第10話
さて。
直接顔を出すのは……なんというか、プライドを振り捨てないとできないような気がしていたが、思ったよりもあっさりと、放課後、足は音楽室に向いた。
が、その足は音楽室の扉の前でぴたりと止まっていた。
(……え、あいつこんなうまかったのか……?)
漏れ聞こえてくる歌声とギターの音色に圧倒されていた。
うまいという話は聞いていたが、はっきり聞くのは初めてだ。ついでに俺は音楽に疎い。専門的なことはわからない。が、これはさすがにうまいとしか言えないだろうと思うレベル。
そして、その曲調にはどこか聞き覚えがあった。
(っていうか、これ、そうか。あいつが好きって言ってたバンドの曲か……?)
俺もよくは知らない。なんとなく聞き覚えがあるというだけだが、そういえばこの曲は時枝の携帯の着メロだったような……気がする。最近聞いてないからわからないが――
と、急に演奏が止まった。
なんだ?
ミスをしたようには聞こえなかった。すぐ再開するのだろうかと思ったが、30秒ほど数えてもギターの音が鳴り出すことはなく。
……もしかして、今キスシーンの真っ最中だったりするのでは、という想像を一瞬したが、頭を振って委員長の言葉を思い出す。今、時枝はここにいないはずだ。
それに、このタイミングを逃すと一生扉の前の聴き手で終わってしまいそうな気がしたので、思い切って中に踏み込んだ。
「あー、失礼しまーす……」
「お? ああ、硲か」
意外なことに、中にいたのは上野がひとりだけ。時枝だけでなく、他のメンバーが誰もいなかった。
「なんだ? 俺のギターさばき見に来たか?」
「まあ、そんなとこ……だったんだけど、他のやつは? まだ来てないのか?」
「らしい。この前あいつらのクラスで小テストやったらしいんだけどな、死ぬほど難しかったらしくて。どいつもこいつもボロクソだったからやり直しさせられてるんだってよ」
「はー……」そういや、宮本も吹石もさほど勉強が得意ではなかったか……。
そんなことを話している間、上野は何か違和感でもあるのか右手首をぐるぐる回していた。
「どうした? 手首痛めたか?」
「ん? あーいや違う、いつも弾くときは腕時計着けてるんだけどな。今日はないから、なんか調子狂う」
「え、ギターって腕時計着けて弾けんの?」
「っはは、みんなそれ言うな。俺はあれだ、ギター弾き始めたときからずっと時計着けてたから。もうそれで慣れちまった」
「へー……」
すげえ邪魔そうな気がするんだが、ギタリストにもいろんなやつがいるらしい。
「だったら、もっと時計大事にしろよって話だけどなー。んでもこの前ぼーっとしてたら落としちまって、また具合悪くなってよお。ま、さっき時枝ちゃんに言ったら、また直してくれるって言って。っていうか今すぐ直すからって言って、時計持ってソッコーで帰っちまったけど」
ああ、それでか……。
「しかしこう毎度直してもらってるとなんか悪いと思うな、ほんと。後で引き取りにも行かなきゃな」
「……一応聞いときたいんだけど」
「おう」
「それ、
「もちろん、
にこやかな笑み。……だよな、さすがに失礼なことを言った……。
と、思った矢先、その笑みがちょっといたずらっぽいものに変わった。
「ま、ラッキーだってまったく思わなかったかっていうと、さすがにそれは嘘なんだけど」
「おい」
「でもまあ、そもそもぼーっとしてたのも、時枝ちゃんのこと考えてたせいだから……セーフってことにしてくれねーかな?」
こういう台詞をしれっと言えて、それでいて嫌味をまったく感じさせないあたり、なんかもうさすがだと思う。
だからかな、入る前は随分と緊張したものだったけど、俺は椅子をひとつ引っ張り出して、どっかりと腰かけることができた。
「調子悪いんなら、今日は帰ったほうがいいのかなァ~?」
「じょー、だん。いつでもやれますよ」
わざとらしくぶつけた煽りには、ギターをかき鳴らして返答。
なかなか余裕のある態度。じゃあ、ちょっと悪だくみとかしてみちゃっても大丈夫だよな?
