窓の修理を止めると、耳を澄ました。
「……ちゃん……じいちゃん……」
微かに音が聞こえる。発信源を辿ると、道具袋の中で水晶玉が青く光っていた。
「キオ!」
水晶玉を取り出し両手で握ると、落下するキオの姿が鮮明に浮かぶ。その瞬間、ゴウトは荷物をまとめて、窓を突き破り外へ飛び出していた。
(方角も分かる! 何があったか知らないが、キオの身が危ない!)
「お客さん! ちょっと!」
「非常事態じゃ! 修理費は置いていくぞ!」
後ろから宿屋の主人が叫ぶ。ゴウトは振り返らず、金貨の入った袋を店に向かって放り投げた。
(距離は大分あるが……今は走るしかないだろ!)
さすがに巨剣を抱えて馬には乗れない。ゴウトは剣を背中に縛ると、両腕を激しく振り、全速力で駆け出した。
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この世界に膨大に広がる森林地帯、そのどこかにエルフの里はあると言う。噂話の域を出ないのは、エルフ以外の種族でその里に立ち入り、生きて戻った者はいないからだと言う。
エルフはかつて人間と手を組み、世界を襲った未曽有の脅威に対し共に戦った事があるが、現在では外界との接触を拒み、自分たちの領域に閉じこもっていた。
そんなエルフの一人が今、追跡を振り切れないまま森林の中へ姿を消した。秘密の楽園への入り口がもうすぐ暴かれようとしていた。
「魔王様、準備は出来ています」
後ろから声をかけられ魔王が振り向くと、部下の魔物が斧を抱えながら、血走った目でこちらを見ていた。
「……スレタイか。分かっているだろうが、今回は交渉に来ているんだ。武力は最終手段、それを忘れるな」
「分かっていますよ……気性の荒さは種の本能。いつも通り理性でねじ伏せてみせます……」
「だと良いがな……」
スレタイは一般的には
その大半が血に餓えた戦闘狂であるのに対し、彼は珍しく理知的で、動く前に思考出来る冷静さがある。魔王はそんな彼の非凡な資質を買っていた。
「……他の連中の様子は?」
「良くはありません。どうも過程を理解してない様で、最初から闘志を剥き出しにする輩もいます」
「だろうな……」
魔王はため息を吐いた。今回の目的はエルフの里に出向き、「出来れば」彼らを配下に加え、くわえて「確実に」土地を制圧する事だ。全面対決は最悪の結末である。はたして部下にそれが伝わっているか……。
そして「交渉」とは言うものの、誇り高いエルフが魔族に屈するとは思えない。ゆえに現在持てる兵力を総動員し、今回の「交渉」に望もうとしていた。
(戦闘が起きたら……かなりの犠牲が出るな)
エルフの里は自然に囲まれた、森の要塞とも呼ばれている。入り組んだ地形や木々や川などの恵まれた資源は、人目を忍ぶ「魔王軍」の拠点にうってつけの場所であった。
(長年探していた土地だ、絶対手に入れる……が)
魔王はふと、首飾りを握り締めた。
(イターシャは、きっと俺を許さないだろうな)
降下を前に高揚する部下と裏腹に、魔王は一人虚しさを覚える。そんな彼を知ってか知らずか、スレタイは気を察して目を背けた。
■■■■■□□□□□
森に足を踏み入れた途端、俺は心の底から安心する。現実じゃ蒸し暑く、生身じゃ虫に刺され未知の病気でももらうであろうこの鬱蒼としたジャングルも、ゲームでは精霊が住まう、気品漂う神秘の森だ。
【おや、ベルが戻った様だよ】
【あら、ベルが戻った様だよ】
木々が囁き、瞬く間に森が会話を始める。それは人間や魔物には聞こえない、エルフだけが交信できる専用の情報端末でもあった。
「おう、今戻ったぜ」
【ベル、長は怒っているよ】
【ベル、長は待っているよ】
「だろうね、いつも通りだ」
ここはエルフだけでない、動物も草木も全てが等しく生きている。不必要とされる者も、取り立てて特別視される者もいない。
全ては森の中枢部である『
「ようベル、今日も暴れてきたのか?」
「相変わらずひでー顔だな、みんなの『美人』の基準がよく分からん」
仲間のエルフが声をかける。片方は無視して、俺は手を振って応えた。
「ちょっと稼ぎになー、ダメだったけど」
「また無茶をして……いくら腕に自信があるからって、程々にしろよ」
彼らは俺がベルでは無い事を知っている。おそらく本人と入れ違う様にして、俺がこの世界に来てから本当のベルはずっと行方不明だ。本人には心底申し訳ない気持ちでいっぱいである。
だが、彼らは俺を拒む事無く、当たり前のように仲間として迎え入れてくれた。居住区と役割を与えられたその時から、俺はこの世界の一員となったのだ。
(俺は抜けるわけにはいかない、ここにいれば良いんだ。許される限りは……)
