第11話
ところで、俺は何をしてたんだっけ。
この時計を借りてから、もうずいぶん経ったような気がする。
文化祭は目前に迫っていた。
軽音部は練習にいっそうの追い込みをかけているし、クラスのほうもバタバタしだした。
「じゃあ、硲くんは幽霊役ってことでお願いしとくね」
「はーい」
「硲くんのぶんは……もうできてるから、他の人の衣装作りとか手伝ってあげてくれるかな。先生が頼んどいた機材が5時半に届くって言ってたから、それ取りに行くの手伝ってあげてくれる?」
「了解でーす。えーと、今10分だから……ちょい間ある?」
「何言ってるの、もうすぐだよ。今25分だけど」
「……あ、すいませーん」
わがクラスの出し物はお化け屋敷。受付やら脅かし役やらの担当を協議した結果、俺はそういうことになった。
今はセットや衣装の作成でクラス中大忙しで、俺も廊下をせわしなく歩きまわっている。
「わ、なんだこの幽霊」
「俺だよ―――――ッ!!」
「うわ、硲……おおおおお追いかけてくんな怖いから!! なんかオーラ怖いから!!」
「うるせえ!!」
ちょっと気が早いが、幽霊コスチュームで。
白いシーツに目と口と舌を描いてそれを羽織っただけというチープな格好だが、なんにせよ完成はしているので、本番の予行演習ということでそのへんのやつを追いまわしていた。
この頃は時枝も音楽室ではなくクラスの準備に顔を出していたので、それとなるべく顔を合わせないようにしたかった、なるべく考えないでいたかったというのもある。
でもまあ、なんであれ、俺にはこのくらいの格好が似合いな気がするなあと、自分ではそう思った。
委員長はクラスでの作業を取り仕切りつつも、授業中はいつも通り真面目に勉強している様子だった。
伊勢谷はフランケンシュタインのメイクに苦戦しているが、部活にもちゃんと顔を出しているようだし、そのときはいつも通りストイックに走っている。
で、準備に廊下を走り回って、音楽室の近くを通れば必ず何かの曲が聞こえる。この調子だと聞きすぎて俺も覚えてしまうんじゃないかってくらいに、練習に精を出している。
ところで、俺は何をしてたんだっけ。
軽音部の連中にとっては、この文化祭は大きなステージ。このときのために熱心に練習を重ねてきたんだろうし、それは他の文化部にも同じことが言えると思う。
それ以外、委員長や伊勢谷みたいな連中にとっては、大きなイベントではあるにせよ、別に本業というわけじゃないから、そこまで燃えてはいないかもしれない。
けど、それでも楽しんで、熱心に取り組んでいるのは間違いないだろうし、それに二人はこのちょっと特別な時期でもいつも通り、打ち込むことには打ち込んでいる。
で。
彼らが、そんなふうに過ごしている間、俺は何をしてたんだっけ。
というか、俺には何があったっけ?
暗くなるまで作業をして、それから家に帰ってくる。そんな日が何日か続いた。
洗面所で一度顔を洗い、鏡の前に立つと――それまで気にすることのなかった自分の姿が揺らいで見えた。
顔を拭き、外して棚にのけておいた腕時計を手に取る。
水色の文字盤の上で刻まれる時間が正しいのかどうか、今はわからない。他の時計が近くにない。
そういえば、俺って何が楽しくて生きてるんだっけ。
楽しい時間は早く過ぎる。いろいろ悩みはあるにせよ、なんだかんだとみんなで何かの準備をするというのは楽しい。実際、さっきもズレていた。
委員長は、勉強が楽しいと思っているんだろうか?
伊勢谷は、口では楽しいとは言ってなかったっけ。
自分という人間を改めて振り返ってみると、成績だって良くも悪くもなく、別に運動ができるわけでもなく、部活には入ってない。
……それだけなら、まあ、別にいい。時枝だって似たようなもんだし。
問題なのは――――
俺が、この体感時計を着けている間。
針の進みが遅くなるときというのは、一体どんな時だったか?
