第9話
「硲くん? 硲くん?」
「……」
「硲くん?」
「ハッ」
目を覚ますと、隣の席の委員長が俺の身体をゆすぶっていた。
「……ここは?」
「ここはって……いや、もう放課後だよ。なにも用事なさそうなのにいつまでもぼーっと残ってるから」
「……」
教室だった。
我に返ってみると、ここ数日の学校生活はすべて機械的な反応で乗り切った記憶がうっすらある。つまり、あれから結構な時間が経ったらしい。
「……」
思えば、互いが互いのことをどう思っているか……そんなこと、わざわざ聞いたことなんか、この十年で一度もなかった。なんとなく、俺たちはずっと昔のままでいると思ってた。
……それが、ここまで大きなショックを受けることになろうとは。
そうか、あいつにとって俺はどうでもいい存在だったのか……。
「……委員長ってさあ」
悲しいことを考えていたせいで、無性に誰かと話したくなったか。
隣で勉強していた委員長に、ちょっと気になっていたことを聞いてみた。
「進路とか考えて勉強してんの?」
「うん。○○大学の物理学部」
「おわ、すげえとこ受けるんだ……」
ノートに向き合ったまま、顔も上げずに答えたその集中力。
模試のとき、ネタで第一志望に書いて『E判定だった』『おまえじゃ当たり前だ』って言うだけの遊びにしか使われていなかった大学の名前を、委員長は挙げていた。
「将来は学者さんですか」
「今からそこまで考えてるわけじゃないけどね。勉強したいことがあるの」
「へー……」その『勉強したい』って感覚がもう、俺にとっては異次元だ。
「だから、授業もちゃんと受けないとね」
机に垂れた三つ編みの房。眼鏡の奥で真剣に光る瞳――を、きらりと輝かせ。
委員長は急に顔を上げ、俺をビシリと指さした。
「硲くんいつもヒマそうにしてるけど、うちの物理の先生結構すごい人なんだよ? あの人の授業がちゃんと理解できる生徒は皆いい大学行けてるんだって」
「俺全然わかんないんだけど……」
「集中力が足りません」バッサリ。
同い年のはずなのだが、先生にでも叱られているような気分だった。
すいませーんと逸らした俺の視線が、教室の中をさまよう。
「時枝さんを探してるなら、今日は音楽室じゃないと思うよ。直さなきゃならない時計があって、今日は早く帰るって言ってた」
「……あ、そう?」
さまよってなかったらしい。
傍から見てもわかるくらい、時枝の机に向いていたらしい。
委員長の忠告を聞き入れ、音楽室に向かう途中。
廊下を早足に歩く伊勢谷とすれ違った。一瞬目が合ったものの、すぐ通り過ぎ――
「と、ちょっと待って伊勢谷。なにしてんの?」
「あん? 教室にカバン忘れたから取りに行くとこだよ。なんだ?」
部活へ行く前に気付いたのだろう、呼び止めた伊勢谷は焦っているかのようにその場で足踏みをしていた。
「いや、ちょっと聞きたいんだけど。伊勢谷、進路どうするとか考えてる?」
「は? ……おまえ何、進路希望のカード白紙で出した系のやつ? あれだいぶ前じゃなかったか?」
「まあ、そんな感じで」
「……俺はまあ、陸上で大学行けるかどうかってとこだけど」
「あ、大学でも陸上やるつもりだったのか」
スポーツ推薦ってやつだろうか。俺にはまるで無縁なシステムだから忘れていたが、伊勢谷レベルならそれも狙えるのだろう。
「そりゃまあ、そうだ。っていうか、俺今から部活だからさっさと戻らにゃならんのだけど」
「あー、ごめん。じゃあな」
「おう、じゃあ」
言うか言わないか、伊勢谷はもう走り出していて、後ろ向きで手を振りながら廊下を走り去っていった――
「……やっぱちょっと待って!」
「なんだァ!?」
――のを、ダッシュで追いかけて、すがりつくように襟首を掴むと、伊勢谷は困惑の混じった怒声を吐きながら俺の手を振り払った。
「いや、陸上で大学行くなら、将来はプロのアスリートとか目指してんのかなあって……」
「……おまえ、どうした? 最近マジでおかしいぞ」
俺のほうに向き直った顔からは怒りの要素が消えていて、心底不思議、あるいは心配そうな眼を俺に向けていた。
おまえおかしいぞと言いつつ、しかし聞いたことにはちゃんと答えてくれるのが伊勢谷のいいところ。
「そりゃなれるんならなってもいいけどな、おまえプロ舐めんなよ。俺レベルでプロ通用するかって、死ぬほど練習しねーとわかんねーからな」
「あ、伊勢谷でもそうなんだ……」なんとなく無敵なイメージがあったのだが、やはり世界は広いのか。
「当たり前。つーか、まず大学も親になんて言われるかわかんねーし。普通に勉強するか就職しろって言われるかもしんねーし」
「あー……」
そういうリアルな話はやめてくれ、……と、言って許される歳でもないのだろうか、もう。
「伊勢谷的には行けるなら陸上やりたい感じ?」
「まあ、な」
「マラソン、しんどいって言ってなかったっけ」
「そりゃしんどいけどよ……」
よっぽど急いているのか、伊勢谷の足踏みはどんどん速くなっていった。
が、そのペースも少しずつ遅くなっていき、それがついに停止した、そのときの顔は――
「……なーんか、やめらんねーんだよなあ」
やっぱり、男の顔と呼ぶにふさわしいものだった気がする。
楽しくてやってるわけじゃないとは言ってたが、なんだかんだ楽しんでいるんじゃないだろうかと、別れ際のその顔を見て思った。
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