5.愛の絶対性

第19話



 親の欲目というやつかもしれないが、わが娘は歳の割にしっかりしている。

 ……と、いうよりは。歳の割にしたたかだ、と言ったほうが正確かもしれない。どちらかというと母に似たのだろう。間違いなく、男を尻に敷くタイプだ。

 2か月か、3か月ほど前の話。もう夜も遅いのに、作業場に電気がついているのを目撃したときに確信した。

「なにしてるんだ、こんな遅くまで」

「時計、作ってる」

「時計? 作る? おまえがか?」

 壊れた時計の修理くらいなら娘もできるようにはなっていた。だが、一から作るというのは……?

 自主練のつもりなのだろうか、とその手元を覗き込み、そしてしばらく思考が止まった。

「……なあ」

「なに」

「おまえ、今年で17だったな……?」

「……娘の歳くらい覚えててよ」

「あ、いや、そうなんだが……」

 ――時枝家の人間は、この時計が作れるようになって初めて免許皆伝と言える。

 父に何度も聞かされた言葉が、頭の中を駆け巡る。

「心配しなくても、もうすぐ寝るから。もう、ほとんど完成してるし」

 それは言われなくてもわかった。わかったが、しかし。

「……おまえ、もう完成させたのか……」

「うん」

 なんでもないように言う娘の手元で、赤と青、二つの腕時計が、電気スタンドの光を反射して輝いていた。

 ……俺は、たしか30手前になってようやくだったんだがな……。


 さて、そんな娘が今日、硲んとこの息子を久しぶりに家まで連れてきた。

 最近いろいろあったらしいが、ようやく仲直りしたということか。仲直りじゃないな。仲直りではなく……なんと言えばいいか。まあなんでも構わん。

 二人は部屋で話し中のようだが、それなら茶菓子くらいは出さねばなるまい。

(そして、いかに家族といえど、娘の部屋へ入る前にはノックくらい必要だろう)

 ……そして、ノックまでに多少の間が空いてしまうのも、この年になるとしょうがないことだろう。うむ。

 カップ二つを載せたお盆を膝の上で支え、ドアの前でしゃがみ、聞き耳を立てる。

 まあ、娘の行く末を気にするのは父として当然の権利だろう。硲んとこの子もほとんど息子みたいなものだ。

 で、どんな話をしているんだ……?

「……9月15日、水曜日。理科の選択を物理にしたのは絶対失敗だったとひしひし。ぜんぜんわかんない」

「うん」

「9月16日、木曜日。体育でマラソンがあった。いつも思うけどなんでこんな時期にやるんだろう」

「うん」

「……9月17日、金曜日。そういえば最近お弁当を持っていってない。練習見に行くとどうせ一緒には食べられないから別にいいかと思ってた。まあ、いいか」

「あ、そういえば最近一緒に食べてなかったね。そういえば」

「……まあ、それはいい。いいけど、……おまえ、これ、あれ? 一行日記?」

「別にそういうつもりじゃないけど。二行の日もあるでしょ」

「……9月24日、金曜日。上野くんにまた時計の修理を頼まれた。この前直してもらったばかりなのにと、すごく申し訳なさそうな顔をしていた。

 今回もそんなに難しい仕事じゃなかったし、別にいいんだけどな……」

 パタン、となにか本のようなものを閉じる音がした。

「日記って、こんな……こんな、淡々としたもんだっけ」

「さあ、他の人の日記見たことないから。っていうか、日記見ていいかって言ったの硲のほうじゃん」

「言ったけど。言ったけどよ、まさか見ていいって言われるとは思わなかった」

「どんなのを期待してたの?」

「どんなのを、って……いや、どんなのとは言わねーけど、日記ってもっとこう……自分のその、人に言えない感情とかぶちまけるもんじゃねえの? あっさりすぎねえ?」

「うーん……」

 娘が首をかしげる様が、ドア越しであっても目に浮かぶ。

「当たり前のことって、いちいち日記に書かないでしょ。ここで息を吸って一秒後に吐きましたとか、そういうの」

「極端すぎる」

「そうだけど、でもそういうことだよ。今月、そんなに大したことしてたわけじゃないし」

「たいっ……した、こと、なかった……!?」

 ……硲少年が凍り付く様が、ドア越しなのに、目に浮かぶ……。

「文化祭の話はまだ書いてないしね」

「……いや、いや、にしても、いや……そうだ、おまえここんとこ音楽室入り浸ってたじゃん」

「うん」

「あれは……」

「えっと、上野くんたちがやってたバンド……名前言ってわかるかな」

「わかんねーけど、おまえが着メロにしてんのは知ってる」

「そうそう、それ。すっごい好きなんだよねー」

「……で?」

「あと、ボーカルの人が上野くんと結構似てるんだよ。えっと……」

「あ、いや出さなくていい。別に出さなくていいけど……」

「そう? まあとにかく、上野くん似てるだけじゃなくて演奏もすっごいうまかったし……」

「待って、待って。いや、じゃあ何?」

「なにって?」

「……好きだから聞きに行ってたってこと?」

「そうだけど」

「そんだけ?」

「そんだけって、他になにが……」

「……。……、……! ……!!」

(……わかる。わかるぞ、その気持ちは……)

 真っ赤、あるいは真っ青な顔で、口をパクパクさせているであろう硲少年の姿が、目に浮かぶ……。

 わかる。わかるぞ。気持ちはわかる。硲少年が今何を考えているのか、それが手に取るようにわかる。

(俺が、俺があんだけ思い悩んだこの九月が……こいつにとってはいつもとなんら変わらない……一日二行の日記に過不足なく圧縮できてしまう一か月だったってのか……!?)