あまり考えたことはなかったが、そういえば、俺には趣味らしい趣味がない。
人並みにゲームをしたり漫画を読んだりはするが、これが俺の趣味なのだと大声で叫べるかというと……。
なんとなく、だらだらしていると、体感時計は遅れていく。時間は早く過ぎるように感じる。なんとなく。
でも、これに熱中している間は時間が早く過ぎるんだって、はっきりそう言えるものが見当たらない。
上野がギターやってるみたいな、打ち込めることが何もない。
別にあいつほどうまくなくていい。伊勢谷みたいに速くなくていいし、委員長ほど賢くなくていい。
下手でも、それが好きで、それのために一生懸命やっていると言えるなら十分だと思うのだが、そのレベルでも何もない。
この一か月の間、意識を変えてみようと思ったことはあった。
委員長に言われた通り、もっと真面目に勉強しようと思って背筋を伸ばしもした。一限から先生の話を全部真剣に頭に入れて、帰ったらすぐ復習して次の日の予習もして成績を上げようと思った。
三日どころか三限まですら集中力はもたなかった。
伊勢谷みたいに、走った後の幸せのためにランニングでも始めるかと思ったことだってあった。
これは三日くらい続いたし、その次の日の体育のマラソンも張り切っていこうと思ったのだが、いざ5kmをまた走ってみるとやっぱり変わらずしんどくて、そこで嫌気が差してしまった。
何か適当な楽器を始めてみようと思ったこともあった。
楽器に触れるどころか、楽譜の読み方を覚える途中でもう面倒になって投げてしまった。
なんであれ、これまで無軌道にだらだらと生きてきた人間が、「なんとなく」とその場の思いつきだけで身につけられるものではないのだろう。
いつから好きだったんだっけ。
どうでもいい場面ばかり思い出す。主に浮かぶのは帰り道。小学、中学、高校と、二人で一緒に帰ったときの何気ない光景が。
大したことがあったわけでもないのに、季節や、天気や、ちょっと喧嘩してたとき、みたいな条件別に、よくそんなに覚えてたなって自分でも思うくらい……妙に多くのバリエーションをもって、頭の中をぐるぐる駆け巡る。
何気にここまでずっと同じクラスで来てるのって奇跡じゃね、と笑いあったのはたしか中二のときだったが、高二になってもまだ続いてるんだよな、これ。
毎年の夏祭りは、大抵途中でバッタリ会った友達と合流して大所帯になっていくのが普通だったが、それでも一応二人で行くのが恒例だった。
けれどもあいつはマイペースというか、自分のペースを自分の中に明確に持っているやつだったから、あんまりロマンチックなことにはならなかったんだよな。
9時に帰ると決めたら9時にはもうスタスタと帰ってしまう。ちょうど花火が上がり始めるタイミングなのに、遠慮もなしにスタスタ帰る。
その背を早足に追いかけながら、結局今年もこうなるのかと、帰路にチラチラ未練がましく振り返っては花火を見るのがいつもの俺の夏だった。
でも、あいつも別に花火を見たくないってわけじゃないのか、人気の少ない道まで来ると後ろを向いて、花火のきらめく空を見上げながら後ろ歩きに帰ることだってあったんだ。
そういうときは、俺も隣に並んで一緒に空を見上げた……と、言いたいところだが、後ろ歩きだとどうもコケないか心配になってしまうので、俺はあいつと向かい合う形で神経を尖らせねばならなかった。
……つーか、祭りじゃなくてもいつもそんな感じだったかな。もっと昔から、ずっとそうだ。
夕暮れの公園、時間を忘れて遊びに夢中になっていた俺を、あいつはいつも連れに来た。
なんだよ、まだチャイム鳴ってないだろ。まだ帰るような時間じゃないだろ、不機嫌に抗議する俺の腕を取り。
もう帰らなきゃ叱られるよと、時計を見ようともせずに、俺の手を引いて家に帰った。
そうすると、家に着いたところでちょうど5時のチャイムが鳴るんだ……
……『どうでもいい』んだよなあ、もう。
髪をくくった時枝の姿。
油で少し汚れたその手。
時計をいじっている間、あいつは真剣な顔をしている。口をぎゅっと引き結んでいる。
でも、よく見ると、その口の端のほうは、わずかに上がっているのだ。
別に普段笑わないというわけじゃない。笑うときは普通に笑うのだが。
一番、強く記憶に残っているのは、その、かすかな笑みだった。
俺とは、違うんだろうな、あいつ。
……この際だからぶっちゃけてしまおう。
なんとなく、これまでずっと一緒だったんだから、俺と時枝はこれから先もずっと一緒にいるんだと思ってた。心のどこかで。馬鹿正直に。
だから上野と時枝の距離が近付くのが嫌だった。このままだと、いずれ離れることになるような気がしてならなくて。
でも、俺にそんなことを言えるだけの何かはあるのだろうか。
俺はからっぽの人間じゃないか?
上野はどこまでもきらめいている。
時間が限られていることを知っていて、なるべくそれを無駄にするまいと日々熱心に生きている。
俺はなんとなく生きているだけだ。
この一か月に限ってみると、俺は不思議な時計を持っていろんな人と話しただけだ。時枝を取られるんじゃないかと不安で。
それですら、具体的に何をするわけでもなく、なんとなく動き回っていただけだ。それで自分の空虚さを思い知っただけだった。
別に、俺がからっぽなのは、まあ、……それでもかまわないのだ。
なにもみんながみんな中身ギッチリ詰まった人間じゃないだろう。熱中できることがなくてもそれで死ぬことはないだろう。
ただ、そんな自分が誰かの隣に立つことを考えたとき――――
天秤の片方に上野を乗せて、もう片方に俺を乗せたら、どうなるかはわかりきっている。跳ねあげられて空を飛ぶのだろう。
上野を時枝に入れ替えたら、どうだ。
俺は、時枝の隣に立っていいのだろうか?
なんとなく、昔からずっと一緒にいたからってだけの理由で、俺は時枝の隣にこれからも立ち続けるつもりだったけど。
この何もない俺に、そんなことが許されるのだろうか?
自ら何かに打ち込んでいる、輝いている人を前にして。
ただ一緒にいただけの時間が、どれだけの意味を持つだろう。
どれだけの価値を持つだろう。
何に使えばいいのかまったくわからなかった時計だが、もしかして俺の思考をこういうふうにマイナス方向へ誘導するためのものだったのだろうか。
テメーごときが俺の娘をモノにできるわけねえんだよ小僧、って親父さんは言いたかったのだろうか。
わからないが、とりあえず新たな法則を発見した。
好きな人と一緒にいる時間は、自分の中であれこれ考えそれに熱中するから短く感じると親父さんは言っていた。
嫌いでも似たようなことが起きる。
退屈なのとはまた違う、心底来てほしくない時間というのは、どれだけ来るなと祈ってもすぐに到来してしまうもので。
そうして、文化祭の朝が来る――――
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