第18話


 時枝のほうは別に何もなかったかのようにいつも通りだった。

 が、俺にとってはとても気まずい帰り道となった。

「……後夜祭とか、行かなくてよかったのか?」

「え、行きたかったの?」

「いや、俺は別に」

「でしょ」

 ぬるい話しかできないまま、川沿いの土手を二人で歩いていた。夏祭りの帰り道、二人でよく通った道。

 無論、時枝は後夜祭で騒ぐようなやつではない。去年だってさっさと帰ったし、俺も一緒に帰るしかなかった。

 だから、この会話に間を持たせる以上の意味はないのだが……それにしたって、もっと、こう、なんか……言うこと、ないのかよ。

「あ、そうだ。どっか寄っていきたいとこあるなら、行くけど。なんかある?」

「どっかって」

「ゲームセンターとか、夕飯とか」

「いや、俺は別に」

「そっかあ」

 ……なんだ、この会話。

 時枝の少し後ろを歩きながら、頭を抱える。

 鼻歌なんか歌ってんじゃねーって。

 ホントなら、ホントなら後ろなんかじゃなくて、おまえの隣で歩いてるはずだったんだよ。上野が。俺じゃなくて。

「……なんでだよ?」

「? なんで、って……」

「いや、……なんで断ったんだよ」

 今日、世界は上野を中心に回っていた。世界は言いすぎか。時計は、時間は上野を中心に回っていた。

 それだけの男なんだよ、あいつは。

 そんなあいつを放っておいて、なんでおまえは、なんでおまえは。

 どうでもいいとまで言った俺と、こうして一緒にいるんだよ。

 時枝は小首をかしげていた。その顎に添えられた右手の人差し指。

「なんでって言われても……聞いてなかった?」

 だから、なんでもないみたいな顔してんじゃねえよ……。

「……見ててドキドキするとか、そういうこと言ってなかったっけ、前」

「見ててっていうか、聞いててドキドキするとは言ったけど……うーん」

 時枝は俺に向き直り、かと思うとすぐに空を見上げた。ぽつぽつと星が浮いている中で、月はとても明るく輝いている。

「アイドルに憧れるのと、その人を恋愛対象として見るかって、また別の話じゃない?」

「……なんだそれ。なんだその理屈」

 上を見ながらの後ろ歩き。あぶなっかしい姿勢に加え、台詞までどこか寝言じみている。

 上野がアイドルってどういうことだ。どこか遠くの存在ってことか? あいつが? そんなわけないだろう。

 むしろ、あいつは目の前の生活をちゃんと直視していたはずだ。その上で向き合っていたはずだ。

 時枝だって、こいつだって、ここまであいつを見てきておいて、それを知らないわけじゃないだろう。

「ああ、アイドル……って言ったけど、別に、アイドルって言葉にたいした意味はないよ。でもまあ、すごい人だよね、上野くん」

「だったら」

「いや、だからなんだって」

「だから?」

「置いてかれるんじゃないか、って」

 カツッ、と踵を打ち付けて、そこで時枝は足を止めた。

 はっきり俺と目を合わせた後、その視線は俺の右手首に移る。

「その時計つけてるなら、わかるでしょ?」

「……え?」

 袖口からちらりと覗いていた水色の文字盤を、とっさに左手で覆う。……いや、隠してどうするんだ。

 肘のあたりまで袖をぐっと引き上げ、その手で後頭部を掻きつつ、俺は聞いた。

「……知ってたのか?」

「時間の感じ方なんて、何をしてるか、誰と一緒にいるか、そんなことですぐに変わるんだし」

 おい、話聞いてんのかこいつ。

 時枝は勝手に話を続け、ついでにまた前を向いて歩き出したので二重に取り残される形。溜息をついてそれを追う。

「誰かと、同じ場所で一緒に過ごしたとしても、たぶん、時間の感じ方は人によって違うんだよね」

 そう言うと、今度は首だけで少し振り返る。目線だけを俺に向ける。

「私は、こうやって硲と帰るの、そこそこ好きだよ。そこそこね。でも、硲のほうは私と帰るのが嫌でしょうがなくてー、早く家に着かないかなってずっと考えながら歩いてたら、たぶん私たちの感じる時間は同じじゃないよね」

 少し拗ねたような口調と目。でも、口元の笑みは隠していなかった。

「でも、みんながみんな勝手な時間の中で生きてたら、いろいろと不都合だから……」

「……だから?」

「みんな時間の感じ方なんて違うけど、それでも何とかして同じ時間の中で生きましょう、って。時間に基準を決めて、人と人とを繋ぐ役割を果たす」

 大仰な口調に身振り手振りを交え、そう語る姿は、どこかに既視感があった。そう、まるで……

「そのために作られたのが時計なんだ……って、お父さんは教えてくれたかな」

 まるで、親父さんのような。

 ……親子だし、似てるのは別にいいが。あの親父さんが、そんな真面目な話したんだ……?

