第12話 R.I.P

 かけられていたのは真っ赤なペンキだった。

 週に一度、暁平は普段よりもさらに早く起きて、両親と弟が眠る霊園へ墓参りに訪れている。矢野家や松本家の墓地はまた別の場所なため、だいたいは暁平一人でやってくることが多い。

 消化不良な形で終わったハニウラカップから三日後、早朝の自主練習前に薄暗いうちから神社を出た暁平が霊園に着いたのはちょうど日が昇ってくる頃だ。

 そして彼は見つけた。榛名家の墓へと大量にぶち撒けられた赤い塗料が朝の陽光に照らしだされているのを。


「何なんだよ、これは」


 平穏が踏みにじられた墓前でしばらく立ちすくんでいた暁平だったが、動きだすと早かった。

 霊園の備品であるいくつものバケツに並々と水をくみ、それらで墓の隅々まで洗い流していく。着ていた白のトレーニングシャツを脱ぎ、雑巾がわりにして墓石にこびりついた乾いたペンキを丁寧に拭きとっていった。

 小一時間ほどたっただろうか、上半身裸で無心に掃除を続けていた暁平のところへ、政信と要、それに悠里までもが珍しく一緒にやってきた。


「ちょっとあんた、何でお墓の前で脱いでる……の……」


 最後まで言い終わらないうちに悠里も状況を察したらしい。暁平が手に巻きつけているトレーニングシャツはすでに赤く染まっており、どこにも白の面影はない。


「――ひでえことしやがる」


 そう言いながら政信もTシャツを脱ぎだした。暁平は内心うれしく思いつつも、そこまでさせるわけにはいかないと押しとどめる。


「おいおいマサ、もうほとんど元通りになってるから大丈夫だって」


「まあそう言うな。これも裸の付きあいってやつだろ」


 二人のやり取りを眺めていた悠里があきれたように言った。


「いや、全然意味が違うから。ちなみにあたしは脱がないからね」


「当たり前だバカ。カナメ、おまえも脱ぐなよ」


 釘を刺しておくつもりの暁平の言葉には反応せず、ややあってうつむき加減の要は弱々しく呟いた。


「何でこういうことをする人がいるのかな」


 今にも泣きだしてしまいそうな要の言葉に、他の三人もどう答えていいかわからずに沈黙してしまう。

 その重苦しさを振り払うように、暁平はわざと何も考えていないみたいな明るい調子で軽く返した。


「さあな。暇なんじゃねえの」


 肩をすくめ、舌を出しておどけてみせるおまけつきで。

 やれやれ、といった感じで悠里はため息をついている。そう、これでいいのだ。


「ケルベロスの連中だと思うが、どうするキョウ」


 暁平と同じく、上半身裸になった政信が訊ねてくる。チーム屈指の当たりの強さを誇る彼の肉体はさすがに鍛えあげられていた。

 中腰で水の入ったバケツにシャツを浸し、ぎゅうっと固く絞りながら暁平は答えた。


「おれがやらかしてしまったから、まあ仕方ないさ」


 自分に非があるとは露ほども感じていないが、軽率だったという自覚はある。


「県大会を順調に勝ち進めば、FCのやつらともう一戦やれるチャンスがめぐってくるしな。続けて叩きのめしてやれば、ケルベロスのやつらも黙って引き下がるだろ」


 本来、その二チームでは夏において目標とする大会自体が異なる。中学校体育連盟に属する鬼島中学は全国中学総体、クラブチームである姫ヶ瀬FCジュニアユースなら日本クラブユースサッカー選手権を目指して戦う。

 だが両者がぶつかることのできる舞台はきちんと用意されていた。全国大会の前に中学とクラブチーム、双方の県予選優勝チームによるチャレンジカップ、いわば壮行試合が毎年開催されているのだ。

 クラブチーム優勢のここ四年間は姫ヶ瀬FCジュニアユースが戴冠しているが、当然ながら暁平は今年でその連勝記録を途絶えさせるつもりでいた。政信と要も自信に満ちた暁平の発言に頷いている。

 しかし、悠里だけは表情に影が差したままだった。


「あたしさ、ずっと思っていたんだけど」


 そこでいったん彼女は言葉を区切る。


「続けなよ」と暁平に促され、再び悠里は口を開いた。


「本当に勝てば解決するの? あんたたちに向けられていた敵意が消えてなくなるの? 悪いけど、あたしはそう楽観的になれない」


 そんなことか、と暁平は薄笑いを浮かべて言った。


「じゃあユーリはおれたちが負けてもいいっていうのか?」


「そんなことは言ってない!」


 揚げ足をとるような暁平に、悠里は激しく反発する。


「ならどうしろと? サッカーで勝つ以外でおれらにできることといや、あの連中を一人残らずぶちのめすくらいのもんだ。まさかそっちがお好みか?」


「ふざけないで!」


「ふざけてるもんか。ユーリ、おまえの言っていることは完全に的外れだ。勝てなきゃおれたちは舐められる。弱者がさらなる貧乏くじをつかまされるのは世の常だろ。何かをよくするためにおれたちは勝つんじゃない、これ以上悪くしないために勝つんだよ」


 けれども悠里はまるで納得がいかないようだった。


「だからってそんなに自分たちを勝利のためだけに追いこむ必要はないでしょうが! だいたい、その結果がこんなことになるじゃない!」


 墓を指さして今にもつかみかからんばかりの彼女の前に、黙ったままで政信がすっと体を入れてきた。

 暁平と悠里、それぞれの目をじっと見つめてから彼は言った。


「落ち着け、ここは墓前だぞ。二人が言い争いなんかしていたらキョウのご両親、それにコウタが悲しむじゃないか」


 諭すような政信の言葉に、要もぶんぶん首を縦に振って同意している。

 効果はてきめんだった。

 充満していた悠里の怒気が、暁平の目にもはっきりと雲散していくのが見てとれた。悠里が誰も悲しませたくないと思っているのは暁平にだって痛いほどわかっている。

 暁平自身も深呼吸で波立った気持ちを静め、姉がわりの彼女へ「言い方が悪かった、ごめん」と素直に謝った。


「心配してくれていることには感謝してるよ。本当に。だけどユーリ、おれたちは勝って初めて何者かになれるんだ。勝てなきゃそこらの石ころも同然なんだよ。少なくともおれはそう思ってる」


 あくまで意見そのものは曲げなかったため、もしかしたら悠里が返事をしないかもしれない、と暁平は身構えていたがそんなことはなかった。

 墓石の側に立つ半裸の暁平に、乱れた前髪を整えた悠里がちゃんと向かいあう。


「いつだって応援してるわよ。心の底からあんたたちに勝ってほしいって願ってる。ただ無理はしてほしくないの。あたしが言いたいのはそれだけ」


 らしくないと自覚しているのか、それっきり彼女は顔を背けてしまった。

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