闘技場に行った事も、そこで出会った二人の日本人も全て忘れよう。いくら水晶玉があった所で、抽象的なヒントじゃ無限ループすら用意された森の迷路を突破する事は出来ない。彼らの追跡は無いはずだ。
(そうだ。今日も明日も、ずっと変わりはしないさ)
俺は足取りも軽やかに、『長』の所へ説教を受けに向かった。
「ベル、お前はまた外に出た様だね」
「長……」
エルフは若く美しく、そして人間より遥かに長寿の生き物。それゆえに固体数は決して多くなく、一人いなくなるのと入れ替わるように、新たなエルフがこの世に生を受ける事を許される。
そして、現時点で最も長く生きているエルフが一族を束ねる「長」として選ばれ、死を迎えるまで役目を全うするのだ。
今、目の前に立つ小さくて少し老けたエルフの女は、見た目以上の威圧感を持って、俺をじっと見ていた。
「少し出稼ぎに……里の皆に土産でも持って帰ろうと」
「何度も言うが、私たちは外界との関わりを断った種族だ。この中だけで生きていくという事は、外に出る必要がないという事だ」
「分かっています」
「それなら、イターシャの事は教えただろう。かつて外に出たエルフが、どういう末路を辿ったか」
イターシャと呼ばれた女エルフの失踪を、同胞の間で知らない者はいない。好奇心で外界に飛び出したエルフが人間の男と恋に落ち、そのまま行方不明になってしまったのだ。
個々の繋がりを大事にする集団意識の強いエルフにとって、一人でも仲間が欠ける事は、身体の一部を奪われる程に辛いという。ゆえに長は、外出を繰り返す俺を見ては心を痛め、何度も説教をするのであった。
「掟は分かっています。だからせめて、人目に付かない様にして……」
「いつものお前ならな。今日は一体何があった? 何故、今日だけはそんな失敗を犯した?」
「失敗?」
俺には何の事だか分からない。しかし表情を険しくする長の顔は、自分が致命的なミスを犯した事を悟らせる。
「まさか……いや、そんな馬鹿な……」
「やっと気付いた様だな。聞こえるか? 木々の騒めきを、武器を取り出す仲間たちの足音を。それはお前が帰ってきた道から起きているんだぞ」
静かなはずだった森がざわつく。誰にも知られない領域で、緊急事態が告げる意味はただ一つ、侵入者の到来であった。
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「魔族が来たよ! 数は大勢!」
「魔族が来たよ! どんどん増えてる!」
いつの間にか、周囲のエルフたちが各々の武器を手に取り、木々がしきりに交信を繰り返している。種族の防衛本能が、迫りくる外敵に全力での対抗を試みようとしている。
「一部区域では既に交戦が始まっている様です」
「森が燃える……竜がいるのか?」
エルフの会話を聞き、俺は絶句した。
「これはお前が引き起こした戦いだぞ。黙って立ってないで、お前も戦いに備えろ」
燃え盛る森林。魔王は黙って、膝を着くミノタウロスを見下ろした。彼の手から離れた巨大な戦斧には、エルフの血がこびり付いていた。
「スレタイ、やってくれたな……見事なまでの大炎上だよ」
「魔王様……」
手順は理解していたはずだった。こちらが高圧的な態度に出ても、手を出させるのは必ず向こうから。そうすれば戦闘理由に「自己防衛」という建前が加わり、場合によっては交渉材料にもできる。スレタイはもちろん、血気盛んな部下たちにも奇跡的にそれは伝わっていた。しかし……。
ほんの少し前の事、睨み合う大勢のエルフと魔物の集団。「提案」を持ちかける魔王の一言一句に、エルフたちはみるみるうちに美しい顔を豹変させていく。ギリギリと弓を引く音が聞こえ、それに呼応する様に魔物たちの息遣いが荒くなる。
水槽ギリギリに貯まった水の様に、些細な衝撃で殺意が溢れだす緊迫した空気。問題はそのきっかけとなる「戦犯」がどちらの陣営になるか、それだけの話である。
やがて時間は動き出した。きっかけはエルフの粗野な野次、それを最初に受け止め、感情のおもむくままに斧を振り上げたのがスレタイだった。
「理性で抑えきれなかったか」
魔王は冷たく言い放つ。こういう事態は想定出来ていたものの、彼が我慢ならなかったのは、絶対の信頼を置いていた部下の、期待を裏切る様な失敗だった。
「申し訳ありません。しかし魔王様、私はあの様な侮蔑を浴びせられ、我慢出来る程……」
「話をすり替えるな。お前が簡単な挑発に引っ掛かる、有りふれたミノタウロスだという事がよく分かった」
魔王は振り向く事無く、歩きながら告げた。
「残念だ。お前は右腕には出来ない」
事実上の降格を告げると、魔王は燃え盛る森林に単身突撃する。そして取り残されたミノタウロスは、一人地面に両手を付けたまま絶望に打ちのめされていた。
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