「……じゃあ、この時計って結局なんなんだよ?」

 なにやら話の軸が安定しない。結局なんで断ったのかもよくわからない。が、流れには逆らわないほうがスムーズに会話できそうだ。

 そう思い、時計の流れからとりあえずこう聞いてみたのだが、すると突然時枝が笑い出した。

「これ? これはねー、ふふ。ふふふふふ」

「どうした」目を細めたその笑顔はなかなかかわいい。かわいい、が、急にどうした。

「いくら時計を作ったからって、それでみんなの体感時間が揃うわけじゃないよね。基準ができたらズレは余計に目立つようになる。それをハッキリ見えるようにしたのが、この時計。……なんだと思う」

 パチリと留め金を外す音がして、時枝は自分の着けていた腕時計を、ベルトの部分をつまんで軽くひらひらと振ってみせた。

 ほんのりと赤い文字盤を、俺の右手首に巻かれているそれと交互に見比べてみる。色以外はほぼ瓜二つ。

 どちらの時計も、月明かりに照らされて新品同然にきらめいていた。

「上野くんと一緒にいるのは、楽しかったし、たぶん楽しいんだと思う。上野くんは、たぶん私よりずっと充実した時間を過ごそうとして過ごしてる人だと思うし。私よりずっと、早く過ぎていく時間の中で生きてるんじゃないかな」

「……」

「そんな人と一緒にいられたら、私の時間もたぶん早くなっていくんだろうね。充実していくんだと思う。でも」

 ――それって、疲れない?

 その台詞は、足を止めるでもなく、俺のほうを向くでもなく、さらりと言い捨てられた。

「……疲れるって、おまえ」

「そうやって、誰かに影響されて、変わっていく体感時間っていうのも、たぶん素敵なものだと思うよ。知らない世界に連れて行ってくれる。たぶん、そーいうのを恋って言うんだと思うけど」

 そこで、ようやく時枝は立ち止まった。

「そういうふうに、誰かに振り回されるっていうのは、あんまり好きじゃない」

 なんだろう。

 聞いてる俺も、あんまり偉そうなことを言える立場じゃないのだが。説教できるほど色恋沙汰に詳しいわけではないのだが。

 それでも、そんな理屈で断ったのかよ、おまえは何考えてんだよという思いがどうしても消えない。

「誰かと接して? それで変わっていくというか、振り回されるのが嫌だって言ったら、もうそれ恋もなんにもなくないか」

「……はぁ」

 だから、結構勇気を振り絞って言ってみた、……はずなのだが。

「あのね。結局なにが言いたいかっていうと」

 時枝は大きなため息をつくと、呆れかえったような目つきで、一度パンと手を叩いた。

「一緒にいて、体感時間が全然乱れない人がいるなら、たぶんそれを愛って言うんだろうなー……って、そういう話なんだけど」

「……」

 ……。


 ん?


 ピンポイント走馬灯。なんだそれ。違う。

 ちょっと前の、時枝とのあるワンシーンがピンポイントで脳裏に蘇った……のを、必死で押し殺す。

「いや、いや、えーっと……そのくらい、普通じゃねーの?」

「普通かなあ、本当に」

「え?」

 時枝はまっすぐ俺の目を見据えていた。

「別に好きな人じゃなくても……あ、恋愛って意味でね。好きな人じゃなくても、友達と一緒にいるときでも、一緒にいて楽しいって思えば、楽しい時間は早く過ぎるよね」

「……うん」

「で、これ逆もそうだよね。 嫌いな人との付き合いの最中は、この人早くどっか行ってくれないかなって。そう思ってるから、時間は長く感じるんじゃないかな」

「……いや、結局、何の話だよ、これ」

「結局はね、えーっと……一緒に過ごしてて、本当に、全然ペース乱されない人って、さ。本当に、そんな普通かな?」

「……」

 答えられない。

 わからない。

 答えていいのかわからない。 

「きっとね、元々よっぽど相性がいいか、長い時間をかけてすり合わせて行かないと、そうはなれないと思うんだよね」

 なんでもないふうにさらっと言われたが、その目の奥に宿る光は……変な、変な温かさが、あったような、気がして……


 ……え、これ告白されてる?