「おうおう、それでこそ上野だよ」
そう軽い調子で言いながら、俺は手首の腕時計を外した。
水色の文字盤を見せつけるようにゆらゆら振ってみると、上野が少し首をかしげる。
「それってあれか、時枝ちゃん家の時計だろ、時枝ちゃんも似たような時計着けてたし」
「そう。この時計貸すからさー、それ着けて一曲聞かせてくれね?」
「んな気遣い俺は要らねーんだけどな~。でもまあ貸してくれるんなら借りとくかなぁ~!」
と、口では言っているものの、手慣れた様子でベルトを留める仕草はなかなか様になっていた……
……では。
「んじゃ、見てろよオンステージ!」
「いぇー!!」
観客はひとり、演奏者もひとり。サシのライブが、今始まる!
「ぁありがとぉぉーぅ! いぇーい!」
「………………」
……さっき聞いたバンドの曲を、一曲どころか三曲ほど聞かせてもらったわけだが、いや、もうなんというか声が出なかった。
「……そんだけ弾けて、そんだけ歌えたら、いや、やってて楽しいだろうな……?」
ようやく出てきたのがこんな遠まわしな台詞だったことからも、上野の腕前が知れるというもの。
「いや、そうでもないんだな、これが」
「え、楽しくないのか?」
「あ、そうじゃなくて。めっちゃ楽しいよ。でも、楽しい時間ってのは楽しければ楽しいほど早く過ぎちまうもんだろ」
「……あー、そういやそうかもな」
楽しい時間は早く過ぎる。それはわかるが、突き詰めるとそんな理屈になってしまうのか?
たしかに皮肉なもんなのかもなとひとり腕を組んでいるところに、上野がぽつりとつぶやいた。
「……硲は、進路どうすんだ? 進学か?」
「え、俺?」かなり急な質問だった。
というか、それはどちらかというと俺のほうから聞こうとしていたことなのだが。そっちから振られるとは。
やはり、そういう悩みがあるのだろうか?
「えー、俺は……まだ、決めてない」
「だよなー、俺も予定なし。まあ、なるとなればなんにでもなるけどよ」
「……」
調査書を出していないとは聞いたが、軽い調子で喋る姿を見るかぎり、あまり深刻でもなさそうだった。
俺も軽い相槌を打っておく。
「まあ、今から将来の話とかされてもわかんねーよな」
「まったく。……けど、ひとつだけわかってることもあってな」
「ん?」
なにか風向きが変わった。
「えー、なんつーかな。俺んとこ、親父も爺さんもなんつーかカッチリした人でね。時間は無駄にするなってよく言われてきて、腕時計もそれでもらったんだよ」
そう言って右手を、いつもと違う腕時計が巻かれている右手首を、上野は軽く振ってみせた。
「んで、ガキのころから何するにしても時計ばっか見てきたせいかな。楽しい時間って早く過ぎるもんだよなーってよく思った。だから」
「だから、ひとつだけわかるのは……こんだけ楽しめる時間っていうのは今しかないんだろうな、ってことだ」
なんなんだろう、この感じ。
なぜか、伊勢谷を思い出した。
「働き出したらこんな時間ねーだろうし、大学行ったら遊べるんだっけ? まあ、それでもタイムリミットがちょっと伸びるだけだろ」
「……」
「だから、今やれるだけのことはやっとかなきゃなんねーな……って思って、恋愛にしろギターにしろ、色々やってみようと思ってんだけど。なんかに熱中すればするほど、時間って早く過ぎちまうんだから、マジで困ったもんだよなー」
……なんと言えばいいか。
「だから、応援してくれよ?」
「……ライブを? それとも?」
「おまえ、それ言わせる?」
「もちろん」
「おーいっ。両方に決まってんだろ」
「……っはは」
そう言った上野は、きらめいていた。少なくとも、俺にはその顔が輝いて見えた。
「あれ、っていうかこの時計おかしくねーか? めっちゃ時間ズレてるけど……あれ? 弾き始めたの何分前……え、全然進んでなくね? なにこれ?」
「あー、それは……」
……とりあえず、こいつが時枝に惚れた理由は、なんとなく……わかった。
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