(っていうか、ただ好きだったからって! 本気で、ただ曲が好きだったから通ってただけって! おい! そんだけの理由で音楽室入り浸ってたのかよ……!? っていうかそれ上野にもなんか勘違いさせたんじゃねえのかよ、おい! いいのかそれ! いいのかそれ!? いや、もう、なんか……もう!)


(……こいつ、俺の気も知らねえで!)


 握りしめた拳の震える様まで幻視できるような気がする。

 うむ、やはり娘は夫を尻に敷くタイプなのだろうな、と、ひと月ちょっと前のことを思い出しながら、改めて……。


 その日も、娘は作業場にこもっていた。

 作業台の上の時計はどちらも完成品のように見えたが、どうもまだ物足りないらしい。

「……この時計、完成したんじゃないのか?」

「した……って言えば、したけど。試作品みたいなもんかな」

「まだ凝るのか」

「うん。あ、ちょっと聞きたいことあったんだけど」

「なんだ?」

「この腕時計に、オルゴールみたいなの仕込むって、やっぱ難しいかな」

「無理……とまでは、言わんが。フレームから作り直しにはなりそうだな」

「やっぱりかー……」

「なんだ、仕掛け時計にも興味出てきたか?」

「ちょっと。好きな曲とか入れられたら、素敵かなあって」

「そうか」

「うん。……あいつも、かっこいい時計が欲しいって言ってたしねー……」

「……」

 鼻歌でも歌うかのような口調で、隠すつもりがあるのかないのかもわからないような、小声とも言い難い声量。

 そして、時計を見つめるその顔の、とても、優しい微笑みは……。

 やはり、娘は17にして既に『愛』を知ったということなのか……。相手が、いるということなのか。

「……で、納期はいつごろだ?」

「納期?」

「いつごろまでに完成させるつもりなんだ、って話だ」

「いつごろまで……? あんまり、考えてないけど」

「そうなのか?」

「うん。別にいつでもいいんじゃないかな」

「いつでも……?」

 なぜそんな質問をするのかわからない、というような顔をしていた。

「いや、まだ高校生だろう、おまえらは。いつ他にいい人が現れるか、いつ誰に目移りするかなんてまだまだわかりはしないんだ。心に決めた相手がいるなら、早めに渡したほうがいいんじゃないか」

「目移り? 私が?」

 さも当然のようにそう言い放った娘の顔は、自信に満ち溢れている……というより、そんな想定がまずないとでも言わんばかりのものだった。

「いや、おまえじゃなくてだな……相手のほうに、別の女が現れるかもしれないだろう」

「別の女って。そんなわけ……」

 からからと笑いながら否定した娘だが、そこで少し黙り込む。

「……でも、そっか。私だけわかっててもしょうがないか……」

 顎に手を当て、何事かをしばらくブツブツと呟いた後、なにかに納得した様子でうなずいた。

「わかった。お父さん、ちょっとお願いがあるんだけど」

「……なんだ?」

「お父さんのほうから、渡しといてくれないかな、この時計」

 そう言って、娘は青いほうの時計を突き出した。

「……なんで、俺からなんだ?」

「ううん、別に」

 別にっておまえ返事になってない、と言うより先に、娘の独白が続いた。

「うん、うん。硲のほうでもちゃんとわかってるとは限らないわけだし……今のうちにちょっとくらい振り回しといたほうが……」

「…………」

 ……時枝家は、いつの代でも慌てふためき時計の針を乱すのは男と決まっている。

 いつの代でも、女はどっかり、したたかに構えているものと、決まっているわけで。

 どうも、娘の代でもそのジンクスからは逃れられないらしいな、と、そのとき確信したのを覚えている。



 ドアの向こうからは、未だに少年の歯ぎしりが聞こえてくるような気さえする。

 だがまあ、少年。硲少年よ。

 きっと今、おまえはうちの娘に対して『こいつ、俺の気も知らねえで!!』と、そう思っていることだろうが。

 たぶん、身内補正がかかっているかもしれないが、たぶんそれはお互い様なんだと、一応言わせてほしい。


 うちの娘は、おまえが思うよりずっと、おまえのことを好きだったんだ。昔からずっと。


 気持ちをわかっていなかったのは、果たしてどっちのほうなのか?


 どちらであってもかまわない。

 そうしたすれ違いの中にこそ、恋は芽生えるものだろうから。

 なんだかんだと言っても、娘はまだまだ若いわけだから。愛の形を知ったとはいっても、それはまだまだ幼い理解だ。

 絶対の愛を得るには、まだ早い。



「じゃ、ちょっと待っててね、硲」

「え、どうした?」

「いや、お父さんが部屋の前で聞き耳立ててるっぽいから」

「ギクッ」

 ……まあ、末恐ろしい娘ではあるのだが。

 

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相対性恋愛理論 胆座無人 @Turnzanite

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