「……いや、つったって、一緒にいただけだろ。10年ちょっと、なんとなく同じところにいただけだろ? 別に何したわけでもなくて、それだけ、それだけのことにそんな……」


 そしてなぜ俺はそれを拒絶している?


「……」

「……」

 それだけのことに、そんな……。

 そんな、の、その先は、口に出してはいけない気がした。それが最後のプライドだと思った。

 でも、黙ってはいられなかった。

 こぼれ落ちてしまった。

「……そんな、価値、あんのかよ」

「あるでしょ」

 即答だった。

 直視できず、伏し目がちに見つめた時枝の顔に浮かんでいた表情は、呆れとも、憐れみとも判断のつかない、複雑なものだった。

「……別に、今さらドキドキすることもないけど、何の苦痛にもならない。何のノイズにもならない。それこそ、体感時間と本当の時間の間に、一秒のズレもない。何の邪魔にもならずに、完璧に同化できる、その場に溶け込める、一緒にいられる、空気みたいな存在が」

 出来の悪い弟に言い聞かせるように。

 噛み砕いて、噛み砕いて、辛抱強く語るその顔に――

「昨日今日会ったわけじゃないんだよ? 何も知らないからどうでもいいって言えるわけじゃないんだよ? 10年、ずっと一緒にいて、嫌なところも見せ合ってきて、それでもどうでもいいって言える」



「それが本当に、何の価値もない、普通のことだと思うの?」



 通り過ぎてきた10年間が、その笑顔の中にあった。


 しばらくその場に立ち尽くしていた。

 時枝が歩き出したことにも気づかないくらい、立ち尽くしていた。

「……まあ、それに価値がないって思うなら、別にいいけどね、別に。硲が嫌ならそれでいいけど。別の誰かを選んで、10年ちょっとかけてその子とまたすり合わせていけばいいんじゃない?」

 少し拗ねたような声で、ようやく我に返る。

 さすがに、少しわざとらしいものだったが。

「でもね、私はやっぱり思うよ。みんな時間の感じ方なんて違うけど、それでも、その上で……」

 少し前から外していた腕時計を、手首に巻き直し。

 時枝は、こちらを見ずに、言った。

「二人で、まったくズレのない、同じ時間を過ごすことができたら……それを愛っていうんだろうなっていうのが、……時計屋の娘の見解です」

「……そうか」

 なるほど、ね。

 ……まあ。

 とりあえず、ひとつ言っておくべきことは……

「……なあ、時枝」

 振り向きもせずに歩き続ける時枝の背中を見送りつつ、俺はポケットの携帯を取り出した。

「なに?」

「今、何時だっけ?」

「今?」

 なんでそんなことを聞くのかと言いたげにしつつも、時枝は手首の時計に目をやった。

「7時……19時23分、だけど」

「……ふーん」

 携帯の電源を入れる。

 ロックを解除する必要もない。ロック画面の時点で時刻は出る。

「……23分、か」

 俺のほうの体感時計は、見るまでもなくアテにならないだろうから、もう見ない。

 けど、なんて言ったっけ。

 まったく体感時間が乱れない相手と、同じ時間を過ごすことが愛。そうか。そうなんだろうな、まあ。

 でも、それには欠陥があるんじゃないか。

 それは、相手方も体感時間が乱れない、それだけの境地にいなけりゃ成り立たないんじゃないか?


 だって、いや、俺は、さあ。

 今の、一連の台詞を聞いて、かなり、……かなり、その、ドキッとしたぞ。

 体感時間なんか、どうなってんのか全然わかんねーくらい。


 で。

 で、そういう台詞を言ってるおまえのほうは、どうなんだよ。



 ―――――

  19:38

 ―――――



 ……おまえ、ほんとに気にしてないのか?

 ほんとに、「どうでもいい」のかよ?


 直に聞こうとは、思わない。

 髪の間から、ほんの少しだけ覗いている時枝の耳は、月明かりに照らされていて……ほんのり、赤く見えたから。


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