extra11 離れてしまうわけでなく
古い建物であるせいで壁というものが一切なく、胸ぐらいの高さの柵しか設けられていないため真冬でも否応なく外気にさらされてしまう鬼島中学の校舎だが、さすがに今日ばかりは寒いだけではないように思える。
12月24日、クリスマス・イヴ。終業式を明日に控えた放課後には受験生たちにもどことなく一息ついているような気配がある、榛名悠里はそう感じていた。
彼女には別のクラスに用事があったため、いつもなら途中まで一緒に帰るクラスメイトが悠里の肩をぽんと叩いてそのまま小さく手を振った。
「じゃーねえユーリ、また明日」
「おーう。今日はエア彼氏と仲よくすごせよー」
「あんた、あたしが三週間前に別れたのを知っててそれを言うか」
いったんは去りかけた夕村弥生が芝居がかった調子で睨みつけてくる。
「いいんだ、あんたが四ノ宮くんといちゃついている間にあたしは勉強頑張るから。受験勉強一色の灰色な青春にもきっと美しさはあるはず……はず……はず」
「は? そんなんじゃないし。断じて違うし。エコーがうざいし」
「おいおいお嬢、クリスマスイブに一緒に帰ろうとする男女から『何もない』と言われてどこの誰が信じるというのかね。完全にクロだよあんた」
親指を下に向けた夕村はそのまま悠里に弁明の機会を与える間もなく、くるりと踵を返して後ろ向きのままで「ではさらば!」と高らかに告げる。
「そういうのじゃ、ないし」
白い息とともに悠里の口から出てきたのはか細い声だったが、彼女自身にもその言葉が正しいのか嘘なのかはわからなかった。
頬に吹きつけてくる風はさすがに冷たい。マフラーを巻き、手袋もしているがそれでも冬の寒さが体に沁みる。
悠里が待っているのは夕村の言った通り、たしかに四ノ宮亮輔で間違いない。だが別に何か約束をしていたわけではなかった。もしよければ彼の勉強を見てあげようか、と思い立っただけのことだ。学年で三本の指である成績の悠里、現在急上昇中とはいえまだ五十番前後である四ノ宮。二人の志望する高校は同じだった。
教室内を覗いてみたものの彼の姿が見当たらない。近くにいた生徒に確認したところ、担任である貝原に呼ばれて職員室に行っているらしい。言われてみれば四ノ宮の席には擦り傷だらけの鞄がまだ掛かっている。悠里はしばらく待つことに決めた。
そんな彼女が手持ち無沙汰なのを実感する前に「あ、ユーリさん」と呼ぶ声がする。
顔だけそちらへ向けると、そこには井手美咲というひとつ下の学年の女子生徒が立っていた。従弟である榛名暁平と同じ学年である。
「ども。最近、試合会場でお会いしてませんでしたので結構久しぶりですね」
井手とその友人である安東唯とはサッカー部の試合があれば顔を合わせることが多かったのだが、このところは悠里の足が遠ざかっていた。受験勉強をしなければならないというもっともな理由はあるにせよ、それだけではないことも悠里にはわかっている。
「やっほー井手ちゃん。どうしたの、三年生のクラスに何か用? よかったら手伝うよ」
「えーと、戸叶くんと──」
そこまで井手が言いかけたときに「ミサキ!」と駆け寄ってくる少年があった。
「ごめんごめん。待たせた?」
「んー、カップラーメンはまだ出来あがらないくらいだね」
「ははは、何だよそれ」
どうやら相手は新しい彼氏だったようだ。それなりにモテそうな容貌の男子だが、悠里は彼のことをまるで知らない。一度も同じクラスになったことのない異性の生徒なんてその程度の認識が普通だろう。
悠里に向かってにっこりと笑った井手は、軽く頭を下げてその戸叶くんとやらと仲睦まじそうな様子で昇降口に繋がる階段へと歩いていった。
何となく、悠里は二人の後ろ姿をじっと眺めていた。きっと年が明けたら彼女たちはもう別れている可能性が高い。恋愛関係が長続きしない、悠里が知るかぎり井手美咲は昔からそういう少女だった。
一般には派手な男関係などという言葉で括られてしまうのだろう。だが、悠里から見た井手の評価は違った。あの子は自分の手に入るものと入らないものとをきちんとわかっている、それが悠里の目に映る井手美咲という少女の姿だった。
自分はまだそこまで達観できないでいるというのに。
「シノとあんなふうに帰りたいのか?」
二人の姿が見えなくなったタイミングに合わせるように、突然死角から話しかけられて思わず悠里の心臓がぴょんと跳ねた。
「そういやあのバカ、いないな」
辺りを見回している男子生徒、外見からはわからないが彼の右目はほぼ失明状態だ。
四ノ宮亮輔の親友であり、サッカー部で天国も地獄も見てきた衛田令司。
けれどもこれまで悠里とは接点がありそうでなかった。実際、彼ときちんと会話を交わしたことは一度もない。
「ちょっと、不意打ちは止めてくれる? あと四ノ宮はしばらく戻ってこないから」
動揺を隠すように少しばかり刺々しさのある悠里の言葉だったが、衛田は意に介する様子もなく「そうか」と言ってすぐ近くの柵にもたれかかった。
「別にこっちはあんたと話すことなんて特にないんだけど」
悪意があるわけではないがその代わり遠慮も容赦もない悠里に、普段は険しい顔つきである衛田もさすがに苦笑いを浮かべた。
「そう邪険にするな。シノを待つ間の退屈しのぎとでも思ってくれればいい」
下手に出てこられては悠里としても強く拒絶はできない。それ以前に彼との会話を拒む理由もなかった。
まあいいか、という気持ちではあったが、何となく衛田の態度が大人びて見えるのが気に入らず「受験がもう終わっている人は心にゆとりがあるよねえ」と皮肉に満ちたジャブをつい放ってしまう。
「県外の私学だっけ? あたしらみたいな一般生徒にはそんな進路は想像つかないね」
「けど一コ下のやつらは何人も外へ出ていくんじゃないか。暁平なんかはすでにあちこちの高校やユースから声をかけられているはずだろ」
いつの間にか衛田は暁平を下の名前で呼ぶようになっていた。悠里としてもそのほうがややこしくなくていいのだが、今の問題はそこではない。
たしかに衛田の推察通り、圧倒的な才能を持つ暁平の進路に関する各チームのつばぜり合いは始まっているようだった。だが暁平自身は。
「あのさ、キョウがさ」
悠里の口から勝手に言葉が飛びだしていってしまう。
あ、と我に返った彼女は言いかけたきりそのまま口を噤んでしまった。
しかし衛田は先を求めることなく、腕を組んだ姿勢で静かな佇まいを崩さなかった。彼のそんな態度が閉じかけていた悠里の口を再び開かせる。
「──キョウがさ、何冊も本を借りてきて海外留学のことを調べてた」
たぶん、本気なんだと思う。俯きながら悠里はそう付け加える。
対する衛田に驚きの色はなかった。
「あいつならどこへでも行けるさ」
「そんなのはあたしにだってわかってる!」
思わず悠里は感情を爆発させてしまう。当然、周囲の注目を集めてしまうが今の彼女にそれを気にかけるだけの余裕はなかった。
「キョウなら、あの子ならきっと誰よりも遠くまで行ける、それを一番よくわかってるのはあたしなんだよ! だけどこれまでずっと一緒にいたんだ、簡単に受け入れられるはずがないじゃない!」
ほとんど叫びのような真情の吐露だった。それでもすぐに彼女は冷静さを取り戻す。
「わかってる。全部あたしのわがままだってことも。あんたも片倉凜奈って子の名前は聞いてるでしょ。今は遠くで暮らすリンだってあたしはいつか帰ってくると心のどこかで思ってた。でもそうはならなかった。向こうで目指すべき道をあの子が見つけたっていうならそれはとてもうれしいことだけど、やっぱりどうしようもなく寂しい気持ちにもなるよ」
どこにも行けない自分だけが取り残されていく。
そう呟いた悠里に衛田が言った。
「おれは、みんな旅に出るんだと思ってる」
腕組みを解き、悠里と真正面から相対する形となって彼はゆっくりと話しだした。
「たとえ暁平がスペインに行こうとドイツに行こうとブラジルに行こうと、あいつの帰ってくる場所はここなんだ。他のどこでもないんだ。いいか、これだけはよく聞いてくれ。今まで暁平たちがサッカーをやってこられたのは榛名、まぎれもなくおまえのおかげだ。おまえがいなければあいつらはバラバラになっていただろうし、おれだってともにサッカーをすることはなかったんだよ。どれだけ感謝しようと決して足りることはない。おまえが守ってきたこの場所があればこそ、みんな安心して旅に出られるんだ。離れてしまうわけじゃあないんだよ」
ここまで語り終えた衛田が悠里の後ろを指差した。
「それに、榛名が一人で取り残されることは絶対にない。世界の果てであろうと地獄の底であろうとついてくるバカがいるからな」
つられて振り返った悠里の目が捉えたのは、一際目立つ巨体の持ち主である四ノ宮亮輔の姿だった。彼もこちらに気づいたらしく大きく手を振っている。
「まったく、余計なお世話」
「そう言うな。おれとしては卒業する前に一言榛名にお礼を伝えたかっただけだ。あのバカのことはついでだよ。煮るなり焼くなり好きにしてくれていい」
「あんなでかいの、どうにもできないでしょ」
大げさに肩を竦めた悠里だったが、自分のそんな仕草に先ほどまではなかった軽快さがあることに気づく。
「衛田、ありがとう。おかげで何か気持ちが楽になった」
彼女には珍しく、素直な感謝の言葉が口をついて出た。ついでに笑顔も。
それを見た衛田が目を細める。
「やっぱりおまえらは
「だから違うっての」
そう言って悠里は小さく舌を出した。
世界の東の端っこのフットボール・チルドレン 遊佐東吾 @yusa10
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